【ネタバレあり】『三度目の殺人』解説・考察:タイトル、ラスト、器、赤いコートに込められた意味とは?

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね、本日公開の映画「三度目の殺人」を見てきましたので、早速その内容について語っていきたいと思います。

なお、今回の記事は、映画本編を見た方に向けたネタバレが前提の記事となります。その点に注意して読み進めていただきますようよろしくお願いいたします。

良かったら最後までお付き合いください。

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『三度目の殺人』

あらすじ

勝つことにこだわる弁護士・重盛は、殺人の前科がある男・三隅の弁護を仕方なく担当することに。解雇された工場の社長を殺害して死体に火をつけた容疑で起訴されている三隅は犯行を自供しており、このままだと死刑は免れない。

しかし三隅の動機はいまいち釈然とせず、重盛は面会を重ねるたびに、本当に彼が殺したのか確信が持てなくなっていく。

正義とは?司法とは?現代に痛烈なメッセージを叩きつける衝撃作となっている。

映画com.より引用)

予告編

スタッフ・キャスト

本作『三度目の殺人』の監督を務めたのは、是枝裕和さんですね。

2018年に『万引き家族』にてカンヌ映画祭でパルムドール(最高賞)を受賞し、世界から高く評価される映画監督の1人です。

是枝監督は脚本、編集も担当されています。

撮影の瀧本幹也さんの技術が卓越していることも、もちろんですが、ルドヴィコ・エイナウディさんの重厚感あるクラシック音楽が作品に厚みをもたらし、作品としての完成度を高めています。

主演を務めたのは福山雅治さんです。彼の演技ももちろん素晴らしかったのですが、やはり他の2人が良すぎたためにインパクトは薄くなってしまった印象です。

被害者の娘である山中咲江を演じたのが広瀬すずさんですね。この作品で彼女に秘められていた才能が開花したという感触があります。

とにかくとんでもない演技だったとしか言えません。ちなみにですが彼女はこの作品で日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞しています。

そしてこの映画になくてはならなかったのが役所広司さんです。

おそらく是枝監督は、役所さんありきでこの映画を作ってますよね。この役が務まるのは、日本に彼しかいないと思います。

表情、所作、セリフのトーン。全てが完璧で、思わず息を飲みました。

より詳しい作品情報を知りたい方は公式サイトへどうぞ!

 

感想:役者陣の演技が圧倒的すぎる

是枝監督の作品はほとんど見てきました。最初に見たのは、「歩いても歩いても」でした。あの作品を見た時に受けた衝撃は今でも忘れられません。しかし、それ以降良作・佳作は多いのですが、いまいち飛び抜けて素晴らしい作品には出会えませんでした。

そして、今年の「三度目の殺人」も佳作の域を出ていない印象は強いです。

2018年公開の『万引き家族』と比較すると、演出力や物語の推進力に大きな隔たりがあります。

もちろん光る部分も多くありました。まずは、今作の脚本は素晴らしいですよね。是枝監督がこれまで描いてきた家族論を絡めながら、現代の司法問題にまで言及して見せました。それでいて描写も過剰過ぎず、余白を残した脚本には拍手を贈りたいです。

ただキャスト陣の演技が圧巻でした。役所広司さんの演技はとにかく別格でしたね。この作品は彼の演技なしには絶対に成立しなかったと断言できます。

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©GAGA Corporation 映画「三度目の殺人」」予告編より引用

加えて、広瀬すずさんの好演も目立ちました。これまで「ちはやふる」や「チア☆ダン」でコメディエンヌとしては個人的にも高く評価していましたが、昨年の「怒り」などを見ても、シリアスな役どころはまだまだ厳しいのかな?と感じていた矢先のこの好演。

鳥肌が立ちました。これからどういう女優になっていくのか?末恐ろしいですね。

何というか感情的な演技でありながら、その本心は見ているものに見せていないような、そんな演技なんですよ。

どこまでも純粋で、だからこそミステリアスな咲江という少女を最高の形で熱演してくださりました。

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『三度目の殺人』解説

本作の謎をどう読み解くか?

本作には数々の謎が残されていますよね。「三度目の殺人」とは何だったのか?ラストシーンの意味とは何なのだろうか?そして重盛が三隅を指して言った「ただの器」のいみとは何なのだろうか?おそらくこの辺りが多くの方が抱く疑問だと思います。

まず、私は本作を次のように解釈しています。

三隅というイエスになり切れなかった男の物語

イエスというのはもちろんイエス・キリストのことです。そして、「イエスになり切れなかった男」というのは本作における三隅のことを指しています。

まずは、私がなぜ本作をキリスト教的視点から読み解こうと考えたのかを説明しておきたいと思います。本作に多く登場するキリスト教的な内容を示唆するをいくつかご紹介してみます。

「3」という数字


©GAGA Corporation 映画「三度目の殺人」」予告編より引用

本作において「3」という数字はとても印象的ですよね。もちろんタイトルのことでもありますし、「三隅」という名前もそうですし、重盛・三隅・咲江の3人のカットも印象的でした。

キリスト教において「3」という数字は実はとても重要な数字で、「神の世界」を表す数字であるとされています。

また「三位一体説」という言葉を聞いたことがあると思います。これは神が「父なる神、御子イエス、精霊」の3つの位格を兼ね備えた1体であるということを示しています。

このようにキリスト教を象徴するような「3」という数字が作品のあちこちに見られるのも、キリスト教を軸に作品を読み解こうと考えた理由の一つです。

 

「裁き」

また本作においては「裁き」ということが一つ大きなテーマとなっています。キリスト教の世界では人間は「3」つの裁きのいずれかを受けなければならないとされています。

1つ目が「キリストの御坐の裁き」、2つ目が「羊と山羊の裁き」、3つ目が「白い大いなる御坐の裁き」となっています。

よく考えるとここでも「3」ですね。

人間が人間を裁くことはできるのか?人間を裁けるのは神だけではないのか?という考え方を持った三隅が登場人物にいる以上、「神の裁き」という視点からの考察も必要だと思いました。

