みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね『殺さない彼と死なない彼女』についてお話していこうと思います。
当ブログ管理人はスイーツ映画が大好物なので、11月公開のスイーツ枠?に該当しそうな本作を個人的に非常に楽しみにしていました。
正反対に思える相手との関わりの中で自分を見つめて、前を向いて生きていこうともがく青春譚ということで、予告編を見ていた印象も非常に気に入っていました。
そして待ちきれずに原作に手を出してしまったのですが、予想とは全く異なるストーリーに衝撃を受けました。
こんなに切なくて、生きる勇気をもらえる作品だとは思いませんでしたし、可愛らしいイラストと軽い語り口でいて、内面を深く抉るような作劇に読み終わった後もしばらく余韻が消えませんでした。
そういった作品がないというわけではないのですが、本作は4コマ漫画でそれを描いたのが素晴らしかったと思いますし、意外性を生んでいたと思います。
その4コマ漫画のイメージを崩すことなく、その連続の中で次第に登場人物の心情や物語の見え方を変化させていく手法が非常に見事であり、驚かされました。
映画版が、この4コマ漫画というフレームや本作の独特のモノローグをどう映像メディアに落とし込んでいくのかにも注目です。
さて、ここからはそんな『殺さない彼と死なない彼女』について語っていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『殺さない彼と死なない彼女』
あらすじ
きゃぴ子は、自分のことを可愛いと認識しており、全人類から愛されたいと願っている。
しかし、それは自分への自信の無さの裏返しでもあり、自分のことを好きになって欲しいたった1人から愛されないことから、それ以外の全員に好かれるしかないと躍起になっているのだ。
彼女と仲が良い地味子は、本人に自覚はないが美人である。
きゃぴ子の自信過剰な言動に冷めた相槌を打ちながらも、彼女のことを大切に思っており、真の強い女の子だ。
君が代ちゃんは、八千代くんのことが大好きで、毎日のように告白している。
しかし、八千代くんは過去のある恋愛に纏わるトラウマもあり、「好き」に対して奥手であり、彼女の告白を断り続けているのだ。
そして死なない彼女(なな)はしばしばリストカットをし、死にたいと毎日のように考えているが、死ぬことは出来ていない。
一方で、殺さない彼(れい)はそんな彼女に興味を持ち、放課後や休日を共に過ごすようになる。
2人は少しずつ距離を埋め、お互いの存在を大切に思うようになるのだが、そんな2人の関係を一変させる大きな事件が起こるのだった・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:小林啓一
- 原作:世紀末
- 脚本:小林啓一
- 撮影:野村昌平
- 音楽:奥華子
- 主題歌:奥華子
『ぼんとリンちゃん』はTwitterでフォロワーさんにおすすめされて見たんですが、独特のテンポとリズムを持った青春映画で衝撃を受けました。
とにかく会話のテンポ感と間の作り方が絶妙で、とにかく圧倒されましたし、あとはオタクのキャラ作りもすごく巧かったんですよ。
その次の『逆光の頃』はちょっと演出的にも空回りな印象があって、いまひとつだったんですが、今作『殺さない彼と死なない彼女』は『ぼんとリンちゃん』の路線に近い作品だと思いますので期待しています。
そしてそこに「時かけ」のイメージが強いですが、登場人物たちの苦しくも愛おしい青春にそっと寄り添ってくれるような楽曲を奥華子さんが書き下ろしました。
楽曲名は「はなびら」ということですが、その歌詞を聞いていると、非常に作品をしっかりと読み込んだうえで作られた楽曲なのだということが分かります。
- 小坂れい:間宮祥太朗
- 鹿野なな:桜井日奈子
- 地味子:恒松祐里
- きゃぴ子:堀田真由
- 撫子:箭内夢菜
- 八千代:ゆうたろう
- サイコキラーくん:中尾暢樹
まず殺さない彼であるれいを演じたのが、間宮祥太朗さんです。
彼はすごく演じられる役の幅が広いという印象が強いですね。
『帝一の國』のようなコメディから『全員死刑』のようなハードボイルド、そして『ホットギミック』の奥手な青年など様々なキャラクターを見事に演じ分けます。
そして死なない彼女(なな)を演じるのが、桜井日奈子さんです。
『マーマレードボーイ』や『ういらぶ。』などの少女漫画系の映画に出演していますが、今一つインパクトに残らない感があります。
今作が彼女の女優としての評価をグッと高めてくれる作品だといいなぁ・・・なんて個人的には思っております。
その他にも地味子役には、注目の若手女優である恒松祐里さんが起用されました。
今年に入り『凪待ち』や『アイネクライネナハトムジーク』などの話題作に続けて出演し、その演技力が高く評価されています。
その他にも新進気鋭の若手キャスト陣が集結していますね。
より詳しい情報を知りたいという方は、映画公式サイトへどうぞ!
