(C)2019「フォルトゥナの瞳」製作委員会
目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね『フォルトゥナの瞳』についてお話していこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
『フォルトゥナの瞳』
あらすじ
フリーター生活を何となく続けていた木山慎一郎は、ある日川崎の倉庫で遠藤という男に出会います。
遠藤は自動車のコーティング会社の社長を勤めていて、慎一郎を見込んで、正社員にしました。
その後、慎一郎は仕事一筋でコーティングの仕事に打ち込み、遠藤に「一流」と認められるに至りました。
そんなある日の仕事帰り、慎一郎は電車の中でつり革を持つ手が透けた男性に出会います。
その時は、手品か自分の疲れのせいだろうと、さして気に留めることもありませんでした。
しかし、その後も彼は定期的に身体の一部が透けた人間を見かけるようになり、疑問を深めていきます。
そして彼はついに身体のほとんどが透けてしまっている男性に出会ってしまいました。
気になった彼は、その後をつけていくのですが、突然その男性は車に追突されて絶命してしまうのでした。
もしかして透けて見える人間というのは、死を目前に控えた人間なんじゃないだろうか?
仮説の域を出ない奇妙な思考がふと浮かんだ彼、しかしその仮説を裏付けるかのように同じような事件が彼の目の前で起こります。
そんな疑問を深めた彼は、意を決して病院を訪ねることとしました。
すると、病院には身体が透けている人間がうじゃうじゃと歩いていたのです・・・。
なぜ突然そんなものが見えるようになってしまったのか?この力は何のために与えられたのか?
数々の疑問の中で、慎一郎はこの力を人を死から救うために使えるんじゃないかと思い至ります。
そうして彼は全身が透けて、死を目前に控えた子供を1人、公園で救うことに成功します。
しかし、その刹那、慎一郎は激しい胸の痛みに気を失ってしまいます・・・。
作品情報
百田さんの作品って基本的に政治や戦争が絡んだものしか読んだことがなかったので、こういうSFラブストーリーみたいな小説を書くイメージがあまりありませんでした。
当ブログ管理人が読んだことがあるのは、以下の作品です。
- 『永遠の0』
- 『影法師』
- 『海賊と呼ばれた男』
- 『夢を売る男』
- 『大放言』
- 『カエルの楽園』
『カエルの楽園』は今日の日本情勢を皮肉めいたお伽噺として描いていて結構好きでした。
近年の作品はとりわけ政治的な思想が強いということで、反感を書くこともしばしばですが、やはり作家としての才能は確かな方なんだと思っております。
『フォルトゥナの瞳』は、2015年の小説なんですが、その背景には震災で多くの方が犠牲になってしまったという事実が透けて見えるようでもあります。
映画版は「ラブストーリーだ!!」と高らかに宣伝されておりますが、有村架純演じる葵という女性が登場するのは、原作の後半以降でして、個人的には、これはラブストーリーなのか?と懐疑的です。
というよりも映画版がこの原作をただのラブストーリーにしていたのだとしたら、それは大失敗という他ないでしょう。
当ブログ管理人が味わいとして近いものを感じるのは、むしろドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『メッセージ』のような作品だったりします。
不思議な能力に目覚めていき、その中でどう生きるのか選択を迫られるSFヒューマンドラマという点では近いテイストの作品と言えるのではないでしょうか?
原作を読むと、映画版の予告編のラブストーリー具合に拍子抜けしてしまうのですが、ぜひぜひ小説と映画併せて楽しんでみてください。
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映画版スタッフ・キャスト
- 監督:三木孝浩
- 脚本:坂口理子
いやどの三木監督なのよ・・・。
皆さん邦画を見ていると、「三木監督」という名前をしばしば耳にしませんか?
その発想あながち間違っていませんよ!!
実は邦画大作を手掛けている三木監督は3人いるんです!!
