みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『天気の子』についてお話していこうと思います。
前作『君の名は』の公開が2016年ですから、実に3年ぶりの新作ということで期待値はMAXです。
興行収入は250億円に迫り、まさに社会現象と呼ぶにふさわしい大ヒットを記録しました。
今作もどこまで興行収入を伸ばせるかには注目が集まっていますよね。
そして何より恐ろしいのが、今回の『天気の子』については公開日の実に10日前ほどまでスタッフは制作業務を行っていたようで、ギリギリの完成だったようです。
ただ逆に言うと、試写会を行わなくても内容で勝負できるという自信の表れのようにも思えます。
前作『君の名は』は試写会での評判が非常に良く、それが初動動員の好調にも繋がっていました。
その点でも、今回は絶対にヒットさせられる、高評価を得られるという自信があるんでしょうね・・・。
さて、本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説・考察記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『天気の子』
あらすじ
森嶋帆高は16歳で、故郷の家族や学校が嫌になり、突然東京へと家出してきました。
生活するために何とかバイトを探すのですが、学生証を持たない未成年を雇ってくれるところなどあるはずもなく途方に暮れていました。
そんな時、ひょんなことから知り合った須賀圭介という男を尋ねます。
彼は未成年の帆高を快く受け入れてくれ、住み込みで働かせてくれることとなりました。
彼は仕事で「オカルト雑誌」の記事を書くべく、取材を重ねるのですが、その中で「100%の晴れ女」の存在に辿り着きます。
ある日、仕事に向かっていた時、彼は男に売春を強要されそうになっている少女を目撃します。
咄嗟に助けに入りますが、大人の男に歯が立つはずもなく、押さえつけられてしまいます。
何とか彼女をつけようと、彼はゴミ箱で偶然拾っていた拳銃を取り出し、発砲します。
その少女の名前は天野陽菜で弟と2人暮らしをしているためにバイトをして生活費を稼ぐ必要があったのだ。
突然、彼女は「今から晴れるよ」と曇天の東京の空を指さす。
すると、雨続きだった東京の空に光が差し込み、たちまち辺り一面光に包まれる。
かくして2人は出会い、そして生活費を稼ぐべく陽菜は「晴れ女」として活動し始める。
2人の「ビジネス」は軌道に乗っていくが、それに比例して陽菜の身体には異変が起こり始める・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:新海誠
- 原作:新海誠
- 脚本:新海誠
- 企画:川村元気
- プロデュース:川村元気
- キャラクターデザイン:田中将賀
- 作画監督:田村篤
- 美術監督:滝口比呂志
- 撮影監督:津田涼介
- 音楽:RADWIMPS
- 主題歌:RADWIMPS&三浦透子
まず、原作・監督・脚本を務めるのが新海誠さんです。
個人で製作した短編「ほしのこえ」がアニメファンの間で高い評価を受け、その後『雲の向こう、約束の場所』や『秒速5センチメートル』など次々に素晴らしいアニメ作品を世に送り出してきました。
ちなみに当ブログ管理人のお気に入りは『雲の向こう、約束の場所』です。
少年少女の物語と世界の運命をリンクさせるセカイ系の作品で有名になった一方で、『秒速5センチメートル』や『言の葉の庭』のような私小説チックな作品にも定評があります。
今回の『天気の子』については前作同様セカイ系ジャンルの作品になりそうです。
そして企画・プロデュースには、こちらも前作から引き続き川村元気さんが加わりました。
前作『君の名は』をマーケティング的視点から見て、結末をハッピーエンドに変更させたという噂もあったりなかったりという彼ですが、ヒットメーカーとしての才能に疑いの余地はありません。
そしてキャラクターデザイン以下のスタッフも基本的には前作から続投という印象ですね。
また、主題歌・劇伴音楽についても前作同様RADWIMPSが担当しています。
新海監督作品において音楽は非常に重要なパーツですので、2作品続けて起用ということは監督自身も相当気に入っているんでしょうね。
- 醍醐虎汰朗:森嶋帆高
- 森七菜:天野陽菜
- 本田翼:夏美
- 吉柳咲良:天野凪
- 平泉成:安井
- 梶裕貴:高井
- 倍賞千恵子:冨美
- 小栗旬:須賀圭介
前作『君の名は』公開時は上白石萌音さんがニューヒロイン的な感じで一気に知名度と人気を高めましたが、今作の醍醐虎汰朗さんと森七菜さんはそれに続けるのでしょうか。
予告編のボイスアクトを聞いていた感じでは、それほど悪くないと思いました。
逆に予告編段階で話題になっていたのは本田翼さんでしょうね。
オリコンニュースの記事にて、制作発表会見で新海監督と本田さんの間でこんなやり取りがあったと言われています。
新海:「Vコンテ見ました?」
本田:(ドキッ)
新海:「(Vコンテで自分が演じた夏美から)どんどん違いうキャラクターになっていく。キャストの中で一番、遠いところにいった」「予想もしないアクセント、言い方ばかりが出てきて。すごく楽しいと思います。(観客も)びっくりすると思います、確実に」
褒めているのか貶しているのか正直分からないのですが、とにかく型破りな演技だったことは間違いないようです。
基本的にタレント起用が目立ちますが、予告編段階では演技面に関しては好印象なので期待が持てます。
より詳しい情報を知りたいという方は映画公式サイトへどうぞ!!
