みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね『スマホを落としただけなのに』についてお話していこうと思います。
原作を読んでいる時は、かなり楽しめたんですが、映画版については「彼」の怪演くらいしか見どころがなかった印象を受けてしまいました。
ジャパニーズホラーの巨匠中田秀夫監督の作品と言うこともあり、演出面では期待できると思っていたのですが、これでは少しがっかりな内容でした。
今回の記事では原作への語りをメインとしつつも映画についても言及していき、本作を紐解いていこうと思います。
本記事はネタバレになるような内容を含む感想・解説記事になります。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『スマホを落としただけなのに』
あらすじ
麻美の彼氏である富田はある日、タクシーの座席にスマホを置き忘れてしまう。
そのスマホを拾ったのは1人の男だった。
富田の身にそんなことが起こっているとは、知る由もない麻美は彼のスマホに電話をかける。
モニターに表示される麻美と富田の2ショット。
黒髪ストレートの美しい彼女の姿に一目惹かれた男は、そのスマホを使って麻美に近づこうとする。
その男の正体はハッカーだったのである。
徐々に暴かれ、混乱させられる富田と麻美。
時を同じくして、神奈川県の山中で身元の分からない女性の白骨遺体が次々に発見されていく。
2つの事件の関連性とは?麻美に迫る男の正体とは?
そして麻美に隠された絶対に暴かれたくない秘密とは?
現代社会とスマホに隠された恐怖が牙をむく、傑作ミステリー!!
作品情報
映画『スマホを落としただけなのに』は志駕晃著の同名の傑作ミステリー小説を映画化したものとなります。
志駕晃さんは、なんとニッポン放送でラジオディレクターを務めており、50歳を超えてからの作家デビューという異色の経歴の持ち主です。
それでいて、本作『スマホを落としただけなのに』(選考対象時のタイトルは『パスワード』)でいきなり「このミス」最終選考にまで残り、その後編集部推薦で出版にまで至りました。
作品を読むと、その経歴に裏打ちされた圧倒的な才能に驚かされます。
というよりもここまで現代社会で起こり得るミステリーを追求することができたのは、彼がメディアに勤めていた人間だったからこそできた業とも言えるのではないでしょうか。
監督を務めるのは、ジャパニーズホラーの巨匠中田秀夫監督です。
日本ホラー映画の金字塔である『リング』や『女優霊』、『仄暗い水の底から』などを世に送り出してきた、ホラー映画好きなら誰でも知っている映画監督ですよね。
今作『スマホを落としただけなのに』は、ミステリーではありますが、スマホを媒介として麻美や富田にじわじわと迫りくる恐怖を如何に演出できるかが肝になってきます。
つまりホラー映画を主戦場としている中田監督はまさに適任というわけです。
脚本を担当されたのは、大石哲也さんです。
この方もまたミステリー作品やホラー作品を得意としている脚本家です。
2018年3月公開の『去年の冬、きみと別れ』では、実写化不可能に思われた叙述トリックを内包している同名の原作小説を大胆なアレンジで映像化し、高い評価を獲得しました。
個人的にはこの監督、脚本コンビは本作を映画化する上で、最高の布陣と言えるんじゃないかと思っております。
キャスト(キャラクター)
本作の主人公、稲葉麻美役を務めるのが北川景子さんですね。
今、NHKで放送中の『フェイクニュース』も話題になっていますよね。
映画やドラマに引っ張りだこな人気女優であることは間違いないんですが、最近の出演作品を見ていても、やっぱり演技面で不安定な面が気になってしまいます。
麻美の彼氏で、スマホを落としてしまい、今作の事件のきっかけを作ってしまう富田誠役を田中圭が演じます。
優しくて、麻美思いな人間なんですが、どこか情けなさがあって、スマホの暗証番号を誕生日にしてしまう典型的なネット弱者です。
ただ田中圭さんはこういう、ちょっと抜けたところがある男性役を演じるとすごく映えますよね。
他にも成田凌さんや千葉雄大さんなど、今話題の若手俳優も出演されています。
