【ネタバレあり】『海獣の子供』感想・解説:言葉にならないものに触れることの大切さ

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね『海獣の子供』についてお話していこうと思います。

五十嵐先生の作品は『魔女』を読んだことがあったんですが、そのイラストのタッチと世界観が独特ですよね。

ナガ
読み進めているうちに、その世界の虜になっていくんだよね・・・。

本記事ではそんな五十嵐先生『海獣の子供』の映画版と原作の両方について余すところなく語っていきたいと思います。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。

作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




『海獣の子供』

あらすじ

第1巻

夏休みの初日、ハンドボール部に所属している琉花は、部活で友人とトラブルを起こし、夏休みの部活出入り禁止を命じられる。

暇な時間を持て余した彼女は、ふと思い立って東京へと向かった。

そこで彼女は夜の海に飛び込む褐色の青年を目撃する。驚いて彼を助けに向かった彼女は、彼の肌に「光る何か」を見た。

それは彼女が幼少の頃、地元の水族館で見つけた「水族館の幽霊」だった・・・。

故郷へと戻った彼女は、地元の海で再びその褐色の青年を目撃する。彼の名前は「海」だった。

彼は、全身に入れ墨をし、地元の海でサーフィンをしているジムという男の下で暮らしていたが、何とジュゴンに育てられたという過去を持っていた。

そしてもう1人、ジムの下では同じくジュゴンに育てられたブロンドへアの青年「空」が暮らしていた。

琉花は部活がなく、持て余した時間を水族館の手伝いをしたり、「海」「空」と過ごしたりすることに充てるようになる。

その頃、世界中の水族館で突然生物たちが姿を消すという事象が起こり始め、大きな問題となる。

時を同じくして、琉花の住む町の海にも深海魚が海岸に打ち上げられるという珍事件が起こる。

静かに、そして確かに海の中では何か大きなことが起ころうとしていた・・・。

 

第2巻

世界中で異変が起こり始めた頃、突然「空」琉花の住む街から姿を消した。

「空」と共にジュゴンに育てられた少年「海」は彼のことを捜し続けていた。

琉花は、「海」の存在が気になっており、彼が「空」を捜索する手伝いがしたいと考え、協力することとなる。

ある日、彼女の住む町に大雨が降るのだが、空から降ってきているのは海水であり、また魚が空から落ちてくるという珍事件まで起こった。

時を同じくして、病院のベッドでずぶ濡れで眠っている「空」が発見される。

しかし、彼は2人に再会する前に、再び姿を眩ませてしまうのだった。

再び捜索を始めた2人は「空」がアングラードという男と共に過ごしているということを知る。

アングラードは「空」「海」と関わりながら、海の「誕生祭」について調査していた。

 

第3巻

星が輝く夜に突然身体が発光し始め、海へと消えてしまった「空」

去り際に琉花は、彼から謎の隕石を託されていた。

琉花は、「海」と共に家族の下へと戻ってきてはいたが、正気を失っており、微熱続きで、時々意識を失っていた。

彼女は、託された謎の隕石の「呼び声」に導かれるようにして、アングラードと「海」と共に航海に出る。

隕石の導き出した座標へと至ると突然「海」が海に飛び込み、泳ぎ始めた。それを追うようにして琉花も海に入る。

夜になり、彼女は「海」を見失ってしまう。

その時、海中から巨大なクジラのような生き物が現れ、彼女を飲み込んでしまうのだった・・・。

 

第4巻

その頃、世界中の水族館で星斑模様の生物が消えるという事件が起こっており、水族館は危険が去るまで営業停止の事態に追い込まれていた。

琉花の両親やジムは、町から消えてしまった琉花「海」たちの捜索を続けている。

一方でアングラードは海の「誕生祭」の本番を目撃しようと目論み、1人で行動を続けていた。

その頃、クジラに飲み込まれた琉花「空」の幻覚を見ていたが、意識を取り戻し、「海」に救出された。

そう思っていたのもつかの間、彼女は「海」に″より深いところ″へと突き落とされる。

幻覚を見ながらも、何とか這い上がった琉花

すると彼女の体内の隕石が突然覚醒し、彼女の体内から水が溢れ出始める・・・。

 