『天気の子』感想・解説・考察(ネタバレあり)
セカイ系の物語へのアンサーとして
(C)2019「天気の子」製作委員会
今作を語るにあたって避けては通れないのが、やはり『雲の向こう約束の場所』という作品でしょう。
新海監督の初の長編作品として知られる映画ですが、この作品の構造は極めて『天気の子』に似ています。
『雲の向こう約束の場所』もセカイ系のジャンルに分類される作品であり、少女の存在と世界の運命がリンクしておりどちらを救うのかの選択を2人の少年に迫るというものになっていました。
ただ印象的なのは、物語の帰結です。
この作品でも終盤に2人の少年は、世界ではなく少女を救う決断をし、そのために動き出すんです。
しかし、世界と彼女の両方を救うことに成功したものの、少女は2人の記憶や恋心をも忘れてしまい、結局少年少女が結ばれることはないまま終わってしまうというビターエンドなんです。
小説版は筆者が違うので、正史として扱っていいのかは微妙なところですが、その後2人が交わらずに生きていくことになった経緯や少女の思いなどが綴られています。
そして今回の『天気の子』は物語構造を『雲の向こう約束の場所』に重ねながらもその展開の面で大きな差異を忍ばせています。
少女の運命が世界の運命とリンクしており、世界を救うことと1人の少女の命を救うことを天秤にかけるというシチュエーションそのものは全く同じです。
ただ大きく異なっているのは以下の点だと思います。
- 両方を救う勝算がないのに陽菜を救うために帆高は「向こう側」へ飛び込んだ
- 狂った世界の中で帆高と陽菜は共に生きていく決断をする
まず『雲の向こう約束の場所』では2人の少年は塔へと連れていくことで少女を救い、尚且つ爆弾で塔を破壊して世界の崩壊を防ぐという一応は合理的な両者を救う策を引っ提げて行動を起こしました。
しかし、『天気の子』における帆高の行動はそうではありませんでしたよね。
彼には陽菜か世界かどちらかを選ぶことしかできませんでした。
雨が降り続ける世界で陽菜と共に生きることを選ぶのか、それとも晴れ渡った世界で陽菜なしに生きるのか。
どちらかを選ばなくてはならないという状況に追い込まれながら、彼は前者を選んだのです。
これは『雲の向こう約束の場所』のものとは似ている様で決定的に異なります。
なぜなら帆高は明確に世界の不幸を選択し、そして大勢の人の不幸を選択し、その上で自分が陽菜と生きるという人生を優先したのですから。
そしてもう1つ大きな違いとなっているのが、ラスト2人が共に生きていくという決断をする展開です。
『雲の向こう約束の場所』では、これは原作小説に書かれていたことなので正史として扱っていいのかは微妙なところですが、少女側が「以前の記憶を失った私」と共に生きる少年の苦心を憂慮し、共に生きないことを選択したという背景が描かれています。
ただ『天気の子』では、明確に2人は愛し合い、共に生きていくことを選択します。
さて、これを踏まえて論を展開していくわけですが、私は『天気の子』という作品は新海監督なりの自身が描き続けた「セカイ系」と呼ばれるジャンルに対する1つのアンサーだと思っています。
新海監督が『君の名は』公開の際にインタビューで答えていた一節を以下に引用します。
町は、いつまでも町のままではない。いつかは無くなってしまう。劇中で瀧が入社面接で言った「東京だって、いつ消えてしまうか分からない」という台詞の通りです。そういう感覚の中で僕たちは生きるようになった。そこで描く物語は、今回のように決して諦めずに走っていき、最後に生を獲得する物語にしなければいけない気がしたんです。やっぱり2011年以前とは、みんなが求めるものが変わってきたような気がします。
「決して諦めずに走っていき、最後に生を獲得する物語にしなければいけない気がした」という部分は新海監督の過去の作品と比較しても大きな変化だと思います。
とりわけデビュー作とも言える『ほしのこえ』なんかは典型的な新海監督らしいセカイ系ですが、少年少女の物語は閉塞的で、陰鬱で、そして救われない印象を与えます。
しかし、震災後の物語として新海監督は最後には「生」を獲得する必要があると明確に考えが変化していっているのです。
だからこそ須賀圭介が帆高に「お前たちが世界の形を変えたなんて思い上がるんじゃねぇ。」という言葉を残すんですよ。
これはまさに世界がどうとかそんなことは気にせずに、自分の幸せだけを追求してみればいいんだというまさに自身が描き続けたセカイ系と呼ばれるジャンルへの1つのアンサーです。
ユリイカ2016年9月号を紐解くと、大野真氏が『雲の向こう約束の場所』のラストシーンについてこんな記述を残しています。
日常において自らの「存在の気疎さ」に病めばこそ、互いの夢での感応は生き生きと息づき、現実よりもはるかに実在感のある「居場所」を彼らに確保していた。その夢が消え、愛の記憶も失った彼らは、大きな喪失を抱えたまま、終わりのない日常を生きていくことになるだろう。
(大野真「憧憬の鎮まる場所へ」より引用)