そして個人的に注目なのが意外や意外バカリズムさんですね。
バカリズムさんのネタって基本的に、コント仕立てで彼自身が何かを演じるということが多いんですが、非常に表情豊かで演技がお上手なんですよ。
さらにバカリズムさんと言えば、あれですよね。
こういう「童貞チック」な男性像みたいなものを纏っている芸人でもあるんですよ。
だからこそ映画『スマホを落としただけなのに』において、麻美のストーカー的な役割を果たす小柳というキャラクターを演じさせれば、抜群にマッチするんじゃないかと期待してしまいます。
キャストの演技を褒める内容を書きたいんですが、一番褒めたい「あの人」の演技について語り始めるとどうしても犯人のネタバレになってしまうんですよ。
当ブログ管理人が書かずとも、作品を鑑賞していただければ一目瞭然化と思いますので、ぜひ「あの人」の怪演を体感してきてください。
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『スマホを落としただけなのに』感想
スマホがその人の全てを握っている時代
現代は便利になった半面、すごく恐ろしい時代になったとも言えます。
スマホは今日の社会の「便利さ」の象徴とも言える代物です。
それがあれば、買い物ができ、電話ができ、メールができ、SNSを介して世界中の不特定多数と繋がることができます。
さらには、住所、勤務先、クレジットカードの情報、あらゆる情報がこの中に集約されており、もはやその人間の全権を握っていると言っても過言ではないでしょう。
当ブログ管理人は、前回のスマホの機種変更の際に、諸事情で3日間ほどスマホが手元にない期間がありました。
その時に感じたのは、圧倒的な不安と恐怖なんですよね。
当ブログ管理人は片時もスマートフォンを手放すことができない「スマホ依存症」ではないはずと自負しているのですが、それでもいざスマホがないとなると本当にびっくりするくらいに落ち着かない日々を過ごしました。
まず、大前提として誰とも連絡が取れないんですよ。
当ブログ管理人は固定電話を契約していません。そのため、スマホが無くなるということは一切の連絡が途絶えるということを意味しています。
また、当然の如くSNSも使えなくなってしまうわけですから、友人との繋がりをも断絶されたような孤独感に苛まれます。
現代人が如何にスマホというデバイスを通じて人との「繋がり」を感じていることができているのかという実情を自分の身をもって痛感することができた貴重な経験だったように思います。
それくらいに今やスマートフォンというデバイスは人間の社会の中心に君臨しており、自分以上に自分の情報を握っている存在とも言えます。
小説『スマホを落としただけなのに』から面白い一節を抜き出してみます。
だけどさー、今回、何が一番がっかりしたかっていうと、富田君がわたしの電話番号を、覚えていなかったってことだよね。
(宝島社『スマホを落としただけなのに』志駕晃より引用)
人間って意外と自分の身の回りの人のパーソナルな情報を覚えていなかったりするんです。
富田は自分の彼女である麻美の電話番号ですら覚えていませんでした。
スマホは優秀でして、そういった情報を一度登録してしまえば、消さない限り残り続けます。
だからこそ人間の外部器官としてこの上なく優秀なんですよ。ある種の脳の拡張版ハードディスク的な役割も果たしてくれています。
しかし、そんな「便利さ」が仇になる可能性があるということを鮮烈に描き出したのが『スマホを落としただけなのに』という作品ということになるでしょうか。
スマホは自分の外部器官でしかないわけで、ふとした拍子に手元から離れてしまうことだってあるわけです。
この『スマホを落としただけなのに』という作品を鑑賞してしまうと、無性にスマホというこれまで全幅の信頼を寄せていた自らの分身に疑いの念を抱き始めてしまいます。
あとこの作品はもう1つ大切なことを教えてくれます。
とりあえず人に見られて困るようなものは、スマホに入れとくなよ!!って話ですよ。
皆さんは他人には見られたくないようなことを平然とスマホには見せたり、記録させたりしていませんか?