第5巻

いよいよ海の誕生祭の「本番」が始まる・・・。

琉花の役割は「空」に託された隕石を導かれた場所に導くことであったと「空」のような姿をした謎の存在に告げられ、同時に彼は「用済み」であると言い放った。

そこに突然「海」が現れ、彼は彼女の体内から隕石を取り出すと、自分の体の中に取り込んでしまう。

彼の身体は光を放ち始め、海の至るところから生き物が集まり、彼をめがけて泳いでいく。

そして海では次々に生き物たちが体を光り輝かせては、光へと帰していく。



作品情報

  • 監督:渡辺歩
  • 原作:五十嵐大介
  • キャラクターデザイン・総作画監督・演出:小西賢一
  • 美術監督:木村真二
  • 色彩設計:伊東美由樹
  • 音響監督:笠松広司
  • 音楽:久石譲
  • 主題歌:米津玄師『海の幽霊』
  • アニメーション制作:STUDIO4℃
ナガ
この最強の布陣とも言えるスタッフによるアニメ映画が見れるなんて・・・。

原作を著したのは五十嵐大介さんで、彼は『リトルフォレスト』『魔女』といった作品で知られています。

とりわけ彼の作品のタッチは繊細で、読んでいるとその絵に質感というか手触りのようなものがあるようにすら感じられます。

海の生き物、潮風、砂浜、人間の肌、彼が描くそのどれもが温度と手触りを確かに孕んでいるのです。

物語そのものはかなり観念的でかつ抽象的な世界観なので、掴みづらく読者を置いていってしまいそうなのですが、その圧倒的な描写力が読み手を惹きつけます。

ナガ
ちなみに『リトルフォレスト』は橋本愛さん主演で映画化もしてるね!

そして今回のアニメ映画版の制作を担当したのが、『鉄コン筋クリート』『ハーモニー』などでも知られるSTUDIO4℃です。

『鉄コン筋クリート』は、松本大洋の絵をそのまま動かした人物作画やアクションシーンの演出も並外れていた作品です。

ただそれ以上に背景の書き込みも凄まじく、五十嵐大介さんの漫画同様に映像に確かに「手触り」がありました。

寂れた街のザラザラとした感じや、コンクリートの街に降る雨の臭い、高いところから飛び降りる時に受ける心地よい風圧。

2006年公開のアニメ映画がここまでの映像を作り上げていたという事実にただただ驚嘆しましたし、映画館で鑑賞した当時は衝撃的すぎて子供ながらに圧倒されていたのを覚えています。

そんなSTUDIO4℃が制作期間5年を経て、満を持して世に送り出すのが『海獣の子供』という作品です。

監督を務めるのは、ドラえもんシリーズ、アニメ『謎の彼女X』『恋は雨上がりのように』などでも知られる渡辺歩さんです。

当ブログ管理人はアニメ『謎の彼女X』が大好きなのですが、何が素晴らしいってヒロインの豊かな表情表現です。

この作品のヒロインである卜部は大半のシーンで前髪が目を覆っていて、口元しか見えないのですが、それにも関わらず表情が本当に多様なんです。

しかもどう見ても日本アニメの「可愛い」の路線からは逸脱しているようなキャラクターを、仕草と雰囲気の描き方で「可愛い」と思わせてしまうだけの力量があります。

そして総作画監督には、小西賢一さんが参加しています。

ナガ
彼が『かぐや姫の物語』で作画監督を務めていたと言えば、それ以上語る必要はないよね・・・。

彼の傑出した作画センスであれば、『海獣の子供』というとんでもない作画が求められる作品であってもアニメーション化できてしまうのでしょう・・・。

美術監督や色彩監督にも『鉄コン筋クリート』で卓越した世界観を作り上げたスタッフが参加しており盤石です。

そして音楽スタッフは主題歌が米津玄師、劇伴が久石譲という豪華な顔ぶれになっています。

ナガ
今日本で考えられうる最強の布陣の1つかもしれないね!

既に発表された楽曲は、YouTubeでもとんでもない勢いで再生されています。

より詳しい作品情報を知りたい方は映画公式サイトへどうぞ!!

公式サイト
ナガ
ぜひぜひ劇場でご覧ください!!

 

『海獣の子供』感想・解説(ネタバレあり)

主題歌の『海の幽霊』について

ナガ
公開から1週間で1000万再生を超えるなど、とんでもない勢いを見せています!

