みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね実写映画『惡の華』についてお話していこうと思います。
何故に今頃になって『惡の華』を映画化するんだ・・・?という疑問はありましたが、ファーストビジュアルを見た時に、なんとなく納得させられました。
というよりも仲村さんを実写化して誰が演じるんだよ!という疑問が渦巻いていたんですが、そこに玉城ティナさんという最適解が示されてしまったんですよね・・・。
原作は刊行されていた当時に読んでいて、アニメ版も放送当時にリアルタイムで見て、ロトスコープのあまりにも衝撃的なビジュアルとネタとしか思えないエンディングテーマに笑い転げていたくらいには、この作品はきちんと追いかけてきたつもりです。
そして正直あまり気乗りはしなかったのですが、玉城ティナさん演じる仲村さんがみたいという一心で、公開日に早速見てきました。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
実写映画『惡の華』
あらすじ
山に囲まれた地方都市で閉塞感に窒息しそうになりながら生きる中学2年生の春日高男。
ボードレールの詩集「惡の華」を心の拠り所にし、自分は周りの人間とはどこか違うんだという思いにすがって生きていた。
ある日の放課後、彼はクラスの人気者である佐伯奈々子の体操着を盗み出してしまう。
罪の意識に苛まれる彼だったがが、何とその様子をクラスメイトの仲村さんに見られてしまっていた。
彼女は、春日に体操着のことをみんなに暴露しない代わりに、自分と契約して欲しいと持ち掛けられる。
その翌日、学校で佐伯奈々子とふいに話すこととなり、その際に勢いで行きつけの古本屋にデートに行かないか?と誘う。
彼女は了承し、2人はデートをすることになるが、春日は仲村さんの指令で、佐伯の体操着を中に着た状態で向かうこととなった。
デートの終盤、公園で会話をしていた折に、彼は佐伯さんに告白し、2人は恋人関係となる。
しかし、それを面白く思わない仲村さんは、彼の服にコーラを浴びせかけ、内側に着ている体操着を浮かび上がらせようとする。
仲村に支配されるようになった春日は、次第に彼女の変態的な要求に快感を覚えるようになり、次第に惹かれていく・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:井口昇
- 原作:押見修造
- 脚本:岡田麿里
- 撮影:早坂伸
- 照明:田島慎
- 編集:山本彩加
- 音楽:福田裕彦
- 主題歌:リーガルリリー
まず、監督を務めたのは、ド変態な映画で一部界隈でカルト的な人気を誇る井口昇さんですね。
本作の冒頭のブルマの女子中学生がハードル走をしているところで、全力でお尻を撮りに行ってスローモーションにする演出なんかは井口監督らしさ全開でしたね(笑)
そして脚本を担当したのは、『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない』や『さよならの朝に約束の花をかざろう』などのアニメ作品で知られる脚本家です。
『惡の華』は、アニメ版のシリーズ構成と脚本があまりにも酷くて絶句するレベルだったので、2時間弱の映画でどこまで描けるのかは脚本家の技量が問われますね。
撮影には、『愛の渦』のような過激な映画やその他ピンク映画での撮影で知られる早坂伸さんが加わりました。
一方で、劇伴音楽にはこれまで井口監督作品に何度も携わってきた福田裕彦さんを起用しました。
また、主題歌にはリーガルリリーの『ハナヒカリ』が選ばれています。
- 春日高男:伊藤健太郎
- 仲村佐和:玉城ティナ
- 佐伯奈々子:秋田汐梨
- 常磐文:飯豊まりえ
主演の伊藤健太郎さんはこれまで比較的王道なスイーツ映画に出演している俳優というイメージでしたが、今回の『惡の華』ではまさに「全身皮かぶりの童貞」を見事に演じ切っていました。
そして仲村さんを演じたのが、玉城ティナさんでした。
正直、『惡の華』の「ミューズ」はどこまでも仲村さんなのであって、彼女に適格なキャストを用意できないなら実写版はやるべきではないという意見でしたが、玉城ティナさんを見て納得しました。
それくらいに圧倒的な「仲村さん」でしたし、狂気じみた演技も最高だったと思います。
佐伯さんの方を演じたのは、秋田汐梨さんで、おそらく年齢的には撮影当時まだ中学生だったのではないかと思われます。
ハードなシーンも多い中で、少し玉城ティナさんの存在感に押されている感じはあったものの堂々たる演じっぷりだったと思います。
