みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『X-MEN ダーク・フェニックス』についてお話していこうと思います。
国内外で不評で、興行的にも振るわなかった前作の影響が大きく、今回も興行的に苦戦を強いられていますね・・・。
さらには北米大手批評家レビューサイトのRotten Tomatoesでもシリーズ最低の数値を記録しています。
以下シリーズのRotten Tomatoesでの支持率を低い方から順に並べてみました。
- 『X-MEN ダークフェニックス』:23%
- 『ウルヴァリン X-MEN ZERO』:37%
- 『X-MEN アポカリプス』:47%
- 『X-MEN ファイナルディシジョン』:57%
何と言ってもあの『X-MEN ファイナルディシジョン』より評価が低いというのが皮肉ですよね。
散々酷評されたジーンがメインの旧三部作最終作をまさか下回る評価を獲得するなんて誰が想像できたでしょうか・・・。
さて、では前置きはこのあたりにしておきましょう。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『X-MEN ダーク・フェニックス』
あらすじ
前作以降地球でミュータントたちが活躍するようになり、徐々に社会的地位を高めつつあった。
チャールズはミュータントをヒーローとして活躍させることが彼らが認められるために必要なことだと考え、その考えに固執するようになった。
X-MENとして地球を守るために戦うレイブンはそんなチャールズの考え方に疑問を抱くようになっていた。
ある日、X-MENたちはチャールズの指示で救援信号を送っている宇宙船の救助に向かうこととなる。
その中には自身の不安定さを残しつつも自身に秘められた力を覚醒させたジーンも含まれていた。
ミッションの最中に突如、巨大な宇宙物質が現れ、周囲にある物質を飲み込み始めた。
X-MENたちは宇宙船の乗組員救出のために尽力するが、その際に崩壊し行く宇宙船にジーンが取り残されてしまう。
絶体絶命かに思われたが、ジーンはその強大な宇宙物質を自らの体内に取り込んでいった。
無事に地球に戻ったX-MENたちは全世界中から賞賛を浴びるが、ジーンの身には異変が起こり始めていた。
そして彼女は幼少期のとある記憶を突如として取り戻すこととなる。
それはチャールズが彼女と出会った際に、彼女のことを思い封印していたトラウマの記憶だった。
ジーンは彼が自身の記憶を改ざんしていたことに激しい憤りを覚え、X-MENを離脱する。
その頃、彼女の力を狙うヴークが現れ、物語は予期せぬ方向へと突き進んでいく・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:サイモン・キンバーグ
- 脚本:サイモン・キンバーグ
- 撮影:マウロ・フィオーレ
- 編集:リー・スミス
- 音楽:ハンス・ジマー
今回はブライアン・シンガーではなく、『X-MEN』シリーズで長らく脚本を担当してきたサイモン・キンバーグが起用されています。
皮肉にも彼は『X-MEN ファイナルディシジョン』でも脚本を書いているんですよね・・・。
彼は自身が監督を務めることになって経緯について以下のように語っています。
「子どもの頃に読んだコミックの中でも、「ダーク・フェニックス・サーガ」が一番好きだったんだ。今作をオリジナルコミックに基づいて、しっかりしたストーリー構成で、より感情的に観客に伝えることはできないかと考えながら、製作への道を手探りしていたんだ。ブライアン・シンガーが監督をやらないことが決まり、新たな監督を探す中で、ふと、僕が一番監督に適している、今が監督の時期だと直感的に思えたんだよ」
そうなんです。実はサイモン・キンバーグは長らく『X-MEN』シリーズに関わってきた功労者なんですが、実は監督を務めるのが今回が初めてのようです。
ただ本当に彼の中には構想があったのかというくらいには映画本編はお粗末な出来でした。
撮影には『アバター』にも参加した経験を持つマウロ・フィオーレ、編集と音楽にはクリストファーノーラン作品でおなじみのリー・スミスとハンス・ジマーが参加しました
- ソフィー・ターナー:ジーン・グレイ
- ジェームズ・マカヴォイ:チャールズ・エグゼビア
- マイケル・ファスベンダー:エリック・レーンシャー(マグニートー)
- ジェニファー・ローレンス:レイブン(ミスティーク)
- ジェシカ・チャステイン:ヴーク
「ゲーム・オブ・スローンズ」シリーズで注目を集めたソフィー・ターナーが前作『X-MEN アポカリプス』から引き続きジーン・グレイを演じます。
その他にもお馴染みのキャスト陣が並びますが、今作のヴィランとなるヴークを演じているのがジェシカ・チャステインでした。
『女神の見えざる手』や『モリーズゲーム』など近年主演作も多く非常に注目されている女優ですよね。
作品についてより詳しい情報を知りたいという方は映画公式サイトへどうぞ!!
