みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『宮本から君へ』についてお話していこうと思います。
映画館で予告編を見ていると、底抜けに明るい熱血主人公が仕事も恋も体当たりでぶつかっていくというストーリーだと思っていました。
ただ、ドラマ版を見ていると、そうでもなくて主人公は結構うじうじしがちな性格で、見ていると時折イライラしてくるほどです(笑)
宮本は、仕事も恋も猪突猛進というよりも、自分の中でモヤモヤと悩んで、それを消化できずに自分や周囲の人に当たり、迷惑をかけてしまうという未熟なキャラクターなのですが、どこか憎めません。
ドラマ版は冒頭はラブストーリーなのですが、中盤から一気にお仕事ものに舵を切るので、物語の温度差に驚くのですが、宮本のキャラが立っているので面白いです。
ただ、個人的には序盤のラブストーリーパートが好きだったので、映画版で再び宮本のラブストーリーをやってくれるのは嬉しいです。
最終回のラストはもう衝撃でしたよ(笑)
さて、では本作についてここから詳しく語っていきましょう!
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『宮本から君へ』
あらすじ
ドラマシリーズ序盤では、宮本が毎日の通勤の電車の中で会う美沙子という女性に惹かれ、恋愛関係に発展しそうになるという物語が描かれる。
宮本は美沙子に対して好意を持っているのだが、彼女のことを心から愛せていない自分と、彼氏にフラれた傷心の彼女につけこもうとする自分に嫌悪感を感じ、一歩が踏み出せない。
しかし、ある夜ついに彼は美沙子と結ばれるのだが、その翌日彼女は同窓会に行き、元カレと復縁してしまう。
電話すらないままに一方的にフラれた宮本は彼女に激しい憤りを覚えるが、一方で彼女が未だに元カレのことを愛していたのを知っていて、一線を越えた自分にも強い怒りを覚える。
けじめをつけようと、彼女に会いに行くが、結局はっきりと決着をつけられないままに別れることとなってしまった。
恋愛にひと段落がついた宮本は仕事に打ち込むようになる。
そんな矢先に、彼の勤める会社の営業のエース神保が独立のために会社を辞める決心をする。
これにより、彼は神保の担当していた取引先を引き継ぐこととなり、共に営業行脚を始める。
そんな時、製薬会社からの大口の仕事が舞い込んできて、ライバル会社の益戸という男と宮本は対決することになる。
裏から根回しされたような姑息な手口で、宮本はそのコンペに敗れてしまう。
納得がいかない彼は、何としてでもその仕事をとってやろうと躍起になり、周囲に多大な迷惑をかけながらも成長していく。
映画版では、ドラマ版のその後の物語が描かれる。
宮本は神保の仕事仲間である中野靖子という女性に好意を寄せるようになる。
しかし、彼女は風間裕二という遊び人と同居していた。宮本は彼を前に「この女は俺が守る」と言い放ち強く結ばれるようになる。
そんな矢先、2人の関係を壊す大きな出来事が起こるのだった・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:真利子哲也
- 原作:新井英樹
- 脚本:真利子哲也 港岳彦
- 撮影:四宮秀俊
- 照明:金子康博
- 音楽:池永正二
- 主題歌:宮本浩次
『宮本から君へ』は一応ドラマ版も真利子哲也さんが手掛けてはいたのですが、ラブストーリーとお仕事ものメインで少し窮屈そうな印象も受けました。
ただ今回の映画版は彼らしさ全開で、もうやりたいことを全力でやり抜いてくれましたね!