この記述にもあるように、新海監督はこれまでセカイ系ジャンルにおいて、ひたすらに人間の側に悲痛な運命を課し、そして喪失を抱えたまま生きていくことを強いていました。
だからこそ『天気の子』という作品が志向したのは、これまでにセカイの運命と結び付けられ、自分自身の望む人生を送ることが叶わなくなった少年少女たちの解放なんだと思います。
ただそこからもう1つ次のステップへと踏み込めてしまったのが『天気の子』という作品の素晴らしさです。
彼はこれまで自分が描いてきた「セカイ系」と呼ばれる作品に対してある種の自己批判的な視点を須賀圭介というキャラクターのセリフでもって持ち込みました。
しかし、帆高はそんな須賀圭介の言葉を自分の中で反芻しながら否定するんです。
彼は確かに「世界は最初から狂っていたわけじゃない。僕たちが世界を変えたんだ。」と言葉にしました。
そして彼が紡ぎ出した言葉は「大丈夫」という一言でした。
自分たちの選択は確かに世界に影響を与えていて、私たちはたしかに「セカイ系」の運命に翻弄されているけれども、それでも「大丈夫」だと受け入れて見せたわけです。
新海監督は自身が描き続けてきた「セカイ系」を自己批判的な視点で見つめ、そしてその批判をも内包したうえで全肯定して見せたと言えます。
『君の名は』では主人公の2人は世界を変える決断をしたにもかかわらず、その記憶を失ってしまうという形でその決断の責任から解放されてしまっていました。
だからこそ『天気の子』においては自分たちが世界の形を変えたという責任をあくまでも2人に課したうえで、それでも力強く生きていこうと決意する姿を描いたのです。
世界の運命に翻弄される人間として生きるのではなく、世界の運命を翻弄した人間として生きるというところに新海監督は自身の「セカイ系」というジャンルの1つの落としどころを見出したように思えました。
ポスト『君の名は』の作品として
今作『天気の子』は新海監督の前作『君の名は』にも自己言及するかのような物語になっています。
というよりも震災という悲しく、悲惨な記憶にフィクションとして立ち向かい、そして「救い」をもたらそうとする方向性で作られていたように思いますね。
終盤には、隕石の落下から人々を救出し、そしてラストシーンでは瀧と三葉が再会するという純度100%のハッピーエンドを描きました。
ただ『天気の子』を見ていて感じたのは、新海監督は震災から8年以上が経過した今だからこそ、そして自身が『君の名は』という100%のハッピーエンドを描いた後だからこそ描きたいものを描いたという姿勢です。
町は、いつまでも町のままではない。いつかは無くなってしまう。劇中で瀧が入社面接で言った「東京だって、いつ消えてしまうか分からない」という台詞の通りです。そういう感覚の中で僕たちは生きるようになった。
先ほども引用した一節ですが、新海監督は震災以後、私たちはある日突然世界がその形を大きく変えてしまうことがあるという前提に立って活きなくてはなったと捉えています。
その中で、『君の名は』はそんな世界の中でも「ハッピーエンド」をつかみ取るというところに向かって突き進んで行きました。
ただその一方で、この作品に対しては新海監督がこれまで描き続けてきた「喪失感」というテーマが弱くなっているのではないかという声も多くありました。
それ故に、『天気の子』はそれとは全く異なる方向に物語を展開しています。
「東京だって、いつ消えてしまうか分からない」という瀧の言葉が現実のものとなりつつある世界の中で、それでも変化を受け入れて「狂った世界の中で」人と寄り添って生きようとする人間のドラマを描いているのです。
『天気の子』という作品は、フィクショナルな「救い」をもたらそうとしているというよりは、むしろ今の日本を生きていく人に毎日を生きていく勇気をリアリスティックに与えようとしているように見えました。
『君の名は』という悲惨な運命を変えるために全力を尽くす物語を描いたからこそ、新海監督は『天気の子』という悲惨な運命を受け入れ、向き合って生きていく物語を作れたのだと思います。
私たちは今の時代を生きている、それだけできっと何らかの喪失感を抱えている。というよりも震災以後の日本は社会そのものにぽっかりと穴が開いたような喪失感を孕んでいるのです。
だからこそそんな世界で人と人が寄り添って、その喪失感を受け入れながら、埋め合いながら生きていくという道があってもいいはずです。
『天気の子』はまさしくポスト『君の名は』ないしポスト震災の新海監督なりの「喪失感」の物語なのです。
『ライ麦畑でつかまえて』に込められた新海監督の思い
今作の冒頭で何度か帆高がサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいるシーンが描かれました。
この作品では主人公のホールデンが子供の純粋無垢さを愛し、そして大人たちの社会を成立させていくための欺瞞や虚構を憎むという対立軸が描かれています。