- 三木聡監督:『音量上げろタコ』・『インスタント沼』
- 三木康一郎:『旅猫リポート』・『植物図鑑』
- 三木孝浩:『坂道のアポロン』・『先生!』
この中でとりわけラブストーリーや青春モノを多く手がけてきたのが、今回『フォルトゥナの瞳』でも監督を務めている三木孝浩監督です。
2016年に公開された『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』なんかは映画ファンからも非常に高い評価を獲得しています。
そして当ブログ管理人が個人的に推しているのが、広瀬すず×生田斗真の映画『先生』です。
控えめ演出の中でメインキャスト2人の演技を際立たせていて、非常に好感が持てる映画でした。
そして脚本を担当した昨年実写版の『恋は雨上がりのように』でも注目された坂口理子さんですね。
ただこの布陣を見ていて、不安になるのが明らかにラブストーリーをやろうとしている点です。
三木監督ですし、その辺りは上手くやってくれると信じているんですが・・・。
- 神木隆之介:木山慎一郎
- 有村架純:桐生葵
『千と千尋の神隠し』や『君の名は』で声優として参加し、声優としては大ヒット請負人的な側面を持つ、神木さんは、確かにこれまで恋愛絡みの実写映画ってあんまり出演してませんよね。
そして『フォルトゥナの瞳』は仮に原作通りにいくのであれば、濡れ場あります。
何はともあれ、神木さんがこれまでに演じたことのないテイストのキャラクターということで、非常に楽しみなところではあります。
そしてヒロインの葵を演じるのは有村架純さんですね。
やはり有村架純さんで恋愛映画といえば『ナラタージュ』が浮かびますね。
今やドラマに、映画に引っ張りだこな彼女ですが、やっぱり何度見てもかわいい・・・。
もうそれだけでお腹いっぱいでございます。
より詳しい作品情報を知りたい方は映画公式サイトへどうぞ!!
『フォルトゥナの瞳』感想
自分が何気なく生きている今を考えさせられる
昨年、台風25号が西日本を直撃しました。
当ブログ管理人の自宅の周辺もかなりの被害を受けました。
自宅の中に閉じこもっていた私ですが、ベランダの窓がガタガタと音を立てていて、窓が吹き飛ばされるんじゃないかと怯えていました。
テレビでは、台風の影響で負傷した人や命を落としてしまった人がいるというニュースが報道され、家の外で起こっていることの重大さを思い知らされました。
風雨が収まり、家の外に出てみると、歩道の脇に植えられた木々は片っ端からなぎ倒され、ビルや家屋が倒壊し、道にはどこから飛んできたのか見当もつかないような物が散乱していました。
そんな惨状を見ておりますと、ふとこんな考えが頭をよぎりました。
そう考えていくと、自分が今、数々の選択の先にこうして生きていることは途方もない「奇跡」なんじゃないだろうかと、当たり前のことなんですが、実感を持って感じられました。
その時に、自分が今ここに生きていることができているのは、運命というよりも誰かに、何かに生かされているからなんじゃないだろうか?と不思議な考えに辿り着きました。
『フォルトゥナの瞳』という作品に話を戻していきましょう。
百田尚樹さんが著したこの作品は、我々が何気なく生きている世界の背後で、こんなことが起こっているのではないかと誰もが一度は想像したことがあるような世界観を可視化したSFです。
私にとってもまさしく、あの台風の時の経験が思い出されるような作品でした。
自分が毎日下している無数の選択の連続。
その中の1つでも違えば、今自分はここで息をしていないのかもしれない。
人間はいつかは身体機能の衰えによりその生命を終えることとなります。しかし、寿命とは自分が思っているよりもずっと短いのかもしれないし、はたまた長いものなのかもしれません。
それでも今、誰かに、何かに生かされて、ここにいるんじゃないかと思うと、何気なく生きている毎日も意味のあるもののように思えてきます。
私は「フォルトゥナの瞳」なんて能力は持ち合わせていませんし、自分の「死」なんて全く見えていません。
つまり誰にとっても「未来」というものはブラックボックスであり、「透明」で見えないものなのです。
それを掴み取ろうと、選択し、決断することでその「未来」が実体を持ち、自分の「現在」になっていく。
それこそが我々、人間の人生というものの本質ではないでしょうか?
フォルトゥナというのは、運命の女神です。
運命を操るための舵を携えており、運命が定まらないことを象徴する不安定な球体に乗り、幸運の逃げやすさを象徴する羽根の生えた靴を履き、幸福が満ちることのないことを象徴する底の抜けた壺を持っている。また、チャンスは後からでは掴めないということを表しているために、フォルトゥーナには後ろ髪がなく前髪しかないとされている。
(Wikipedia「フォルトゥーナ」より引用)
人間は生まれたその瞬間には既に、運命が決められていて、そこから逃れることはできないなどという「運命論」的な考え方は未だ根強く存在しています。
でもそんなことは気にしなくて良いではないですか?
