みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回は映画『彼女がその名を知らない鳥たち』についてお話していこうと思います。
当ブログ管理人の好きな女優が蒼井優さんと黒木華さんの2人だったので、何だか複雑な気分でもあります。
ただ、今作の彼女の演技は本当に素晴らしいです。必見です。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『彼女がその名を知らない鳥たち』
あらすじ
十和子は、8年前に暴力を振るわれ、別れた黒崎のことを忘れられずにいます。
そんな十和子は仕事をするわけでもなく、小汚い15歳上の男、陣治と一緒に暮らしていました。
黒崎との思い出が忘れられない彼女は陣治のお金で毎日を過ごし、彼との幸せな日々が収められたビデオを毎日のように眺めていた。
ある日、彼女は黒崎からもらった大切な時計の修理・交換の依頼をしていた時計店の若い男性店員、水島に一目惚れする。
そして彼と密会の約束を取り付けると、ホテルで身体を重ねたが、彼には黒崎同様家族がおり、彼女は「不倫相手」に過ぎなかった。
一方で、陣治はそんな彼女の身を案じ、尾行したり、水島に嫌がらせをするなど異様な行動を取る。
そんなある日、彼女の家に警察がやって来る。
警察は、十和子に黒崎が行方不明になっていることを告げるのだった・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:白石和彌
- 原作:沼田まほかる
- 脚本:浅野妙子
- 撮影:灰原隆裕
- 照明:舟橋正生
- 編集:加藤ひとみ
原作を著したのは、沼田まほかるさんです。
2017年は『ユリゴコロ』も映画化され、同時期に一気に2作品が映像作品になったということで話題になりました。
そして監督を務めるのが今や日本を代表する映画監督の1人となりつつある白石和彌さんです。
『日本のいちばん悪いやつら』や『孤狼の血』など日本の暴力映画復権の狼煙を上げる作品を世に送り出し、非常に高い評価を獲得しています。
傑作も多いんですが、その一方で『サニー32』のような今一つな作品も監督していて、個人的には当たりはずれが激しい印象です。
脚本を担当したのは、浅野妙子さんで、彼女は少女マンガの実写化作品で脚本を担当してきたという経歴の持ち主であり、それだけに意外な人選でした。
その他にも白石監督作品に多く携わっているスタッフ陣が集結しています。
- 蒼井優:北原十和子
- 阿部サダヲ:佐野陣冶
- 松坂桃李:水島真
- 竹野内豊:黒崎俊一
まず主演の蒼井優さんですが、こういう退廃的な作風と役どころが本当に似合う女優ですよね。
不倫しており、さらには自分を他の男に抱かせるような男に執着しており、分かれてもなお忘れられず、また別の不倫男に捕まるという依存症な女性像をこれほど見事に演じ切ることができるのは彼女だけでしょう。
そして何と言っても阿部サダヲさんが素晴らしいですよね。
作品の中盤過ぎに、彼が冷凍のうっすい豚肉を鉄板で焼いて、ナイフをカチャカチャといわせながら切り、口に運ぶとくちゃくちゃと音を立てて食べるシーンがあるんですが、見ているだけで嫌悪感が凄まじんです。
そして本作のクズ男2人を演じた松坂桃李さんと竹野内豊さんがこれまた絶妙でした。
特に松坂さんはこれまで正統派二枚目な役を演じることが多かったと思いますが、今回は不倫しまくりのくず男を演じています。
2018年の『娼年』でも感じたんですが、本当に彼は不思議な「エロス」を身に纏っている俳優でして、その憂を帯びた表情に男性の私が思わず。惚れてしまいそうなほどです。
今作では、ちょっと変態チックなプレイを蒼井優さん演じる十和子に求めていたりしましたが、そういうSっ気を見せる様もまた絶妙に似合っているという印象でした。
『彼女がその名を知らない鳥たち』解説・考察
もちろんいろいろなことを語りたい映画なんですが、今回は本作のラストに絞って、自分なりの解釈を述べさせていただこうと思います。
終盤のナラタージュが作品を反転させる