その情報、何かの拍子に流出しないとは言い切れませんよ・・・?
ぜひぜひこの作品を鑑賞して、自分のスマホとの付き合い方を考えてみてはいかがでしょうか。
クレジットカード不正利用のエピソードに共感
これは当ブログ管理人の非常に個人的な内容になります。
『スマホを落としただけなのに』という作品の中で、富田がうっかりクレジットカードの番号を流出させてしまって、そこから約80万円の不正利用をされてしまうという事件が起こります。
というのも私、昨年の夏頃にクレジットカードの不正利用の被害に遭ったんですよ。
クレジットカードの番号を他人に見せるとか、セキュリティコードを誰かに見せた記憶がないので、インターネットショッピング等を経由して番号を盗られたのかな?と思っておりますが、非常に怖い事件でした。
金額自体はそれほど大きなものではなかったんですが、その購入されたものの内容に当ブログ管理人は怒り心頭でした。
昨年の夏、私はいろいろと多忙な日々に追われておりまして遊びに行く余裕すらありませんでした。それでも何とか歯を食いしばって、毎日を懸命に生きておりました。
そんな時でした・・・クレジットカードの不正利用に遭ったのは・・・。
気がついたのは、クレジットカードのサイトに不審な利用履歴を見つけたからでした。
ディズニーランド ペアチケット 〇〇〇〇〇円
しかもペアチケットですよ!ペアチケット!!
クレジットカードを不正利用されたということよりも、血を吐くような思いで頑張っている私のお金で、ディズニーランドデートしているカップルがいるという事実に怒り狂っておりました(笑)
閑話休題。本作でもクレジットカードの不正利用が登場し、80万円という大金だったんですが、こういう事件はあなたの身に降りかかる可能性は否定できないんですよ。
現に私自身も被害に遭った経験があります。
ですので、自分のクレジットカードを使って、見ず知らずのカップルにディズニーランドデートされたくないという人はその辺りの管理も徹底してほしいですし、信用できないサイト等にはクレジットカード番号を登録しないように心がけましょう。
ユビキタス化したミステリー
皆さんはミステリー小説や映画を鑑賞した後にどんなことを思いますか?
いろいろな感想があることと思います。
ただミステリーを見た後に、これが自分の身に降りかかるかもしれないという可能性について考えることってあまりないと思うんですよ。
日本では『名探偵コナン』の劇場版が興行収入90億円に迫る大ヒットを記録していますが、この映画の感想の大半はこうでしょう。
劇中の事件が実際に起こって、それが自分の身にも起こるかも・・・こわいっ!!みたいな感想を見かけることはまずありません。
ただそれってエドガー・アラン・ポーやアガサ・クリスティ、コナン・ドイルといったミステリー、探偵小説の名手の作品であっても同様です。
ミステリー小説や映画を鑑賞している時に、我々はどこか他人事のように思っていて、あくまでもフィクションであると切り離して考えている節があります。
しかし、この『スマホを落としただけなのに』という作品は、見終わった後にこれが自分の身にも起こるかもしれないという可能性を嫌でも考えさせます。
本作はいつでも、どこでも、誰でもが被害者になり得るまさにユビキタスなミステリー作品なのです。
この作品を映画館で鑑賞した帰り道に、あなたまたはあなたの友人がスマホを落としたとしましょう。
その瞬間にあなたの身に同様の出来事が降りかかる可能性だって否定できません。
そんな自分からどれほど切り離そうとしても、切り離すことができない恐怖感をこの作品は孕んでおり、その点でミステリーとしてこの上なく秀逸です。
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『スマホを落としただけなのに』解説(ネタバレあり)
探偵小説のコンテクストを崩壊させる
「探偵小説」というものが、いわばミステリーと呼ばれるジャンルの源流であるわけですが、そこには基本的には「事件を暴く者」がいて、「犯人」がいてという構造があって、証拠を辿りながら犯人に迫っていくという過程があります。
これが言わば探偵小説の「定型」とも言える形で、エドガー・アラン・ポーやアガサ、コナン・ドイルといった探偵小説の黄金時代から現代にまで伝わる伝統でもあります。
ところで皆さんは、10月の末に日本でも公開された『search』という映画が大きな話題になっていることはご存じでしょうか?