『X-MEN ダーク・フェニックス』感想・解説(ネタバレあり)
『X-MEN』シリーズは積み重ねができていなかった
(C)2019 Twentieth Century Fox Film Corporation
今年の4月末に『アベンジャーズ エンドゲーム』が公開され、MCUの1つの集大成ということで世界中で大きな話題となりました。
この巨大なシリーズがその集大成の作品でなぜこれほど大きなカタルシスをもたらすことができたのかというと、偏にコツコツと「積み重ね」を続けてきたからに他なりません。
そうした地道な努力が実を結び、1つの映画作品だけではどうやっても実現できないようなスケールの物語を作り上げ、『アベンジャーズ エンドゲーム』という作品は1つの伝説になりました。
そして20世紀フォックスがディズニーに買収されたり、「The New Mutants」が度重なる撮り直しで泥沼化していたりと様々なニュースもある中で「最後のX-MEN」が公開される運びになります。
それが今作『X-MEN ダークフェニックス』になるのですが、シリーズ最後の作品としてのカタルシスはどこにもありませんでした。
その理由を考えていたのですが、同じくヒーロー映画シリーズとして大成功を収めたMCUと比較すれば、明確でした。
『X-MEN』シリーズは単純に積み重ねるということができていないんです。
2000年に公開されたシリーズ最初の作品『X-MEN』は低予算ながらもブライアン・シンガーの作風が生きた素晴らしい作品でした。
その後続編『X-MEN2』が製作され、さらには『X-MEN ファイナルディシジョン』が公開されました。
この3作目を作る頃にブライアン・シンガーは『スーパーマン リターンズ』の監督を優先し離脱しました。
『X-MEN ファイナルディシジョン』はハル・ベリーとファムケ・ヤンセンという2人の女性のキャリア争いに巻き込まれるなどし、作品として完全に崩壊していきました。
キャスト陣の見せ場ありきで作られた映画は、キャストごとに活躍の度合いや出番に明らかに不自然なほどに差がつけられており、もはや1つの物語としてもハチャメチャでした。
そして『X-MEN ファイナルディシジョン』の制作時にプロットの案として挙がっていたが、キャストの活躍度の都合で実現しなかったウルヴァリンオリジンの構想を映画化するスピンオフが公開されました。
2011年に『X-MEN』シリーズはキャスト陣を一新してリブートすることとなりました。
『X-MEN ファーストジェネレーション』として公開された作品は批評家からも高く評価され、盛り下がるシリーズの中で離れつつあったファンの心を再び鷲掴みにしました。
この作品で監督を務めたのが、マシューヴォーンだったんですが、それ以上に功労者だったのは脚本のジェーン・ゴールドマンでしょう。
ただスピンオフ1本を挟んだのちに公開される運びとなった『X-MEN フューチャー&パスト』がとんでもない劇薬でした。
ブライアン・シンガーは、タイムトラベル構想や旧3部作のキャストを何とか登場させたいと画策していました。
マシューヴォーンは監督を降り、『キングスマン』の撮影の方へと向かって行ってしまうんですが、彼は脚本のジェーン・ゴールドマンを置き土産のように置いていきます。
結果的に彼の貢献が大きく、素晴らしい脚本が完成し、旧キャスト陣の出演承諾にもこぎつけることができました。
ただ『X-MEN フューチャー&パスト』という映画はターミネーターも驚きの「離れ業タイムトラベル」を披露し、これまでの『X-MEN』シリーズの集大成たる作品だったんですが、同時にシリーズとしてのタブーを冒しています。
というのもこの作品の影響で、タイムラインの分岐が生じ、旧三部作とは別の世界線が登場し、『X-MEN フューチャー&パスト』はその別世界線に着地するんですね。
つまりはこれまでシリーズとして積み上げてきたものをいったんすべて昇華して、リセットしてしまったのがこの作品なのです。