真利子哲也さんは2016年に公開された『ディストラクション・ベイビーズ』という暴力映画で大きな話題になった監督です。
何はともあれ、これからの日本映画界を背負っていく1人になるでしょう。
脚本の共著を担当した港岳彦さんは、2017年に『あゝ、荒野』で人間ドラマと暴力性、性描写を見事に融合させた脚本を作り上げた方です。
撮影を担当した四宮秀俊さんは、近年『ミスミソウ』『君の鳥はうたえる』『さよならくちびる』など多くの気鋭の作品にて活躍しています。
また主題歌はドラマ版に引き続き宮本浩次さんが担当しています。
そういう意味でも彼が音楽を担当してくれているというう事実が既に尊いですね。
- 宮本浩:池松壮亮
- 中野靖子:蒼井優
- 風間裕二:井浦新
- 真淵拓馬:一ノ瀬ワタル
- 田島薫:柄本時生
- 小田三紀彦:星田英利
- 岡崎正蔵:古舘寛治
- 真淵敬三:ピエール瀧
- 大野平八郎:佐藤二朗
- 神保和夫:松山ケンイチ
主人公の宮本を演じたのは、池松壮亮さんでうじうじと内向的でありながら、底抜けに真っ直ぐで熱いキャラクターを見事に憑依させていました。
ただ、やっぱり圧倒的な存在感を放っていたのは、蒼井優さんですよね。
特に、拓馬に無理矢理侵されて、その隣で寝ていた宮本が助けてくれなかったという悔しすぎる出来事を噛み締めるあの苦悶の表情は、日本でできるのは彼女だけではないでしょうか。
単に大げさというわけではなくて、彼女の演技にはちゃんと血が通っているので、靖子の耐えがたいほどの心の痛みが見ている我々にまでリアルに伝わってきます。
ドラマ版のキャスト陣は基本的に出番が少なめでしたが、今回ピエール瀧さんが印象的な役どころで出演していました。
ちなみに今作の撮影は彼が薬物関連で逮捕される以前のことだったようですが、改変や再撮影はなしで公開に踏み切ったようです。
より詳しい情報を知りたいという方は、映画公式サイトへどうぞ!
『宮本から君へ』感想・解説(ネタバレあり)
「負け」を噛み締めることのその先の物語
(C)2019「宮本から君へ」製作委員会
本作『宮本から君へ』は基本的にドラマ版があって、そして今回の映画版に繋がるという連続性があります。
ただ、作品の雰囲気がドラマ版と映画版ではあまりにも違いすぎるので、圧倒されたというか、いきなりぶん殴られたような気分でした。
一方で、宮本の成長譚としてはきちんと地続きの物語ですし、その主題性もポストドラマ版のものになっていました。
ドラマ版では、宮本という男が「負け」を噛み締めて、前に進むということを経験として獲得するところまでを描きました。
美沙子にとんでもなく不誠実なフラれ方をした時も、自分のプライドやナイーブさが邪魔をして、きちんと関係を終わらせることができませんでした。
また、仕事での重要な案件を取り逃がした時も、「負け」を認めきれず、そんな自分にイライラして周囲の人間に暴力を振るうこともありました。
それでもドラマ版の終盤では、その重要な案件を何とかして取るべく、誰かのためにではなく自分が納得するために必死で駆け回り、最後にはちゃんと「負け」ることができました。
そして再び言い寄ってきた美沙子にも、関係性が終わったことを明確に伝え、仕事と恋愛に自分が敗れたという事実を東京の夜空を見ながら噛み締めたのです。
今回の映画版は、まさしくその先の物語を描いていました。
宮本は靖子と恋人関係になりますが、ある日取引相手の男の息子が自宅にやって来て、酔って寝ている宮本を尻目に靖子を強姦します。
当然、宮本は怒りを抑えられなくなり、拓馬を打倒すべく喧嘩を挑むのですが、圧倒的な力の差があり、彼は前歯を折られてあえなく敗北します。
彼は自分が負けたんだということを痛感しますが、今回の一件は当然それで終われるはずがありません。
なぜなら、今回は何が何でも絶対に勝たなくてはならない闘いだったからです。
劇中で佐藤二朗演じる大野平八郎がすごく的確なセリフを発していましたが、絶対に負けると分かっている勝負に無謀にも挑む奴は「ずるい」んです。
そこには勝つ覚悟があるわけではなく、圧倒的な力の差にねじ伏せられて、「負け」を噛み締めて、納得したい自分がいるからです。
だからこそ宮本は、拓馬に敗北して、ドラマ版のその先の物語へと進む必要性に駆られます。
「負け」を噛み締めるのではなく、泥臭くても絶対に勝たなくてはならない、この時だけは負けられない。
そんな大きな壁を、どうやって彼が乗り越えていくのかが今回の主題となっていました。
真利子哲也監督と暴力
(C)2019「宮本から君へ」製作委員会
真利子哲也監督は前作『ディストラクション・ベイビーズ』で強烈なインパクトを残しました。