 

「火刑」

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©GAGA Corporation 映画「三度目の殺人」」予告編より引用

加えて、予告でも印象的だった三隅が工場の社長を焼き殺すというシーンがすごくキリスト教に関連していると感じました。というのもキリスト教においては最後の審判まで肉体が残っていなければ、審判を受ける事ができないという考え方があります。

そのため「魔女狩り」なんかでは火あぶり・火刑が処刑の手段として常用されていました。

つまり火で人を焼き殺すという殺し方は、肉体が残らないという点で、キリスト教において最も重い処刑の仕方なんですね。この殺害方法を、自身で「裁き」を下そうとする三隅が用いている点はキリスト教への関連を伺わせる内容でした。

キリスト教的視点から考えてみたいと思ったきっかけはこの3つです。そして読み解いていくうちに、この視点が大きな意味を持ってくることをじわじわと実感してきました。

 

『三度目の殺人』考察:キリスト教的視点から読み解く

タイトル「三度目の殺人」の意味とは?

劇中では、30年前の北海道での殺人と、現在の工場の社長の殺人しか描かれていません。

では、「三度目の殺人」とは何だったのでしょうか?

それは、三隅が自分自身を自ら「殺す」という決断だったのです。つまり、三隅が自ら死刑になるように仕向けて、裁判において裁判長から死刑を宣告された瞬間に三隅による「三度目の殺人」が達成されたのです。

そして、それまでの2回の殺人が三隅によって行われたことや、咲江が父親に虐待を受けていて、その苦しみを忖度して三隅が咲江の父親を殺害したのは真実であると私は信じたいと思います。これが真実ですと断言するのは難しいですが、今回はこの前提で話を進めていきたいと思います。

三隅は、まるで自身が「裁きを下す神」であるかのようにして、咲江の父親を殺し、その現場に十字架を残しました。また鳥(カナリア)の墓も十字架でしたよね。つまり、三隅は自身が「神」であるかのようにして人間や動物たちに「裁き」を下しています。

そして、咲江の父親を殺すという「裁き」は、三隅が咲江を自分の娘に重ね合わせたがゆえに行われたものですよね。つまり、三隅は咲江の父親であるかのような気持ちになり、「自分の娘」を守るために殺害に及んだのです。これは「父性的な神」位格を体現していたかのようです。

さらに彼は、咲江を守るために自ら死刑になるように仕向けて、最後は自分自身に十字架にかけようとします。これはまさに人間の原罪を背負って十字架にかけられたイエスの最後に通じるものがあります。

つまり、三隅は人間が人間を裁くことはできない、ならば自分の手で、自分がイエスになって「裁き」を下そうとしたのではないでしょうか?

 

イエスになり切れなかった三隅と「器」

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©GAGA Corporation 映画「三度目の殺人」」予告編より引用

イエスを模倣するかのように裁きを受け、最後には自らを十字架にかけることを選んだ三隅ですが、彼は結局イエスになれたのでしょうか?

答えは否ですよね。結局のところ、三隅が行った行為は「裁き」などではなくて、ただの殺人です。また、三隅が人間でしかない以上、彼の下す「裁き」はどこまでいっても「人間が下す裁き」でしかないわけです。三隅はイエスになどなれやしないのです。

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©GAGA Corporation 映画「三度目の殺人」」予告編より引用

このことが表すのが、ラストでの重盛の「ただの器」という表現だったのではないでしょうか?

私は「器」を聖杯であると読みかえています。聖杯というのは、ただ単にイエスが使っていた杯というわけではありません。これはイエスが十字架を背負って死んだときに、そこから流れた血を一滴その中に受けたことから、有名になりました。そしてこの聖杯は後に数々の奇跡を起こしたと言います。

また、イエスは最後の晩餐の時に、杯にワインを入れ、私の血であると言って、弟子たちに飲ませたとも言われています。つまりこの聖杯はイエスそのものであるとも解釈することができます。

そして重盛が三隅を評して言った「ただの器」という言葉はつまり「聖杯ではなくただの杯」であるということを意味しているように思います。

結局、三隅は「聖杯=イエス」にはなり切れなかった存在なのです。ただの私的な感情から他の人間に裁きを下し、そして「自分の娘」を守ろうとし、最後は自ら死を選びました。彼はただの殺人者であり、「父親」です。神の子でも父なる神でもなんでもありません。

それでも、神による裁きを熱望し続け、しまいには自らが偽物の神となって「裁き」を下すようになりました。そんな三隅は「聖杯」などではなく、ただの空虚で、空っぽの「器」なのでしょう。

もっと言うなれば、「器」とは見る者が自由にその中身を満たすことのできるものでもあります。

その点で、本作『三度目の殺人』が答えが明確に存在しない作品であり、鑑賞した人が自由にその空白を満たせるという性質を象徴しているとも言えますね。

 

ラストシーンをどう読み解く

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©GAGA Corporation 映画「三度目の殺人」」予告編より引用

ラストシーンでは、重盛の歩いてきた道の続きが3つに分かれているシーンになっていました。このシーンが何を意味しているか考えてみたのですが、ここで「三位一体説」が関係してくるのでは無いでしょうか?

重盛が歩いてきた道が人間の道です。そしてその先は、父なる神、御子イエス、聖霊の3つをそれぞれ指している道なのだと思います。しかし、重盛はどの道にも進む事ができません。

ここで思い出していただきたいのが、本作『三度目の殺人』の冒頭のカットです。

©GAGA Corporation 映画「三度目の殺人」」予告編より引用

ナガ
よく見ると3つに別れた道が1本に収束してる!!