面白いのは、本作においては大人たちの欺瞞や虚構を暴き出すために主人公のホールデンに過剰なまでに狂気的な行動を取らせているところでしょう。
当然そんな行動を取っているホールデンは周囲の大人たちからは軽蔑のまなざしで見られるわけですが、それこそが何とか現実に折り合いをつけて建前と欺瞞で生きていこうとする大人たちの姿勢を浮き彫りにするのです。
今作でも大人たちの視点と帆高たち子供の視点を明確に使い分けています。
帆高は自分の「陽菜に会いたい」という純粋な欲求に忠実で、そのためなら手段を選ぶまいと法律違反すらも恐れない行動を起こします。
それに対して劇中の大人たちの視線は冷ややかですし、もっと言うなれば映画を見ている我々の視線もある種、懐疑的なものになっているように思います。
しかし、新海監督は常に子供たちの側に立って、その純粋さと欲求への忠実さを尊重する姿勢を見せています。
子供の夢と大人の現実の対立軸を明確にしながら、前者を常に尊重し、その力を全面的に信じているのです。
その監督の情熱に映画を見ている我々は心を動かされますし、何より劇中の須賀圭介という男の心を動かしました。
彼が警官に「泣いているぞ。」と指摘されたシーンがありましたよね。この時、彼の目からは言いも知れぬ涙がこぼれていました。
まさに欺瞞と建前で本音に蓋をして、何とか現実と折り合いをつけて生きてきた彼が、かつて自分の中にもあった純粋な気持ちを取り戻すことができた瞬間と言えるでしょう。
何気なく冒頭に登場していた『ライ麦畑でつかまえて』ですが、実は物語の構造を示唆する重要なモチーフになっていたんですね。
建前や欺瞞で自分の本当の想いをごまかすのではなく、ストレートに自分の純粋な思いをぶつけ、行動を起こし続けた者にこそ「奇跡」はもたらされるのだという新海監督の視点が伺えました。
15歳という年齢
(C)2019「天気の子」製作委員会
本作のメインキャラクターである帆高と陽菜。2人の年齢はそれぞれ以下のようになっています。
- 帆高:16歳
- 陽菜:15歳
帆高が16歳であるという点は、先ほど挙げた『ライ麦畑でつかまえて』の主人公のホールデンと同じ年齢にしたという意図が考えられます。
そして陽菜は当初17歳であり(来月で18歳)と語っていましたが、実は14歳で来月で15歳であったことが判明します。
思春期の大人への過渡期と呼ばれる時期ではあるのですが、村上春樹氏が『海辺のカフカ』の序文に15歳であることについてこんなことを書いていました。
心が希望と絶望との間を激しく行き来することであり、世界が現実性と非現実性との間を行き来することであり、身体が躊躇と落着との間を行き来する。
つまり何が言いたいのかというと、15歳という時期は多感であり、心が揺れ動きやすいのであり、それ故に2つの対極した世界を行き来することも可能だということです。
新海監督がこの年代の2人の少年少女を主人公に据えたのもまさにこういう意図ではないかと思います。
また村上春樹氏は『村上春樹雑文集』に収録されたエッセイ『柔らかな魂』の中で以下のように綴っています。
僕が少年の物語を書こうと考えたのは、「変わりうる」存在であり、その魂がまだ一つの方向に固定されていない、柔らかな状態にあるからだ。彼らの中には価値観やライフスタイルみたいなものはいまだ確立されていない。しかしその精神はあてもなく自由を模索し、行き惑い、身体は激しい速度で成熟を目指している。僕はそのような、魂が揺れ動き変動する状況を、フィクションという入れ物の中で細密に描いてみたかった。
『柔らかな魂』(『村上春樹雑文集』より)
身体は確かに止まることなく「大人」へと向かって行きますが、精神は必ずしもそうではありません。
大人になることに戸惑い、子供でありたいと立ち止まることもあるでしょう。それはまさに精神が「柔らかい」状態なのです。
新海監督は2人の少年少女だけが知る世界の秘密という設定で物語を展開しようとしましたが、2人にだけそんな現実と矛盾するような空想染みた世界が見えているのは、まさに彼らの精神が「柔らかい」からです。
大人になると、魂は固まって1つの方向に固定されてしまいます。
だからこそ『天気の子』に登場する警察、法律、社会制度といった要素は、大人を象徴する事物であり、子供を社会に適応する形で1つの方向に規定しようとしてきます。
それでも2人は自分たちが世界を変えたんだという「真実」を信じて生きていこうと決心します。
終盤に帆高が18歳になっているという事実は実に示唆的です。18歳は私たちの国でも「大人」と見されるようになる年齢です。
誰もが現実という1つの方向に向かって生きていく「社会=ライ麦畑」にも、そんな純粋な心を持った少年少女の居場所はあるべきだ、間違いなくあるはずなんだと新海監督は2人を全力で肯定したのです。
新海監督と雨の表現
(C)2019「天気の子」製作委員会
これまでの作品をご覧になってきた方は当然ご存知のことと思いますが、新海監督の作品における1つの重要なモチーフが「雨」です。
彼は、この「雨」の表現に並々ならぬこだわりを見せていますし、作品を追うごとにその映像表現は進化しています。