この作品は、まさしく暴力映画と呼ばれるタイプの作品なのですが、その製作にあたりインタビューにて彼はこんなことを言っていました。
暴力とは何かというはっきりとした考えがあったわけではなくて、泰良という人物を通して暴力を描くところで何が見えてくるんだろうというところですよね。暴力は何かというところを言葉にはできなかったですし、いまでもはっきりした答えはないんですけど、答えがなかったからこそ映画で描きたいと思ったのが最初の動機でした。
明確に何か答えがあって、暴力を描いているわけではないということがここには書かれていますね。
ただ私が『ディストラクション・ベイビーズ』を見ていて、感じたのは暴力というものを「人間の弱さの鎧」として、描こうとしているのではないかという点です。
そういう意味でもドラマシリーズの『宮本から君へ』における宮本の暴力性ってまさしくそうで、彼自身の人間としての「弱さ」を象徴するものです。
映画版で宮本が拓馬との一件を、暴力で打ち負かすことで解決しようとするのもまた、彼の「弱さ」なんですね。
そのため、今回の『宮本から君へ』はヒーロー映画というよりは、アンチヒーロー映画なんじゃないか?という見方もできると思いますし、そういう見方ができる点も前作『ディストラクション・ベイビーズ』に通じるところがあります。
先ほどのインタビューの中で監督はこうも述べています。
その情景を思い浮かべたときにやっぱり道徳的な観点からは逸れたことをしているなというのはありました。ただ同時に興奮している自分もあるというところで、暴力というのは何とも捉えがたいわけですよね。
この言葉も『宮本から君へ』を見ると、すごく腑に落ちると思うんです。
なぜなら、宮本が暴力で拓馬をねじ伏せ、「俺の人生はバラ色で、このすごい俺がお前も生まれてくる子供も幸せにしてやる」なんて靖子に告げるシーンはハッピーに見えて、あまりにも恐ろしいからです。
まさしく暴力と勝利に飢えた男がある種の興奮状態というかトリップ状態に陥っている様でした。
真利子哲也監督は一体、本作における「暴力」をどう捉えていたのでしょうか。
それを考えた時に、本作のファーストカットが「鏡」のシーンだったことは1つ大きなヒントになるのではないかと思いました。
父になるための血のイニシエーション
(C)2019「宮本から君へ」製作委員会
今回の映画版『宮本から君へ』の物語の中心にあったのは、「父になる」物語でした。
そして、そのために主人公の宮本が超えなければならなかったのが拓馬というあまりにも大きな壁でした。
本作において、拓馬という存在は何だったのかと考えていたのですが、おそらく若さや未熟さ、そして暴力性を体現する存在だったのではないかと思うのです。
彼は若く未熟な人間であるが故に、自分が暴力を振るい、他人をねじ伏せることが強さなんだと勘違いをしています。
しかし、拓馬という存在は同時に宮本の中に若さや未熟さ、そして暴力性を映す鏡でもあります。
本作の最初のカットは拓馬に喧嘩を挑み、敗北し、公園の洗面台で自分の顔を痛めつける宮本の姿がくすんだ鏡に映っているというものでした。
この冒頭のカットが実に示唆的に機能していて、彼にとって拓馬との戦いというのは、どこまでも自分のためであり、自分の内側にある父親になるために捨てなければならないものたちとの戦いなのです。
だからこそこの映画はファーストカットにあのシーンを選んだのでしょう。
これまでの「負け」続きの人生で、その未熟さで周囲に迷惑をかけ、時には自分に苛立ち暴力性が抑えられなくなる宮本。
ドラマシリーズでもライバル会社の営業マンに思わず暴力を振るってしまったり、最終回では飲み屋で絡まれた男に喧嘩を吹っ掛けたりと暴力が抑えきれなくなる衝動は、これまでにも何度も見せていました。
そんな彼が父親になるために捨てなければならなかったのは、まさにこういう未熟さや暴力性でした。
彼が父親になるための戦いであるという点を強調するという意味で、ピエール瀧さんが演じた真淵敬三というキャラクターは非常に重要でした。
真淵敬三は拓馬の父親であるわけですが、もはや力では息子に圧倒されており、暴力こそが自分の力なんだと過信し、肥大化していく彼をどうすることもできません。
しかし、宮本に「親だったら息子を心中覚悟で信じてやれ。貴様ら親に何が出来る」と言われ、拓馬と本気でぶつかり、大けがを負います。
それでも、息子にボコボコにされて入院しても尚、拓馬のことを「可愛い息子」なんだと、自分は父親なんだと語るのです。
きっと、真淵敬三という男は未熟で、息子を暴力と恐怖で支配してきたのではないでしょうか。