そうなんですよ。そしてこの時、重盛の乗った黄色い車は3本道の方角から、1本道(川にかかった橋の方角)へと走っていきます。

つまり冒頭のシーンと本作のラストシーンは3本道というシチュエーションを鑑みると、まさしく対照的なシーンになっていると言えます。

冒頭の重森は弁護士である自分の仕事に何の疑念も持っていませんでしたし、弁護士として自分が貫くべき正義というものに何の疑念も抱きませんでした。

一方でラストシーンは全く異なります。

人間に人間が裁くことができるのだろうか?という疑念が晴れず、人間の道にも戻れない。しかし一方で、神に、イエスになり切れなかった三隅の姿を見ている以上、先に続く3つの道に進むこともできません。

結局人間はどのようにして裁かれるべきなのだろうか?という現代社会の司法の在り方への強烈な問題提起がこのラストシーンに隠されているのだと思います。

法律をある種の「神」のように信じ、それを司る存在であることに何の疑念も抱かなかった重盛が、その矛盾や狭さに迷い、戸惑い、自分が追求好き正義はどこにあるのか?と苦悩しているように見えるラストシーン。

これはまさに是枝監督から現代の「法」に対する痛烈なメッセージなのかもしれません。

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『三度目の殺人』考察:咲江という少女に焦点を当てる

咲江が着ている赤色のコートのモチーフ

©GAGA Corporation 映画「三度目の殺人」」予告編より引用

雪の「白」とそこに印象的なコントラストとして現前する「赤」という映像を見ると、コーエン兄弟の「ファーゴ」を嫌でも思い出すのですが、『三度目の殺人』はむしろ『天国と地獄』や『シンドラーのリスト』に影響を受けているように感じられます。

ナガ
是枝監督自身も『天国と地獄』を本作を作る上で参考にしたと語っているよね!

では、この2つの作品において「赤」という色がどんな色を有していたのかを考えてみましょう。

まず黒澤明監督の『天国と地獄』における「赤」はまさしく罪の色と言えます。劇中では犯人の正体を示すものでしたからね。

一方で『シンドラーのリスト』においては「赤」はユダヤ人少女の着ているコートの色であり、だからこそこれは罪もなくナチスドイツによって殺害された少女の無罪の色を表現していると言えます。

ナガ
スピルバーグ監督はこの演出に関して、『天国と地獄』に影響を受けたと語っているんだよね?

そうなんです。それでいて全く正反対な色の使い方をしているとも言えます。

さてここで『三度目の殺人』に話を戻しましょう。

まず冒頭のシーンでいきなり河原で燃え上がる炎の「赤」が印象づけられます。

これが黒澤明監督の『天国と地獄』を彷彿とさせ、同時に「罪」を印象付けることは言うまでもありません。

一方で、やはり広瀬すず演じる咲江が着ている赤いコートは『シンドラーのリスト』からの引用でしょう。

そう考えると彼女が着ている赤いコートは「無罪の色」を表しているようにも考えられます。

 

足に障がいを持つ少女の側面

さて、本作における咲江という少女が持ち合わせているもう1つの側面が「足に障がいがある」という事実です。

これに基づいて聖書を紐解いていくと、聖書には目や足に障がいを抱えた人がたくさん登場しています。

これに関して、春名苗氏は旧約聖書における障がいは犯した罪に対する「罰」であるという側面で語られていると指摘しています。

一方で新約聖書においては、イエスという存在のためにこの側面が否定されています。なぜなら人間が全て「原罪」を背負った罪人になったからです。

『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか』。

イエスはお答えになった。

『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』

(ヨハネによる福音書 第9 章より引用)

このように旧約聖書とは対照的な指摘すらもなされています。

さらに新約聖書ではイエスが障害のある者を癒して回る描写が多く登場します。

そう考えていくと、自らが「神」になろうとした三隅が、「足に障がいを抱えた」咲江を救おうとしたという構図は新約聖書的に思えます。

咲江という人物が「救われるべき人物」であり、それを三隅は救おうとしたんですね。

 

小ネタ

小ネタとして是枝監督が本作を撮影する際に参考にしたと言われる3つの映画を紹介しておきます。

ミルドレッド・ピアース:監督マイケル・カーティス

冒頭で殺人犯が逮捕され、そんな彼が犯人ではないということに関してミルドレッドという男がナラタージュ的に語っていくミステリー映画です。

セブン(1995):監督デヴィッド・フィンチャー

鬼才デヴィッドフィンチャー監督が描く七つの大罪をベースにしたクライムミステリー映画です。

正義とは何か?自分が犯した罪とは何か?

『三度目の殺人』にも共通する問いかけが成されています。

天国と地獄(1963):監督黒澤明

黒澤明監督が描いた身代金目的の誘拐をベースにした作品です。

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おわりに:本作に真実はあったのか?

多くの人がこの作品に対して真犯人は誰だったのか?真実はどこにあったのか?という疑問を持ち、そしてその正体を探ろうとします。

しかし、私はこの映画に関してはむしろ「真実の不明瞭さ」こそが美徳だと考えています。

劇中の咲江のセリフを思い出してみてください。

「ここではだれも真実を語らない。」

このセリフが端的にこの『三度目の殺人』という作品の特性を表現しています。

つまりこの映画はまさに「器」なんですよ。

見る人によって信じるもの、真実だと感じることの解釈は徹底的に異なるでしょう。

だからこそこの映画は観る人が見たいように見れば良いのですし、好きなように解釈すれば良いのです。

『三度目の殺人』という作品は初めから空っぽの「器」であり、見る者が恣意的にその中身を満たしていく。それこそがこの映画の正体ではないかと私は考えています。

本作「三度目の殺人」はいろいろな考察ができる、非常に余白の多い作品です。

そのため、私がした解釈が正解なんてことは決してありません。あくまでこんな見方もできるんじゃないか?という提案をしたに過ぎません。

ぜひとも、自分なりの解釈を見つけていただきたいと思います。

また、良かったら、皆さんの解釈をコメント欄等でお聞かせください。ぜひとも多様な解釈に触れてみたいと思っています。

今回の記事が少しでも皆様の考察の参考になれば、幸いです。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

