みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね吉田修一さんの『犯罪小説集』並びにその映画版『楽園』についてお話していこうと思います。
吉田修一さんの『犯罪小説集』には5つの短編が収録されています。
- 青田Y字路
- 曼珠姫午睡
- 百家樂餓鬼
- 万屋善次郎
- 白球白蛇伝
この5つの短編の中で、上記に赤色で着色した『青田Y字路』と『万屋善次郎』の2つの短編を、若干設定を変えつつ1つに繋ぎ合わせたのが、映画『楽園』になっているということですね。
とりわけこの2つの短編はテーマが似ているので、1つの長編物語にするというのは、それほど違和感がないのではないかと思っております。
ただ、今回は映像化されない他の3つの短編もどれも面白くて、ぜひ読んで欲しいという思いはあります。
全く異なる人物と事件を扱っている短編5作にはなるんですが、連作集になっているということで、もちろん1つの主題で繋がった作品たちです。
映画『楽園』を見終わった後にでもチェックしてみてください。
さて、今回の記事では原作とそして映画版についてお話していきます。(映画版については鑑賞後に)
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『楽園 犯罪小説集』
あらすじ
<青田Y字路>
とある田舎のY字路で1人の少女が失踪するという事件が起きる。
住民たちは懸命に捜索するが、用水路の脇に彼女のランドセルが見つかったのみで、遺体を見つけることはできなかった。
住民の1人である五郎は、自分が捜索に参加している時に付き添っていた豪士という青年に、些細なことから疑念を抱く。
豪士はフィリピン系の母親がおり、偽のブランド品販売を行って生計を立てていた。
結局、事件は解明されず月日は流れるのですが、ある日、またY字路で少女が失踪するという似たような事件が起こる。
五郎は、過去の事件のこともあり、真っ先に豪士を疑い、さらにそれに同調した住民たちも彼への疑いを隠さなくなる。
住民たちの同調圧力が彼を追い詰めていき、パニックになった豪士はある行動を取る・・・。
<曼珠姫午睡>
主婦として平穏な暮らしをしていた英里子は、ある日テレビで中学時代の同級生ゆう子が殺人で逮捕されたというニュースを見かける。
中学時代は太っていて野暮ったい少女だったゆう子は卒業後、英里子が想像もしないような人生を送っていた。
facebookを通じて明らかにされていく、彼女の男性とセックスにまみれた人生について調べていくうちに、英里子はなぜかゆう子の人生に引き寄せられていくかのような気分になっていく・・・。
<百家樂餓鬼>
永尾という1人の男がマニラでカジノを楽しんでいた。
彼はすでに大金を失っており、それでもカジノから借金をしてバカラ賭博を続けていた。
永尾は「永尾運輸」という国を代表する運輸会社の御曹司で、一族経営の会社の重役に就き、会社の業績向上に貢献していた。
しかし、仕事に刺激を感じられなくなると、次第に海外でのバカラ賭博に傾倒していき、次第に会社の資本に手をつけるようになった。
<万屋善次郎>
とある田舎の村で養蜂を生業としている善次郎という男がいた。
彼は、村民たちの期待もあり、自分の作る蜂蜜を村の特産品にしようと努力していた。
しかし、彼が役場にその資金援助を要請しに行ったことから雲行きが怪しくなる。
村のリーダー格の男であり、村民からの信頼も厚い伊作という男が、自分を介さずに役場に届け出た善次郎に激高し、彼を実質「村八分」の扱いに処したのだ。