『殺さない彼と死なない彼女』感想・解説(ネタバレあり)
4コマ漫画で描く哲学的な世界観
やはり何と言っても『殺さない彼と死なない彼女』という作品の最大の特徴は4コマ漫画であるという点です。
同じようなメッセージ性の作品を普通のマンガで描くことや小説で描くことはそれほど難しいとは思いません。
しかし、4コマ漫画というフォーマットでそれをやってのけたところに本作の大きな意義が含まれています。
まず、4コマ漫画というメディアは今の若い世代が求めるスピード感とテンポ感を有しています。
映画を見ていても、日本のティーン世代向けの映画はどんどんと短編積み重ね型の構成にシフトしているようにも見えます。
今年公開された映画を見ても『HELLO WORLD』や『かぐや様は告らせたい』と言った作品は、ゆっくりと大きな物語を1つ描き切るというよりも、作品のリズム優先で、短いエピソードをテンポよく繋げていくアプローチをとりました。
これは、やはりYoutubeの動画やSNSのショートムービーなど短い尺の映像メディアが増えてきたからであり、それに慣れた若い世代の人たちを惹きつけるためでもあるでしょう。
そういう意味でも、4コマ漫画は典型的な短編積み重ね型であり、4コマでそれぞれが起承転結に対応したショートストーリーを連続させることで物語を展開します。
『殺さない彼と死なない彼女』という作品がSNSでバズったのも、こういった若者の求めるフォーマットに合致していたという側面もあるでしょう。
また、4コマ漫画において非常に多いのが、ギャグ路線とキャラ萌え路線ですね。
ギャグ路線と4コマ漫画が相性が良いのはもちろんですし、あまりストーリーを必要としないキャラクター推しの作品であれば4コマ漫画というフォーマットは読者が純粋にキャラクターの魅力を味わえるという観点で、相性が良いです。
ただ『殺さない彼と死なない彼女』という作品は、面白いほどにそういった4コマ漫画の王道路線を裏切ってきます。
キャラクター描写はラフ画のようなタッチで、しかも4コマの内3コマが吹き出しと文字だけというものも珍しくはありません。
ギャグ路線の小噺もありますが、全体的に見ると、むしろ哲学的なメッセージすら感じさせる作風なのです。
例えばこんなエピソードがあります。
世紀末「殺さない彼と死なない彼女」より引用
そう思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、決してそうではありません。
こういった人間の感情の本質を突いたような哲学的な世界観を、気の抜けたようなラフ画タッチのイラストで描く、そのギャップがあるからこそ、深く胸に刺さるんです。
フォーマットとイラストのタッチが生む先入観とその世界観やメッセージ性の重みが乖離しているからこそ、この作品は心の深いところにスッと沁みこんでいきます。
世紀末「殺さない彼と死なない彼女」より引用
こういう言葉だけだと刺々しくなってしまうようなセリフを自然と溶け込ませてしまう摩訶不思議なイラストの力は計り知れません。
それでいて、1つのメッセージや感情をきちんと4コマの中で伝えきってしまうという1話完結性もある程度担保されています。
小説なんかで読むと、重たくて思わず読む手を休めてしまいそうになる物語を、サクサクと読ませることで感情を揺さぶるというスタイルを確立できている点が、世紀末さんのマンガの素晴らしい点だと感じました。
これを映画というフォーマットに落とし込んだときに、どこまで維持できるのかという点は1つ出来不出来を分ける境目になりそうです。
世紀末さんの世界観を丁寧に映像に落とし込んだ映画版
映画版も早速鑑賞してきましたが、これはしてやられました。
というよりも世紀末さんの原作の持つ独特のリズム、空気感、哲学を完璧に映画というメディアに落とし込んでいるのです。
まず、4コマというフォーマットを持つ原作を意識して小林監督は山戸結希監督へのオマージュを込めたような独特なカットと編集を作品に取り入れています。
特にそれが顕著だったのが、冒頭の3組のキャラクターたちの物語を学校という1つの空間を共有させて、どんどんと移り変わらせていくというカットでしょうか。
奥華子さんの劇伴音楽の使われ方も、山戸結希監督作品のそれに非常に似ていましたし、曲がり角を曲がったり、部屋を出たりしたタイミングで物語の視点が別の人物のところへと移動していく編集スタイルも非常に良かったです。
