みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『記憶にございません!』についてお話していこうと思います。
前作の『ギャラクシー街道』がもうびっくりするほどの滑りまくりコメディだったので、公開日に映画館で見て、心が無になったのを覚えています。
『ラヂオの時間』や『THE 有頂天ホテル』は個人的には結構好きな作品なので、三谷さんの作品は好きなのですが、『清須会議』といい『ギャラクシー街道』といい近年の作品はイマイチな印象でした。
初期の頃の作品って、コメディとして面白いだけではなくて、脚本の構成もかなり凝っていて、楽しめていたんですが、とにかく最近はシュールギャグに注力しすぎて、構成に捻りが無くなってきているのが心配です。
ちなみに今回の映画『記憶にございません!』は、三谷さんがかつて脚本を書いたドラマ『総理と呼ばないで』のセルフリメイクの色合いが強いですね。
さて、本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『記憶にございません!』
あらすじ
国民からは史上最悪のダメ総理と呼ばれ、支持率が2%代の総理大臣、黒田啓介はある日演説中に観衆から投げられた石に直撃して記憶を喪失する。
病院で目覚め、自分が誰なのかも分からなくなってしまい、街をさまよっていた彼は、秘書官の井坂らによって官邸へと連れ帰られる。
記憶を失い、自分が内閣総理大臣であることを忘れ、また自分の家族のことすら忘れてしまった黒田総理だったが、それでも秘書官に支えられながら、何とか公務に戻る。
金と権力に目がくらみ、違法献金や大企業との癒着は日常茶飯事だった彼だったが、記憶を失ったことにより、純粋な心を取り戻していた。
記憶を失った彼は、総理大臣としての職務を全うする中で、自分がこれまでにしてきた数々の悪行を突きつけられることとなる。
そして彼は、心機一転、政治を一から学び直し、そして国民から愛される総理大臣に、そして妻と息子から愛される父親になろうと決心する。
しかし、そこには鶴丸官房長官という大きな権力の壁が立ちはだかる。
何とか彼を失脚させ、日本に善良な政治を取り戻すべく、黒田総理は古群というフリーの記者と手を組む。
果たして、黒田総理は日本の政治界に風穴を開けることはできるのか・・・?
スタッフ・キャスト
- 監督:三谷幸喜
- 脚本:三谷幸喜
- 撮影:山本英夫
- 照明:小野晃
- 編集:上野聡一
- 音楽:荻野清子
監督・脚本を担当したのは、三谷幸喜さんですね。
映画ファンの間では、かなり好みが分かれている印象はありますが、日本ではやはりまだまだ人気のあるクリエイターの1人ですよね。
単純に、今日本の邦画実写界で、監督の名前だけでどんなに酷くとも興行収入10億円は確約される方ってほとんどいないと思います。
そういう意味では、前作の『ギャラクシー街道』のような酷評の嵐となった作品ですら、興行収入10億円を超えている彼は配給からは重宝されるでしょう。
その他のスタッフも三谷作品ではお馴染みの面々が集結してますね。
撮影、照明の山本英夫さんと小野晃さんは東宝の大作映画ではよく見かけるお2人ですね。
『三月のライオン』『億男』など大友監督作品にも参加しておられました。
編集には、こちらも三谷流を深く理解している上野聡一さんが加わりました。(彼の作品はいつも編集がテレビドラマっぽいのが逃げてではあるんですけどね・・・。)
劇伴音楽は三谷監督作品に何度も携わってきた荻野清子さんが手がけています。
- 黒田啓介:中井貴一
- 井坂:ディーン・フジオカ
- 黒田聡子:石田ゆり子
- 番場のぞみ:小池栄子
- 寿賀さん:斉藤由貴
- スーザン・セントジェームス・ナリカワ:木村佳乃