ですので、『X-MEN』シリーズは『X-MEN フューチャー&パスト』を境にして再び1からシリーズを積み上げていく必要性に駆られました。
すると2016年公開の『X-MEN アポカリプス』は、敵にもX-MEN側にもこれまでの映画に登場していないミュータントたちを次々に登場させ、完全に消化不良に陥りました。
そんなメインストーリーラインの不調を他所に、スピンオフとして公開された『ローガン』はヒーロー映画屈指の完成度と評され、X-MENファンの心理としても、これが1つの最終回になってしまったように思います。
これで完全に『X-MEN』シリーズのメインタイムラインから多くの映画ファンの心が離れてしまい、『X-MEN アポカリプス』の続編を望む声は小さくなっていきました。
そして度重なる延期を重ねて公開された『X-MEN ダークフェニックス』でしたが、やはり「積み重ね」がほとんどないために見どころに乏しい内容でした。
前作で登場した新しいミュータントたちの出番も非常に限られたものとなり、ひたすらにジーンのパートに尺を割いているため、シリーズ映画の最終作なのに、完全にワンマンプレー状態なんですよね。
さらに今作単体で見ても、このシリーズの縮図のようだと思った点があります。
『X-MEN ダークフェニックス』では、冒頭からひたすらにジーンにスポットを当て、彼女がX-MENたちの敵として立ちはだかるさまを描きます。
彼女を唆して力を得ようとするヴークというヴィランがいますが、ジーンの影に隠れていてイマイチ存在感を発揮できていません。
それにも関わらず、この映画は突然ジーンに正気を取り戻させて、彼女とヴークのラストバトルに持ち込むんですよ。
この映画はジーンにスポットを当ててきたわけで、そんな彼女の感情の収拾については割とあっさりとつけてしまい、そして急にそれまで存在感のなかったヴィランを表に引きずり出してラスボスに仕立て上げるんですから、そりゃ当然盛り上がりません。
本作単体を見ても、物語としての積み上げが出来ていませんから、ラストバトルにも何のカタルシスもありません。
結果的に見ると、このX-MENシリーズは『X-MEN フューチャー&パスト』という劇薬を消化しきれなかったのかなと思います。
確かにタイムトラベル映画としては異色でエポックメイキングな脚本だったと思いますが、シリーズ映画としてはそれまでの物語をリセットするということをやってしまいました。
その次の作品は映画初登場のミュータントで溢れ、単純に映画としても凡な出来だったために観客を疲弊させてしまいました。
そういった「積み上げ」の欠如が、シリーズ最終作ともなると、その盛り上がりに如実に影響を与えてしまい、観客を失望させる結果となってしまったのでしょう。
まさに今回の『X-MEN ダークフェニックス』はX-MENシリーズの悪いところを象徴するような作品と言えるかもしれません。
それでもアガるシーンはある
『X-MEN』シリーズってもちろん傑作もあるんですが、そうではない作品ってほとんどがシーン単位で見ると最高なのに、全体で見るとイマイチという印象です。
個人的には今回の『X-MEN ダークフェニックス』も例にもれずそんな作品でした。
ここでは、今作の中で印象的だったシーンや小ネタなんかについて言及しながらお話していこうと思います。
チャールズとミスティークの出会い
(C) 2011 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
今作の中でチャールズとミスティーク(レイヴン)の出会いについて言及されているシーンがありましたが、それが描かれていたのが『X-MEN ファーストジェネレーション』でした。
まだ幼少期だった2人ですが、レイヴンがチャールズの家の台所に食べ物を盗むために侵入します。
たまたま目が覚めて台所に降りてきた彼は、母に変装したレイヴンを目撃します。
