みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『マレフィセント2』についてお話していこうと思います。
前作が「1回きりの大技」を繰り出した感があるので、その続編と言われてもあまりピンとこないというのが正直なところでした。
「おとぎ話」を解体して、マレフィセントというキャラクターの物語として再構築するという斬新なアプローチだったので、その続編となると難しいんだよね・・・。
ただ、期待値が低かったのもあってか、本編は意外と満足できる内容になっていました。
海外の大手批評家レビューサイトのRotten Tomatoesを見てみると、批評家とオーディエンスでかなり評価に差がありますね。
(Rotten Tomatoesより引用)
批評家層からの評価が芳しくないのは、何となく頷けますね。
脚本はかなり雑ですし、作品としてのメッセージ性も単純明快で捻りがないので、批評家に好かれないのは当然でしょうし、現に「蛇足」だという声が多く挙がっています。
ただですよ、『眠れる森の美女』というおとぎ話から派生してこんな同人誌チックな作品ができるのが、そもそも面白いですし、アクションシーンは結構見応えがありました。
前作が興行収入65億円超の大ヒット作にも関わらず、初日から動員が壊滅的な状況ですが、ぜひ見て欲しい1本ですよ。
さて、ここからはそんな映画『マレフィセント2』についてお話していこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『マレフィセント2』
あらすじ
マレフィセントはかつて愛した人間の青年に裏切られ、激しい怒りから彼の娘であるオーロラ姫に呪いをかける。
しかし、成長していく彼女を見守っているうちに希望を見出すようになり、呪いをかけたことを後悔するようになる。
ただ、彼女は一度かけてしまったその呪いを解くことができず、結局オーロラ姫は永遠の眠りについてしまう。
マレフィセントは、恋愛でも血の繋がりでもない“真実の愛”に目覚め、彼女を呪いから救い出すことに成功した。
数年後、オーロラ姫とフィリップ王子は、めでたく結婚することになる。
フィリップ王子の母イングリス王妃は婚姻を祝う晩餐会にマレフィセントを招待するのだが、それは罠だった。
イングリス王妃の挑発に激高したマレフィセントは騒動を起こしてしまい、その際にジョン王に呪いをかけた犯人に仕立て上げられてしまう。
オーロラ姫はマレフィセントと決別し、王子との城での暮らしを選ぶのだが、伝統としきたりに縛られ、息苦しさを感じるようになる。
一方で、罠にはめられ、心身ともに傷ついたマレフィセントは、同族のダークフィアたちに助けられ、世界の隅で虐げられて生きる彼らの暮らしを目撃する。
イングリス王妃は妖精を殺すための兵器の開発を着実に進め、侵略を計画していた・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:ヨアヒム・ローニング
- 原案:リンダ・ウールバートン
- 脚本:リンダ・ウールバートン ノア・ハープスター ミカ・フィッツァーマン=ブルー
- 撮影:ヘンリー・ブラハム
- 美術:パトリック・タトポロス
- 衣装:エレン・マイロニック
- 編集:ローラ・ジェニングズ クレイグ・ウッド
- 音楽:ジェフ・ザネリ
前作『マレフィセント』ではアカデミー賞美術賞を2度受賞したロバート・ストロンバーグが監督を務めました。
そして続編となる今作では、『パイレーツオブカリビアン 最後の海賊』のヨアヒム・ローニングが起用されました。
正直に言うと、前作はロバート・ストロンバーグの世界観が冴えていた作品でして、そのゴージャスな映像が多くの人を虜にしました。
その点では、やはり監督を変えたことで、映像的な美しさや荘厳さは抜け落ちてしまった印象を受けました。
一方で、美術監督に『バットマンVSスーパーマン』や『ジャスティスリーグ』で知られるパトリック・タトポロスを起用し、アクションパートの派手さはかなり増していましたね。
原案・脚本は引き続きリンダ・ウールバートンが担当しており、物語性については前作から地続きのものになっています。
また、衣装には『グレイテストショーマン』でも知られるエレン・マイロニックが参加し、作品のゴージャスな世界観を彩りました。
- マレフィセント:アンジェリーナ・ジョリー
- オーロラ姫:エル・ファニング
- イングリス王妃:ミシェル・ファイファー
- フィリップ王子:ハリス・ディキンソン
- ディアヴァル:サム・ライリー
今作のマレフィセントを演じるアンジェリーナ・ジョリーはもう美のイデアというような感じで、しかも「萌えキャラ」ですらあるんですよね。
さらに言うと、今作では手負いの状態の彼女が披露するセクシースタイルも見られ、完全に悩殺ですよね・・・。
そしてオーロラ姫を演じるエル・ファニングも前作公開から5年が経過し、成長したことで、可愛いから美しいへと進化したように思います。
当ブログ管理人は、映画を見ながら、来世で彼女が首に着けていたうっすいチョーカーになりたいという思いでいっぱいになりました。
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あとはミシェル・ファイファーの厭な姑感が最高でした!