そして当ブログ管理人が「ネクスト新垣結衣」だと勝手に期待をしている飯豊まりえさんが高校編のヒロインである常磐文を演じました。
正直映画版での出番は少なかったのですが、それでも他2人と女性キャラとは違った雰囲気をきちんと表現できていて、流石だったと思います。
『惡の華』感想・解説(ネタバレあり)
中学編の閉塞感を失わせる構成
(C)押見修造/講談社 (C)2019映画「惡の華」製作委員会
まず、今回の実写映画版『惡の華』について一番原作から改変してあるのが、おそらく作品の構成なんですね。
原作では、中学編があってその後に高校編という時系列通りの描き方をしていたんですが、今回の実写版は少し違います。
「現在」の時間軸は高校編の方に置いてあり、その上でナラタージュ形式で中学編のエピソードがインサートされていくという作品構成に改変してあるのです。
『惡の華』はテレビアニメ版が、中学編にフォーカスしようとしながら、ラストで尺が足りなくなり、最大の見せ場である佐伯さんの本性が露わになるシーンや祭りでの櫓のシーンがダイジェストで消化という汚点を残してくれています。
正直に申し上げると、非常に再構成するのが難しい作品であるということは、間違いないんです。
テレビアニメで中学編だけを描くという趣旨でも上手く描き切れないのに、2時間弱の映画できちんと物語として完成させるのは、至難の業だと思います。
そこで、この映画版がとったのが中学編と高校編を交互に織り交ぜながら、物語を展開していくという手法です。
『惡の華』という作品を高校編の結末までを2時間尺の映画で描かなくてはならないとなったときに、こういう構成にしたくなる理由は非常に良く分かります。
というのも原作を刊行当時に読んでいた人間としても、本作の高校編って「冗長で長いエピローグ」に感じられれてしまう節があるんですよ。
『惡の華』が一番盛り上がるのは、どうしたって中学編のクライマックスなので、時系列通りに描いてしまうと、作品の中盤過ぎ頃に櫓のシーンが配置され、以降の展開がトーンダウンしてしまいます。
これを解消するためには、中学編のクライマックスをできるだけ終盤付近に持って行く必要がありました。
それ故に今回の実写版は、中学編と高校編を交互に展開していくことで、中学編のクライマックスと高校編のクライマックスとの距離を出来るだけ縮めようとしていたのだと思います。
ただ、この構成にしたことで起きた問題は明らかで、『惡の華』の中学編に渦巻いていた不気味なまでの閉塞感と息苦しさが失われてしまったことですよね。
山に囲まれた田舎で静かにゆっくりと神経をすり減らし、絶望していく春日と仲村さんの息苦しさがこの映画からは全くと言っていいほどに伝わってきませんでした。
やはり、中学編を断裁して作品の中に散りばめてしまったことで、明らかに連続性と共に窒息しそうなまでの狂気と閉塞感が失われていて、全体的にあっさりとした物語になってしまったように思えます。
また、2時間尺の映画で高校編の結末まで(全11巻の結末まで)を描こうとしたことで、全体的に展開が駆け足になっていました。
ただ、『惡の華』という作品の見どころはあくまでも「思春期の少年少女の感情」の部分なのであって、出来事ではないということを言っておきたいのです。
つまり感情の部分をゆっくりと煮詰めてドロドロになったものを映画の中で描く必要があるわけですよ。
ただこの実写版って感情を描くということからは逃げていて、基本的に原作の主要な出来事をパッチワークにするだけの脚本になっているので、非常にサラサラとしています。
特に中学編の方の仲村さんと佐伯さんのギトギトでグチャグチャの感情が全く描き切れていなくて、とりあえず2人が登場する主要な場面だけピックアップして回想していますというだけになってるんですよね・・・。
何はともあれ、今回の映画版に関して高校編のクライマックスまで描き切るという点が作品の出来に大きな影響を与えてしまった感は否めません。
いや、しかしですよ、もちろんこの構成にすることで失うものも大きいことぐらいは作り手は理解していたはずでしょう。
そのため、おそらく井口監督や脚本の岡田磨里さんは、どうしても高校編の結末をこの映画で描きたかったのではないかと思うのです。
その理由を考えるべく、原作ではなくボードレールの『悪の華』を少し紐解いてみましょう。
ボードレールの『悪の華』が描く楽園と失墜そして創造
原作を読んでいた頃に影響を受けて、購入して読んでみたんですが、さっぱり意味を理解できず、今回の映画版が公開されるということでちまちまと読み直していました。