米津玄師さんは、今最も勢いのある日本人アーティストであると言っても全く誇張ではないでしょう。

私も彼の歌う楽曲を聴くことがありますが、その凄みがどこにあるのだろうと考えた時に浮かぶのは、「彼の歌は五感を刺激してくる」というところなんだと思います。

例えば、先の紅白歌合戦でも披露され、2018年に最もヒットした楽曲とも言われる『Lemon』の歌詞って本当に人間のいろいろな感覚を刺激してきます。

胸に残り離れない 苦いレモンの匂い

雨が降り止むまでは帰れない

切り分けた果実の片方の様に

今でもあなたはわたしの光

(米津玄師『Lemon』より引用)

このパートが特に大好きなんですが、この歌詞ってシンプルに見えて、超絶技巧が凝らされたものになっていると思います。

まず「苦い」と来て「味」を想像するのに、その後に「匂い」という歌詞が来て、レモンの独特の鼻を挿すような匂いが漂ってきます。

おそらくここではまだレモンを切っていない状態なので、皮が持っている独特の苦みを帯びた匂いが鼻孔をツンと刺すのでしょう。

その様を思い浮かべると、思わず口の中に唾液が分泌されるのを感じます。

さらにそのレモンを切り分けるとあり、ここでフワッとレモンの果汁が持つ爽やかな香りが漂ってくると同時に、「切り分けたレモンの片方」がまるで「光」のように見えるのだと言うのです。

つまりこの短い一節の中で、音楽が大前提として刺激する聴覚に加えて、視覚、嗅覚、味覚を刺激してくるんですね。

この人間の感覚をフルに使って鑑賞するような音楽体験が、彼の楽曲には確かにあります。

そして今回の『海の幽霊』という楽曲ですが、AメロとBメロの歌詞やメロディは、とりわけ晴れ渡った穏やかな晩夏の昼下がりの海沿いの家がイメージとして浮かびます。

しかし、サビに入るとその心象風景がメロディの転調と共に一変します。

が降る夜に あなたに逢えた

(米津玄師『海の幽霊』)

昼下がりの穏やかな海の見える風景を思い浮かべていたのに、突然荒波に飲まれ、必死に水面に顔を出してみると、夜空に星が美しく輝いていた、そんな一瞬を体験するような感触があります。