映画において回想シーンというものはしばしば使われる手法ですが、この映画のそれは驚くほどに巧いです。
この作品は、基本的に十和子の視点から描かれていて、彼女の視点から見る陣冶という男は小汚く甲斐性のない男です。
しかし、このラストの一連の回想だけは陣冶の視点から描かれています。
それ故に文字通り作品を反転させ、これまで十和子の視点から成り行きを見守っていた観客の我々は、いきなり陣冶の視点で物語を見ることになります。
十和子の視点から見ていた陣冶は確かに「俺は十和子のためなら何だってやる。」とは言っていますが、彼女が評しているように口先だけの男のように思えます。
しかし、陣冶が死ぬ間際に走馬灯のように回想する十和子のビジョンはどれも彼女への愛に満ちています。
- 拒まれても何度も何度も彼女を勇気づけようと、アタックし続けたこと。
- 彼女が初めて微笑んでくれた時、震えるほどに嬉しかったこと。
- 彼女が黒崎を殺した記憶を無くしていたと分かったとき、心の底から喜んだこと。
そしてこの映画でも描かれた一連の光景たちがの陣冶の視点で再構築されていき、私たちは気づかされます。
この男が如何に深く十和子という女性を愛していたのかということにです。
しかし、私たちがこの男の愛の深さをこれでもかというほどに見せつけられ、彼と彼女の幸せな未来を願ったところで、現実を突きつけられます。
そう、これは死にゆく彼の走馬灯なんですよ・・・。
私たちが心の底から願ってしまう彼らの幸せな未来は、もはや訪れることはありません。
だからこそこの作品はどうしようもなく切ないのです。
しかし、ラストシーンはそんな2人の悲しい物語に一抹の希望の光を見せてくれます。
ラストシーンが示すタイトルの意味を考える
やはり『彼女がその名を知らない鳥たち』という作品を考えていくにあたって、ラストシーンの意味に思いを馳せないわけにはいかないでしょう。
陣冶は十和子の罪を背負い、そして自ら飛び降り自殺を図りました。そして彼の姿が見えなくなったその刹那、鳥の群れが突然空高く舞い上がっていきました。
これを考えていくにあたって、いろいろな見方があると思いますが、1つできるのはやはりキリスト教ないし聖書的な視点からの解釈でしょう。
マタイによる福音書の中に次のような記述があります。
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
(マタイによる福音書 第6章26~29節より引用)
空の鳥というものは働かず、神に養われているだけの無価値の存在であると、この記述だけを読むと、そう解釈できます。
ただ、ルカによる福音書を見てみると、「空の鳥」について以下のように記述されています。
そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」
(ルカによる福音書第13章18節~21節より引用)
これ先ほどの記述と真逆の内容ですよね。
旧約聖書のダニエル書を参照してみましても、同様の記述があります。
たしが床にあって見た脳中の幻はこれである。わたしが見たのに、地の中央に一本の木があって、そのたけが高かったが、その木は成長して強くなり、天に達するほどの高さになって、地の果までも見えわたり、その葉は美しく、その実は豊かで、すべての者がその中から食物を獲、また野の獣はその陰にやどり、空の鳥はその枝にすみ、すべての肉なる者はこれによって養われた。
(ダニエル書 第4章より引用)
「空の鳥」は確かに無価値なものかもしれません。
しかし、その一方で空の鳥は巣を作り、子を成し、未来を創るという役割をも担っているのです。
この聖書の記述を踏まえて、『彼女がその名を知らない鳥たち』という作品のラストシーンを思い出してみましょう。
陣冶が飛び降りると無数の鳥たちが空高く舞い上がっていきました。
そしてその様を十和子は呆然と眺めています。
これらの鳥たちが聖書的な「空の鳥」に基づくものであると解釈するのであれば、あの鳥たちは十和子の今とそして未来の投影なのかもしれません。