より詳しい情報を知りたいという方は、映画公式サイトへどうぞ!
『マレフィセント2』感想・解説(ネタバレあり)
『マレフィセント』の続編としては悪くない
近年ディズニーはこれまで自分たちがアニメーションとして世に送り出してきた作品の実写化に熱心です。
その取り組みの黎明期に作られたのが、『マレフィセント』という作品です。
『アラジン』や『ライオンキング』など近年、ほとんどオリジナル版そのままじゃないか・・・という保守的な作品が目立ち、実写化の意義が薄くなってきていますが、『マレフィセント』は趣向が凝らされた作品だと思います。
というのも、『眠れる森の美女』という「おとぎ話」を解体し、マレフィセントというヴィランの物語として語りなおすという少し斬新なアプローチで作られた作品だからです。
みんなが知っているマレフィセントという魔女は、実は悪役などではなく、真実の愛に目覚めた優しい母親だったんだよという「おとぎ話」の向こう側を描き、衝撃を与えたわけです。
そして続編となる今作も『マレフィセント2』も、そのコンセプトをきちんと踏襲した上で作られています。
まず、ペロー版の『眠れる森の美女』には、オーロラ姫が目覚めた後の物語が描かれているというのは、有名な話です。
その中では、彼女が結婚したフィリップ王子の母が、実は食人鬼であり、2人の間にもうけた子供を食べてしまおうとするという恐ろしいエピソードが描かれるのです。
今作『マレフィセント2』は、ペロー版のこのエピソードに着想を得る形で作られています。
ただ、非常に興味深いのが、前作でマレフィセントは真実の愛に目覚め、オーロラ姫を救いましたが、今作の世界観においてはその逸話が流布しておらず、その代わりにマレフィセントは恐ろしい存在なのだという伝説が広められていました。
つまり、前作で「おとぎ話」の向こう側を描いたにも関わらず、権力者によって都合よく書き換えられた「おとぎ話」が広まり、再びマレフィセントはヴィランになっていたということです。
前作で物語的には綺麗に締めくくられていたので、どうやって展開していくのかという点が非常に気がかりではあったので、ここは素直に巧いと思いました。
そして作劇については、前作同様『眠れる森の美女』のキャラクター同人誌的な面白さを追求してくれていたと思います。
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マレフィセントがオーロラ姫の結婚式に行くからという理由で、川に映る自分の顔を見ながら、笑顔の練習してるシーンなんかもう可愛すぎますよね・・・。
終盤のオーロラ姫をバージンロードでエスコートしながら涙を流す、母親としての一面なんかもあんなのズルいですよね(笑)
『眠れる森の美女』の実写版ではなく、あくまでもそのキャラクターを使って魅力的な物語を作るという二次創作的なアプローチが健在で、そこも支持できるポイントです。
人間VSダークフェイという構図で繰り広げられた、攻城戦はスケールがとんでもなく大きく、空に赤い砂が舞い散るという視覚的なビビッドさも相まって、非常に美しくそれでいて見ごたえのあるアクションシーンに仕上がっていました。
プロットに雑さは否めない作品ではありますが、『マレフィセント』の続編としては個人的には十分満足できる内容でした。
「幻想」が蔓延る時代の恐ろしさ
ちょうど『ジョーカー』という作品が公開されている時に、こんな作品が公開されるのが何とも面白いですよね。
良かったらこちらの記事で、アメリカという国の成り立ちと「幻想」の関係について書いておりますので、読んでみてください。
現代アメリカの何が恐ろしいのかと言うと、真実と嘘が同等の価値を持つようになってしまったという点だと思うんですね。
アメリカのメディアの中で公正でかつバランスが取れているとして信頼されているFOXニュースというものがありますが、このメディアですらもフェイクニュースを垂れ流しています。
例えば、コリン・フラエティという広報専門家が『’White Girl Bleed A Lot’: The Return of Racial Violence to America and How the Media Ignore It』という本を出版しました。
これは、黒人が白人に対して暴力を行使した事件を偏向的に集めた、彼女の自費出版であり、事実を歪曲した書籍と言わざるを得ない内容でした。