善次郎は彼に謝罪をし、受け入れてもらおうとするが、受け入れられず、結局養蜂も辞めてしまった。
絶望した彼はどんどんと廃れていき、獣のような生活をするようになる。
そんなある日、村でとんでもない事件が起こる・・・。
<白球白蛇伝>
高校時代に甲子園で活躍し、プロからも注目された早崎弘志という青年は、大学に進学し、そこでも活躍するとプロ入りを果たした。
プロで着実に実力をつけ、活躍したシーズンもあったが、けがの影響もあり、若くして引退を強いられてしまう。
幼少の頃より甘やかされて育った彼は、金銭感覚に疎く、受け取った給料を湯水のように使い込み、引退後のことを考えなかった。
引退後、指導者として働き始めるも、金銭トラブルで解雇。その後も金銭トラブルを積み重ね、どんどんと借金は膨らんでいく。
追い詰められた弘志は、ある行動に出るのだが・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:瀬々敬久
- 原作:吉田修一
- 脚本:瀬々敬久
- 撮影:鍋島淳裕
- 照明:かげつよし
- 編集:早野亮
- 音楽:ユップ・ベビン
- 主題歌:上白石萌音
- 主題歌(作詞・作曲・プロデュース):野田洋次郎
『ヘヴンズストーリー』や『8年越しの花嫁』と言った作品は邦画史に残る傑作と言っても過言ではない出来です。
その一方で『64』や『友罪』といったサスペンス系は邦画の悪いところを凝縮したような作りで、正直あまり良くないのです。
また、瀬々監督は邦画史に残る駄作と名高い『ストレイヤーズクロニクル』でも知られています。
このようにかなり作品の出来に幅があるので、全幅の信頼を置くには至っていない監督であり、特にサスペンス系の映画は役者に大袈裟な演技をさせすぎていて、明らかに映画として薄っぺらい出来になっています。
ですので、その流れからすると『楽園』も同じようなテイストになってしまうのではないかと危惧され、不安はありますね。
撮影・照明には少女マンガの実写化作品で知られ、近年の瀬々監督作品常連の鍋島淳裕さん、かげつよしさんが起用されています。
編集には『64』や『三月のライオン』などにも参加していた早野亮さん、劇伴音楽にはヨーロッパでコンポーザーピアニストとして活躍するユップ・ベビンが起用されました。
また、主題歌には野田洋次郎×上白石萌音というコンビが起用されました。
上白石萌音さんは『君の名は。』の時にも思いましたが、本当に声質が良いですよね。
可愛らしいというよりは凛としていて、透き通っています。
月並みな表現ですが、この『一縷』という曲の彼女の歌声を聞いていると星でいっぱいの美しい夜空が目の前にパッと広がるような感覚があります。
- 中村豪士:綾野剛
- 湯川紡:杉咲花
- 野上広呂:村上虹郎
- 久子:片岡礼子
- 中村洋子:黒沢あすか
- 藤木朝子:石橋静河
- 藤木五郎:柄本明
- 田中善次郎:佐藤浩市
中村豪士役には、独特の雰囲気を持つ個性派俳優綾野剛が起用されました。
そして過去の事件で被害者と最後に一緒にいたことに罪悪感を覚えている少女、湯川紡役には杉咲花さんが起用されました。
演技面では申し分ないのですが、役に恵まれていない印象があり、今回の『楽園』が彼女にとってのターニングポイントになって欲しいと祈っております。
その他にも『64』で主演を務めた佐藤浩市さんや今注目の若手俳優である村上虹郎さんなど、脇を固めるキャストも非常に豪華な顔ぶれとなっております。
より詳しい情報を知りたいという方は、映画公式サイトへどうぞ!