確かに、今の十和子は「マタイによる福音書」的な養ってもらうだけの無価値な「空の鳥」なのかもしれません。
しかし、その一方で「ルカによる福音書」や「ダニエル書」に記されているように「空の鳥」は、巣を作り、子を成し、未来を創っていくという役割を担います。
そしてこれは陣冶のセリフにも繋がっていますよね。
「ええか、お前。俺を産んでくれ。あんなつるっとした顔の男やない。もっと真っ当な男見つけて、幸せになって、俺を産んで、俺をとことん可愛がってくれ。」
(『彼女がその名を知らない鳥たち』より引用)
十和子はおそらく生きることに対する執着が無くなり、自ら命を絶とうとするほどどん底に追い詰められていたことでしょう。
しかし、そんな彼女を見て、陣冶は彼女に「未来」を与えようとしたのです。
もう自分が彼女と今のまま一緒にいたところで未来はないし、子を設けることもできないことは彼が無精子症であることを仄めかしていることからも明らかです。
だからこそ自らが命を絶ち、彼女の罪を清算し、自分が彼女の未来になろうとしたんです。
それこそが陣冶という男の愛だったんです。
彼は十和子のためなら何でもするという言葉にどこまでも忠実でした。
絶望のどん底にいた彼女は「空の鳥」に、自らの「未来」を見出し、そして死ぬのではなく生きるという選択をし、前に進むのでしょう。
また陣冶が飛び降りる際に十和子の方へ向き合い、手を広げて「十字架」の体勢で落下していく描写も実に興味深いものがあります。
彼は十和子が犯した殺人の罪という「十字架」を背負って命を投げ捨てるのです。
そして彼が最期に彼女に遺した言葉の通りで、十和子が「真っ当な男」に出会い、子を成すことができたなら、その際に陣冶は文字通り「復活」を遂げることとなりますよね。
聖画には、しばしば「ゴシキヒワ」という鳥が登場します。
ラファエロ『ヒワの聖母』
聖画でしばしば登場するこの鳥は、キリストの受難の象徴といわれています。
これはゴシキヒワの頭部の赤色が、キリストが絶命した際に、彼のところに飛んできて、そのいばらの棘を引き抜いて血を浴びた際に付着したものであるという逸話があるからと言われています。
つまり、陣冶の死は、
- 罪を背負って死んだ。
- 十字架の想起させる体勢で死んだ。
- 彼が死んだ際に「鳥」が飛ぶ。
- その後の彼の「復活」を思わせるセリフがあった。
という4つの観点から、イエスの死に通ずるところがあるんです。
聖書的な世界観において、イエスは人類の原罪を背負い、命を落とし、その後復活を遂げたわけですが、陣冶はそんな大層な存在ではないと思います。
彼はただ、十和子にとってだけの救世主です。
そして彼は「子供」として十和子の下に「復活」し、再び彼女の「愛」の象徴として生きるんですよ。
この作品は共感できない「愛」を描いたとも言われていますが、上記の解釈からも、人智を超えた陣冶の究極の愛の形を描いたことは紛れもないことでしょう。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『彼女がその名を知らない鳥たち』についてお話してきました。
1回目見た時には、漠然と良い作品だなぁくらいにしか思わなかったんですが、2回目を見ると、この畳みかけるような終盤の一連の描写の凄さに気がつかされました。
白石和彌監督の作品は好不調の波が激しい印象ではありますが、この作品に関して言うのであれば、圧倒的な出来だったと思います。
終盤の演出がくどいという見方もあるやもしれませんが、むしろこの作品は終盤にエモーショナルな要素を集中させて、それ以外のパートを淡々と描いているので、バランスとしては悪くないと思います。
むしろ感情の波が終盤に一気に寄せるために、処理できるキャパシティを超えてしまって、せき止められていた涙が一挙に溢れ出てしまうというような印象でした。
ぜひぜひご覧になってみてください。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。
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