ただ、この作品は確かにSNSやインターネットをデバイスとして利用してはいるものの、忠実に「探偵小説」のコンテクストを踏襲しています。
主人公が一般人という設定に斬新さはありますが、探偵が犯人を辿るという構造自体は同じです。
つまり『search/サーチ』という映画は、邪道に王道なことをやって見せた作品だと形容するのが正しいのかもしれません。
一方で『スマホを落としただけなのに』という作品に視点を移してみると前述の『search/サーチ』とは正反対のアプローチで作られているのではないかとすら思えます。
本作には、刑事がいて、山に死体が残っていて、証拠が見つからないから証拠集めに奔走して・・・なんていう極めて王道中の王道なミステリー要素が埋め込まれています。
さらに麻美の視点でもって、誰が自分の情報を公開し、陥れようとしているのかという推理も展開されていきます。
それでいて犯人は最後まで明らかになることはありません。
この点で本作はミステリー作品の王道をひた進んでいると言えるわけです。
ただ『スマホを落としただけなのに』は私に言わせれば、王道に邪道なことをやった作品なんですよ。
それこそがタイトルにもさせていただきました「ネオ探偵小説」としての本作の魅力だと思っております。
暴く者と暴かれる者の反転
現代にまで続く探偵小説のコンテクストは、探偵が犯人を暴くとただそれだけのものです。
そこに『スマホを落としただけなのに』という作品は、もう1つの興味深い視点を盛り込みました。
それこそが「暴く者と暴かれる者の反転」です。
基本的にこの作品では、麻美という女性が犯人を暴き出そうとする側であり、犯人である「男」が暴かれる側にあるはずなんです。
警察が追っているのも同様にハッカーの「男」です。
しかし、そんな「暴く者」たちのストーリーの裏で、「暴かれる者」による「暴く」ストーリーが同時並行的に進行しているんですよ。
それが犯人の男による「麻美」という女性に隠された秘密を辿るプロセスです。
つまり、この作品には2つの「暴く暴かれる物語」が内在していて、それが終盤に向かって同時並行的に進行していくために鑑賞する側としては、全く息をつく暇もなく物語にのめり込んでいきます。
この点が本作が称賛される最大の理由の1つであることは間違いないでしょう。
「暴かれる者」は暴かれ、「暴く者」もまた暴かれるという全体未聞の作品構造にただただ圧倒されますし、その両方にきちんとスマホというデバイスを絡めているのですから、もはや文句のつけようもありません。
まさに「このミステリーがすごい!」案件ですよ、これは・・・。
スマホが保証する人と人との繋がり
本作において犯人が用いた1つのトリックが、殺した女性のスマホを自らが使用することで、親族に不審に思わせないようにし、まるで「生きている」かのように振る舞うというものでした。
このトリックが現代に投げかけるアイロニーは極めて鮮烈と言えるでしょう。
ところで、皆さんは自分の友人や家族とどんな風にしてコンタクトを取っていますか?