50件のコメント

素晴らしい考察でした。
映画は見ていません。今朝この映画の番宣を見て、どんな物語か予想していました。父親の虐待は予想通りです。
私も私なりの解釈をしたくなりました。映画観てみます。ありがとう。あなたに私の作品も評価して頂きたいです。

すいかさん、コメントありがとうございます。本当にオープンに作られた作品ですので、100人見れば100通りの解釈があると思います。ぜひご覧になってみてください!
映画をご自分でお作りになられているのでしょうか?興味あります(^ ^)

「三度目の殺人」観ました。セリフの中で「訴訟経済?」というのが印象的でした。訴訟も経済優先なのですね。
アジア映画祭に出品される作品のような感じでした。重いテーマと余韻を残す映画で、とても良かったです!
もう一回見たいです。

他にもたくさんの謎があったと思うのですが、
・重盛の娘が出てくる意図
・同じ足の障害を持つ子を自分の娘と重ねていたのに、自分も工場長のようにその子を抱いていた(私の聞き間違いかもしれません)
・インコを殺した理由
・手を重ねることで心を読み取れた理由
・重盛とミスミの謎の繋がり(自分の意思とは関係なく人は殺される的なところの意見)
など、ナガさんがこの部分をどう捉えたのか知りたいです!返事お願いいたします!

夏子さん、コメントありがとうございます。
確かに「訴訟経済」という言葉は印象的でしたね(^ ^)
人間を「裁く」者たちがどんどんと腐敗していっていて、それで良いのか?という強烈なメッセージ性も孕んだ作品だったように思います!

けすけすさん、コメントありがとうございます。
自分が考察できた範囲で答えさせていただきます。
・重盛の娘が出てくる意図
→是枝監督の真骨頂は家族論です。そのため、重盛は蔑ろにしていた自分の娘への扱いを、三隅との関わりの中で改めていきますよね。必ず守るよ、と娘に伝えるシーンは三隅が咲江を守るために行動している点に大きく影響を受けているのだと思います。つまり三隅との関わりの中で重盛の心情が変化していることを示すために、重盛の娘は重要な役でした。
・同じ足の障害を持つ子を自分の娘と重ねていたのに、自分も工場長のようにその子を抱いていた(私の聞き間違いかもしれません)
→これは重盛が、こんな質問が来るかもしれないよ?と圧迫しただけで、事実ではないのかなあ?と思います。
・インコを殺した理由
→「裁き」を与えるものとして、超然的な立場からカナリアを殺害したという風に捉えています。1匹だけ生かしたのも、自分が生き物の生き死にを左右できるということを示した?のではないでしょうか?
・手を重ねることで心を読み取れた理由
→これは、重盛だから読み取れたのだと思います。面会室のシーンではガラスに反射して、重盛と三隅の顔が重なるようなカットを多く取り入れていました。これは重盛の心情と三隅の心情が重なりつつあることを示しています。そしてその重なりの1つが娘への思いです。三隅は重盛の表情や一挙一動から自分と同じ何かを感じたのではないでしょうか?
・重盛とミスミの謎の繋がり(自分の意思とは関係なく人は殺される的なところの意見
→質問の内容がちょっとわからなかったので、飛ばさせていただきます。
まだ作品を1回しか見れてないので、自分でも解釈が固まりきっていません。現時点ではこう考えているというものでお答えさせていただきました。参考になれば幸いです。

興味深い解釈を拝見することができて嬉しく思います。
私は「咲江が足の怪我についての原因を偽る」シーンの解釈が上手くできませんでした。三隅が言う「あの子はよく嘘をつく」、咲江が言う「真実を述べたい」の2つと絡めることができるのか。よければお意見お聞かせくださいませ。

あるちぇみさん、コメントありがとうございます。
私はこの映画で唯一真実を話しているのが、咲江だと捉えています。しかしそんな彼女でさえ、屋根から落ちたと主張しても誰も真実だと信じてくれません。真実を追求するはずの弁護士ですら信じようとしません。つまり、この足の問題の真偽は、真実を追求する立場にある司法界の人間が、真偽の追求を放棄し、勝手に真偽を決めてしまっているという司法界の闇を端的に表したものだと考えています。
「あの子は嘘をつくのがうまい」と三隅が言ったのは、咲江に証言をさせないための計算だったのではないでしょうか?

本日、三度目の殺人を見てきました。
作品を見たあとに、ネットでその評価や感想を見ることはめったにしません。が、今回は自分の中でこの作品をなかなか消化できずいたため、色々探ってみた次第です。
貴方の考察は、とても合理的で納得が出来るものでした。残念ながら私が持っているキリスト教に関する知識は極めて希薄です。よって貴方のキリスト教的見地からの考察は非常に勉強にもなりました。
ただ、1つだけ。三隅が重盛との面会時、ガラスの仕切り越しに手を合わせるように持ちかけます。そのときに三隅は重盛の娘の事を言い当てました。何故、三隅はそれが分かったのでしょう。私には、このシーンはとても印象的で、物語の本質を解くための重要な鍵のような気がしてなりません。重盛は(重盛の父も)、最後には三隅を、ただの「器」として切捨てようとしました。しかしそれは、そうしなければならなかったからではないかと思います。三隅を、ただの器と切り捨てなければ、自分が今後進むべき道が、余りにも不確かなものになってしまう恐れがあったからではないかと。
或いは、やるべき事を終えた三隅は、もはやただの器になってしまったのかもしれませんが、そこに至るまでの過程では、その器は確かに何かで満たされていたのかもしれません。
なんにせよ、見る者をして、じっくりと考えさせることに成功したこの作品は、私の記憶に深く刻まれました。
乱文、失礼しました。