そしてそこには、AメロやBメロでは空白の存在となっていた「あなた」がいます。

そのメロディと歌詞だけで、彼の思い描く心象風景の中に聞く人を取り込んで、そして同じ風景を追体験させるような視覚志向の楽曲だと感じました。

また『海獣の子供』という作品のメッセージでもある「大切なことは言葉にならない」を歌詞にインサートし、それを体現するかのような楽曲になっているのも印象的です。

この楽曲は、抽象的なものや感情について歌詞の中で言及することをあまりしていません。

ただひたすらに見えるものや触れたものについて写実的にかつ淡々と描写したようなテイストです。

だからこそ聴いていると、その風景が思わずイメージとして湧き上がっているんでしょうね。

米津玄師さんは「大切なことは言葉(歌詞)にならない」からこそ、聞いている我々にイメージを共有して、ただただ「感じて欲しい」と願っているのかもしれません。

ひたすらに具象的で、写実的な歌詞の中に「海の幽霊」という得体のしれない存在を1つだけ混ぜてあるのも、何とも意図的に思えました。

単純に楽曲として素晴らしいことは言うまでもないのですが、それに加えて『海獣の子供』という作品の主題歌としても完璧以上の出来栄えだと思います。



大切なことは言葉にしない

サピア=ウォーフの仮説において「言語によって少なからず思考や認識に影響が与えられる」という提言がなされました。

それを基にしてテッド・チャン『あなたの人生の物語』という作品を発表しました。これは『メッセージ』というタイトルで映画化もされています。

人間は過去から現在、そして未来へという一方向的な時間の流れに縛られています。

そんな人類がヘプタポットと呼ばれる宇宙から来た存在の言語に触れることで未来から過去へのベクトルを獲得するんですね。

つまり人間にとっての世界というのは「言語化が可能な範囲」であって、その外側にあるものは世界から漏れ出してしまうのかもしれません。

というよりも人間は「言語化できない」ものに恐怖を抱き、世界から排除することで、「言語化できるもの」だけで満たされた世界を作ろうとする傾向にあります。

五十嵐大介さんが著した『魔女』という作品。

魔女という言葉を聞くと、やはり魔女狩りの悲しき歴史が連想されます。

魔女狩りって言わば、人間たちが自分たちの言語に当てはめられないような現象に直面した際に、それを「誰か」のせいにして法という「言語」で裁き、排除する行為です。

五十嵐大介さんって今回の『海獣の子供』という作品だけでなく、これまでの作品でも「言葉にできない世界」というものを描いてきました。

『魔女』の中にこんなワンシーンがあります。

五十嵐大介『魔女』第1巻より引用

まさにこのワンシーンは言葉によってしか物事を規定できない人間を、言語を超越した存在が凌駕している様子を描いています。

人間がこの地球という惑星の支配者になれた(なったと錯覚している)理由の1つとして間違いなく「言語」は挙げられます。

人は言語があったからこそ、より多くの個体とコミュニケーションを取り、協力することを可能としました。

だからこそ言語というものが、今日の人間の世界の繁栄に寄与しているという事実は紛れもないものです。

その一方で、五十嵐大介さんが描く世界観は、人間は言語を獲得したことで同時に言語化できない世界を失ってしまったというものです。

『海獣の子供』の中では次のように言及されていました。

言語は性能の悪い受信機みたいなもので、世界の姿を粗すぎたり、ゆがめすぎたり、ぼやかして見えにくくしてしまう。

言語で考えるってことは、決められた型に無理に押し込めて、はみ出した部分は捨ててしまうということなんだ。

(五十嵐大介『海獣の子供』より引用)

この作品は、正直どう読み解こうとしても答えにはたどり着けない作品です。

私はこういうブログをやっているものですから、つい映画を見たり、小説を読んだりすると、自分が感じたことを言語化して表現したくなってしまいます。

ただそういう作業を日々続けているからこそ、人一倍、言語化すればするほど自分が本来思い描いていたものが指の隙間から零れ落ちていく感触も理解しているつもりです。

自分が感じていることの本質なんて、言葉にしてしまうとほんの数パーセントくらいしか表現できないものなんですよ。

人間は誰しもが、物事に「答え」を欲しがる生き物です。

映画界隈では、町山智浩さんという評論家が有名ですが、彼が支持を獲得しているのは映画作品に対して明確に言語化された「答え」を求めている人が多いからとも言えます。

映画を見た時に、自分が感じた言葉にできない不思議な感覚をそのままにしておくのが落ち着かなくて、言語の方に当てはめて納得しようとする、これは私自身もそうです。

それでもその不思議な感覚にこそ、映画を見る意味があるはずなんだと『海獣の子供』という作品を鑑賞して改めて考えさせられたような気がします。

私は、小学6年生の頃にヘミングウェイ『老人と海』という作品を読んで、夏休みの読書感想文を書こうとしたことがありました。

ただ当時の私には、どうしても書けなかったんです。

この作品を読んで感じたことがどうしても言葉にならなかったんですね。

こういう経験って私はすごく大切だと思っています。

五十嵐大介さんは『海獣の子供』という作品の中で言葉にならない世界の方がずっと豊かなのであるという指摘をしています。

子供の頃の多感な時期に、どれだけ「言葉にならない」豊かな世界に触れられるかって、きっと後のその人の世界観を大きく左右することになるはずです。

ですので、子供の時にこそ難解な小説や映画に触れて、「分からない」という感触をたくさん経験しておくことが大切なんですよ。

考えて見れれば、本作の主人公である琉花も14歳です。

ぜひぜひこの『海獣の子供』を鑑賞して、みなさんも「言葉にできない」という感触を味わってみて欲しいと思います。



本作の世界観を考える

先ほど『海獣の子供』という作品には明確に言語化できるような答えが存在していないとは書きましたが、ある程度自分が感じたことや考えたことを整理する名目で書いてみようと思います。

本作の世界観を象徴するのがこの歌ですね。

星の星々の

海は産み親

人は乳房

天は遊び場

(『海獣の子供』第1巻 13ページより引用)