自身の能力で彼女が母親ではないことは見破ってしまいますが、この時彼は「食べ物を何でも取って良いよ、その代わりもう盗みはやめるんだ。」と優しく諭しています。
この2人の出会いを思えばこそ、今作の展開は切ないものがあります。
ジーンとマグニートー
(C)2016 MARVEL & Subs. (C)2016 Twentieth Century Fox
今作中にジーンとマグニートーが互いの力を使って1つのヘリコプターを巡って攻防を繰り広げるシーンがありました。
このシーンを見ていると、無性に思い出されるのが『X-MEN アポカリプス』の一幕です。
アポカリプスというヴィランは言わば破壊の象徴的存在だったわけですが、それに対して、ラストシーンでジーンとマグニートーの2人が崩壊した恵まれし子らの学園を再建します。
物語の帰結としてもすごく希望に満ちたシーンになっていたように思います。
ただ今作『X-MEN ダークフェニックス』はこの構図を逆手にとって、ファンにはすごく切ないシーンを演出しました。
2人で1つの建物を協力して修復していた彼らが、今作では対立するんです。
ジーンはヘリコプターを破壊しようと試み、逆にマグニートーはヘリコプターを救出しようと試みます。
前作の構図を活用することで、一層2人の関係性やジーンという女性が変わってしまったことが浮き彫りになったシーンでした。
チャールズとマグニートーのチェス
(C) 2011 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
さて、本作のラストシーンでチェスをしていたチャールズとマグニートーですが、これは『X-MEN ファーストジェネレーション』への言及でもあります。
これまで2人はある種チェスの「キング」として活躍してきたわけですが、ラストシーンでは第一線を退き、「ポーン」として次の世代のミュータントたちを見守っていこうという意思が見られます。
新X-MENシリーズを象徴する2人の穏やかな結末には、『X-MEN ファーストジェネレーション』からのシリーズを追いかけてきた人は胸にこみあげるものがあるのではないでしょうか。
本作のラストシーン
(C) 2003 TWENTIETH CENTURY FOX
今作のラストシーンでは空高く舞い上がっていくフェニックスのシーンが映し出されました。
まさに人間という枠組みには収まらないジーンの自由と「救済」を印象付けるシーンになっていたわけです。
ただこれとほとんど同じ構図のシーンが実は『X-MEN2』のラストシーンになっていました。
『X-MEN2』ではラストでジーンが自らを犠牲にしてダムの水をせき止め、仲間を守りました。
続編で生きていたことが判明するので、正確に言うと死んではいないんですが、同じシチュエーションでした。
力を持ちすぎたマイノリティの悲哀
今作のメインキャラクターはジーンになるわけですが、彼女は悲惨な運命を背負っています。
幼少の頃に自分の両親を自ら危険に陥れ、母親の命を奪ってしまいました。
その強大過ぎる力を抑えることができず、父親には「手に負えない」として見捨てられてしまい、恵まれし子らの学園にやって来ることとなりました。
しかし、チャールズですらもその力を制御することが難しいと感じたその力は、他のミュータントたちをも凌駕していました。
チャールズはその力を恐れるがあまり、自分の能力を使って記憶を改ざんし、暴走のトリガーになりかねないトラウマを封印しました。
彼が作り上げた恵まれし子らの学園とは、強い力を持ち、人間の社会から虐げられるミュータントたちを救済するために作られたものでした。
人間たちは自分たちに制御できない力を持つ存在に恐怖を抱き、ミュータントたちを迫害します。
この世界はある種の「力の均衡」があって成立しているのであり、大きすぎる力というものが社会には受け入れがたいものであることが伺えます。
ただ、ジーンという存在はそんな恵まれし子らの学園においても傑出しており、その強大な力を制御することができていません。