『楽園 犯罪小説集』感想・解説(ネタバレあり)
『楽園』というタイトルに込められた意味
(C)2019「楽園」製作委員会
『犯罪小説集』のラストに映画版の監督を務めた瀬々敬久さんの解説が掲載されています。
その中で映画版のタイトルについて次のように述べておられます。
犯罪を巡る犯罪者たち、あるいはそこに踏み込もうとしながらすんでのところで止まった人々、それらの人々全員が何かを求めて、何かを欲して生きているように見えるのが『犯罪小説集』の魅力なのではないか。僕には思えた。よって映画のタイトルは僭越ながらも『楽園』とさせていただいた。
(『犯罪小説集』解説:瀬々敬久より引用)
「楽園」という言葉は、宗教的なイメージが強い言葉です。
平和と繁栄、幸福のみが存在する永遠性を有する土地というイメージですが、これは『犯罪小説集』の世界観とは言わば真逆なんですよね。
人々が自分の人生に苦しみ、周囲の人との関係で悩む中で、ネジが外れ犯罪へと傾倒していく様を描いた本作のどこに「楽園」があるんだろうと思わざるを得ません。
しかし、瀬々敬久監督はそんな犯罪に傾倒していく人たちが「何か」を求めており、その「何か」を「楽園」という言葉で表現しようとしたと語っています。
とりわけ『青田Y字路』と『万屋善次郎』の2つの短編を連動させた作品に『楽園』というタイトルをつけるのは、個人的にも巧いなと思うところがあります。
というのもこの2つの短編は、どちらも田舎の閉鎖的な村を舞台にしていて、そこで暮らす人々の同調圧力が1人の人間を虐げ、追い詰めていく様を描き出しています。
これを考えた時に、確かに犯罪に傾倒する人物が「何か」を求めているというのも事実なんですが、それ以上に田舎の村という舞台性が意味を有してくるように思います。
都会で暮らしている人に多い傾向ですが、田舎では住民が協力して平和に暮らしているというある種の「楽園」的な幻想を抱いています。
しかし、現実はそうでないことも多くて、保守的で閉鎖的なコミュニティも多く存在しており、「よそ者」に対して排他的で、その内側でも気に入らないと「村八分」的な対応をされるというケースももちろんあります。
そしてそのコミュニティの中で暮らしている人たちはと言うと、『万屋善次郎』で描かれたように、自分たちは変わらずに平穏な毎日を過ごしていきたいと思っているわけで、だからこそそれを変革しようとする人・脅かす人を排除しようとします。
彼らは自分たちが平和と繁栄、幸福を維持できる「楽園」を作ろうとしているわけですが、それを実現するにあたって、一部のそぐわない人間を排除することもいとわないという暴力性をも孕んでいるのです。
『青田Y字路』と『万屋善次郎』の2つの短編は、村民が同調圧力による疑念と排除を一部の人間に押しつけ、それにより虐げられた人間が壊れていく様を見事に描いています。
確かに誰だって、「楽園」を求めていますし、この世界にそれが実現したいと願っているはずです。
しかし、その過程で人間という生き物は、自分たちにとって都合の悪い他者を排除し、臭いものに徹底的に蓋をするというアプローチをとってしまうのです。
これは日本だけでの傾向ではありません。
移民が増え、ヨーロッパやアメリカでも移民から自分たちの暮らしや土地、文化を守りたいという主張が強まり、排他的な気風が強まっていますよね。
イギリスでは移民政策への反対が強まったことからEU離脱へと突き進み、ドイツでは移民政策を推進してきたメルケル首相への風当たりが強まっています。
アメリカではトランプ大統領が当選し、移民に対して厳しい措置を取り、国外へと排除する方向へと突き進んでいます。
さらには移民として欧米諸国にやって来た人たちが地域コミュニティの中で虐げられ、絶望を深めていき、暴力や過激思想に傾倒していくことも少なくありません。
つまり、自分たちの「楽園」を作ろうとして、よそ者や気に食わない人たちを排除しようとする排他性と不寛容が暴力やテロリズムを再生産してしまっているわけですよ。
その行動が結果的に、自分たちの「楽園」を壊していることに私たちは気がつかなければなりません。
他者を受け入れること、信じることはどうしたって難しいことです。それでも信じて受け入れる寛容さがなければなりません。
不寛容と排他性、自己責任論が横行する世界だからこそ、考えたいテーマが確かにこの『楽園』というタイトルと、この物語の中には込められています。
一線を越える人間と私たちを隔てるものとは何だろう?