- 山西あかね:吉田羊
- 大関平太郎:田中圭
- 南条実:寺島進
- 黒田篤彦:濱田龍臣
- 近藤ボニータ:有働由美子
主人公の黒田啓介を演じたのは、中井貴一さんです。
温厚なおじさんというイメージが強い俳優なだけに、悪態をつき傲慢の塊のような彼の演技がギャップでグッときましたね。
記憶を喪失して右も左も分からないままに、オロオロと日常の業務に取り掛かろうとする彼の演技はやっぱり上手いですし、コミカルな演技が抜群にできますよね。
そしてもうイメージまんまの役をあてがわれているのがディーン・フジオカさんですね。
その他、女性キャスト陣も非常に充実しており、斉藤由貴さんがまた良い味を出していました。
あとはキャスターの近藤ボニータ役を演じた有働由美子さんにはめちゃくちゃ笑わせてもらいましたね。
より詳しい情報を知りたいという方は、映画comのサイトなどもチェックしてみてください。
『記憶にございません!』感想・解説(ネタバレあり)
あえて幼稚に仕上げた政治劇
(C)2019 フジテレビ/東宝
今作『記憶にございません!』は観客の巻き込み方は非常に巧いと思いましたし、またあえて幼稚に作ったことで皮肉が効いた内容にはなっています。
まず、本作の一番最初のシーンは記憶喪失に陥った黒田啓介が病室で目覚めるシーンでしたよね。
一番最初に「目覚め」のシーンを持ってくるというのは、ある種のフィリップ・K・ディック的な演出でもあります。
ベッドわきの情調オルガンから、アラームが送ってきた陽気な弱いサージ電流で、リック・デッカードは目をさました。びくっとして起きなおり―急に目がさめると、いつもびくっとなる―マルチカラーのパジャマ姿でベッドから出て、大きく伸びをした。
(フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』より引用)
このいわゆる「ディック的目覚め」とも言われる演出は、読み手がその作品の世界の中でに「目覚める」ということを意識して作品の一番最初に配置されていたと言われています。
今回の『記憶にございません!』における冒頭の黒田啓介の「目覚め」も実は観客を映画の世界の中へと巻き込んでいく上で非常に効果的な役割を果たしました。
記憶を失ったことで「一般人」と化した総理が自分が誰かも分からないままに、街を彷徨い、街の人に怪訝な目で見られては、最後には官邸へと連行されます。
この冒頭の一連のジェットコースター的な展開に、観客は自分が黒田総理の立場に置かれたかのように錯覚して、追体験することができるようになっています。
それはひとえに本作の冒頭のシーンが「目覚め」のシーンだったからであり、観客を映画の中の世界に「目覚め」させることに成功しているからでもあるのです。
そして本作はそこからポリティカルコメディが展開していくのですが、これがまあはっきり言って雑なんですよね(笑)
しかしですよ、こういう幼稚で普通に考えて古臭く現実的でない世界観にしたことで観客を物語に巻き込むことには成功しています。
というのも『記憶にございません!』という作品の1つの方向性として、記憶を失った「一般人」の男を総理に据えることで、観客が自分がその立場になったらどうするかを想像できるような設計にしています。
だからこそ、観客の大多数がある程度リアルに感じられて、それでいて多少の誇張は感じるような政治の世界を作り上げる必要がありました。
それを追求した結果が、ワイドショーのパッチワークのような政治劇というわけなんです。
逆に言うと、私たちが日常的にメディアから得ている情報、とりわけワイドショーなんかから手に入る政治の情報って割と今作『記憶にございません!』にえがかれているようなことばかりじゃないですか?