こぼるさんコメントありがとうございます。
手を合わせるシーンは確かに印象的でしたよね。個人的な解釈ではありますが書かせていただきます。
三隅は手を合わせたら誰でも他人の心情が読み取れるというわけでは無いと考えています。あれは、相手が重盛だから読み取れたんだと思います。
面会室でのシーンは重盛と三隅、お互いの影が重なり合うように撮影されていましたよね。あれは2人の心情が近づいているということを意味しているようにも取れます。
三隅は「父」として、咲江を守るために彼女の父を殺めました。一方で、重盛も自分の娘を「父」として守っていくという思いを持っていました。
三隅はそんな重盛に何か自分と近いものを感じていて、だからこそ手を重ねる行為を通じて、彼の思いを理解できたのでは無いか?と考えています。
答えになっているかどうか分かりませんが、参考になれば幸いです。

私の解釈は、全く違います。
初日舞台挨拶で役所さんは、私は誰も殺していないと発言されました。広瀬さんも、私じゃないと思うと言いました。犯人は、斉藤由貴ではありませんか?
題名は、三隅が出会った三度目の殺人という意味です。この殺人の犯人は、司法です。
おそらく最初の殺人も三隅の犯行ではなく、それを看過した名裁判官が量刑を軽くしたのでしょう。
二度目は、役所さんでも、広瀬さんでもなければ、動機があるのは斉藤由貴です。
三度目は、映画を見ればおわかりですよね。
全く違う解釈となりました。いかがでしょうか?

じゅんいっちさんコメントありがとうございます。
役所さんは自分の役が「殺したのか、殺していないのか」を知らないままに演じていたという記事を読みました。舞台挨拶でも役に入りきっていたのだとすると、また嘘の供述をしているだけかもしれません。はたまたその発言が真相という可能性もあります。
斉藤由貴が犯人というのはちょっと可能性としては低い気はしますが、司法による「殺人」という解釈は非常に共感できるものだと思います。司法界が真実の追求を放棄して、人を死刑に追いやるのは、もはや「殺人」と言わざるを得ません。また被害者のセカンドレイプ問題なんかも関係しているやもしれませんね。
面白い解釈をありがとうございます。

とても共感できる解説でした。
重盛が三隅の死刑判決後に裁判所を出た時
咲江や三隅が犯行した後と同じように
頬を拭ったのはどのような理由でしょうか。

ピクルスさん、コメントありがとうございます。
む、む、難しいですね。
個人的な解釈を書かせていただきます。
咲江は父を殺していないように思うので、あの広瀬すずが血を拭うシーンは重盛の妄想かなあ?と思います。
三隅が殺人を犯して、頬の血を拭いました。つまりこの映画において、あの行為は殺人の象徴なのかもしれません。
重盛の妄想の中で、咲江が頬の血を拭ったのは、咲江の苦しみを忖度して三隅が犯行に及んだという話を聞かされたからだと思います。つまり父を殺したのは、咲江に原因があったのだと重盛は考えたからです。
死刑判決の後に、重盛が頬を拭ったのは彼が殺人に加担したからだと思います。おそらく咲江の話が真実だと思いながら、三隅の話に乗って、結果的に彼を死刑に追いやりました。つまり重盛も三隅の「殺人」犯の1人なんだと思います。
よって「殺人」という行為を犯した者の象徴的な動作=頬を拭う なのだと思いました。
いかがでしょうか?

返答ありがとうございます。
とても納得できました。
他にも咲江が足を怪我した原因が
本人と周りとでは食い違うなど
様々な疑問点があり
映画を見終わった後
今までとは違う余韻があり
印象に残る作品でした。

ナガさんの解説すごいですね!
謎に思っていたところに加え三というテーマにいくつも思い当たる部分があり、三隅の名前にも三が入っていて更に共感しました!
まだ謎に思うところがあるのですが、三隅が重盛の父にハガキを送った理由はなんだったのでしょうか?特に意味はないのかな?
重盛が人は選別されて生かされたり死んだらしているというような内容の発言と同じような事を三隅も言っていて重盛が自分と同じ意見というか同じ文言で発した三隅に驚いていたとように見えたのですが、あのシーンはどういう意味だったのか少し謎が残ってます。

はじめまして。
すごく興味深く読ませていただきました。
私はあまり映画に関することはもちろん、こうした宗教的な知識がないのでとてもおもしろかったです!
私自身はただ漠然と広瀬すずちゃんの「(父親を殺してほしいって気持ちが)伝わったんです」や「空っぽの器」という発言から、役所広司さん自体はただの平凡な空っぽの器で、そこに他人の意思(殺意だとか思い込みだとか)が満たされて、役所さん自身が行動(殺人、供述の二転三転など)してしまっているのかな、なんてオカルトチックなことしか浮かびませんでした……。
やっぱり色んな知識があった方がより映画を楽しめますね!
もっと勉強したいと思います…!

イロドリーさん、コメントありがとうございます。ちょっとはがきを送った理由は1回見た時には追い切れませんでした。また2回目見た時に確認してきます…。

やまださん、コメントありがとうございます。
解釈に間違いはありません(^ ^)
やまださんの「器」の解釈も非常に興味深いです。
たまたまキリスト教関連の勉強をかじる程度ですが、していたもので、このような解釈もできるかなあ?ということで記事にさせていただいた次第です。
ぜひぜび自分なりの答えを見つけてみてください!

先程、観ました!
3度目の殺人 私も本人が法により殺されると解釈しました。
ポスターを見た時に、父親からの性的虐待を疑い、咲江が殺害、自分は生まれてきてはいけない人間という三隅が、そんな自分でも出来ることがある、それは殺人を飲み込むこと。
真犯人は?
屋根から飛び降りて足を傷めたのは、父親に突き落とされたのでは?とまで疑い始めてしまいました。蛇足ですが。
もう一度観たいです!