そんな私は基本的に、LINEのメッセージで家族とやり取りをしています。
「メッセージを送ったら、メッセージが返ってくる。」これが現代における生存確認の手段になっていることに皆さんはお気づきでしょうか。
ちょっと疎遠になってしまった友人や、結びつきがあまり強くない家族となってくると「メッセージ」をデバイスとした生存確認だけで事足りてしまうというよりも、人が安心感を感じてしまう時代になっているわけです。
しかし、メッセージなんてスマホを奪ってしまえば、本人ではなくともレスポンスを送れてしまいます。例え本人が死んでいたとしてもです。
『スマホを落としただけなのに』という作品において犯人の「男」がこのスマホを介した希薄な人の結びつきをトリックとして利用した点に、我々が何も感じないはずがありません。
私自身もまさにスマホに表示される電子情報に安心感を感じていた1人です。
そこに他人と繋がっている感覚を感じていたこともまた事実です。
だからこそ、本作を鑑賞して、知らない間に、スマホが我々、人間の根幹にまで土足で踏み込んできているという事実に気づかされ、ハッとしました。
本作のラスト(結末)に見る希望
それでいて本作のラストがまた憎い演出とも言えます。
その時、麻美のスマホが小さく震えた。
『あさみん。新しい戸籍で人生やり直しませんか?』
気が付くと、富田からのLINEが着信していた。
麻美の頬を一筋の涙が流れ落ちた。
(宝島社『スマホを落としただけなのに』志駕晃より引用)
情報社会の現代に、人と人との血の通ったコミュニケーションを大切にしていこう!!と訴えかける作品は数え切れないほどにあります。
しかし、『スマホを落としただけなのに』という作品のラストはそうではないですよね?
なぜなら、富田から麻美への『あさみん。新しい戸籍で人生やり直しませんか?』という心からの言葉はなんとLINEを通じて送られているのです。
ここが本作の最大の肝と言っても良いのではないでしょうか?
確かにスマホを介さない時代に、もっと人と人とのダイレクトな繋がりを志向していこうというベクトルは大切です。
しかし、スマホがもう我々の社会の根幹に根付いている以上、そのベクトルに社会が向かっていくことは考えにくいと言わざるを得ません。
本作はスマホというデバイスが孕む危険性をリアルに描き出しながら、そのラストにおいて「スマホからの解放」を描くことはしていません。
今作のラストシーンが表出させたのは、何一つ信用できない現代の世界の中で、それでも誰かを、何かを信じて生きていこうという小さな希望だったのではないでしょうか?
麻美と富田の間にはスマホやSNSをきっかけとして大きなトラブルが生じ、もう埋められないような溝が生まれてしまいました。
しかし、それでも希望の一言はスマホを通じて送られてくるのです。
それが希望でなくて、何と形容できるのでしょうか?
私はこのラストに志駕晃という作家の才能を感じずにはいられませんでした。
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犯人と麻美の類似点について
先ほど本作のラストでは現代スマホ社会に生きる我々への希望が示されていると述べました。
一方であのラストは麻美ないし「愛されずに生きてきた人たち」への救いにもなっていると思います。
それを考える時に指摘しておきたいのが犯人と麻美の類似性です。
彼らは2人とも両親や家族との関係が上手く行っていません。前者は母親からネグレクトを受け、後者は家族や親戚から縁を切られています。
つまり家庭環境という側面において2人は非常に似た経歴を持っているんです。
それでも麻美は富田からの「愛」を手に入れようとしていました。手に入れていました。
一方の犯人は、誰からも愛されず、誰も愛そうとせず、自分の気に入った女性を惨殺していくことで自らの欲求を充足させていたのでした。
この犯人と麻美の表裏一体性が本作の結末をより一層エモーショナルなものにしてくれています。
麻美は犯人のようになってしまう可能性がありましたし、逆に犯人だって麻美のように普通に「愛」を手に入れることができた可能性だってあったはずです。
だからこそ2人が全く違う着地点に辿り着いてしまったことが、言いようもなく切ないわけです。
しかし、『スマホを落としただけなのに』という作品はきちんと犯人にも麻美にも「救い」を示しています。
麻美は一度は失いかけた富田からの「愛」を手に入れることができました。
これまで家族や親戚から見放されてきた彼女が「愛」をようやく手に入れ、涙をこぼすシーンには胸が詰まります。