- 政治とカネ
- 総理大臣の「おともだち」優遇
- 大企業優遇の政策
- 消費税の引き上げ
- 生活保護の引き下げ
- 野党党首による総理への責任追及
- バリバリ追求する野党の女性党首
- 女性蔑視
- 税金で好き放題やっている総理夫人
- 酔って居眠りをしていた英語を話せない外務大臣
- 高圧的で自国の利益ばかりを追求するアメリカ大統領
- 影の権力者
- 外国の首脳とのゴルフ外交
- 官房機密費の悪用
- スキャンダル
実在の人物には一切関係ないとはしながらも、本作に登場する政治シーンって確かにワイドショーなんかを見ていると、よく見かける映像だったり、情報なんですよね。
しかし、国民の多くが今、政治に関してこういったワイドショーで放送されるある種の「見世物」化した情報にしかアクセスしていないという現状があり、そしてマスコミもより深い政治の世界を報道しようとはしません。
だからこそ『記憶にございません!』がこれほどまでに幼稚に作られているというのは、日本の国民の政治に対する認識やイメージがこの程度のものでしかないことへの皮肉でもあり、その状況を作り出しているメディアへの皮肉でもあります。
アメリカでは、政治は完全に「ショー」と化しており、トランプ政権というのはその典型とも言えます。
アメリカでは、比較的公正であると言われるFOXニュースですらニセのニュースを報道し、後に謝罪していたりします。
また国民がそんな「ショー」を臨んでいるような節があり、2016年には大統領選に際して公開された政治記事の中で、情報を正しく伝えた記事よりも「教皇フランシスコがドナルド・トランプを支持」「ヒラリーがISISに武器を売却した」といったフェイクニュースが圧倒的に読まれていたのです。
カート・アンダーセンの『ファンタジーランド 狂気と幻想のアメリカ500年史』においては次のように語られています。
トランプは大人になってからずっと、いつか政治のショービジネスに参入すると息巻いていたが、実際に参入を果たすと、前例のないキャラクターを演じた。滑稽なほどに人工的に日焼けをした、悪態好きの喜劇俳優としての大統領候補だ。髪は笑劇の道化役者のように金色に染め、臆面もなく偽物っぽさを晒して、パティシエがホイップしたかのような形にまとめている。大統領や候補者として成功するには、しばらくの間エンターテイナーにならなければならないが、トランプは徹底的にそれをやり抜いた。
(カート・アンダーセン『ファンタジーランド 狂気と幻想のアメリカ500年史』より引用)
ドナルド・トランプ大統領というのは、現実的な政策が国民に支持されたというより、その非現実的で幻想にすぎないような誇張された政策と、そして「ショー」を演じ切ることで生まれたキャラクター性が支持されたといっても過言ではないというわけです。
このようにメディアは政治を「ショー」に変えてしまいますし、国民がそれを求めることで、その方向へと加速していきます。
アメリカではまさにこの状況が長年にわたって起こっているとカート・アンダーセンは指摘しましたが、日本でも同様のことが起きているのは自明です。
だからこそ三谷監督は極めて意図的に、「面白政治ショー」を描いたのだと思いますし、ワイドショーの映像のパッチワークを作り上げたのだと思います。
今作が見せている「幼稚な政治劇」というのは、私たちが見ている「ショー」を体現したものなのです。
本作の終盤で、黒田啓介総理は自身の妻と秘書官に起きた不倫スキャンダルを、メディアを巧妙に利用したイメージ戦略でもって払拭します。
これも言わば、政治を「ショービジネス」化する行為ではあるのですが、それによって彼の支持率が上がることはないんです。
この安っぽいメディア戦略に惑わされて、実際的な政治を何も動かしていないのに、支持率が上がるようなことがあれば、それは国民がまだまだ政治ショーに踊らされていることを表象する事実になります。
しかし、今作は「支持率は上がらない」という結末を選びました。
これは、言わば主権者たる国民のあるべき姿なんですよ。メディアが作り出されるイメージに踊らされるのではなく、きちんとどんな政策を実行したのかで判断していく必要が私たちにはあります。
三谷監督が作り出した非現実的で幼稚な政治劇は、それが私たちの大多数の「現実」なのだという皮肉を『記憶にございません!』は痛烈に叩きつけてくるのです。
全てを忘れたかのようにして生きてみる
映画というメディアが描く物語における永遠のテーマは「変化」です。
映画の脚本を書く際に、物語の中で最初と最後で「変化」が生じていない脚本は基本的に評価されません。
だからこそ多くのシナリオライターがどうやって登場人物の心に「変化」を起こし、物語を展開していくのかを必死に考えるのですが、今作はそこを非常に巧く演出出来ています。
とりわけメッセージの出し方は私の大好きな映画『アバウトタイム』に似ているんじゃないかと思います。
この作品はタイムトラベルを舞台装置として扱ってはいますが、最後に打ち出されるメッセージは普遍的で「2回目を生きるように1回目の今日を生きてみよう」というものです。