人間は基本的には、自分たちの種族を中心に世界を捉えます。

我々は、何の疑いもなくその人間中心主義を信奉し、地球上で最も優れた種族は人間であると信じてやまないのです。

それに対して『海獣の子供』という作品が突き付けるのは、人間とはこの惑星の「臓器」のような存在にすぎないという世界観です。

作中にナンキョクオキアミの小話が出てきましたよね。

このナンキョクオキアミはバイオマスの生産や地球上の二酸化炭素を深海へと沈めるという役割を果たしているという点で、地球上でも非常に重要な存在です。

そのため、このプランクトンが絶滅してしまえば、地球の現在の環境は完全に崩壊してしまうだろうとも言われています。

つまり人間よりもこの地球にとって重要な役割を果たしている生物は多数存在しているのではないでしょうか?

『海獣の子供』の中に世界地図として以下のような図が登場していましたよね。

『海獣の子供』第3巻より引用

ナガ
何だか見覚えがあるような図だよね!

そう考えてみると、チベット仏教に登場する六道輪廻図にこの世界地図はすごく似ているような気がします。

仏教の世界観においては、肉体が死んでも魂は滅びずに生まれ変わり、永遠に生き続けると言われています。

そしてチベット仏教によると、この図のように人は死ぬと六道の内の別の世界に転生するとされています。

では、それを地球という惑星の「地図」としてコンバートした『海獣の子供』には一体どいう意図があったのかと考えてみましょう。

それは地球上のあらゆる生物はリンクしていて、死ぬと他の生物へと転生し命は循環を続けるという構造ですよね。

本作の誕生祭においては、生き物が光の玉となり、「死んで」いく様を描いています。

一方で、光の玉と化していく生物をたくさんの動物が目撃し、そしてその光の粒を捕食していきます。

作中でこの出来事のことを「受精」と表現していることからも、あの光の粒は言わば次の生命の「種子」なんでしょう。

終盤に1つ面白いシーンがあります。

『海獣の子供』第5巻より引用

琉花が自身の母親のお産に立ち会った際に、胎児と母親を繋ぐへその緒を断ち切ったシーンです。

この瞬間というのは、一般的に「人間がこの世に生命を受ける瞬間」と形容されるような類の物でしょう。

しかし、『海獣の子供』の中では、これを「命を絶つ感触」と形容しているんですね。

人間は母親の胎内にいる時、羊水の中で暮らしているわけで言わば「水の中の生き物」なんです。

よって、母親の胎内から生まれ出る時、人間は突然水の中の世界生きることになるわけです。

作中で「女の体は彼岸(海)からこっち岸へ生命をひっぱり出す通路」という表現が登場します。

この作品の世界観においてはすべての生命は「海」から生まれるのであり、人間も母親の胎内にいるうちはある種「海の生き物」なのです。

しかし、胎内から出てきて、へその緒を断ち切られる瞬間にそんな「水中で」の生活が終わりを告げます。

これを生命の誕生と一般的には考えるわけですが、同時にこれは「海の生き物」としての人間の「死」であるという両面性をも指摘することができるのです。

そう考えた時に、本作は冒頭とラストで「海の幽霊」という存在に対する見方がひっくり返ります。

「幽霊」という言葉を聞くと、人間はまず間違いなく「死」を連想します。

ただ、本作においてはむしろ正反対で、「海の幽霊」とはまさにこれから生まれ行く生命の粒です。

人間は自分たちの尺度で常に「生命」というものを捉えています。

それでも「生命」という神話の世界は人間の創造の遥か上にあって、私たちはまだその「言葉」にならない世界に触れることすらできていないのかもしれません。

ラストカット。

美しく輝く海を見つめる琉花

『海獣の子供』第5巻より引用

このカットは幼少の頃、水族館の巨大な水槽の前で「海の幽霊」を見つめていた彼女の姿に重なります。

水槽を形成する分厚いガラスに遮られて触れることのできなかった世界。

そんな世界に彼女はひと夏の冒険を通じて手を触れたのです。