父親になっても、若かりし頃の青臭い価値観や感情を捨てきることができず、それを息子に伝えてしまった。
要は父親になったつもりで、結局は父親になどなれていなかったのが真淵敬三という男だったのだと私は思うのです。
だからこそ、宮本の言葉に感化され、そして拓馬という未熟さと暴力性を体現する存在を何とかして、更生させようと向かって行きました。
真淵敬三にとっても拓馬という存在は自分の映し鏡だったんでしょうね。
彼は、この行動を通して初めて本当の意味で拓馬の父親になろうとしたんですよ。
故に、宮本も自分が靖子のお腹の中の子供の父親になるために、拓馬を避けて通ることはできませんでした。
また、映画『宮本から君へ』のもう1人のキーマンである裕二が、結婚して父親になるためには金が要るんだから、無謀な喧嘩をするくらいなら示談金をもらって、それを生活費・養育費に充てろという現実的なアドバイスを宮本にしていました。
これって確かに合理的な提案だとは思うんです。感情的にどうとかは置いておいて、「負け」を噛み締めて、敗者は敗者なりに今できる最善の選択肢を模索すると考えた時に、こうするしかない一手だとは思います。
しかし、それでは拓馬という自分の中の未熟さと暴力性の映し鏡を「赦す」ことになってしまうんですよ。
そうして金を受け取って、靖子と生まれてくる子供のために充てたとしても、きっと彼は自分の未熟さゆえに失敗するでしょうし、示談金で肯定してしまった自分の中の暴力性に身を滅ぼすことになるでしょう。
そうして彼は、圧倒的な力の差のある相手に真っ向から向かって行き、そして泥臭くも勝利します。
こうして、血のイニシエーションを経て、彼は「父親」になることができたのだと思います。
『宮本から君へ』という作品が何を描こうとしていたのか?という問いが映画を見終わってからも、頭の中をグルグルと渦巻いていました。
そうして出た自分なりの答えですが、この作品が描いたのは「男の出産」ではないでしょうか。
靖子が子を宿し、そして血を噴き出しながら、必死に母親になろうとしている。
そのため、父親になる宮本は、血を流して、自分の未熟さと若さとそして暴力性と決別しなければなりません。
女性が血を噴き出して出産し、母親になるのであれば、父親は自分の「青さ」を血を吐きながら捨て去らなければならないのかもしれません。
思えば、この映画は「死」と「生」のコントラストを絶妙に描いていました。
冒頭に宮本と靖子が最初に結ばれた翌日の朝に、彼女の部屋の金魚が死んでしまいました。
この時、靖子は幸福と不幸はバランスが取れているんだという話をしましたよね。
まさしく本作の物語全体がそうで、女がこの世界に新しい「子供」を産み落とすという「生」の出産をする一方で、男は自分の中の未熟で弱い部分を吐き出すという「死」の出産をしなければならないのです。
そうして2人は恋人同士から母親と父親になるのでしょう。
「俺の人生はバラ色で、このすごい俺がお前も生まれてくる子供も幸せにしてやる」
現代の価値観から考えると、少し古臭く感じられるようなプロポーズの言葉ですが、これまで自分は「バカ」で「弱い」んだと語ってきた彼が、こんな言葉を口にするようになったということだけで、その成長を感じることができました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『宮本から君へ』についてお話してきました。
とんでもない熱量と感情の波が行きつく暇もなく次々に押し寄せてきて、どんどんと体力を持って行かれ、映画を見終わる頃には息切れをしている自分に気がつきます。
それくらいに見ていて「疲れる」映画ですし、観客を作品の中に引き込んでしまうだけの強い引力を持った映画です。
正直、原作の段階でもそうだったようですが、宮本という男に対して共感できるできないは賛否分かれるところだと思います。
私は、正直に言うと、共感はできないのですが、同時に自分の一部を彼の中に見ているような気はしています。
自分の中にある「弱さ」は誰だって他人に見せたくないですし、スマートさを装ってそれを見られないように振舞っていたいものです。
しかし、その自分の抱えるもの同質の「弱さ」を全面に押し出して、泥臭く生きる宮本は、我々に見たくもない自分の「弱さ」を突きつけてくるのです。
そんな宮本から「君へ」と伝えられる、この熱いメッセージ。一体どう受け取ればよいのか・・・。
私もまだ受け止めきれていません。それでも、ぜひ多くの人にこの宮本からのキラーパスを受け取って欲しいと思います。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。