また犯人も自分の存在をようやく認識してもらえたという「救い」を得ています。
「ありがとうって言ったそうです。」
「ありがとう?」
「ええ。見つけてくれてありがとう。このまま止めてくれなかったら、もっと多くの女を殺さなければならなかったって」
(宝島社『スマホを落としただけなのに』志駕晃より引用)
彼が匿名のネットの海でひたすらサイバー犯罪を繰り返していたのは、誰かに自分の存在を見つけて欲しかったからだったのかもしれません。
誰からも認められず、誰からも愛されない。その愛情への渇望が犯人を狂気へと走らせてしまったわけです。
フェイスブックの投稿につけられる「いいね」。何気ないツールですが、それをもらえることに快楽を感じ始めると人は「いいね」をもらうためにどんどんと奇行に走ってしまうことがあります。
それもまた人が承認欲求に飲み込まれていく様なんですよね。
劇中で麻美がフェイスブックにハマっていく様子が描かれていますが、それもまた些細なものではありますが承認への渇望の表れです。
『スマホを落としただけなのに』という作品は、そのラストにて救いと希望を示しつつも、承認欲求というバケモノの影をちらつかせ、現代社会への警鐘を鳴らしているのです。
映画版の完成度と原作との違い
11月2日より映画『スマホを落としただけなのに』が公開されています。
Twitter等で皆さまの感想を拝見しておりますと、やはり否定的な意見が多いようですね。
こんな声もいくつか見かけました。
しかしですよ、名前と誕生日を組み合わせてパスワードにしている人って意外と多いんです。
当ブログ管理人の知り合いにIT系の人がいますが、そういうパスワードを設定している人ってすごく多いそうです。
この映画を見た人はぜひぜひ注意していただければと思います。
あとはやはり原作との違いという点において千葉雄大が演じた加賀谷は顕著だと思います。
というのも加賀谷というキャラクターは基本的に原作ではほとんど話題に上がりませんし、犯人候補的な立ち位置として登場する人物でもありません。
しかし、映画では彼の暗い過去の描写が足されたり、犯人かとミスリードさせるような演出があったりしてすっかりメインキャラクターの1人になっています。
この改変の是非は判断しかねますが、物語のスマートさが失われたようには感じられます。
『スマホを落としただけなのに』って犯人は誰だ?っていうところが重要なミステリー作品ではないと思っているので、そこにギミックを足す必要はなかったんじゃないかな?とも思ってしまう次第です。
ただ個人的に好きだったのが終盤の「遊園地」のシーンです。
映画版はいくつかヒッチコックオマージュが散見されましたが、おそらくこれは『見知らぬ乗客』からの引用です。
原作では終盤のシーンの舞台は不明瞭だったので、これは映画版としての演出ということになります。
個人的にはこのチョイスはすごく好きでしたね。
全体的に原作の持つスマートさが失われていたような気はしますし、大作邦画特有の悪癖もいくつか見られましたが、個人的には好きな部分もたくさんあった映画版に思えます。
本当にとんでもない怪演でしたね。映画館で笑ってる人がいるレベルでしたから・・・。
おわりに
いかがだったでしょうか。
『スマホを落としただけなのに』という作品は、確かにタイトルのワンアイデアでもって作られた作品のように思われがちですが、その内容は極めて緻密に作り込めれています。
小説の巻末に、著者が参考にした書籍が10冊ほど羅列されていますが、如何にしっかりとした交渉を踏まえた上で書かれた作品であるかということの証明でもあります。
巻末解説でも五十嵐貴久氏がこう指摘しています。
だが、志駕はあらゆる情報を咀嚼し、消化し、誰にでも理解できるように描写している。これはプロでも難しいテクニックだ。
専門用語を駆使し、羅列することで説明するのは簡単だが、それでは読者に伝わらない。かといって簡略に済ませてしまったのでは、理解を得られない。
(『無限の可能性を秘めた超新星の誕生に寄せて』五十嵐貴久より引用)
まさにその通りでして、本作はハッキングや裏社会の細かなことにまで言及されているんですが、その手の素人である私が読んでも理解できないところがないんですよ。
それでいて描写を簡素化しているというわけでもなくて、きちんと情報量も担保されています。
この点が、著者の才能が光っている部分でもあるでしょう。
ぜひぜひ小説版、ないし映画版で『スマホを落としただけなのに』を鑑賞してみてください!
今回も読んでくださった方ありがとうございました。