誰にも告げられない彼女だけが見たものは、本作を読んでいる私たちにもその真の意味は分かりません。

言葉では理解できない、自分の手で触れてみなければ絶対に理解できない感触がこの世界には確かにあるのだとそう思わせてくれます。

海という「生」の世界。

陸という「死」の世界。

その境界線となる波打ち際。

両方の世界を知った彼女はそんな波打ち際に立ち、生きていくのです。

五十嵐大介さんは自身の著書『魔女』の中の1つの物語の中で、次のように作品を締めくくっています。

五十嵐大介『魔女』第2巻より引用

これはまさに「言葉」ではなく、自分の感覚で世界を知覚していくことこそが重要なのであると明確に発信したシーンでもあります。

だからこそ『海獣の子供』のラストシーンはそのメッセージを言葉にするのではなく、「言葉にならない世界」に触れた琉花の表情に託したんだと思っています。



アニメ映画版を紐解く

アニメーションの凄さ

『海獣の子供』のアニメ版を見てきました。

まずアニメーションはもう圧倒的と言う他なかったですね。

STUDIO4℃のアニメーションはやっぱり空間の広がり映像のダイナミズムの2点が特に優れていると思います。

それが端的に集約されていたのが、冒頭の琉花がハンドボール部での活動停止を命じられて、学校から帰るシーンでした。

実写映画で言う「ワンカット」的な手法で撮影されているこのシーンですが、何と言っても空間の広がりが凄いんですよ。

Unityであの江の島風の街を丸ごとモデリングして、その中を琉花に走らせているような印象を受けるというか、画面の外にも空間が広がっていることが確かに感じられる映像なんですよね。

そして琉花が走るシーンの動きもすごく計算されていると言いますが、観客に重力が伝わってくるように作画されているので、映像に良い意味で重みがあります。

また映像のダイナミズムという点では、やはり琉花が船で沖合へ繰り出した際に、海に潜った時のジンベイザメとの邂逅のシーンがスバ抜けてよかったと思います。

3Dモデリングされたジンベイザメのクオリティがそもそも高いのですが、その異質感が存在感を放っています。

そんな巨大な海洋生物が行き来する中を、琉花が泳いで行くわけですが、アングルをこまめに切り替えることでジンベイザメの雄大さとスピード感を演出することに成功しています。

『鉄コン筋クリート』の頃からずば抜けていた背景の描写の書き込みも圧倒的で、日本のアニメのトップランナーであると評しても過言ではない出来栄えでした。

この映像を見るために劇場に足を運ぶ価値が十分にあると思いますね。

 

『海獣の子供』を琉花の物語として捉える

(C)2019 五十嵐大介・小学館/「海獣の子供」製作委員会

映画版の『海獣の子供』は、原作に比べてかなり「分かりやすい」内容になったと思いました。

というのも2時間尺の映画にするために、かなりの描写を削り、琉花の物語として焦点化しているからです。

ナガ
そういう事情もあり原作が好きな自分としては、すごく世界観が矮小化されたような気がして悲しいんですよね・・・。

まず、『海獣の子供』という作品は、人類がまだ知覚するに至っていない、言語するに至っていない生命の誕生と輪廻の神秘を描いた物語であります。

価値観や信条としてはどちらかというと仏教的なものに裏打ちされていて、輪廻という考え方が基本的には存在していないキリスト教や聖書的な価値観とは異なります。

ナガ
この作品の解釈にキリスト教や聖書を持ち込むと完全にずれた方向に向かってしまうのでご注意を・・・。

さて、そんな原作の物語がありつつ、映画版は琉花という少女のディスコミュニケーションとその解消へと至る転生の物語として書き換えているような印象を受けます。

この方向性で原作から改変が成されていることは、琉花が冒頭でトラブルになった女子生徒にハンドボールを投げ返すというラストシーンからも明らかです。

ナガ
あれは原作にはないシーンなんだよね!