それでもその強大な力が自分の味方でいてくれることが分かると、途端にその強大な力を受け入れるようになります。
人間は自分たちの世界を守るために命をかけてくれるミュータントたちの存在を受け入れるようになりました。
チャールズもミュータントたちに人間のヒーローとして君臨させることが彼らが社会に受け入れられるための最短ルートであると認識しています。
しかし、恵まれし子らの学園における「制御できない異端分子」であるジーンが覚醒し、X-MENたちの敵として君臨するようになります。
そこで彼らは選択を迫られることとなります。
レイヴンをその手で殺め、大きすぎる力を持ったジーンを殺害し世界を守るのか。
それともジーンにはまだ善良な心が残されていると信じ、彼女を救おうとするのか。
とりわけビーストやマグニートーが前者の考えを志向し、チャールズたちが後者の考えを志向したことで、彼らは衝突することとなります。
ここで1つ考えてみたいのは、ミュータントたちというのはそもそも強大な力を持つがゆえに人間から迫害されてきた生物だということです。
つまり、恵まれし子らの学園における「制御できない異端分子」であるジーンを殺めることで世界の均衡を保とうとする行動は、結局人間がミュータントたちを迫害した構図と同じなんですよ。
だからこそミュータントたちは後者を選択すべきなのだと、自らの危険を顧みず彼女を救おうとして命を落としたレイヴンの行動に倣って決断するのでした。
人はいつだってマイノリティを作り出し、疎外することでマジョリティが幸せになるための社会を築いていきました。
それでも誰にだってこの世界に居場所があって、それぞれが自由に生きる権利を持っているはずです。
ラストシーンで空を飛翔するフェニックス(ジーン)は、我々のいる世界と地続きの世界で自由に生きています。
私がこのラストを見ていて思い出したのが、映画『ポケットモンスター ルギア爆誕』のとあるセリフです。
「それぞれの世界がある。一緒に住んでいる世界だから壊してはいけない。わたしにはわたしの、きみにはきみのそれぞれの世界がある。」
(『ポケットモンスター ルギア爆誕』より引用)
我々がこの世界を生きていく上で大切なことがこの言葉に詰まっているように思えました。
誰にだって自分の世界があって、それを壊すことがあってはなりません。
X-MENたちにはX-MENたちの、人間には人間の、チャールズにはチャールズの、そしてジーンにはジーンの世界があります。
本作のラストは、まさにそれぞれがそれぞれに自分の世界で生きていく様を映し出したという点で綺麗な幕切れだったと言えるでしょう。
常にマイノリティの問題と向き合い続けてきた『X-MEN』シリーズらしい結末だったのではないでしょうか?
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『X-MEN ダークフェニックス』についてお話してきました。
やはりあの『アベンジャーズ エンドゲーム』を見た後では、シリーズ最終作として積み重ねの部分で差を感じてしまいました。
ただジーンを扱った物語としては『X-MEN ファイナルディシジョン』の悪夢を払しょくするには十分な出来だったと思います。
加えて、このシリーズが問いかけてきたマイノリティという主題の帰結としても非常に収まりは良かったのではないでようか。
『X-MEN』シリーズらしい良さもあり、そして同時にこのシリーズらしい悪さも目立つ作品でした。
それにしても「これが最後のXメン」という感慨深さはあまり感じられませんでしたね・・・。
ディズニーが20世紀フォックスを買収したということで、MCUへの合流の可能性も示唆される『X-MEN』シリーズ。
(C)2019 Twentieth Century Fox Film Corporation
今後どのように展開していくのかが楽しみですね。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。