私たちは目の前のことに必死になり、実は多くのことを見落としているのだということを「タイムトラベル」という舞台装置を用いて炙り出します。
そして、毎日に少しだけ余裕をもって自分の置かれている状況を俯瞰で見ることで、今まで見落としていた日常の些細な「楽しみ」や「幸せ」に気がつけるようになるということがメッセージとして私たちに届けられます。
この作品は、確かに主人公を総理大臣に据え、政治コメディに仕上げているのですが、その物語は非常に黒田啓介のパーソナルなものになっています。
国民からも嫌われ、そして家族からも嫌われている1人の男の壮大な人生やり直し劇こそが本作のメインプロットなのです。
私たちは、映画の物語の中で「変化」を選び、前に進んでいく人たちを見ながら自分も変わりたいと思うんですが、その1歩が踏み出せません。
変わりたいと強く願っても私たちがなかなかそうできないのは、自分が「今までに積み上げたもの」があるからです。
私たちは変化することよりも、そんな「積み上げたもの」を一度すべて壊して、そして新しく0から積み上げていくことが怖いんですよ。
三谷監督はそういう私たちが抱いている恐れを、コミカルに払しょくするかようなアプローチで黒田啓介の物語を構築しています。
本作において彼が記憶喪失になっていることを知っていたのは側近の数名ですし、結局のところ彼は記憶を取り戻していました。
つまり、国民や彼の家族にとって黒田啓介という男は、突然傲慢で汚い男から純粋で誠実な男へと変わったというとてつもなく奇妙なイメージなんです。
彼は「記憶を失ったかのように」生きるを実践して見せたのです。
この国の政治的なトップに立つ人間が、それまで積み上げてきたものを一旦無に帰して、そしてそこから新しく国民からの信頼も、そして家族からの愛も勝ち取ろうと決心したのです。
本作の中で「総理大臣は子供たちの憧れでなくては」というセリフがあったりもしましたが、本作はそんな総理大臣の生き方に普遍的なメッセージを込め、私たちに伝えようとしています。
「記憶にございません!」という言葉は、私たちがワイドショーで見ている政治家たちが、自分たちの起こした不祥事を揉み消そうとして用いる発言です。
なぜ彼らがそんな発言をするのかと言えば、それはひとえに自分が今までに築き上げてきた実績、キャリアそしてプライドが崩壊していくのが怖いからです。
そのために、保身に走るわけですが、そうではなくて素直に間違いを認め、自分が積み上げてきたものを一旦ゼロにして、そこから「記憶を失ったかのように」改心して生きるという勇気を持つべきなんです。
近年、SNSの発達や週刊誌などのゴシップの発達により人の過去のことを長年にわたって遡り、やり玉に挙げられそうなことを掘り起こしては、その人の名誉失墜のために利用するという光景がしばしば見られます。
そういう風潮は、いくら改心して今を必死に善良に生きていても、過去の小さな過ち1つでその「変化」を否定してしまうというような危険性をも孕んでいます。
だからこそ三谷幸喜監督は、自分の過去の過ちを認めたうえで、その人がそれまでの「記憶を失ったかのように」生きるという行為は肯定されるべきだとこの映画で伝えたいのではないでしょうか。
彼は政治家たちの保身の象徴とも言える「記憶にございません!」という言葉を、人が「変化」しようと一歩踏み出すための「合言葉」に変えようとしたのだと私は解釈しました。
本作のラストが国民というよりも自分の一番身近な家族という存在に、その「変化」が受け入れられるところだったのも非常に良かったですね。
こういうメッセージ性を考えても、本作は政治劇というよりも家族映画であり、生き方を考えさせてくれるようなニューマンドラマでもあると思いました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『記憶にございません!』についてお話してきました。
近年の三谷幸喜監督作品の中では、かなり良かった部類に入ると思います。コメディとしては滑っている印象は受けましたが、アイロニックな政治の切り取り方やヒューマンドラマ性は非常に素晴らしかったです。
私が好きな『ラヂオの時間』や『THE 有頂天ホテル』は本当に脚本の構成や伏線の妙がとても綺麗で、物語の終盤に差し掛かるにつれていろいろな物事が繋がっていくという面白さがありました。
その点で近年の彼の作品は、シュールギャグとヒューマンドラマ推しになってきている印象はどうしても受けてしまいます。
今作に関しては、脚本や構成面での面白さは乏しいですが、それ以外の部分で創意工夫を感じられる作りにはなっていたので、「三谷幸喜監督最高傑作」とは決して思いませんが、彼のフィルモグラフィの中でも優れた1本だとは思います。
相変わらずのテレビドラマ的な作りなので、映画館で見る価値がありますかと聞かれると難しいのですが、気になっている方は見に行って損はないと思います。
こういうところ嫌いじゃないです(笑)
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。