それにも関わらず、FOXニュースはコリン・フラエティを番組に出演させ、「黒人による白人に対する暴力が見逃されている」という言説を事実であるかのように報道し、他のメディアもそれに追随したことで、フェイクが事実へとすり替えられたのです。
当然、アメリカの白人保守層はこういった情報が大好物ですから、その情報を嬉々として聞き入れ、黒人に対する反発を強めることになりますよね。
「信じるか信じないかはあなた次第です」レベルの都市伝説を、公正を謳うメディアが「事実」として報道してしまうがために、アメリカでは「幻想」が現実と同等の価値を有してしまうのです。
この構造を作り出してしまっているのは、受け手にも問題があり、アメリカでは事実を伝えたニュースよりも扇動的なフェイクニュースの方が圧倒的に多くの人に読まれる傾向があることが分かっています。
そしてそのからくりを巧く利用して大統領になったのが、まさしくドナルド・トランプという人物です。
『マレフィセント2』に登場するイングリス王妃がマレフィセントが悪であるという不安と恐怖を煽る「幻想」を作り出し、人民を支配しました。
彼は現実世界でそれと同様のことを行い、アメリカのトップに上り詰めたのです。
例えば、トランプ氏が選挙戦中にアラバマ州の集会でこんな発言をし、物議を醸しました。
彼は世界貿易センターが崩壊した際に、対岸のニュージャージー州で「何千人ものアラブ人たちが歓声を上げていた」とオフィシャルな場で臆面もなく語ったのです。
もちろんこれは事実ではありませんし、不当に国民の不安や恐怖を扇動し、自分への支持を獲得しようとするための言動です。
しかし、この「幻想」を信じて真に受けた人たちが多くいたわけで、だからこそ彼は今、大統領になっているんですよ。
そして彼がしきりに主張していたメキシコとの国境の「壁」についても不都合な真実がたくさんあります。
そもそも2007年ごろを境にして、メキシコからアメリカへの不法移民の数は毎年のように減少傾向にありました。
アメリカが経済的に後退してきたことにより、雇用が減少し、メキシコからアメリカを目指す人が少なくなっていったわけです。
現に、データを見て見ると、2007年には1220万人ほどでしたが、2017年時点では1050万人まで減少しています。
また、世論調査ではこんな結果も出ていると言います。
2016年8月に行った世論調査では、トランプ氏が不法移民を凶悪犯呼ばわりしていたにもかかわらず、有権者の76%が、「不法移民は米市民と同じくらい正直者で勤勉」と回答。また71%が、「不法移民は米国人が嫌う仕事を代わりにしてくれている」と感謝の意すら示している。
(「不法移民問題の不都合な真実」より引用)
つまりメキシコからの不法移民問題は既にアメリカ国内では下火になりつつあった社会問題なのです。
それを、トランプ氏は不安と恐怖を扇動するための道具として活用し、見事にその「幻想」を流布し、支持を獲得したのです。
『マレフィセント2』という作品は、こういうドナルド・トランプの特性を見事なまでに作品の中に落とし込んでいます。
彼女は幸せな「おとぎ話」を否定し、不安と恐怖を煽る「幻想」を人々に広めることで、自らの支配を正当化し、支持を獲得してきたのです。
結果として、それが戦争を生むことになってしまうのですが、それすらも力でねじ伏せてしまえば良いのだと考えています。
加えて、妖精たちをチャペルに閉じ込めて赤い砂で殺害してしまおうという試みは、明らかにヒトラーがユダヤ人虐殺の際に行ったガス室を想起させます。
幻想が事実を凌駕し、それを信じた人々が相いれない人たちを迫害し、虐げていくという構図が現代には出来上がってしまっています。
そして虐げられた人たちは、当然『マレフィセント2』で描かれたダークフェイのように抵抗しますよね。
不安と恐怖を煽る「幻想」が生むのは、どうしたって争いだけなのです。
そんな現代に「フェアリーテイル」ができること
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当ブログ管理人が記事の中でしばしば話題に挙げる書籍の1冊が岡真理さんの『アラブ、祈りとしての文学』です。
この小説の中で、面白い一節がありまして、彼女が虐殺やテロの最中で、文学はどんな役割を持ち得るんだ?という疑問について書いています。