はじめまして。
考察、宗教目線でするのもとても参考になりました。本日見てきたのですが、モヤモヤする結果となり不完全燃焼です。
私が気になるのは、三隅と咲江の間に肉体関係があったのか?です。
一緒に行った相手は当たり前のように、あっただろと断定。私はどうも腑に落ちなくて。
伝わったんです、っていう一言がすべて物語ってると言われたんですが、手を繋いだだけかもしれないし私としては肉体関係は無しであってほしいんですよね。単純に不快ですし。
他の皆さんはどう考えてたのかなぁと思い、コメントさせていただきました。よろしければお返事いただけると嬉しいです(*^^*)

色々と参考にさせていただき、ありがとうございました。
重盛が三隅との接見の際に、三隅が本心を飲み込む感じや、重盛と三隅の顔が重なって「心が通じ合った」と思わせる表現が良かったです。
時折、十字架が出てくることもあり、やはり、キリスト教の考え方などが入った作品だったのですね。
社長は、血を流し罪の許しを得たが、火刑
司法全体の傲慢・怠慢、母親の強欲・怠慢、父親の強欲・色欲、三隅の憤怒(北海道の事件)
三隅、咲江、重盛の雪のシーン「三位一体」(父:三隅、子:咲江、聖霊:重盛)で三人が精神的に繋がったといった感じでしょうか。
最後に、三隅は裁判では明らかにならない罪(食品偽装、親からの性的虐待)を背負い、死刑となって贖罪する。
(墓場まで持って行くってやつですかね)
罪から逃れられた人もいるけど、救いが無い作品ですね。
っていうか、三隅に救われたって感じが正しいのか?
役者は「誰かを思う」「忖度する」を表現しているとは思いますが、コミュ障である私には理解しづらい内容でした。
でも、理不尽な事って、昔も今もこんなものですよね。
本作について色々考えて、調べて…心にズシンと来る作品でした。
最後に十字路に立つ後ろ姿は、死刑回避ができなかった重盛への十字架なのかなぁ。
小説版はこれから読みます。

はじめまして。
とても興味深く読まさせていただきました。
キリスト教の観点から見ると3という数字にも色々な意味がでてくるのですね。
また考え方の幅が広がりました、ありがとうございます。
作中では度々三隅と重盛が「似た者同士」のように描かれたいた点が印象的でした。
人の命を奪える人間とそうでない人間は生まれた時に決まっているという発言がありましたが、重盛も間接的に三隅の命を奪っています。
最後の十字路で一方の通路には停止線、もう一方には何もないことから実際にはその二つには停止線のような小さな違いしかないのではないか、そんな印象も受けました。
色々と考えさせられる素晴らしい作品だったと私は思いました。

「器」を正面から解釈すると、そういう風に取れますね(^ ^)
自分もまだまだ解釈が追いつかないので、2回目見ようかと思います!

ケイさんコメントありがとうございます。
私は肉体関係は無かったと考えていますよ。おそらく重盛が咲江にあの質問をしたのは、法定ではこんな質問も飛んでくるかもしれないよという例え話みたいなものだと思います。

通りすがりの黒猫さんコメントありがとうございます。
キリスト教の観点で解釈できるのでは?という可能性を含めて今回の記事で提案させていただきました。
いろいろと自分にとっても理解が難しい作品でしたが、終わった後に考察できる作品は楽しいです(^ ^)

ふくさんコメントありがとうございます。
2人が似ているという点は興味深いですよね。是枝さんがこれまで描いてきた「父親」という側面も関係しているように感じました。
面会室のシーンでガラスに映った三隅が重盛の姿に重なるようなカットもそれを示唆していたように感じました。
停止線!細かいところまでご覧になっていますね!2回目見に行った際には確認してみますね。

素晴らしい見解ですね。
器、十字架のいい答えを見いだせずにモヤモヤしてるタイミングでこれをよみました。
ありがとうございます。

ショウさんコメントありがとうございます。いろいろと可能性が考えられる良い作品でしたね(^ ^)

丁寧な解説、ありがとうございます。興味深かったです。^ – ^
私は映画を観ている間、『グリーンマイル』が思い出されました。
三隅の最初の殺人も、被害者は確か多くの人を苦しめていた高利貸しだったですよね?
そして咲江の父を咲江のために殺した。
二度とも、他人の憎しみ、殺意を受け取ってしまう「器」が三隅だったのかな〜と。
「生まれないほうが良かった人間」という発言も、そんな特別な能力?を持って生まれてしまった悲しみ。その能力から自分を守れなかった悲しみのように感じました。
「余白の多い作品」。本当にその通りですね。

 昨日観てきました。人間の狂気と正気の境目とは一体どこにあるのか、と考えさせてくれる作品でした。
 三隅が求めていたのは結局なんだったのだろう、とずっと思ってましたが、この考察を読んでモヤモヤが取れました。
 死刑判決後の三隅はどこか清々しく、勝ち誇った様子にも見れました。また、小説版ではこの場面で、今まで薄暗かった面会室に光が『三隅に向かって』射しているという描写があること、三隅が牧師か神父の様な存在感を放ち、重盛が彼に懺悔をしているかの様に描かれています。
 よって、三隅の目的は最初から『周りの人間の罪を背負い、死ぬこと』で間違いなかったのだと思いました。そしてラストの面会室では完全に重盛との立場が逆転している(裁く側と裁かれる側)のではないかと思いました。
 それにしてもいろんな作品で『聖書』は用いられますよね……

実に揺さぶられ果てしない思考に陥りました。幾重にも考察する奥深い作品。久々の秀逸なる作品に出逢い震撼しています。解釈はやはりキリスト教の視点に立った見方がスッキリします。否もう一度観てから、また書籍をも併せて読み込まない限りコメントできない深い作品です。

池岡様コメントありがとうございます!

