みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回は映画『マリッジストーリー』についてお話していこうと思います。
賞レースで話題に上がっているということは知っていたんですが、それほどマークしていた映画でもなく、好きな監督の作品というわけでもなかったので、絶対に見に行こうと決めていた作品ではありませんでした。
ただ東京映画祭でのアーリーレビューが好評の連続で、そこまで言われると、流石に気になって来るぞ・・・ということで配信を待たずに映画館に行ってきました。
今年は洋画は特に不作だなぁという印象だったんですが、2019年の終盤にベスト争いに食い込んでくるレベルの傑作が現れてくれたんですよ・・・。
映画の内容としてはその年の賞レースを席捲した『クレイマー、クレイマー』を想起させる内容でした。
ただ、その内容がジェンダー的な視点で見てもより現代的にアップデートされており、演出や役者陣の演技も珠玉のものとなっております。
この映画が個人的にすごいと感じたのは、離婚調停を題材にした作品であるにも関わらず、見終わった後には「結婚したい」と強く感じさせられるような内容になっている点です。
今回はそんな傑作について感じたことや考えたことを余すところなく語っていきたいと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『マリッジストーリー』
あらすじ
女優のニコールと夫で映画や舞台の監督を務めるチャーリーは、ヘンリーという子宝にも恵まれ、幸せな結婚生活を送っていた。
チャーリーの劇団は、結婚当初は無名だったが、女優としてある程度キャリアのあったニコールの加入も後押しし、徐々に知名度が高まり、ついにはブロードウェイに進出するまでになる。
しかし、そんな夫の劇団の成功に比例して、ニコールは自分が主体性を喪失し、夫の劇団に従属する存在になっているような感覚を味わうようになる。
お互いに愛し合っていた2人だが、些細な不満が積み重なり、ついには離婚調停が始まってしまうのだった・・・。
当初、2人はお互いに歩み寄る姿勢を見せていたが、ニコールが敏腕弁護士のノーラを招き入れたことで状況は一変し、2人の離婚調停は泥沼化の様相を呈していく。
お互いが何も決められず、感情的になってしまう一方で、外部委託された弁護士たちが議論を進め、淡々と2人の関係を解体していく。
結婚とは何なのか?愛とは何なのか?を深く考えさせる意欲作となっています。
スタッフ・キャスト
- 監督:ノア・バームバック
- 脚本:ノア・バームバック
- 撮影:ロビー・ライアン
- 美術:ジェイド・ヒーリー
- 衣装:マーク・ブリッジス
- 編集:ジェニファー・レイム
- 音楽:ランディ・ニューマン
『ライフアクアティック』や『ファンタスティック Mr. Fox』などのウェス・アンダーソン監督作品でも脚本を担当したことで知られるノア・バームバックが本作の監督・脚本を担当しました。
彼は、独特の家族の距離感を演出ことに非常に長けた人物で、『ライフアクアティック』や近年の『ヤングアダルトニューヨーク』など興味深い作品を多く手掛けています。
今作『マリッジストーリー』も同様に家族にフォーカスした作品になっていますが、このエッジの聞いた切り口と120分をあっという間に感じさせてくれる展開の作り方は流石といったところでしょう。
撮影にはケン・ローチ監督作品に多く参加してきたロビー・ライアンが、編集には『マンチェスターバイザシー』などでも知られるジェニファー・レイムが加わりました。
また劇伴音楽には、まさかの『トイストーリー』や『モンスターズインク』で知られるランディ・ニューマンが参加しています。
希望に満ちている様で、どこか哀愁と切なさを漂わせるトラックたちが作品を見事に彩っていて、聴いているだけで耳から”涙”が出てくるようでもあります。
- ニコール:スカーレット・ヨハンソン
- チャーリー:アダム・ドライバー
- ヘンリー:アジー・ロバートソン
- ノーラ・ファンショー:ローラ・ダーン
本作『マリッジストーリー』はかなり演出面は控えめに作ってある映画で、とにかくドキュメンタリータッチで役者にフォーカスした作品となっております。
そのため、かなり役者に求められるもののハードルが高くなっており、並の役者では映画が成立しないほどに高度なプロットです。
特に終盤の2人の口論のシーンは映画史に残るであろう名シーンになりましたが、あんなのほとんど味つけなしで役者の演技1本で勝負ですからね・・・。
スカーレット・ヨハンソンとアダム・ドライバーは今作で演技部門の賞を受賞して欲しいですね。
『マリッジストーリー』感想・解説(ネタバレあり)
1.66:1のアスペクト比が生み出したもの
Netflix映画「マリッジ・ストーリー」より
先ほども書きましたが、本作『マリッジストーリー』は演出的な視点で言うなれば、かなりシンプルでそれほど味つけをしていない印象を受ける映画でもあります。
通常映画というメディアにおいて美徳とされるのは「言葉にせずとも伝えること」なんですよ。
それはセリフやナレーション、あからさまな映像で描写してしまうのではなく、映像の連続性と積み重ねの中で観客に「イメージ」を与えていくことでもあります。
一方で『マリッジストーリー』という作品が描こうとしたのは、むしろ「言葉にしても(しようとしても)伝えられないこと」なんだと思いました。
そのため、映画を見ていると、登場人物たちが会話ないし舌戦を繰り広げるシーンが非常に多く、ドキュメンタリーテイストで淡々とその様を切り取っていきます。