しかし、その子が実際問題として文学を読めないという事実は、その子が文学を必要としていない、ということを意味するのだろうか。瀕死の床の中で小説が読めたとして、その子は遠からず死ぬ。だが、その子が死ぬことが100パーセント確実であるとして、だから小説はその子にとって無力である、いま小説を読むことがその子にとって何の意味もないと、なぜ、言えるのだろう。
(岡真理『アラブ、祈りとしての文学』より引用)
文学というフィクションは確かに、瀕死の少女の命を救うことはできないでしょう。
彼女はベトナム戦争に出兵したアメリカ人兵士が戦場で『グレイトギャツビー』を読んでいたというエピソードやアウシュビッツを生き抜いたプリーモ・レーヴィが獄中で『神曲』を読んでいたという話を引用しながら、そこに意味を見出そうとします。
この本の中では、小説ないしフィクションの役割を「祈り」や「人の尊厳を保つためのもの」と表現しています。
しかしですよ、先ほどコリン・フラエティという方が著した偏向的で私的な内容の書籍が、メディアを通じて「真実」として流布され、社会に影響を与えるという構造を提示したように、アメリカでは幻想が現実と等価になりつつあるのです。
そうであれば、フィクションが取るべき立場ってもっと重要なのではないかと思うんですね。
確かに近年、アメリカではこの「幻想」を信じ、社会と国民がそれに踊らされ、扇動させる構図に対して批判的な論調が高まっています。
『マレフィセント2』はそんな状況を否定するのではなく、むしろ利用する形で、世界を変えていこうというメッセージ性を孕んだ作品と言えるのではないでしょうか。
つまり、不安と恐怖を煽る「幻想」を信じるくらいならば、信頼と喜び、連帯を煽る「幻想」を打ち立てて、みんなでそれを信じようじゃないか!という姿勢なんだと思います。
前作の『マレフィセント』でも、悪の魔女として恐れられてきたマレフィセントという存在を脱構築し、真の愛に目覚めた人として書き換え、恐ろしい「フェアリーテイル」の印象をがらりと変えて見せました。
そして今作では、「フェアリーテイル」と現実が繋がり、1つになる瞬間を描いています。
恐怖と不安を抱きながら、「幻想」を根拠として他者を排除するのではなく、幸福な「フェアリーテイル」を信じて他者を受け入れるという勇気を示しているわけです。
負の「幻想」が世界を負のスパイラルへと引きずり込んでしまっているからこそ、ディズニーはフィクションを作り出す者の姿勢として『マレフィセント2』において、「フェアリーテイル」に何ができるのか?を突き詰めていたように思います。
本作のラストの異なる種族の生き物たちの融和の描写は少し雑な印象を与えたかもしれません。
ただ、オーロラ姫やマレフィセントといった「フェアリーテイル」を背負ってきたキャラクターたちが、負の「幻想」を打破し、人々に融和と連帯の「フェアリーテイル」とハッピーエンドを伝え、それを信じてみようと思い立つ生き物たちの姿を描いたという点では秀逸です。
『眠れる森の美女』という作品が描いた結末と同じところに着地はしたものの、そこへ至る道のりは大きく異なっています。
『マレフィセント』という作品は2つの作品を通じて、「フェアリーテイルの向こう側へ」というコンセプトを見事に表現していたと思います。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『マレフィセント2』についてお話ししてきました。
素晴らしいメッセージ性が込められた作品だとは思うんですが、ディズニーがそれ言うかね・・・みたいなところはあるんですけどね。
20世紀FOXを買収して、写真を大量に解雇したり、利益の上がらない名作DVDの販売の打ち切りを検討したりと、かなりやりたい放題やっているわけで、そんなディズニーが多様性が大切、手を取り合って共生を目指すと言っても何だか響かないような気はしますね。
ただ、あくまでも作品は作品ですので、そういうディズニーの裏事情と結びつける比津世はありません。
『マレフィセント2』は正直あまり期待していなかったのですが、良い意味で裏切ってくれたと思っています。
今後も、『ムーラン』をはじめとした過去の名作の実写リメイクが続きますが、『アラジン』や『ライオンキング』のような保守的な作品ではなく、これくらい攻めた解釈の作品をもっと世に送り出してほしいものです。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。