映画において、こういった物語の視点を次々に別の人物に移すという手法は基本的には悪手とされます。
それは物語に一貫性と連続性が失われてしまうからに他なりません。
ドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダースは、映画においては登場人物と観客の時間の流れができるだけ一致しているように感じられることが重要であり、カットや編集で「時間をかすめ取って」しまうと、そこに隔たりが生まれ、観客は離れていってしまうと語りました。
そういう意味でも、映画『殺さない彼と死なない彼女』のアプローチはかなりチャレンジングなのですが、それが原作のフォーマットの再現であるということを考えると、非常に効果的です。
4コマ漫画という4コマの中に起承転結が存在するフォーマットで描かれた原作を映画化するからこそ、あえて映画においては悪手とされる短編積み上げ型の方式を採用し、3組の物語を交互に配置したことで「一話完結感」の連続性を演出しました。
そしてもう1点、原作の空気感、世界観、哲学性の再現として素晴らしい演出だと思ったのは、あえて登場人物に書き言葉チックな言葉を話させ、加えて役者陣の演技面を簡素化していた点です。
当ブログ管理人の敬愛するタイの映画監督アピチャッポン・ウィーラセタクンが自身の映画作品の中で静止画を用いる理由について以下のように語っていました。
まさに「中断」させるものとして静止画像を使っています。つまりそれは目の前にあるマテリアルそのものに注意を向けてもらいたいからです。「あなたが見ているものは幻想でしかない」ということを観客に突きつけたいのですね。映画作品に入り込んでしまうと、世界がそれになってしまう。でもふと観客とその周囲に広がる空間に意識を向けてほしい。目の前にあるのはフラットなスクリーンに投影されたイメージなのだと感じてもらいたいからです。
今回の映画『殺さない彼と死なない彼女』の役者陣の演技やセリフに感じたのは、まさにこのことでした。
この作品は、あえて「キャラクターたちを役者陣が演じている」という構造を観客に明かすことで、私たちが見ているものはスクリーンの向こうの幻想なんだという事実を突きつけます。
実は私が世紀末さんの原作を読んでいた時に感じた魅力もまさにその点でして、彼女のマンガは独特の哲学性とラフ画のようなゆる~いイラストが絶妙にマッチしていないんです。
ただ、マッチしていないからこそ、彼女の作品の中に描かれる感情や言葉、哲学がマンガの枠を超えて読む者に伝わって来るんですよね。
マンガを読みながら、キャラクターに自分を投影したり、感情移入したりというよりも、そこに描かれた感情や言葉を自分のことのように知覚できることが世紀末さんの作品の強みです。
今回の映画版は、そこを見事に映画というフォーマットに枠組みを変えながらも引き継ぐことに成功しています。
私たちは、誰かが演じているものを見ているに過ぎないと分かってしまうからこそ、映像とそこに描かれた感情や文体のセリフが乖離し、後者がスクリーンという枠組みを超越します。
映画を通じて誰かの物語を「見て」いるのにも関わらず、私たちは自然と自分の物語を「体感して」いるような気分になる。
映画を見ている「自己」という存在をあえて明確に残すことで、私たちはより強く作品のメッセージをくみ取り、そしてそれが自分の世界の出来事のように思えるのです。
そういう意味でも劇中で撫子(原作では君が代ちゃん)がスクリーンに向かって「好き」と11回告げるシーンがありましたが、この時、極めて意図的に八千代くんを映像からフレームアウトさせています。
物語はスクリーンの中で起こっているんじゃない、あなたの世界で起きているんだ。
どこか遠い世界の作られた物語。しかし、その言葉と感情だけがやけに生々しい。
そんな世紀末さんの原作が有している独特の要素を失うことなく、アップデートされた映画版にただただ脱帽です。
誰もが相手の中に自分を見ている
(C)2019 映画「殺さない彼と死なない彼女」製作委員会
同書に収録されている3つの短編はそのどれもが2人の少年少女の友情や恋愛の物語になっています。
そして面白いのが、お互いがお互いの心情や願望を映す鏡として機能しているところなんだと思いました。
例えば、きゃぴ子は「全人類から愛されたい」と願い、その一方で地味子は「ただ1人大切な人から愛されたらそれでいい」と語るのです。