とりわけ「雨」の表現が印象的なのは、やはり『言の葉の庭』という作品になるでしょう。
東京の高層ビルが立ち並ぶ無機質な風景とそこに降り注ぐ「雨」がタカオとユキノの孤独を際立たせています。
またこの作品に置ける2人の関係を新海監督は「雨宿り」と評しているんですね。
この言葉からも新海監督は「雨」にたいしてはどちらかというとネガティブなニュアンスを含ませているように見受けられます。
前作の『君の名は』でも中盤過ぎに「雨」が印象的に使われる場面があったが、まさに主人公の瀧の心理的な不安を象徴するかのようなタイミングで降り始めました。
新海監督の「雨宿り」という表現について藤津亮太氏はこんな指摘をしています。
「雨宿り」は仮初めの、やがては解消されるであろう関係だ。そういう意味では本作も「存在していないものの喪失感」を巡る物語であるとはいえる。だが、やがて到来するふたりの別れは、むしろ穏やかな雨上がりの空にも似て、「喪失感」は前向きな未来への期待へと変化している。
(藤津亮太「新海誠らしさとは何か」より引用)
『言の葉の庭』のラストで確かに2人は別れることとなりましたが、その別れがもたらす「喪失感」は、冒頭に2人が抱えていたものとは全く異なり、むしろポジティブな印象を与えるのです。
そして今作『天気の子』についても、やはり新海誠らしい「雨宿り」の物語であるということはできます。
東京でそれぞれに居場所がない帆高と陽菜は身を寄せ合うようにして共に時間を過ごすようになりますが、これはまさに新海監督のいうところの「雨宿り」の関係です。
しかし、今作がこれまでの作品と決定的に異なるのが「雨」が上がることがむしろネガティブなニュアンスを孕んでいるということです。
天気を晴れにすればするほど、陽菜の身体は消失していきますし、彼女が人柱になることで東京は「雨」から解放されました。
そのため帆高が下す決断はむしろ「雨」が降り続く世界のままでいいから、陽菜と一緒にいたいというものでした。
つまりこれまで「雨宿り」という一時的なものとして位置付けられてきた「雨」が恒久的なものへと昇華させ、「雨」が上がるというところにゴールを設定しなかったんですよ。
2人は「雨」が降り続く世界の中で生きていく決断をします。
降り続ける「雨」というのは、まさにこれまでの新海監督同様に孤独、諦め、切なさ、憂鬱、寂しさといった雰囲気を漂わせています。
そんな世界でも君がいれば、陽菜がいれば生きていけるというところにゴールを見出したのは、新海監督作品としても新しいですね。
深化する感情表現と涙
(C)2019「天気の子」製作委員会
新海監督の作品は、しばしば「詩的」であると評されるのですが、今作『天気の子』についてはその演出がさらにアップデートされていたので、お話してみましょう。
まず、冒頭の陽菜が物憂げな表情で、雨が降り続けている外の世界を病院の窓から眺めているシーンですね。
このシーンを見ていると、頭に浮かぶのは良寛和尚の『半夜』という詩でしょうか。
首を回らせば 五十有余年 人間の是非は 一夢の中
山房五月 黄梅の雨 半夜蕭蕭虚窓に灑ぐ
(良寛和尚『半夜』)
「梅雨の時期の夜に、窓辺に座って雨が降っているのを眺めていると、言いも知れぬ孤独感と憂鬱さを感じてしまうよ。」というニュアンスの詩です。
冒頭の陽菜の描写って明確に説明こそ為されませんでしたが、まさにこの『半夜』という詩を可視化したようなシチュエーションです。
死にゆく母の横で窓の外に降り続く雨を眺めていた彼女。そこで天から差し込む「光の水たまり」のような場所を目撃しました。
そう思うと、彼女にはあの時、あの光が自分の孤独感や憂鬱さを拭い去ってくれるような「希望」に見えたんでしょうね。
この演出は、まさに「詩的」と呼ぶにふさわしいものであり、あれを映画の冒頭に持ってくるあたりが新海監督のセンスですよね。
まさにこだわり抜いて製作した美しい風景のアニメーションの中で息づくキャラクターたちが生き生きと自分の感情を露わにしているようなそんな感覚を与えます。
とりわけ今作『天気の子』において新海監督が大幅に深化させたのは「涙」の演出ではないかと思います。
- ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは 清原元輔
例えばこの歌には「袖が涙で濡れている」という表現が登場しています。
これまでに多く詠まれてきた恋の歌において「袖を濡らす」のは「涙」と相場が決まっており、それでいて恋焦がれる思いから涙がこぼれるというのがセオリーです。
ただ日本の和歌においては、ボロボロと涙を流すことは美徳とはされず、ひっそりと涙を流し、それを拭おうとした袖を濡らすというのが美徳とされていたようです。
ラブホテルでの最後の夜に陽菜が帆高との別れを思って流した涙は、まさにこの類のものだと思います。
悲しい別れを前にしてもどこか美しく達観しているような、そんな涙に思えました。
そして別の歌で面白いのが次のものです。