なぜなら、その運命は私たちには「透明で」見えないからです。
運命を操っているフォルトゥナのような存在がいたとしても、人間の意志でそれを覆し、見えない「未来」を生きていくんだという百田尚樹流の人間賛歌に考えさせられました。
ポスト東日本大震災の小説として
(C)2019「フォルトゥナの瞳」製作委員会
百田尚樹さんはインタビューなどで自身の作家人生の原点の1つにヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』があるとしばしば語っておられます。
そして彼自身の小説観、芸術観として以下のように語っておられます。
「生きることの肯定」――。これが小説も含めた芸術の存在意義だと、僕は考えています。つまり、勇気を持って人生に立ち向かうことを鼓舞するのが、芸術の真の目的なのです。ところが、日本では人生を否定するような内容の小説を書き、しかも自ら命を絶ってしまう有名作家が多い。
つまり彼は、「生きる」ということに常に焦点を当てています。
東日本大震災という未曾有の大災害が日本を襲い、多くの人々が絶望に打ちひしがれ、活力を失っていく様子を見て、小説家としてできることはなんだろうかと思いつめ、『海賊と呼ばれた男』を執筆したのも有名な話です。
そして2014年に発売された『フォルトゥナの瞳』にも、そんな震災を思わせるような「一度に多くの人が命を落とすシチュエーション」が登場します。
この作品に登場するのは「電車の事故」であり、フォルトゥナの瞳を持つ慎一郎はその力でもって、自己が起こることを予見して、自らの命を捧げて、その起こるはずであろう事故から乗客の命を救いました。
あらすじだけを聞くと、1人の尊い犠牲が大勢の命を救ったという単なる美談に聞こえかねないのが、恐ろしいところではありますが、この『フォルトゥナの瞳』はむしろ「仮定法」的な作品だと思います。
つまりはこういうことです。
もしも・・・
- フォルトゥナの瞳という力があって、人の死が見えていたならば、
- その力で、どこで何が起きるのかを予見できていたならば、
あの電車事故で亡くなるはずだった大勢の人は、命を落とさずに済んだ。
これが言わばこの作品の構造です。
では、皆さんは英語の仮定法を考える時に、では実際はどうだったのだろうか?って考えますよね。
それを踏まえて本作の設定を読み解いていくと、フォルトゥナの瞳なんて力はどこにも存在しないし、人の死が予見できるはずもないから、大勢の人は命を落としてしまったという事実は変えられないということが浮かび上がります。
東日本大震災が起こった時、それに関わらず事故や事件、災害で大勢の人が亡くなった時、自分の身近な人が亡くなった時、誰しもがこの小説で描かれたような「仮定」を思い浮かべると思うんです。
こんなことになるなんて知っていれば・・・、あの時こうしていれば・・・。
でもどんなに想像してみても、「仮定」は「仮定」でしかなくて、フォルトゥナの瞳で人の死を見通して、その人を救うなんてことはあり得るはずもありません。
ましてやこの作品のエピローグで描かれた葵がそうであるように、自分が「英雄的な死」選んで、大勢の人を救えたとして、あなたを大切に思ってくれている人が悲しむことになるのを良しとするのでしょうか?
私には『フォルトゥナの瞳』という作品は英雄的な死を肯定しているようで、逆説的に否定しているようにも感じられます。
というのもエピローグの3ページでは淡々と残された葵の悲しみだけを描いているんですよ・・・。
結局のところ、「死」とは残酷に、そして突然思いもよらない形で訪れるものでしかないわけで、そこから他人を救うなんてことは、ほとんど不可能に近いわけです。
ただそんな多くのことが「仮定」でしかない一方で、あなたは生きていて、そしてあなたの隣には大切な人がいるということは紛れもない事実がそこにはあります。
百田尚樹さんが描いた『フォルトゥナの瞳』におけるビターエンドは、自分を犠牲にして誰かを救う勇気の重要性と共に、いま生きている自分の人生とそしてあなたの隣にいる大切な人に向き合う勇気だって重要なのだと告げているように、私には思えます。
死は残酷に訪れ、それでいて不可逆であり、フォルトゥナの瞳などという能力がない私たち人間には事前に防ぐことも叶いません。
百田さんはこの作品の主人公である慎一郎に、東日本大震災を初めとした多くの人が亡くなる事象に直面した際に人々が抱く願いや祈りを「フォルトゥナの瞳」という能力という形で付与しました。
しかし、そのエピローグで、葵という存在が登場することではたと現実に引き戻されるのです。
そこにあるのは、死した人は戻らない、一方で自分は今もこうして生きているという事実です。
「自分の命を犠牲にして・・・」なんて空想を抱くのではなく、今自分の隣にいてくれる大切な人に「愛してる」と伝えることもまた勇気なのではないかとも考えさせられます。
そう考えていくと、やはり『フォルトゥナの瞳』という作品もまた百田さんの「勇気を持って人生に立ち向かうことを鼓舞するのが小説である」という考え方に裏打ちされているように思えますし、ポスト東日本大震災の世界でどう生きるか?とい問いに向き合った作品であるように思えました。
大切なのは、「傍観者」として生きないことであり、自分で選択し、決断を下し、誰かの人生に関与して、生きるということなのではないでしょうか?