(C)2019「楽園」製作委員会
この『犯罪小説集』に収録されている5つの短編は全て実際の事件をベースにして書かれています。
- 「青田Y字路」栃木小1女児殺害事件(2005年)
- 「曼珠姫午睡」首都圏連続不審死事件(2009年)
- 「百家楽餓鬼」大王製紙事件(2011年)
- 「万屋善次郎」山口連続殺人放火事件(2013年)
- 「白球白蛇伝」清原和博覚せい剤取締法違反(2016年)
「白球白蛇伝」に関しては、最初読んでいた時、斎藤佑樹選手を思い出しましたね。
もちろん彼は現役の野球選手ですが、高校時代に粗削りながらも活躍し、大学に進学して活躍するも、プロ入りしてからは振るわないという経歴は早崎弘志に重なります。
各事件の詳細は皆様の方で調べていただければと思いますが、基本的には『犯罪小説集』の中で描かれている内容を似ていますし、「百家楽餓鬼」は元ネタの大王製紙事件とほとんど同じです。
こんな具合に近年日本を騒がせた事件をモデルにして、本作は書かれているわけですが、読んでいてすぐにリアルの事件が脳裏をよぎるように意図していると思います。
巻末の解説で瀬々敬久監督が書いていたことと重なるのですが、近年の事件を中心に扱ったことで、本作はワイドショーで事件の報道を見ているような感覚に、読者を陥らせます。
そういうテイストの小説だからこそ、描かれる事件が私たちの日常と地続きの世界で起きていることなんだという生々しさを感じますし、確かに犯罪を犯した人間と同じ世界に生きているんだということを痛感させられます。
その中でも特に当ブログ管理人が惹かれたのは、「曼珠姫午睡」という短編ですね。
この短編は、英里子という主婦が、殺人を犯した中学時代の同級生ゆう子に興味を持ち、彼女のことを調べていくうちに自分も「向こう側」に引き込まれそうになるという話です。
中学時代は、太っていて可愛くもなかったゆう子がなぜ男性にちやほやされた挙句に、恋愛関係を巡るトラブルなんかを引き起こすのかという疑問と好奇心から、SNSやリアルで彼女の足跡をたどります。
そうして彼女は、性的なサービスが行われているエステ店で、若い男性セラピストにオイルマッサージをしながら、身体を許しそうになってしまいます。
英里子は、男性を手当たり次第に関係を持っていたゆう子という女性の心情が理解できてしまったのです。
自分の体が、この若い男を興奮させているということに英里子は素直に驚いた。そして驚いたあと、妙な感覚が体中を支配する。それは痺れるような感覚だった。
(吉田修一『犯罪小説集』より引用)
この短編を読んでいると、私たちが犯罪者に対して用いる「一線を越えた」という表現の「一線」などという境界線はもはや存在しないのではないかと思わされます。
誰にだって、ワイドショーの向こう側の犯人側になる可能性があるのではないかという恐ろしさがあります。
しかし、この短編の終わり方がまた素晴らしいのです。
「ごめん。ありがとう。」
英里子は自分でも不思議なほど冷静な声でそう言った。
「いいんですか?」
少し潤んだセラピストの目を、英里子はまっすぐに見つめ返す。そして、
「いるのよ。世の中には『普通の主婦』も」と微笑んだ。
(吉田修一『犯罪小説集』より引用)
確かに、誰にだって「向こう側」の人間になってしまう可能性はあります。
しかし、それでも確かにその境界線のこちら側で人生を全うする「こちら側」の人間はいるんですよね。
きっとそこを隔てる境界線ってすごく曖昧で、明確に言語化できるものではないと思います。
それでも、その見えない境界線を5つの短編で事例を挙げながら、少しでも可視化しようとしたのが吉田修一さんの『犯罪小説集』という連作集なのでしょう。
そしてこの連作集の中には、犯罪者と非犯罪者という対比構造の他に、もう1つ死を選ぶ人間と選ばない人間という対立軸が用意されています。
とりわけ『楽園』の原作になっている『青田Y字路』と『万屋善次郎』の2つの短編は前者で、後者に分類されるのが『百家楽餓鬼』でしょうか。『白球白蛇伝』も後者に分類されるかなと思います。