つまり、映画版『海獣の子供』は、他人とのディスコミュニケーションに苦悩していた少女がひと夏の特別な体験を経て、「転生」し、両親や友人との関係を結びなおすというすごく分かりやすい話なんです。

仏教の世界では浄土真宗を開いた親鸞が「海」という言葉を多用していたことで有名です。

彼は『教行信証』の序文で以下のように綴っています。

「海」といふは、久遠よりこのかた凡聖所修の雑修・雑善の川水を転じ、逆謗闡提・恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実・恒沙万徳の大宝海水と成る。これを海のごときに喩ふるなり。

(親鸞『教行信証』より引用)

海というものは様々な川から水が流れ込んでくる場所です。

その川には清らかなものもあれば、汚れ澱んだものもあるでしょう。

しかし、海という場所はそんなすべての川から流れ込んでくる水を「海水」へと転生させます。

そんなあらゆる雑流を清らかな海水へと転生させる「海」に親鸞は阿弥陀如来の願力を投影したのです。

映画版『海獣の子供』の冒頭に琉花が海へと流れ込む川の桟橋の下でうずくまっているシーンがありましたね。

これってまさしく海へと流れ込む川とまだ海へと踏み込んでいない琉花を同質的なものとして描こうとしたシーンであり、琉花の「転生」を予感させるシーンでもあります。

そして彼女は波打ち際に立ち、「海」「空」たちと関わる中で海の深くへと潜り込んでいくこととなります。

水族館の大きな水槽の前で、海に手を触れることなく佇んでいた彼女が、海の中へと飛び込んでいき、自分自身が書き換えられていくようなある種の「転生」を経験します。

そして彼女は両親や友人との「壁」を解消し、ディスコミュニケーションを脱却するというわけです。

原作が素晴らしかったのは、他の人間が誰も知らないような世界の秘密に触れた彼女がどういう生き方を選ぶのかを見せず、可能性を広げたことだと思っていました。

ですので、映画版の世界の秘密に触れるという体験を、琉花のパーソナルな物語に露骨に還元していくという構造は幾分『海獣の子供』という作品の世界観を矮小化しているように見えました。

ですので、映画版を評するとなると、悪い意味で「分かりやすい」物語にしてしまったという意見になってしまうかと思います。

 

エンドロールに登場した椅子の意味

原作では第1巻に椅子に纏わるエピソードがあるんですが、なぜか映画版ではカットされてしまってましたね。

ナガ
映画版を見ただけだとどういう意味で使われたのかが分かりにくかったかも・・・?

『海獣の子供』第1巻より引用

日本における彼岸の風習のようなものだと思いますが、海から帰ってきた先祖がその証拠に置かれた椅子に何かを置いていくということが語られていますね。

そして映画版のエンドロールでは椅子にハイビスカスの花が置かれていましたよね。

このヒントを合わせて考えてみると、海へと消えていった「海」「空」の幽霊が琉花の下へと戻ってきたことを示すためにハイビスカスを置いたという意味合いで登場した描写なのかもしれません。

しかしこれってどちらかと言うと、神道寄りな考え方でして、仏教の輪廻転生的な考え方とはマッチしない描写です。

では、どう読み解くとすっきりするのか考えてみましょう。

『海獣の子供』という作品において、「海=生」であり「陸=死」として描く傾向があります。

だからこそ本作における「海の幽霊」というのは、死を迎える存在でありながら、同時に次なる生を受ける存在でもあります。

そう考えると、あのエンドロールで示された椅子に置かれたハイビスカスは、「空」「海」が誕生祭を経て、輪廻転生し、別のカタチでこの世に生を受けたことを仄めかしたシーンだったのかもしれません。

本作において、女性の身体とは「海から新たな生命を取り出す器官」でもあります。

故に彼らが陸の上に戻ってきて、転生した印として琉花との思い出の夏を象徴するハイビスカスを椅子に置いたんでしょうか。

そう考えると米津玄師さんの『海の幽霊』という楽曲の歌詞にもきちんとリンクします。

風薫る砂浜で

また会いましょう

(米津玄師『海の幽霊』より引用)

琉花とそして「空」「海」はカタチを変えて、きっと再会することでしょう。

そんなささやかな祈りが込められた歌詞に無性に涙がこぼれます。

 

おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は『海獣の子供』についてお話してきました。

近年特に映画や小説、マンガを鑑賞する側に、言語化された「答え」を求める風潮が顕著であるため、今作のような「言葉にしない」作品は受け入れられにくいかもしれません。

しかし「大切なことは言葉にしない」という精神性に裏打ちされたこの作品は、徹底的に言語化することを避け、観念的で写実的な世界観で我々の目の前に現前します。

無理に自分の中でこの作品に対して答えを出そうとするのではなく、鑑賞し終わった後に自分の中に残った感触を大切にしてみるのも良いかもしれません。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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