その中でいくつか気づきがあったのですが、まずこの『悪の華』に掲載されている詩の中には、夢の世界の美や快楽を讃えるような作品が多く見られます。
例えば『旅のいざなひ』と題された詩の中では、こんな記述があります。
わが兒、わが妹、
夢に見よ、かの
國に行き、ふたりして住む心地よさ。
長閑に愛し、
愛して死なむ
君にさも似し かの國に。
翳ろふそらに
(中略)
かしこには、 ただ 序次と 美と、
榮耀と 静寂と 快樂。
(『旅のいざなひ』より引用)
まさしく夢の中の楽園の風景を詩に閉じ込めたかのような美しい世界観ですよね。
こういった夢の中の世界の美や快楽、栄光などを讃えるかのような作品は他にもあるのですが、そこに共通する1つの視座があります。
それは、「夢」というものはどこまでも幻想でしかないのであり、いつか醒めて苦しい現実に戻らねばならないのだというものです。
同じく『悪の華』に収録されている作品に『シテールの旅』というものがあります。
その詩の中から2つの節を引用してみます。
桃金嬢は綠に、花々は咲き乱れて、永久に
あらゆる民族から尊敬された美しい島。
島を讃へる人々の心に溢れる歎息の漾ふさまは、
薔薇の咲く園生の上の薫のやう、或いはまた
山鳩の絶え間なく囀る聲とも 言へようか。
(『シテールの旅』より引用)
この節はシテール島の栄華について綴っています。
この詩は元々はヴァトーという画家の『シテール島への巡礼』という絵画に影響を受けたとも言われています。
『シテール島への巡礼』
先ほど引用した一節は、まさにこの絵画のイメージとも合致するように思います。
天使が描かれており、美しい島には豊かな人々の生活が確かにあります。
しかし、ボードレールはそこからこの詩を大きく転調させていきます。
―そのシテールが もう今は不毛の土地だ、
鋭い叫びに搔き乱された 石礫の荒野となってゐた。
(『シテールの旅』より引用)
ボードレールはシテール島という土地が孕んだ愛と理想の楽園を、自らの言葉で解剖し、そしてその実は荒廃した土地であり、楽園などとはほど遠い世界だったのだということを表現しています。
このように、ボードレールの『惡の華』における1つの視座として、甘美な夢の崩壊と荒廃した現実の対比という点が挙げられるのです。
更に言うなれば、人はいくら夢を見ていたとしても、いずれは厳しい現実に立ち返らねばならないと訴えている様でもあります。
しかし、一方でボードレールの『悪の華』には自分の苦しい現実を世界に溶け込ませていくような、世界と自分が融合するかのような詩を得意としていることでも知られています。
例えば同書中の『月の悲しみ』という詩においては、ボードレール自身の悲しみが世界と同化し、そして彼の想像力によって月が涙のしずくを零しているという心象風景に昇華されます。
ボードレールが詩というものについて語った言葉の中で有名なのが「可見の全宇宙は、想像力によって、1つの位置と相対的価値が与えられるような、影像と表象の倉庫に他ならない。それは想像力においてが消化し変形せねばならない一種の糧である。」というものです。
つまり彼は、世界を自分の中に取り込み、そして自身の想像力によって自分の世界や宇宙を再構築していこうとしたのであり、それを表現するための手段が詩だったのでしょう。
『悪の華』には数多くの死が収録されており、その1つ1つを読み解こうとするとキリがないのだが、私がボードレールに感じたのは「可視の世界の向こう側」を作ろうとしている詩人なんだということでした。
実写『惡の華』が高校編にまで踏み込みたかったわけ
この『惡の華』という作品には、作中にも登場するボードレールの『悪の華』の影響が当然色濃く見られます。
まず、中学編の中で春日と仲村さんが山の向こうに見ている「向こう側」の世界って言わば、先ほど紹介したボードレールの世界観における「楽園」や「夢」のモチーフに思えますよね。
それ故に、作品の中盤で雨の中自転車に乗って2人で山の向こう側を目指しますが、結局辿り着くことはできません。
というよりもこのシーンで決定的になるのは、シテール島の幻想の崩壊が如く、「向こう側」という楽園の幻想が崩壊していく様です。
2人は「向こう側」という「夢」に囚われ、そこにひたすらに憧れを抱くわけですが、そんなものはないんだと現実に叩きつけられてしまうんですね。
しかし、そこから物語は転調し、春日と仲村さんは「こちら側」に「向こう側」を作るんだということで、2人きりの夏休みを謳歌します。