では、それがお互いの本心なのかと言うと、必ずしもそういうわけではありません。
この2人の関係性の面白いところは、お互いが相手に自分の本当の願望を見出している点です。
きゃぴ子は子供の頃から母親に冷遇され、孤独に育ってきた経験、好きになった男性に愛されない経験を経て育ってきました。
本当は「ただ1人大切な人から愛されたらそれでいい」と思っているんですが、彼女は半ばそれを諦めていて、だからこそそんな本心を隠すための鎧として「全人類から愛されたい」という発言をするのです。
一方の地味子は、生まれ変わったらきゃぴ子のようになってみたいと願うなど、多くの人から好意を寄せられ、愛される彼女に憧れている節があります。
そして2人の物語は感動的な結末を迎えます。
誰からも愛されなかったきゃぴ子にとって、地味子は大切な親友でしたが、そんな彼女が自分の悪口を言っているという噂が立ったのです。
彼女は早速、噂の真偽を確かめに行きました。
地味子はクラスメートからきゃぴ子の悪口に同調するように求められていたのです。
地味子にとって、ここで悪口を受け入れて同調しておけば、より多くの人と友好的な関係を保持しておくことができるわけで、そういう意味ではメリットがありました。
しかし、彼女はきゃぴ子の悪口をきっぱりと否定してみせました。
2人はお互いがお互いの居場所になることができたんですね。
児童精神科医のジョン・ボウルビィは「人生に何度となく訪れる危機に立ち向かうためには心理的な安全基地が必要だ」と提唱しました。
その言葉を借りるなれば、2人はお互いがお互いにとっての「安全基地」になったんです。
そんなことがあっても裏切らない、大切な人。自分に無いものを持っていて、自分が一番求めているものを与えてくれる相手。
誰かにとってのそんな人になれた、そしてそんな人に出会えることの幸せを強く感じさせられる短編でした。
また、君が代ちゃんと八千代くんのエピソードもそんな写し鏡としての他人が描かれているように感じられます。
八千代くんは過去に、大好きな人に思いが届かなかった苦い経験をしました。
まだ子供だった頃に高校生の女の子に告白し、「大人になったらね」と返答されましたが、彼女は他の人の子を身籠り、結婚してしまいました。
だからこそ彼は早く大人になりたいと願いました。
彼のクールで落ち着いた性格は、彼がなりたかった「大人」の1つの形なのかもしれません。
しかし、そんな彼の前に君が代ちゃんが現れ、子どものように毎日告白してくるようになります。
きっと彼にとって君が代ちゃんという存在は、自分が嫌悪している「子供」そのものだったのではないでしょうか。
届きもしない思いに縋り、必死に思いを伝えようと努力する様は、過去の自分を見ている様でもあったでしょう。
ただ、そんな子供染みた行動が、少しずつ彼に「人を愛すること」の喜びと尊さを思い出させてくれます。
彼は君が代ちゃんという存在を受け入れることをを通して、人を愛することを恐れていた自分自身を受け入れたのです。
『殺さない彼と死なない彼女』の中に収録されている短編はどれも魅力的で、表題作以外の2作品も非常に心がじんわりと温かくなるような作品でした。
死にたい理由を生きる勇気に変えて
(C)2019 映画「殺さない彼と死なない彼女」製作委員会
今作の最大のターニングポイントは、やはりサイコキラーくんがれいを殺害してしまうという事実です。
そもそもなぜこの漫画が世紀末さんによって書かれることになったのかという経緯を知っておくと、この場面は非常に重要だということが分かってきます。
原作本のあとがきを読むと、その内容が書いてあるのですが、著者の世紀末さんは、まだ短大生だった2015年に大好きな人を亡くしたというのです。
それがきっかけで深く落ち込み、塞ぎ込みがちになったそうですが、そこから立ち直り、社会と自分とのつながりを取り戻すきっかけになったのが、漫画だったそうですよ。
同書の表題にもなっている連作集『殺さない彼と死なない彼女』において、ななという少女は、死にたいと毎日のように考えているわけですが、その踏ん切りはついていませんでした。
彼女は「死ぬための理由」を探していたのです。
そんな時に、れいに出会って彼女の世界は一変します。
「死ね。」が口癖の彼ですが、最初は好奇心で近寄った彼女に次第に行為にも似た感情を感じるようになり、「生きて欲しい。」と切に願うようになります。