- 朝露に濡れにし袖を干すほどにやがてゆふだつわが袂かな 西行法師
この歌は「朝露に濡れにし袖」というところで先ほどの歌と同様の「涙」を表現している一方で、後半の「ゆふだつわが袂」にて夕立のように激しく泣いてしまう様を表現しています。
これは袖が湿り気を帯びるというような美しい「涙」ではなく、もっと感情をダイレクトに表現してボロボロと泣いているようなそんなイメージになるでしょう。
ラブホテルで夜を明かした翌日、陽菜の不在を知った帆高の「涙」はまさにこちらに当たるものでしょう。
ただただ抑えきれない思いが内から溢れ出して来て、とめどなく泣いてしまうようなそんな激しさを伺わせます。
このように新海監督は今作において恋焦がれる思いからくる2種類の涙を絶妙に使い分けることでより「詩的」な演出を実現しています。
単に悲しいから涙が出るという様を描くのではなく、その風景や状況込みで映像全体で人物の感情にフォーカスすることで同じ「涙」であってもその色を変化させていきます。
また、2人が引き裂かれた後のシーンで実に印象的なのは、空が晴れているというところですよね。
川中美幸さんのヒット曲『遣らずの雨』の中にこんな一節があります。
差し出した傘も 傘も受けとらずに 雨の中へと消えた人 見送れば もう小さな影ばかり 私も濡れる 遣らずの雨
(川中美幸『遣らずの雨』より引用)
この歌でもそうなのですが、日本においては古来より恋愛の歌において、「恋しい人が去ってしまった後に悲しみに暮れ雨の中濡れて佇む女」というのがある種美しいものとされてきました。
そのため歌謡曲や演歌に限らずとも、和歌の中でも雨の中で濡れて悲しむ女性というものが象徴的なモチーフとして扱われることはあります。
ただ面白いのが、今回の『天気の子』では新海監督はまさにその正反対の描写を用いています。
別れた後に取り残されたのは、男の帆高の方であり、空から降り続けていた雨が止み、恐ろしいほどの快晴に恵まれています。
新海監督は帆高に途方に暮れさせるわけでもなく、「涙」を「汗」へと読み替えて、晴れの続く東京でひたすらに走り、彼女を追いかける様を描きました。
さて、『天気の子』においてやはり最も印象的な「涙」と言っても差し支えないのは、終盤での須賀圭介が流した無意識の涙でしょうね。
この歌を考えるにあたって引用したいのはヴェルレーヌの詩です。
巷に雨の降るごとく
わが心にも涙降る。
かくも心ににじみ入る
このかなしみは何やらん?(ヴェルレーヌ『無言の恋歌』より引用)
宮尾孝氏は『雨と日本人』という書籍の中で「心の中に鬱積したものがあるのに、思い切り泣くことができず、いつまでも心が晴れやかにならない状態」のことが「心の雨」であると解釈しています。
まさに須賀圭介があの時流した「涙」って、亡き妻のことを思ってのものでしょうし、彼女に対する思いが心の中に諦めきれないまま堆積しているからこそ心が出血するかのように流れたものでしょう。
また、空は晴れやかなのに、彼の心には依然として「雨」が降り続けているんだという対比もまさしく「詩的」でした。
新海監督は、これまでどちらかというと、登場人物の感情や行動先行で、「涙」という演出を使うことが多かったように思いますが、『天気の子』においてはまさしく「詩的」に映像全体で魅せる「涙」に深化していました。
新海誠と電車
(C)2019「天気の子」製作委員会
新海誠作品の中で実は頻繁に登場するのが「電車」というモチーフですね。
とりわけ印象的なのは『秒速5センチメートル』と『君の名は』の2作品ではないかと思います。
前者においては終盤の2人のすれ違いが2つの電車のすれ違いで表現されています。
列車というモチーフは、しばしば映画や小説の中で登場しモーションのみならず、エモーションつまり心の動きをも表現するものであると批評されます。
例えばハインリヒ・ベルという小説家の『汽車は遅れなかった』という作品では、汽車というモチーフを汽車がレールの上をある点からある終着点まで一直線に向かうものであるという性質を心理描写に活用しています。
この作品は休暇兵が前線に戻るまでの汽車の旅での経験を描いた小説なのですが、まさに汽車というモチーフが戦場という死が時間と共に迫ってくるという兵士たちの定められた運命に対する憂鬱を見事に表現しています。
このように電車というモチーフは、敷かれたレールの上しか走れないという性質が故に人間のエモーションを表現するために使われるのです。
そして『君の名は』の終盤で瀧と三葉は互いに違う電車に乗っているのですが、2人は電車から降りてお互いを探し始めますよね。
あのまま電車に乗ったままであれば2人がすれ違う運命は変えられなかったことでしょう。
つまり、2人は敷かれたレールの物語を辿らなかったが故に再会することができたのです。
そして今回の『天気の子』に話を移していきましょう。
『天気の子』には実は明確に「電車」というモチーフが出てくることはないんです。
ただ終盤に帆高が線路の上を疾走するシーンが用意されていました。