ここが先ほど述べたボードレールの『悪の華』における「可視の世界に想像力で世界を創造する」という視点にすごく似ていると思うんですよ。
2人は夢を見ることを諦めて現実に立ち返らざるを得なくなりますが、その現実の中に「自分たちの世界」を想像し、そこで暮らすようになりました。
つまり、彼らはクソムシのような現実を、自分たちの想像力で美しい世界へと変えていく決心をしたわけです。
そしてその想像力を否定しようとするのが、言わば佐伯さんというキャラクターです。
(C)押見修造/講談社 (C)2019映画「惡の華」製作委員会
彼女は自らの純潔を春日に差し出し、その身体的快楽で彼を「こちら側」に引き戻そうとしました。
つまり彼の作り出す幻想を否定し、自分の身体という「可視のもの」を駆使して、彼を自分のものにしようと考えたわけです。
結果的に、2人が作り出した世界は無残にも燃やされてしまい、世界に絶望し、自殺を決意します。
可視の世界から離脱して、不可視の死後の世界へと旅立ちたいという思いは、究極の「向こう側」への願望です。
しかし、2人にはそれすらも許されず、「こちら側」で生きることを強要されてしまいます。
このように『惡の華』の中学編は、ボードレールの世界観に強く影響を受けているのだということが伺えます。
ただ、中学編の結末はどう考えても、2人が志向した「不可視のもの」への想像的な眼差しを否定していることになるわけで、ここで作品として幕切れてしまうと、ボードレールの考え方に反することになります。
そこで、必然的に必要になって来るのが高校編という長いエピローグなんですね。
高校編における1つのゴールはズバリ、春日と仲村さんの決別です。(原作では違いますが)
春日は「ふつう人間」に戻り、そして仲村さんは彼に「二度と来んなよ。」と告げ「こちら側」に帰って来ることはできないまま生きていくんだということが仄めかされます。
かつて自分たちの世界を作ろうとした2人のその後の物語が描かれているわけで、1人は現実世界に自分の居場所を見出し、もう1人は今も尚自分の世界を想像し、生きる場所を求めています。
高校編はすごく評判が悪いのですが、やはりここまで描き切ることができなければボードレールの影響を受けた作品としての『惡の華』は完成しないんだと個人的には思っています。
また、原作でこの映画版の結末の後に描かれる春日の夢の話が、本作のボードレール性を証明するパートなんですが、ここを描かなかったのも映画版としてのアンサーなのかな?と思いました。
原作の春日は、常盤との人生を選びながらも、「向こう側」への眺望と希望を捨てきれていないようなそんな複雑な感情を持ちながら生きているということが最後に描かれています。
一方で実写版はかなり明確に、春日の「向こう側」との離別と「こちら側」で生きる決心を描いています。
その違いはあれど、やはり高校編を描くことなしに、『惡の華』という作品は締めくくることができなかったのは自明です。
そういう意味でも、2時間尺の映画で、何とかして中学編とそして高校編の最後まで物語を描き切ろうとした今回の実写版の製作陣は作品性やボードレールの世界観への敬意は評価したいと思いました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は実写映画版の『惡の華』についてお話してきました。
玉城ティナさんを初めとするキャスト陣の熱演が光っていたのが、やはり印象的だったと思います。
作品構成や脚本については、こうならざるを得なかったことに理解は示しますが、明らかに出来事ベース過ぎてドロドロとした感情を描けていなかったのは気になりました。
先ほども述べた通りで、確かに本作は高校編まで描き切らなければ、ボードレールの世界観に裏打ちされた作品としては完成しません。
そのため、何とか展開を早くして、高校編のラストまで詰め込みたいという気持ちも分かりますし、中学編のクライマックスをできるだけ終盤に持って行きたいという目論見も理解できます。
ただこれが『惡の華』なのか?と聞かれると、少し拍子抜けで、何と言うか「向こう側」にあったドロドロでぐちょぐちょの青春譚を、実写版は「こちら側」に引き戻して普通の青春映画にしてしまったような感触すらありました。
そういう作品全体のスタンスが集約されたのが、ラストで「こちら側」に堂々の帰還を果たしてしまう実写版の春日だったのかもしれません。
そういうジレンマを感じつつも、悪くはなかったと言える映画だったと思います。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。