みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですねNetflixにて公開された映画『愛なき森で叫べ』についてお話していこうと思います。
日本が生んだ鬼才は最近商業映画ばかり撮らされて、息苦しそうにしていたので、久しぶりに原点回帰を目指すようなぶっ飛んだ映画を見ることができて良かったです。
ただ、何と言うか彼の過去の作品のハイライトを見せつけられているような印象はありましたね。
神聖化された女子高生の生活と同調圧力、自殺へと至る様は『自殺サークル』を想起させます。
宗教と束縛的な家庭環境は『愛のむきだし』を強く結びつけさせます。
「ボディを透明にする」ための死体の解体シーンはでんでんが出演していることも相まって『冷たい熱帯魚』を思わせます。
冒頭のコインロッカーの描写は『紀子の食卓』を連想させますし、自主映画を作成するグループが登場するという設定は『地獄でなぜ悪い』からの引用に思えます。
さらに言うと、本作のメインキャラクターの1人であるシンについて、園監督は、自身の分身としてこの映画の中に溶け込ませているんだとインタビューでお話されています。
つまり、自主製作映画の撮影に燃えている少年(=園監督自身)が実際に起きた北九州連続殺人事件的なシチュエーションに巻き込まれていくという物語になっているわけです。
そんな作品の主人公を彼の弟子的存在でもあり、彼の助監督を務めたこともある満島真之介さんが演じているのも興味深いポイントです。
今回はそんな謎めいた作品について自分なりに考えてみようと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『愛なき森で叫べ』
あらすじ
愛知県から上京してきた家出少年シンは、突然街で若者たちに声をかけられ、自主映画の撮影に参加することになります。
彼らは自主映画製作にあたり、知人の妙子と美津子に出演してくれるよう依頼します。
しかし、高校時代に恋心を寄せていたクラスメートの死に直面した美津子は、25歳になってもその事件を引きずっており、その申し出に強い拒否感を示します。
そんなある日、美津子の下に1本の電話がかかってきます。
その内容は「10年前に借りた50円を返したい」というもので、村田を名乗る不思議な男からのものだった。
美津子はその申し出に怪しさを感じながらも、会いに行くことを決める。
村田は彼女に対して好意を示し、彼女はそれに戸惑いながらも、徐々に惹かれていき、肉体関係へと発展する。
その様子を陰でこっそりと撮影していたシンたちは、村田という謎めいた男を題材にして1本の映画を撮ろうと考える。
映画を撮るために、もっと彼のことを知ろうと考えたシンたちは、徐々に美津子や村田に接近していく。
すると、ある日彼らに対し、村田から申し出があった。
それは自分についての映画を撮っている君たちに会いたいという内容であり、シンたちはその申し出を承諾し、村田と会うことを決める。
自主映画の撮影に燃える青年たちの物語が実際の殺人事件を想起させる存在と「ミーツ」し、物語は思わぬ方向へと展開していく・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:園子温
- 脚本:園子温
- 撮影:谷川創平
- 照明:李家俊理
- 編集:増田嵩之
- 音楽:加藤賢二
この映画の監督は誰ですというのが分かっていない状態で見ても、すぐに分かるくらいに本作はあまりにも園子温監督の作品です。
やっぱり女性の人物像に対する視点が特徴的ですし、他のどんな監督よりも女優の魅力を引き出してしまっているんだと思いました。
そして彼をこれまでの多くの作品で支えてきた撮影監督の谷川創平さんは今作にも引き続き参加しています。
- 村田丈:椎名桔平
- シン:満島真之介
- 水島妙子:日南響子
- 尾沢美津子:鎌滝えり
- 尾沢アズミ:真飛聖
- 尾沢茂:でんでん
若手女優の登竜門とも言われる園監督の作品ですが、やはり今作も日南響子さんや鎌滝えりさんがぶっとんだ演技を見せてくれています。
鎌滝えりさんは、ほとんど新人に近いのだと思いますが、だからこそ持ちうるピュアな狂気が宿っていて、すごく恐ろしく感じられました。
そして北九州監禁殺人事件の主犯格である松永を準えたキャラクターである村田丈を演じるのは、椎名桔平さんです。
椎名桔平さんってすごく朗らかで、ユーモアあふれる俳優なんですが、笑っている時に目だけが笑っていないように見えて、時々恐ろしく感じられるんです。
本作の村田丈を演じるに当たっては、その人当たりの良さとその裏に見え隠れする狂気が絶妙にマッチしていて、非常に引き込まれました。
そして満島真之介さんはやはり圧巻ですよね・・・。
「事件」の中に積極的に身を投じていくような姿勢を持ちながら、常に1歩引いた場所で俯瞰で自分を眺めているような、そんな人物なのですが、ラスト15分にかけてのスイッチの切り替えに鳥肌が立ちました。
より詳しい情報を知りたいという方は、映画公式サイトへどうぞ!