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『フォルトゥナの瞳』解説
これは百田尚樹版の『ベルリン、天使の詩』か?
私の敬愛する映画監督ヴィム・ヴェンダースの作品の中に『ベルリン、天使の詩』という作品があります。
この作品は、人間の世界に憧れ、人間の女性に惹かれてしまった天使が「永遠の命」という特権を捨てて、神から人間へと転生する様を描いた物語です。
『フォルトゥナの瞳』を鑑賞していて、非常に強く思い出されたのが、この映画でした。
ダミエルという天使は、マリオンというサーカス団の女性に恋をするわけですが、自分が天使であるために彼女には自分の姿が見えていません。
それゆえに、彼女が絶望に打ちひしがれ、涙を流していても、寄り添ってあげることができないのです。
だからこそダニエルは自分が人間になることで、愛する女性の隣に寄り添い、共に生きていきたいと願うようになります。
この『ベルリン、天使の詩』という作品で明確なのは、「神はいつだって傍観者であり、人間に直接関与することはできない」というものです。
冒頭で屋上から飛び降りようとする男性に、天使が語りかけるも、結局その男性は死を選んでしまったというシーンも印象的でした。
『フォルトゥナの瞳』において、当初、慎一郎が求められる振る舞いは、その力を使って他人を救うことを考えるのではなく、傍観し続けることでした。
しかし慎一郎は、フォルトゥナの瞳という神の力を持ってしまいましたが、結局傍観し続ける神であることを選べなかったんですよね。
それは葵と出会い、愛を知ってしまったからというのもあるでしょうか。
その点でやはり『ベルリン、天使の詩』と『フォルトゥナの瞳』には個人的にはリンクを感じてしまいます。
両作品とも、傍観する神と積極的に関与していく人間のコントラストを浮き彫りにしているのです。
ただ『フォルトゥナの瞳』は、「神から人間になる」という選択の先に「死」を描いています。
では「死」とは何なのかというと、永遠に「傍観者」になることなのではないでしょうか?
死んでしまうと、もはや生き返ることはできませんし、ましてや生きているあなたの大切な人の人生に関与することは許されません。
自分の愛する人が悲しんでいるのに、触れることも寄り添うことも出来ない苦悩と葛藤。
『ベルリン、天使の詩』においても天使は悲しんでいる人間に触れ、癒してあげることができないという葛藤を抱えていました。
「死」を選ぶというのは、たとえどんな事情があったとしても、自分のことを大切に思ってくれている人を悲しませることとなります。
『フォルトゥナの瞳』が慎一郎に迫ったのは、まさしく「愛」か「死」かという2つの選択肢だったと思います。
百田さんがそれに対して示した答えは、私には「傍観者にならないこと」だったように思えます。
彼の作品は基本的に「自己犠牲」精神が根強く残っていて、個人的には好きになれなかった作品もあります。
そして『フォルトゥナの瞳』という作品もまた、エピローグに至るまでは極めて平常運転の百田流自己犠牲英雄譚です。
ただこの作品はそのエピローグにおいて、葵の悲痛な姿を描くことによって「自己犠牲」への讃美から距離を置いているように感じられます。
慎一郎が惹かれた「崇高に思える自己犠牲」はある種、彼のオナニーでしかなく、残されたのは愛する葵の悲しみだけでしかないというビターエンド。
そうして彼は「死」してしまい、永遠の「傍観者」になることを余儀なくされ、葵の人生に関与することは許されなくなってしまいました。
だからこそこの作品の結末は、単純明快ではなく、何が正しかったのだろうか?とグルグルと考えさせられるものになっています。
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映画版と原作の違い(ネタバレ注意)
では、ここからは映画版と原作の違いと、映画版についての講評を書いていきたいと思います。
まず、原作と映画ではかなり多くの部分が違います。
細々とした要素を挙げていくと、かなりの部分で原作と映画は異なっています。
- 原作では物語後半にならないと登場しない葵が映画版では序盤から登場する。
- 慎一郎の家族の死因が火事から飛行機事故に変更された