彼女の方も、自分と関わりを持ってくれる彼に好意を寄せるようになりますし、彼と一緒にいることで「生きる理由」が増えていきます。
連作集の終盤で2人が来年一緒に花火を見に行くという約束をしますが、そういった死ななかった未来の話をするようになり、ななは前向きに考えることができるようになるのです。
しかし、サイコキラーくんがれいを殺害してしまったことで、快方に向かっていた彼女の精神状態は大きく乱れることとなります。
なぜなら、彼女にとっての最大の「生きる理由」が喪失してしまったからです。
もっと言うなれば、彼女は自分が死んで彼に会いに行くことを考えてしまうわけで、これまで「生きる理由」の象徴だった彼の存在が、最大の「死ぬための理由」に転じてしまったんですよ。
作中でななは彼のいない世界を「現実=不幸」だと話していましたが、まさに彼女はその不幸の中で生きる宿命を課されました。
しかし、「死ぬための理由」を見つけたにもかかわらず、彼女が「死ぬ」という選択をすることはありません。
彼の残してくれたプレゼント、手紙、匂い、言葉、そして思い出は確かにあったのであり、それは彼女が生きている限り消えることはありません。
そのことに気がついたからこそ、彼女は「死にたい理由」を「生きる勇気」に変えることができたんだと思いました。
彼が何かを言ってくれているわけではありません。
誕生プレゼントと共に残してくれた手紙には「書くことがなかった。」と書かれており、ほとんど白紙に近い状態でした。
しかし、彼女はそんな空白に「夢」を見たんですよ。
彼は自分のことを思ってくれていて、好意を持っていてくれて、それでいてこの先もずっと見守ってくれている。
これは全て彼女の「夢」の中の出来事であり、実際に起きたわけではありませんし、言葉として何かが残っていたわけでもないのです。
それでもそう信じられたのだということが何よりも大切なのだと世紀末さんは伝えたかったのではないかと私は感じました。
亡くなってしまった大好きな人は、もう自分のそばにはいてくれませんし、何の言葉もかけてくれません。
沈黙という孤独の中で、神経をすり減らしていく中で、彼女は「夢」つまり「フィクション」の中では大好きな彼を身近に感じることができるし、彼の思いを想像し触れることができるのです。
世紀末さんがマンガつまりフィクションを創作することで、自分の中で燻り続ける彼への思いを昇華させようとしたことが、まさに本作のラストに如実に反映されていました。
ラストの4コマ×2の8コマがとにかく印象的で、右側の4コマには「彼がいた。」という過去の事実が書かれており、そして左の4コマには「これからも見ていてね。」という未来のことが書かれています。
これは、世紀末さん自身の体験談から絞り出された1つの答えなのだと思います。
「彼がいた。」という事実だけでは、今彼がいないことに絶望してしまうだけで、それは「死にたい理由」に繋がってしまいます。
しかし、「彼が見守ってくれる。」という未来を信じることができれば、きっとそれは「生きる勇気」に繋がります。
そういう意味でも、マンガを描くことで、社会と繋がり、そして救われたと語っている世紀末さん自身の切実な思いがストレートに伝わって来る作品だったと思います。
映画版のラストの追加シーンが素晴らしい
基本的に今作は原作通りなのですが、映画版がとある工夫を施しているんです。
それが、きゃぴ子や君が代ちゃんの世代の物語を時系列的にななの物語から分離させた点ですね。
前者2人の物語は、ななが大学生になってからの物語ということになっており、彼女は高校を卒業しています。
そしてこの時系列的な分離をラストシーンで見事に昇華させてくれるので、鳥肌が立ちました・・・。
本作のラストシーンに追加されているのは、大学生になったななが、告白してフラれて河原でリストカットしようとしていた撫子に声をかけるというシーンです。
確かに、映画『殺さない彼と死なない彼女』は時系列的にも2つに分断された物語を描いていますし、3組の異なる分断された物語を一本の映画の中で描いており、非常に作品の中で物語や主題性の分断が目立ちます。
しかし、それらを1つに繋ぎ、1本の映画として完結させるためにななが撫子に声をかけ、励ますというシーンが追加されているのです。
このシーンがあることで時間的に、そして関係的に分断されていた3組の物語が1つに集約されていきます。
未来に絶望し、死ぬことばかりを考えていたななと彼女を救い、そして彼女のミライになったれい。