この4つの短編は、社会や世間から追い詰められていく人間の様が描き、そこから犯罪者として疑われたり、犯罪を犯してしまう展開なんですが、その最後に生きるか死ぬかの2択を突きつけられるんですね。
『青田Y字路』と『万屋善次郎』の2つの短編では、絶望した人間が自死の道を選ぶという悲劇的な物語が描かれます。
一方で『百家楽餓鬼』や『白球白蛇伝』では追い詰められてもなお、生きることに縋りつこうとする人間の姿が描かれます。
この2つを隔てるものって一体何なんだろうか?と考えてみるのですが、それは「本当の絶望の底にいるかどうか」なのかなと思いました。
前者で自死を選ぶ人間は、周囲の人間に裏切られ、誰にも相手にされず、疑われ、虐げられ、孤立してしまいました。
つまり頼れる人もおらず、たった1人で絶望の闇の中に迷い込んでしまったのです。
一方で、後者で生きることを選ぶ人間は自分が他人を裏切った側の人間であり、それでいてまだ彼らのことを信じてくれる人間がいます。
『百家楽餓鬼』のラストが印象的で、人間が本当に死の境界線を見た時に、倫理観も何もかもを捨てて、がむしゃらに生に縋りつこうとする様が鮮烈に描かれています。
この短編の主人公である永尾は、会社の館でカジノをしていたことが明るみに出て、追い詰められているわけですが、妻と共にアフリカで慈善活動に参加しています。
カジノに没頭しすぎて、空腹の極致にいた彼は、いざ空腹で餓死しそうというところまで来た時に、思わず、現地の女の子が配給されて食べていたスープを奪って食べてしまうんです。
この彼の姿に、人間ってなかなか自死の道は選ばないし、必死で生きようとする生き物なんだと思いました。
『白球白蛇伝』でも追い詰められた早崎という男は自死を選ぶのではなく、自分を雇ってくれた恩人に暴力を振るい、彼を脅し取ることで生きながらえようとします。
どんな手段を使ってでも、生に縋るのが人間の動物としての本能なんでしょうね。
しかし、時に孤独や絶望がその本能すら奪ってしまうことがあるわけで、それがまさに『青田Y字路』と『万屋善次郎』で描かれたような登場人物なんだと思います。
映画版『楽園』でも、この生と死の対比は極めて明確に演出されていました。
絶望と孤独に直面し、それでも生きようと思えた紡と、死を選ぶことしかできなかった豪士、善次郎の対比が際立っていました。
とりわけ映画版では、人は人との関わりが無くなってしまうと生きていけなくなってしまうという視座が据えられていたように思います。
豪士はきっとあの村で他の人たちからどんな冷遇を受けようと、母親さえいてくれれば、生きていくことはできたと思います。
善次郎もそうです。彼だって、自分のことを支えようとしてくれていた女性に捨てられなければ、自分の家族の代わりでもあったマネキンを処分されなければ、庭に埋めた母の遺骨を荒らされなければ、きっと生きていけたはずです。
2人は、こうして誰にも受け入れてもらえない存在となり、もはや死を受け入れて、せめて死後の世界では「楽園」にと望むしかなくなってしまうほどに追い詰められ、自殺を選んでしまうのです。
一方の紡は絶望のどん底にいた時に、広呂という存在に救われました。どんなにつらい時にも彼が寄り添おうとしてくれたのです。
そこに死を選んでしまう者とそうでない者の決定的な差があるということでもありますね。
『犯罪小説集』という連作集は「こちら側」と「向こう側」を対比的に描きながら、その境界線をぼんやりと浮かび上がらせます。
そして重要なのは、あなたは自らその「一線」を越えてしまう可能性もあれば、逆に自分が誰かに「一線」を越えさせてしまう可能性があるということです。
ぜひ、この本を読みながら、登場人物と自分を隔てるものは何だろうか?と考えてみてください。
映画版『楽園』が追求した神の視点
(C)2019「楽園」製作委員会
『楽園』の映画の予告編を見ていて、個人的に心配していたのは、邦画特有の大袈裟演技合戦が繰り広げられることでした。
瀬々監督は『友罪』をはじめとした作品で、それをやらかしてきている監督ということもあり、正直不安が大きかったです・