- 慎一郎が「フォルトゥナの瞳」の能力を飲み込むのが早い
- 美津子が遠藤の妻という設定になっている
- 慎一郎と松井愛莉が再会するシーンがカットされている
- 黒川が心臓発作で亡くなる描写がカットされている
- 原作では宇津井が慎一郎の店にやって来て、その後に命を落とす展開はない
- 原作では慎一郎は購入した指輪を紛失する(盗難される)が、映画ではきちんと葵の下に届けられる
- ラストの事故の原因が原作では不明(金田の乗るトラックが追突するなどの可能性は提示される)である一方で、映画版では、クレーン車の横転に変更されている
- 慎一郎が過去に葵を飛行機事故から救っていたという展開が追加
全部は挙げられませんが、思いつくものだけでもこれくらいは見つかりました。
1つ目の違いに関しては、おそらく有村架純さんをヒロインに起用したので、できるだけ映画に登場させておく必要があるという、言わば「大人の事情」でしょうね。
2つ目に関しては、正直なんでも良かったんだと思いますが、10番目の「慎一郎が過去に葵に会っていた」という既成事実を作るための改変でしょう。
3つ目は、これは映画の尺の都合でしょうね。ただ映画版はあまりにも慎一郎が「フォルトゥナの瞳」の性質を理解するまでのプロセスを省略しすぎだったと思います。
だって透明になっている人を追いかけたら、事故死して、それで自分には「人の死の運命が見える」という確信に辿り着くのっていくらなんでも話の飛躍が過ぎませんかね(笑)
原作では、2度全身が透明な人の後をつけて死を確認し、さらに病院を訪れて、そこに透明な人が多いことを確認したことで、ようやく彼は自分の眼の力に確信を抱くようになりました。
また、原作ではどの部位が透けたらとかどれくらい透けていたらで、残りの寿命が分かるようになっています。
映画版のレビューを読んでいるとここの設定が分からなかった!というものをたくさん見かけました。
こういうSF設定をきちんと掘り下げられていないのも、作品の「リアリティ」を生み出せていない1つの要因かも知れません。
慎一郎と葵の恋愛を描きたいがために、このあたりの描写が雑になっていたのは、残念でしたね。
4は特に言及する必要はなく、5に関しても全年齢対象の映画で「風俗」描写は出しづらいというかまあ出せないという事情があったのかな?とは思います。
6に関してですが、これは個人的にはカットしてくれて良かったですね。
原作では「黒川も自分を犠牲にして誰かを救った」という描写があるがために、自己犠牲精神の美化と崇拝が強調されてしまっていて、いささか息苦しかったんですよ。
ですので「自己犠牲」からは距離を置いてフォルトゥナの瞳と向き合い生きている人間として黒川を描いた点は非常に良かったと思います。
7つ目の改変についてですが、これも非常に面白い改変だったとは思うんですよね。
自分が恨んでいる人を助けれるチャンスがあったとして、それを意図的に見逃してしまうという「選択」を慎一郎に強いたのは物語的にも有効に機能したと言えるでしょう。
8つめの指輪に関する改変ですが、これも明らかに映画版の方が優れていました。
原作では指輪は一応登場するんですが、盗難されてしまって(紛失してしまって)、その後結局登場しないという意味の分からない用いられ方をしているので、そこを明確にしてくれたのは良かったと思います。
9つ目ですが、これはツッコミどころ過ぎるというか・・・(笑)
さすがにそれは誇張が過ぎるような気がしましたし、映画を見ていて不覚にも笑ってしまいました・・・。
10番目の設定も後から付け足した感満載の意味不明さでした。
いやなんで、葵のことを飛行機事故の際に助け出したにも関わらず、慎一郎の記憶の中では彼女を見殺しにしたことになってるの・・・。
ちょっとこれはあまりにも意味が分からなさ過ぎて、頭を抱えました。
そして上記のリストには掲載していない、映画版と原作の最大の違いがまだ残っています。
もうここを改変した時点で当ブログ管理人は呆れてものも言えなくなってしまいました・・・。
ここを改変した意味がはっきり言って全く理解できませんでした。
もちろん原作では葵というキャラクターの生死はあの終盤の電車事故には一切関係がないものとして描かれています。
ただ、映画版では電車に彼女を乗せてしまっているんですよ。