このシーンは新海監督作品のコンテクストで見ても、非常に重要なシーンなんですよ。
それは帆高という少年の真っ直ぐで純粋な思いとそして迷いのない様を視覚的に強調する必要があったからです。
先ほども書いたように線路って基本的に一直線に伸びていて、だからこそその定められた運命を全うするしかないという意味合いを強く持っています。
それを新海監督は逆手に取り、帆高自身に走らせることによって彼の決意の強さを表すための舞台装置にコンバートしたんですね。
ショパンの「雨だれ」が使われた意味
劇中でショパンの「雨だれ」と呼ばれる楽曲が採用されていました。
この曲の作成には、ショパン自身のとある経験が密接に関係していると言われています。
それが女流作家のジョルジュ・サンドとの恋愛です。
当初はかみ合わない2人でしたが、後に意気投合し、2人はマジョルカ島へと逃避行することとなります。
しかしそこでショパンが肺結核を患ってしまい、死の淵へと追いやられます。
そんな病気で生死の境を彷徨っている時に、サンドが不在の時の不安や寂しさを込めたのがこの「雨だれ」という楽曲なのです。
この楽曲が『天気の子』にて使用されることで、作中での帆高たちが雨の中で人知れず抱える孤独が浮き彫りになっていますよね。
伝承や神話を想起させるモチーフ
さて、『天気の子』においてはいくつか民話や神話から引用したのではないかという要素がひたほらと見受けられます。
まずこの作品には幾度となく「龍」というモチーフが登場します。
例えば須賀圭介が取材で訪れた神社の天井に描かれていたのも「龍」ですし、冒頭の占い師の話にも「龍神」が出てきました。終盤の空の上の世界でも巨大な雲の「龍」が現れましたよね。
それは日本において水の神や雨の神が「龍王・龍神」として祀られることが多いからです。
日本とりわけ東洋の神話には、水の神を龍や蛇として登場させるものが多く、だからこそ『天気の子』の劇中でも多く登場したのでしょう。
また、本作の冒頭で陽菜が鳥居をくぐって「晴れ女」に選ばれるシーンがありましたよね。
これも夜叉ヶ池や赤松池の伝説に通じているように思いました。
前者は雨の神である大蛇が、雨を欲している村の田に水を注ぐ代わりに娘を1人「嫁」として連れていくという物語です。
一方で後者は人間の女性が自らの意志で池(水界)へと足を踏み入れ、蛇となり霊界の住人になるという様を描きます。
そう思うと、陽菜が鳥居をくぐって霊界の住人となり、また世界の運命とリンクさせられるという展開は日本の神話や伝説に影響を受けたもののようにも思えます。
一方で陽菜自身の物語はフリードリヒ・フーケの『ウンディーネ』を想起させます。
ウンディーネとは水の精霊なのですが、この作品においては精霊は魂を持たないという設定になっています。
私たちに魂の得られる道は、あなたがた人間の一人と愛でもってぴったり結びつくほかないのです。私にはもう魂があります。言葉で言いあらわすことができないほど愛しいあなたのおかげで魂が得られたのです。たといあなたが私を一生みじめな目に会わせたとしても、私はあなたのことをありがたかったと思うでしょう。
(『水妖記 ウンディーネ』より引用)
ウンディーネとは、精霊であり、人間に愛されることで初めて魂を有することができるんですね。
そう考えると、『天気の子』のテーマが専ら「愛」であり、帆高が「愛」でもって陽菜の存在をこの世界に繋ぎ止めようとする展開であることから陽菜がウンディーネ的であると指摘することができるでしょう。
ウンディーネはフルトブラントという騎士に好意を寄せながらも結局その思いを成就させることできませんでした。
2人の別れを決定的にしたのは、フルトブラントが「水の上でウンディーネを叱ってはいけない」という精霊界の掟を破ったことでした。
そう考えてみると、『天気の子』にも1つ重要な瞬間がありました。
そうです。それは以下のシーンです。
「ねえ、帆高はさ、」陽菜さんの声が、ふっとかすかに低くなる。
「この雨が止んでほしいって思う?」
「え?」
指輪から顔を上げ、陽菜さんが僕を見る。すこしだけ青みがかったその瞳の奥で、なにかの感情が揺れている。でもそれがなんなのか分からず、僕は素朴にうなずく。
「―うん」
その瞬間、まるで空からの返答のように低く雷が鳴った。
(『天気の子』200ページより引用)
小説版の記述を見ると、新海監督が帆高の「雨が止んでほしい」という返答こそが陽菜の運命を決定づけたのだという描き方をしているように思えます。
つまりこの返答こそが、ある種フルトブラントの掟破りに該当するものであり、ウンディーネ的な陽菜を霊界へと連れて行ってしまうことになるトリガーだったのかもしれません。
しかし帆高はそれに対して諦めるのではなく、純粋な「愛」でもって抵抗し、陽菜を取り戻すことに成功します。
ウンディーネ的な悲恋の物語を思わせつつも、帆高という青年の純粋な愛が、物語そのものを動かしていくというと力強さが『天気の子』という作品には確かに備わっていました。
英題に込められた意味とは?