『愛なき森で叫べ』解説・考察(ネタバレあり)
虐殺事件ミーツ映画監督
(『愛なき森で叫べ』より引用)
記事の冒頭にも書きましたが、愛知県から上京してきて仲間たちと共に「ぴあフィルムフェスティバル」でグランプリをとる!と燃えているシンという青年は若い頃の園監督の分身です。
しかし、この映画の中の世界では、園監督が実際には経験しなかった分岐ルートを辿ることになります。
つまり、それが実際に起きた北九州監禁殺人事件の犯人を思わせる村田という男との出会いです。
シンがそのまま仲間たちと映画に没頭し、「ぴあフィルムフェスティバル」でのグランプリを目指していたら、彼は園監督と同様に8mm映画『男の花道』でグランプリを取っていたのかもしれません。
ただ、本作の中でシンは「本物の事件」の犯人に出会ってしまったわけです。
そしてそれを題材に映画を撮ろうという姿勢は、これまでにも実在の事件を題材にしてきた園監督のそれに重なるのですが、『愛なき森で叫べ』という作品はシンを事件の中の1人として撮る側から撮られる側へとコンバートしていきます。
つまり実際の殺人事件をベースにした映画を撮る側ではなく、殺人事件に自分が内包されてしまうわけです。
それ故に、当然園監督自身が過去に取った冒頭で挙げたような作品たちは明確に「否定」される必要があります。
なぜなら劇中でシンが辿る道というのは、今の園監督が存在しないルートだからです。
『冷たい熱帯魚』も『地獄でなぜ悪い』もそして『自殺サークル』でさえも本作の中で清々しいほどにばっさりと切り捨てられていきます。
映画はあくまでも本物を題材にした「偽物」をフィルムに焼きつけているだけであって、本物と映画の間には途方もない距離があると言えます。
それでも映像の中に「本物」に近いものを描きたいからこそ映画監督は映画を撮り続けるのだと思いますし、それこそ本物に「5億円」の価値があるのであれば、そのうちの「50円」だけでも何とかして映画を通じて伝えたいと考えるのが映画監督の性というものでしょう。
そんな人種が、「本物」に出会ってしまったならば、「本物」を撮ることができるチャンスを手にしてしまったら・・・。
きっと園監督自身は、自分なら「本物」にカメラを向けてしまっただろうと思っているのではないでしょうか。
園子温と女性ヒロイン
園監督の映画と言えば、やはり鮮烈な女性ヒロインが登場するというイメージが強いですよね。
現に『愛のむきだし』をはじめとした作品を世に多く送り出しているわけですが、彼は自身のエッセイである『獣でなぜ悪い』の中で自分の映画の中での「女性像」についていろいろと語っています。
とりわけ園監督は旧来的な男性に都合のいい女性像というものに対して否定的な姿勢を貫いています。
とりわけ結婚、妊娠そして出産というものを中心にして描かれる女性の物語に対して激しい嫌悪感を示しているのです。
『愛なき森で叫べ』の中には印象的に『ロミオとジュリエット』という作品がインサートされています。
家という呪縛に囚われたロミオとジュリエットが、死して「自由」と「永遠の愛」を手に入れるという鮮烈な作品なのですが、なぜか日本の青春ラブストーリーにはアイコニックに取り入れられることが多い作品です。
従来的な価値観に縛られまくりの典型的な王子様とお姫様的な男女のスイーツラブコメが、なぜか『ロミオとジュリエット』を用いて、物語を展開しようとするというある種の矛盾めいた状況を孕んでいるのです。
園監督はしばしば、吉高由里子や二階堂ふみ、満島ひかりらを本物の女優にしたと称されますが、その意見に対して監督自身はむしろ彼女たちに自分は「映画監督」にしてもらったのだと『獣でなぜ悪い』の中で語っています。
そして彼は映画の中で、女性ヒロインを従来的な価値観から解放しようと試みているわけです。
では、そんな園監督が本物の事件の犯人と出会い、今のルートを辿ることがなかったとしたらどうなっていたのか。