おそらくは電車から葵が慎一郎を見つめるカットや、絶命した彼の下にすぐに駆け寄る葵の姿を撮りたかったんでしょうね。映画としてのビジュアル面が先行した改変だと私は踏んでいます。
ただここを改変したことで明らかに矛盾が生じていると思うんです。
「慎一郎には私と一緒に生きる道を選択して欲しかった」などと供述しつつも、実際にはあの朝の電車に乗り込んで慎一郎の死に拍車をかけてしまっているんですから、ちょっと笑ってしまいます。
葵が電車事故のことを知らなくて・・・だったら、旅行をキャンセルすることで葵は慎一郎が自分を救う道を断とうとしたと考えられますが、さすがに「フォルトゥナの瞳」を持っている彼女ですし、あの電車を通勤に使っているわけですから、その理屈は通らないでしょう。
また慎一郎の「選択」という部分においても葵を電車に乗せてしまうと、フォーカスが明らかにブレるんですよ。
- 原作:愛する人のために生きるか、大勢の人を救うために死ぬか
- 映画:愛する人のために死ぬか
映画版の設定だと、慎一郎が電車事故を防がなければ葵は命を落とすし、慎一郎が電車事故を防がなければ葵が死ぬという関係が成立してしまってますよね。
これだと「選択」の物語として明らかにダメだと思いますよ・・・。
『フォルトゥナの瞳』において大切だったのは、マグダラのマリアに後ろ髪を引かれるような思いで十字架に架けられたイエスの心情と慎一郎の心情が重なっているようにも思える部分です。
つまり電車事故から人々を救うことと葵が生きることは少なくともきちんと切り離されている必要があります。
だからこそ『フォルトゥナの瞳』という作品には、百田さん特有の「自己犠牲讃美」が見え隠れしつつも、そのビターエンドが「自己犠牲を選んだことへの冷静な視点」を提示するというバランス感覚がありました。
ただ、映画版はもう愚直にも「自己犠牲讃美」物語へと直進してしまってるんですよね。
なぜなら自己犠牲が愛する人を守ることにがっちりと結びついているからです。
レビューサイトを見ていると、案の定「百田尚樹さんと自己犠牲」を結びつけた批判的な論評が転がっていました。
確かに彼の描く自己犠牲の物語はちょっと息苦しいですし、気持ち悪いものを感じることもあります。
ただ『フォルトゥナの瞳』の少なくとも原作に関しては、自己犠牲というオナニーに懐疑的な視点も含まれています。
そこを完全に無視して、あの映画版だけを見て、原作も読まずに原作者批判に辿り着いてしまうのは、いささかフェアではないと思いますけどね・・・。
何はともあれ、どういう意図であんな改変をしたのか疑問が残る映画版でした。
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おわりに
いかがだったでしょうか?
今回は『フォルトゥナの瞳』という作品についてお話してきました。
百田尚樹さんの作品は基本的に「自己犠牲を美化している」という類の批判を受けています。私自身も『永遠の0』や『影法師』を読んだときは、少し安直ではないかと思いました。
今作も確かに、エピローグに至るまでは極めてド直球な「自己犠牲讃美モノ」です。
しかし、あのエピローグの後味の悪さがあることで、「自己犠牲」が本当に正しかったのだろうか?とふと立ち止まって考えることができる構成になっています。
自分の命を犠牲にして大勢の命を救うことと、自分の大切な人と未来を生きていくこと。
どちらかしか選べないとして、きっとどちらを選んでも間違いではないんだと思います。
それでも私には、『フォルトゥナの瞳』という作品は、愛する人の人生の傍観者になっちゃだめだ!と言ってくれているように感じられましたね。
まあ作者がどんな意図で書いたのであれ、読み手が自由に感じ取り、解釈できるのが映画や本の良さだと思います。
ですので、今回はあくまでも当ブログ管理人は、こういう風に感じたという内容を綴ったにすぎません。
映画版に関しては三木監督作品ということもあり期待していた部分は大きかったのですが、いささか残念な内容でした。
まあ原作も正直50点くらいの内容なので、積極的にはおすすめはしません。ただ映画版よりは良く出来ていると思います。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。