今作『天気の子』の英題は「Weathering with you」です。(英題というよりはサブタイトル的扱いやもしれませんが)
Weatherという「天気」を表す単語が含まれているので、あまり深く考えないで見ると、よくわからないまま納得してしまいそうなタイトルです。
しかし、本編を見てから考えてみると、weatherはむしろ動詞的用法であり意味的には「困難を切り抜ける」の方で用いられていることが明確に伝わってきます。
本記事の序盤に「セカイ系」としての本作の結末について書きましたが、まさに世界の運命を翻弄したものとしての責任を背負って、それでも力強く生きていこうというのが『天気の子』の帰結です。
それ故に、これからの人生を「僕たちは、大丈夫だ。」と思いながら、支え合って、困難を乗り越えながら生きていこうという決意がこの英語のタイトル「Weathering with you」には込められています。
「天気」という単語のイメージが強い単語を入れながら、それを逆手に取ってある種のダブルミーニングにしているところが何とも洒落たタイトルと言えますね。
ラストシーンで陽菜は何を祈っていたのだろうか?
(C)2019「天気の子」製作委員会
さて、最後に映画『天気の子』のラストシーンの気になるあの描写について考えていきましょう。
まず小説版の方の該当シーンの記述を引用しておきますね。
すると、心臓が大きく跳ねた。
彼女が、そこにいた。
坂の上で、傘も差さず、両手を組んでいた。
目をつむったまま、祈っていた。
降りしきる雨の中で、陽菜さんは沈んだ街に向かい、なにかを祈っていた。なにかを願っていた。
(角川文庫『天気の子』より引用)
私はこのシーンには2つの意味があると考えています。
- 陽菜さんは自分の選択を否定していないこと。
- 誰かのためではなくようやく自分のために祈れたこと。
まず、1つ目ですが、普通に考えて彼女がこの場面で祈っているのっておかしいと思うんですよ。
なぜなら陽菜は3年前に東京の地に晴れをもたらすために祈り続けて1度自分の存在をこの世界から失っているんです。
そんな少女がある種の過去のトラウマとも言える出来事を彷彿させるような所作をとっているというのは、通常の人間の心理としては考えにくいものです。
それはもう彼女が過去の自分の行動を、選択を、決断を肯定しているからにほかならないと思うんです。
彼女は確かに帆高に助けられて、この世界に戻って来ることができました。
彼が助けにやって来た時に、迷いながらも彼女は自分を犠牲にして「晴れ」を東京にもたらすという選択を否定しました。
それも含めて彼女は自分が下してきたこれまでの選択の全てを肯定しているんですよ。
だからこそ彼女は東京を晴れにするために誰かのために祈り続けたことも、自分のみを犠牲にして東京を救おうとしたことも、そして帆高と共に戻ることを決意したことも含め、それらすべてが繋がって今の自分があるのだと彼女は知っています。
「祈り」とは願うことではなく、感謝であるとしばしば言われますが、そう考えると、彼女のラストシーンの祈りには今自分がここにいることへの感謝が込められていたのではないかと推察しました。
そして2つ目の誰かのためではなく自分のために祈っているという点ですね。
これは帆高が彼女を救出に向かったシーンに登場した「自分のために願って、陽菜」というセリフにも呼応していると思います。
この時は、帆高も自分が世界を変えたこと、そして自分たちの願いのために世界を犠牲にすることを明確に選択しています。
しかし3年が経過し、彼の考えは揺らいでいます。世界は元々狂っていたはたまたあるべき形に戻りつつあるという「大人な」考えに憑りつかれ、自分の選択を「正当化」しようとしていました。
ただ陽菜はその決断を、選択を忘れてなどいませんでした。
彼女には、もはや天気の晴れにする力などないわけですが、それでもあの時の帆高の言葉通り自分のためだけに祈りつづけてきたわけです。
それ故に、そんな陽菜の姿を見た帆高は自分の選択の意味を思い出し、受け入れることができたわけですね。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『天気の子』についてお話してきました。
新海監督自身が「賛否両論になるであろうものを作った」とお話されていたので、覚悟はしていましたが、今作は相当評価が割れると思います。
とりわけ彼のセカイ系に対する視点のポスト震災における変化がうかがえる内容になっているので予習復習ができるのであれば以下の2作品はおすすめしておきます。
- 『ほしのこえ』
- 『雲の向こう約束の場所』
とりわけ後者は今作の内容を読み解いていく上でも直結しているので、見ていない人はぜひ見ておきましょう。
まさに自身が作品の中で少年少女に課してきたセカイのために運命を翻弄されるという呪縛の中から彼らを解き放つような内容になっており、彼の作品を追いかけてきた人間としては涙が溢れました。
まさにボーイミーツガールに世界が屈した瞬間を目の当たりにしたような、そんな感覚が残っています。
ぜひ皆さま自身の目で確かめて、そして評価してほしい作品です。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。