そして時を経て、彼のいない世界で生き続ける選択をしたななが、同じように未来に絶望した撫子に「未来の話をしましょう。」と告げるのです。
冒頭の彼女がハチを自分に見立てるシーンを思うと、このシーンもまた彼女が自分自身を救おうとしているように見受けられます。
しかし、死の臭いがした冒頭のものとは対照的に、ラストシーンのそれは生への希望に満ちています。
殺さない彼と死なない彼女。
れいの存在があるからこそ、あったからこそななは生かされていると解釈できるタイトルです。
しかし、映画版はななもまた誰かの「殺さない彼女」になるのだという未来を描いて見せました。
人間という生き物は弱くて、脆く、1人で生きていくことはできません。
それでも支え合いながら、誰かに生かされながら、今日もゆっくりと歩いていくのです。
唐突に見えるサイコキラーくんの描写の巧さ
本作の映画版を見た人の間で少し演出面で疑問感じている人が多いのが、サイコキラーくんの例の描写ですね。
まず個人的に展開が読めるのかどうかは、それほど評価の高い低いに関わりはないと思っているので、言及を避けます。
原作にも、もちろんサイコキラーくんのエピソードは描かれるんですが、原作では『殺さない彼と死なない彼女』の連作の前にサイコキラーくんのエピソードが独立した幕間挿話的に描かれています。
そのため、他のキャラクターたちの物語と地続きの世界の中で語られるというのは、映画版のアレンジです。
さて、そこで今作が取ったのは、現在パートにあたるきゃぴ子や撫子のエピソード内に、サイコキラーくんの映像を登場させておくという手法でした。
そして、それを伏線として、彼が突然れいの前に現れて、殺害してしまうという展開に仕立てたわけです。
この演出や複線の張り方が下手という意見を散見しましたが、個人的にはむしろ巧いと思っています。
というのも、原作の4コマ漫画というフォーマットを考えてもそうなんですが、サイコキラーくんの恐ろしさというのは、突然他人の物語(コマ)に入ってきて、それを破壊してしまうところにあります。
ななとれいの原作の描写を見ていただければ一目瞭然なのですが、2人の物語を描いた一連の連作集には、サイコキラーくんを除けば、彼の死後に1コマだけ登場するれいの母親以外のキャラクターは登場しません。
つまり2人だけの閉じた物語に突然何の関係もない人間が介入してきて、あっさりと壊してしまうのです。
そこにこそ、世紀末さんが自分の経験を交えながら語りたかった「サイコキラーくん」というキャラクターの持つ恐ろしさと残酷さが内包されているように感じました。
そして、映画版はそんな「サイコキラーくん」をスマートフォンの中の映像に登場する人物として当初は登場させました。
これは、実はスマートフォンのモニターという「枠」を駆使した原作リスペクトの演出なんです。
原作では漫画というフォーマットの中で彼らの物語を分断させており、映画では、映像というフォーマットを用いてサイコキラーくんを別の物語の住人として描くことに成功しています。
そして、終盤にはやはりれいの物語の「枠」の中に現れて、彼を殺害し、物語を壊してしまいます。
自分たちに全く関係のない人間が、全く関係のない動機で、自分たちの物語に介入してきて、それをいとも簡単に破壊して、また去って行ってしまう。
そんな行動が、その物語に残されてしまった者に与える深い悲しみと虚無感を誰よりも知っている世紀末さんだからこそ作れた物語構造だと思いますし、それを映画版は綺麗に踏襲していたと思います。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は『殺さない彼と死なない彼女』についてお話してきました。
映画もそうですが、この作品はぜひ4コマ漫画というフォーマットで体感して欲しいですね。
本当に自分にも書けそうな気がしてくるような、味のあるイラストが作品に対する親近感にも繋がっていると思いますし、その気の抜けた感じが読む手を止めさせません。
小説でじっくりと描くととても重くなるであろう題材や展開を、4コマで短編積み上げ方式でどんどんと展開し、私たちの心を不思議な感動で溢れさせてくれます。
読み終わった後に、少しだけ救われた気持ちになる作品ですし、生きる力をもらえる作品です。
ぜひぜひ鑑賞してみてください。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。