しかし、今回の『楽園』は彼の出世作でもある『ヘヴンズストーリー』を思い出させるような、ドライで客観的な視座が一貫していたように思います。
本作は多様な登場人物の思惑や価値観が交錯する物語になっているのですが、映画としてどのキャラクターに寄り添うというのを一切明示しない語り口になっているのが素晴らしいと思いました。
日本のニューマンドラマに特に顕著なのですが、脚本やプロットに自信がないからか、役者に大袈裟な演技をさせて強引に見せ場を作ろうとするんですよ。
そうすることで、役者の技量だけで見ている人を圧倒し、感動させてしまうことができるので、映画としての出来をある程度ごまかせるというわけです。
ただ、今回の映画版『楽園』にはそういった逃げが一切見られません。
徹底して、ドライな語り口で物語を観客に伝えていくという姿勢を一貫して崩すことがないのです。
それは、この作品が「神の視点」で人間たちの世界を見るという構造になっているからです。
作中では「楽園」を思わせる田舎の陽光差し込む美しい田園風景の映像が何度もインサートされます。
しかし、そこで暮らす人間たちは、人を追い詰め、虐げ、そして邪魔者を排除して仮初めの「楽園」を作り上げようとしているのです。
この様子は旧約聖書の失楽園の物語であるようにも感じられます。
禁断の果実に手を出して楽園を追放されたアダムとイヴ、そして失楽園の後に起きたカインがアベルを殺害するという人類最初の殺人。
人間は、神の視点で見ると、何とも愚かで醜い生き物なのでしょう。
猜疑心や自尊心に踊らされ、不必要に他人を虐げ、排斥し、暴力を振るいます。そしてその跳ね返りとしてまた暴力や殺人が起きるという負の連鎖は客観的に見ていると何とも滑稽です。
しかし、映画『楽園』を通じて、「神の視点」で見つめていたあの醜い人間の世界というのは、まさしく私たちが今生きているこの世界に他ならないのです。
淡々とどの登場人物の心情に寄り添うわけでもなく、出来事と回想を淡々と提示していくのですが、本作のラストに転調が起こります。
それは杉咲花さんが演じた紡が不審者警戒の看板を投げ捨てる一連のシーンです。
それまで人間とは距離を置き、常にドライで客観的な視点を保っていたにもかかわらず、ここで突然本作は紡の物語に寄り添うのです。
そこに見えてくるのは、深い絶望と怒り、悲しみ。今すぐにでも死を選んで楽になりたいというような悲痛な叫びです。
ここまでエモーショナルな演出を一切施してこなかったにも関わらず、ここで一気に役者の演技のギアを変え、感情的になるように誘導してあります。
紡は苦しみながらも、空を見ながら、神に向かって高らかに全ての業を背負って生き抜くことを宣言します。
つまり本作『楽園』は徹底的に神の視点を追求しながらも、ラストシーンにて、突如として人間の視点に切り替えることで、人間がこの絶望的な世界の中で、それでも必死に生きていくのだと高らかに宣言する人間讃歌となっているわけです。
この点が映画版の非常に優れているところだと感じました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は『犯罪小説集』ならびに映画『楽園』についてお話してきました。
映画で採用された2つの短編も素晴らしいのですが、やはり5つの短編がバランスよく、そして主題に還元されるように配列された小説版をぜひぜひ読んでみて欲しいと思っております。
また、特に『楽園』という作品は自分が集団の中の1人として同調圧力に加担し、「みんなで渡れば怖くない」の心理で無意識的に加害者になっているという可能性の恐ろしさを教えてくれる作品でもあります。
また、本作がミステリとして犯人や真相を明確にしない点に、批判がちらほらと見受けられますが、むしろ『楽園』という作品並びに原作の『犯罪小説集』はそこを明確にしないのが良いんですよね。
この映画を見て、何をどう信じるのは、映画を見ている私たちに委ねられているのですから・・・。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。