そのIFがシンというキャラクターの行動に透けて見えますよね。
シンは本作の中で女性たちに「死」をもたらす存在として機能しています。
というのも本作において彼は『ロミオとジュリエット』という小説を読んでいるわけで、それ故に「死」というものを因習や伝統的な価値観からの解放という風に捉えている可能性があります。
彼は女性を性的に搾取し、虐待する村田という男を嫌悪しており、だからこそ彼に囚われている女性たちに「死」をもたらすことで自由と解放を与えているのです。
それは、映画というツールを持たなかったIFの世界での園監督なりの「女性解放」なのかもしれません。
この点でも本作におけるシンは、本物の事件に出会い、映画の道へと進まなかった園監督のIFとして機能していると思われます。
本作の結末が描く「地獄」の意味とは何だったのか?
この映画のラストは何とも含みを持たせたものになっていました。
だからこそ自分なりの解釈を示してみたいという衝動に駆られたので、お話してみようと思います。
私の考える『愛なき森で叫べ』という作品は、ある種の映画というメディアに対する諦念を突きつける物語です。
それは本作で一番映画に対して情熱を持っていたジェイというキャラクターが一番最初にあっさりと物語から退場させられた点からも明らかに思えます。
映画を撮りたい!「ぴあフィルムフェスティバル」でグランプリをとる!という情熱に燃えるジェイという青年は、首を絞められて殺害され、その様を映画に撮られるという最期を遂げます。
確かにそこには、1つの命が失われるという生々しさが確かにあるのですが、映画というフィルターを通して見れば、それはフィクションの世界の産物になってしまいます。
故に、映画を見る私たちには、仮に現場で「本物」として現存している「死」であったとしても、その本質のごくわずかしか伝えることはできません。
映画に情熱を燃やす青年を映画内映画の中で殺すという強烈なアイロニーが、本作のアンチ映画的な姿勢を明白にしていると言えるのではないでしょうか。
また、これまでも言及してきたように本作は園監督自身のフィルモグラフィーを否定するような作品でもあります。
きっと映画監督は誰しもが「本物」に近い手触りや質感を観客に届けたいと考えていますし、そして彼ら自身がそれに触れたいという強烈な願望を持っているはずです。
だとすれば、その道の先にある究極系はもしかすると本作の中でシンが辿ったルートなのかもしれません。
彼は、カメラ越しに被写体を撮る側の人間から、撮られる側の人間へと移行していき、いつしか自分が「題材」の側に内包されるという道を辿りました。
そして、本作の中でそんなシンと対照的に描かれるのが村田という人物です。
彼がこの物語の一番最初に店員に話しかけていた時の言葉を思い出してみてください。
「俺は映画の脚本家なんだけど、人を殺すときってどういう気持ちか分かりますか?」
「分かりません。経験ないので。」
「男がね、童貞捨てる時と同じなんですって。きっと大したことなくて、こんなもんかぁってね。」
(『愛なき森で叫べ』より引用)
なぜなら冒頭にこんなことを言っている村田は結局1人も殺しておらず、彼は指示を出しているだけの人間です。
つまり彼は「分かりません。経験ないので」と言っている店員の男性と同じで、ただの「童貞」なんですよ。
だからこそ、本気で人を殺したシンという「ヤリチン」には絶対に叶わないのです。
そう考えると、園監督は彼自身を含め、村田というキャラクターにこそ映画監督の本質を投影しているような気すらしています。
本物を本物として届けたいというのは、映画監督の性でしょうが、それは難しいわけで、それ故に村田が劇中で述べていたように、映画監督は「嘘を本気にする半端ない努力」をするわけですよ。
「童貞」なのにも関わらず自分は「百戦錬磨のヤリチン」なんだと言い聞かせて、題材と向き合うしかないわけですね。