> 実に揺さぶられ果てしない思考に陥りました。< 自分も初見の際はまさにこの状態でした。 是枝監督は「正解」のない映画を作ろうとしたんだと思いますし、だからこそ受け手が多様に解釈できますよね! ぜひぜひ書籍も読みつつ自分なりの解釈を模索してみてください(^^)

映画見ました
途中の情報を小出しにして行き
興味を抱かせる演出は素晴らしかったです
ただ、終わってみると真実は藪の中過ぎてモヤッとします
大筋に関係のないところまで曖昧にした意味がわかりません(咲枝の足、娘の意味深な電話など)
解決編があるといわれた方が納得できる気がしますw

るぴなすさんコメントありがとうございます!
確かに「グリーンマイル」には通じるところがありますね!
るぴなすさんの「器」の解釈面白いと思います!他人の殺意を受け止める器…。なるほどです。

ななしさんコメントありがとうございます!
小説版の内容を踏まえてのコメント参考になりました!そんな表現で書かれていたんですね。
人に人が裁けるのか?選別する権利はあるのか?
ラストの面会では、重盛が「殺人者」として裁かれていたのかもしれませんね。
キリスト教は様々な作品の根底に絡んでるので、知っておくと映画をより豊かに楽しめますね(^ ^)

名無しの太郎さんコメントありがとうございます!
確かにすごく余白を残した作品ではありましたね。
私はこんなブログを書いているタイプの人間ですので、こういう見る側に多くを委ねる作品好きなんですよ〜(^ ^)
確かにモヤモヤは残りますが、それもまた一興ですかね?

失礼します。
重盛は最初「依頼人は友達ではないから理解する必要はない」と言っていました。しかし、重盛の娘が「どんなことしても助けに来てくれる?」という問いかけに対し助けに行くと答えました。このことから三隅の心情を理解し殺していないという三隅の供述を信じました。その結果三隅は死刑になり、重盛が三隅を殺してしまうという形になったのだと思います。それが三度目の殺人です。その証拠に三隅と咲江が工場長を殴り殺すシーンで2人は左頬についた返り血を左手で拭っていましたが三隅が死刑宣告を受け、重盛が裁判所を出た時に重盛は左頰を左手で拭っていました。これが重盛が三隅を殺したと感じたシーンです。
そして5匹のカナリアが三隅に殺されて埋められていました。これはそれぞれ、三隅が北海道で殺した借金取りの2人と三隅が殺人を犯したせいで死んでいった妻と父母を表しているのだと思います。1匹逃したと言いましたがこれは重盛が助けようとした咲江を表しているのだと思います。

まさひこさんコメントありがとうございます。前述のコメントでも書かせていただきましたが、自分も頬を拭う動作と殺人には因果関係があると考えています。
まさひこさんのカナリアの考察は非常に興味深く読ませていただきました。なるほど。逃した1匹は咲江ですか!これは非常に面白い考察です!ありがとうございます!

某Yフーのレビューサイトを見たら自分が理解できなかったというだけで叩いているレビューがいくつもあり納得できなかったのでこのサイトのすばらしい解釈は非常に参考になりました。
事件の顛末については私の中では三隅が殺した一択でした。
また器に関しては、ナガさんのキリスト教的解釈を一度忘れて考えると、やはり三隅は他人の怒りや殺意を受ける器であり、三度目の殺人とは、咲枝に自分の娘を重ねた重盛の器となって自分自身を殺したと考えられるのではと思いました。
三隅と咲枝が一緒に殺しているシーンはその時器を満たしたのが咲枝だったから。最後の面会のシーンで三隅と重盛が重なっていたのは、三度目の殺人で器を満たしたのが重盛だったことを表現しているように思えます。
別の方のコメントにあった頬を拭うシーンの話を興味深く読ませて頂き、三度目の器を満たしたのはやはり重盛だと思いました。
また、重盛の娘の話が中途半端だという感想をいろいろなところで見かけ、私も最初は同じように感じましたが、娘が出てきた理由が重盛の咲枝に対する守りたいという感情のきっかけ作りなのだとすると、あれぐらいでもよかったのかなと思い直しました。新しい生活が上手くいってないことを窺わせる電話などは、もしかして重盛の娘も咲枝と同じ境遇なのかとさえ思わされました。(例えば新しく父になる人物など)
原作を読んでいなかったり、忘れているシーンがあったりして的外れなものがあったらすみません。
長文失礼しました。

三本目のカツゲンさんコメントありがとうございます!!
理解できない=低評価というのは、ある種の思考停止ですから、あまり個人的にも良くは思わないですね…。
器の解釈興味深く読ませていただきました!!器を誰が満たしていたのか…。なるほどです!

昨日観ました。
疑問に思った部分がこちらで解決したので、スッキリしました。ありがとうございます。
三隅が死刑判決を受け、法廷から出る際の仕草は、カナリアを逃がすジェスチャーだった。なるほどです!それで疑問がいくつも解けた気がします。
私が印象に残ったのは最後の面会のシーン。
途中から、まるで真ん中のガラスがなくなったかのように映り、そして、反射を利用して三隅と重盛が同じ側にいるように見えた。
これは、あのガラスが殺人を犯す側と犯さない側を分けていて、最後には重盛が犯す側に行ったという表現したのではと思いました。
原作も読みたいし、もう一度観たいと思います。

yamaさんコメントありがとうございます!
面会室のシーンはすごく意味深に撮影されてましたよね!
yamaさんのようにあのシーンも掘り下げていくと、新しい発見がありそうです!
とても参考になりました!

キリスト教的解釈、とても興味深く拝見しました!
1点だけ、そうすると三隅はどうして途中で供述を変えたのでしょうか?
ユダの銀貨30枚?
ペテロの否認?
うーん、しっくりきませんね。

@食い道楽さん
コメントありがとうございます!
ちょっと今「三度目の殺人」を見返す環境がないので、保留にさせてください。
次に鑑賞した際にブログに追記しようと思います。

今日、TV放映されたものを初めて見ました。
感動したので少しググってみました…
深い考察に感銘を受け、是枝作品をはじめ沢山の映画を観ていらっしゃるようで、とても納得することが出来ました。

それを前提として、私は三隅が四度目の殺人をしてしまったとしか思えませんでした。
真実を伝えられなかった咲江は、三隅を見殺しにしたと心に罪を背負うように生きていかねばならないと思うからです…。
父親からの虐待に耐えながらも三隅を処刑台に送ることに躊躇し、真実を語ることを一旦は選んだのですが、その三隅の真意を知ることがないままのエンディングでしたから、咲江はこの結末に耐えられないのではないかと感じました。

まぁいろんな解釈の出来る余白の多い作品ですから、私のような感じ方もありでしょうかね…。

fatezeyoさんコメントありがとうございます!

「四度目の殺人」面白い解釈だと思います。

この映画は正解がないように作られているので、いろいろな解釈の余地がありますよね!

ナガ様
キリスト教的な観点すごくスッキリしました!!十字架が気になってました!
ホラーや殺人物は好きではなく、映画館ではなく地上波で観ました。
福山さんだから頑張って観ました。是枝監督、広瀬さんも好きです。
じゃなきゃ10分も観てないと思います。観てよかったし、踏まえてまた観直したいです!

最初は、、、いえ、3分の2ぐらいまで『なにこれ?なにが伝えたいん?なにが人気なん???』と見所が解らず、結局犯人誰なん???と思いつつ。。。。いよいよ真相が???
『器?』。。。。え、ええ!?終わり???っっっっ
訳解らずモヤモヤ、、、是枝さんなに考えとんじゃ!?全然オモロない!!
しかし、僕はバカだから理解できないとなにが人気なのかネットで他の意見を見て
ーーーーーーそうか、そうだったのか!!!と、知れば知るほど深いなーと感心し
ここに感謝の意を述べさせて頂きました。ありがとうございます!

しかし、一度観てここまで解釈できるなんて、凄い記憶力と知識ですね。
日本は宗教に疎いと思いますが(日本でおばちゃんが大仏様を拝むインド系の人に
「拝み方よく知ってるのねー」と感心してました)笑
キリスト教的なことは海外の方の方がより多く理解できるのかなと想像しました。
(ちなみに私はクリスマス生まれのノンキリシタンです。。。)
随所に出てくる犯人探し用みたいな気になる映像が私的には意味わからず鬱陶しかったです。監督の意図が解りませんでした。。。
一般幅広く感動できるんかなー?と思いますが『映画的に』とても良い作品なのかと。
すみません、褒め言葉がわかりません。。。
気になる点が沢山ありすぎて。。。汁
なぜ、ハガキの絵の手袋だけが赤く主張されてるのか???裁判官への殺意???絵が小学生並み、、、大人が大人に差し出す手紙か?三隅の入所は二十代頃???
なぜ、出所後カナリアを飼い始めたのか???30年前、北海道での2人放火殺人、亡くなった両親と妻(原因は自殺?犯罪者親族により苦しんだ?)カナリアは弱者の象徴みたいなの他所に書いてました。その亡くなった人たちを思い馳せてたのか?
単に、計6羽飼うほどカナリア好き???人間に飼われた鳥は自然界で生きていけないと三隅は言ってましたよね?逃した1羽は死ぬと判ってる???生死は自分が強者が裁いてるってこと?咲江をかばい逃しても社会では生きていけない、または『人の死』を背負い苦しみ生きていく?との暗示?
最後のカナリアを逃すような仕草を咲江に見せたのは『君は大丈夫。逃げなさい』と伝えてるようでした。共犯なのか?罪を被ったのか?忖度出来すぎる空っぽ器人間は気持ち受け止め過ぎて代わりに殺したのか?(娘をレイプするなんて私も殺したくなります。)
重盛の娘を想う気持ちをも受け止めれる能力があるんでしょうね。
空っぽだからこそ。。。
三度目の殺人、死刑による自分を殺人なのか?犯人は司法(裁判官、検察、弁護士)
裁判官が「訴訟経済…」(合ってます?)ってセリフに腹が立ちました!
三隅の中で三度の殺人は全て冤罪による司法殺人では!?っっっ
三隅は殺してない!!と言っています。
リアル犯罪や裁判、司法をよく知らないからなあー、、、裁判員制度で実際参加すると余計リアリティ生むかも。。。
裁くのもシンドイだろうなあー。。。人生を左右するんだから。。。

すみません、長々と、、、、解釈は色々ですよね。凄く勉強になりました!

はるさんコメントありがとうございます!

はるさんのような反応がある意味でこの映画の「正解」なんじゃないかな?と思っております。

是枝監督はおそらくこの映画に絶対的な「答え」のようなものを付与していないと思います。

だからこそどんな解釈も間違いで、どんな解釈も正解なんじゃないかな?と。

長文コメントしっかり読ませていただきました!ありがとうございました!

先程この映画を見てモヤモヤが残って考察ブログを探してここに行き着きました。
ナガさんと皆さんのコメントも全て読ませていただいて自分なりに最初持ってた感想と全く違うこの映画の答えが出た気がします。
心から感謝の気持ちです。

最後判決が決まった後の面会ですら真実を濁す三隅にどうしても納得がいかず単純にサイコパスな人間なのだと思ってしまいました。
こんなに真実を語らない信じてはいけない人間もいるという事で人が人を裁く事の危険性を監督は伝えたかったのだと思いました。

ですがこのサイトを通じて細かい部分の伏線を思い重ねていくと三隅という人物は他人の気持ちを察して人の為に動く人間なのだと気付きました。
きっと三隅が最後の最後にさえ真実をうやむやにしたのは重盛にはっきりと自分を殺したという答えと罪の意識を持って欲しくないという優しさだったのだろうなって。