映画監督という生き物は、「5億円」の価値がある題材から必死に努力してそのうちの「50円」の価値だけでも見る人に届けようと苦心する生き物なのだと園監督は語っているように聞こえます。
(『愛なき森で叫べ』より引用)
確かにそうとも言えるかもしれません。
冒頭にジェイがこんなことを言っていました。
「映画の世界ならなんだってできるんだよ。東京駅に爆弾を仕掛ける映画だってできる。世界中の女とセックスする映画だって撮れる。マシンガンをぶっ放す映画だってできるんだ。それも合法なんだよ。映画ならなんだって自由なんだ。」
(『愛なき森で叫べ』より引用)
「映画なら」何だってできる、しかし、それが映画でなければただの「犯罪」に成り下がってしまうのです。
その点でシンは本物の「ヤリチン」になってしまったわけで、だからこそ映画の道からは完全に逸脱してしまいました。彼は映画と現実の境界線を見失ってしまったのです。
その点では、対照的なキャラクターである村田は、実は映画監督(とりわけ園監督自身)の実像に近いわけですよね。
森の中での連続殺人事件を実際に起こしたシンとそのニュースをテレビの向こうから眺めている村田。
この構図で、本作の物語の基本構造は全て説明されているといっても過言ではありません。
それを踏まえて、ラストシーンで対照的な2人が辿った道を考えてみましょう。
(『愛なき森で叫べ』より引用)
2人は物語の果てに「ロミオ」に出会うわけですが、シンが出会ったのはあの頃のままの「本物」の「ロミオ」であり、対照的に村田が出会うのは、俗物化した紛い物の「ロミオ」です。
シンは、車で森から去ろうとするときに、『ロミオとジュリエット』の小説を車から投げ捨てました。
本物の『ロミオとジュリエット』を追求する彼に「フィクション」はもはや必要ないからです。
そして彼は道中で、「本物」の「ロミオ」の姿を一瞬垣間見てしまうのです。
だからこそ彼は、その姿を追い求めて森の中へと姿を消していきます。
対照的に森から出てきた村田は、通りかかった車をヒッチハイクし、その車に乗って街へと戻っていきます。
その車を運転していたのが、まさしく俗物化した紛い物の「ロミオ」と言うに値する存在でした。
そうだとすると、シンには森の中で出会った女性が「ロミオ」には見えず、道中で車の外に見かけるという対比が効いてきます。
園監督は『地獄でなぜ悪い』という作品で、「映画作り=幸せな地獄」という視点を打ち出したように見えました。
だからこそ今の園監督自身が見え隠れしている村田という「童貞」は「地獄」行きでなくてはなりません。
「地獄」とはそれすなわち「嘘」を「本気」に見せる努力をする苦しみを味わう必要がある映画の世界のことなのではないでしょうか。
それ故に「本物」を知ってしまったシンは「地獄」には行けません。
これこそが本作『愛なき森で叫べ』が描きたかった「映画」に対するメッセージなのではないかと思いました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『愛なき森で叫べ』についてお話してきました。
実際の殺人事件をベースにした映画でありながら、ほとんど原形がないほどにアレンジしてしまっているので、事件のコンテクストからはある程度切り離して語られ得る映画なのかな?とも思っています。
幾分解釈については多くを見る側に委ねられている作品なので、様々な見方があるとは思います。
私は、シンに園監督が自分自身を反映させているという発言を膨らませて1つこんな解釈もできるのでは?ということで今回書いてみた次第です。
謎の多い映画ではありますが、ぜひみなさん自身の目で確かめて、考えを巡らせてみて欲しいと思います。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。