ただチャーリーもニコールもどれだけ言葉にしようとしても、愛艇に対して抱いている思いを伝えられないし、思ってもいないことを口にしまって相手を傷つけたりと、伝えられないもどかしさを終始感じています。
そのもどかしさを演出するべくこの映画は、溢れんばかりのセリフで映像を氾濫させるという手法を取っているわけです。
また、本作が特徴的なのは映像のアスペクト比で1.66:1を採用している点でしょうか。
このアスペクト比は、写真において一般的な3:2に近いという側面があり、『マリッジストーリー』という作品がまるで1冊の家族のアルバムのように感じさせてくれるという側面もあります。
加えて、本作は極力人物の表情や挙動、言葉にフォーカスしようと努めています。
そのアプローチをとる上でアスペクト比を縦に長めに取ることで、映像内に入り込んでくる余計な情報をシャットアウトしやすくなるというのも1つ大きな利点だったのではないかと考えています。
一方で、左右に狭く感じられるこのアスペクト比は、本作が1つの家族の離婚調停という閉じた世界を描いていることをより強調してくれるものでもあります。
左右に狭い映像の中に、本作は常に複数人を収めようとしたり、登場人物の顔のクローズアップショットを用いたりするので、映像がより窮屈で閉塞感に満ちたものに感じられます。
劇中でチャーリーの担当をしていた弁護士が離婚調停においては、離婚することがゴールなのではなく、離婚をしたその後にどのような未来を選択していくかが重要なのであると語っていました。
その点で、離婚調停中という時期が、夫婦にとってすごく視野が狭くなっている時期であるという点を、本作のアスペクト比は含意しているようにも感じられます。
そしてラストシーンで、お互いに新たな生活へと向かって行く中で2人は、そこにある変わらない愛情を自覚します。
エンドロールへと入っていくシーンではどこまでも続いていく道が映し出されていますが、これはまさしく2人とそしてヘンリーの3人の「家族」の歩んでいく未来を象徴しています。
窮屈で閉塞感に満ちていた離婚調停が終わり、お互いに対する思いを自覚した上で、本当に大切なものは何なのかを考えながら、ゆっくりと未来への可能性を2人は切り開いていくのでしょう。
そんな未来への広がりをも、この窮屈にも感じられた1.66:1のアスペクト比が感じさせてくれたように思います。
空白の空間で繰り広げられた舌戦は映画史に残る名シーン
Netflix映画「マリッジ・ストーリー」より
やはり『マリッジストーリー』の中でひと際目を引いたシーンと言えば、チャーリーとニコールが彼の引っ越したての家具もないようなアパートで舌戦を繰り広げるシーンでしょう。
こういうシーンを撮る場合に王道なのは、家族がこれまで過ごしてきた生活感の染みついた空間で舌戦を描くことで、平穏だった家庭の崩壊を演出することでしょうね。
ただ、本作はそれとは真逆の生活感が皆無の部屋を舞台として用意しているわけです。
そこにどんな意図があったのかと考えてみましたが、これはある種の2人が演じている即興劇のようなものなんだろうなと感じさせられました。
2人は舌戦を始める前に、「2人で話し合えると思うんだ。「ええ、話しましょう。」といった会話をしていて、そこから一気にスイッチが入り、何かが憑りついたかのように感情的になり、言葉をぶつけあうのです。
しかし、言葉を尽くせば尽くすほどに、自分が自分を演じるようになっていき、最終的にはチャーリーが心にもない暴言を吐いて、泣き崩れてしまいました。
ハタと気づいた時に、自分が自分ではなくなってしまったような感覚、自分が本音を話しているつもりで心にもないセリフばかりを発していたという実感に打ちひしがれてしまったようでもあります。
離婚調停が過熱化すると、2人はお互いに敏腕弁護士をつけて、お互いの真意ではないことを相手に欲求するようになります。
そういう意味では、離婚調停というのは自分ではない何かを演じ、自分の真意とはかけ離れたことをしてでも相手に勝利し、自分の望むものを手に入れる残酷な世界なのかもしれません。
だからこそ、2人はあの真っ新な雑音の無い環境で、2人だけで壮絶な舌戦を繰り広げる中で、自分が自分を演じてしまっている現状にはたと気がついてしまったのでしょう。
本心はそうではないのに、相手に勝利するために、自分の欲求を実現するために、自分を演じ続けることとその哀しさ・もどかしさがダイレクトに伝わってきます。
そういったコンテクストを表現するうえで、生活感のない空白の空間は、彼らが家族とはかけ離れた何かを自分が演じていることを仄めかし、映像的にも2人の表情や挙動に没入できるように機能していたと思います。
理詰めと感情のカオス
Netflix映画「マリッジ・ストーリー」より
人は結婚する時には、物事を単純に考えることができますよね。
その相手のことを思っていて、生涯一緒にいたいと思えば、そんな感情がそのまま結婚したいという思いを導き出してくれることでしょう。
しかし、離婚となると、感情的には非常に複雑で入り組んだものとなっています。
もはや相手のことが嫌になったから別れるだとかそういった安直な感情ではどうしようもないほどに、複雑な状況が待ち受けているのです。
とりわけチャーリーとニコールのように子どもがいるケースは非常に複雑で、お互いの感情だけで答えを出せる問題ではなくなってしまいます。
だからこそ、感情では議論が進まないわけで、弁護士という第三者を介入させることで、理詰めで離婚の手続きを進めていくという手法がアメリカでは一般的になっているわけですね。
その点で、本作『マリッジストーリー』という作品は必ずしも、離婚調停に介入し、強引に推し進めようとする弁護士たちの存在を否定的に描いているわけではないように思います。
ただ、感情で繋がった婚姻関係を理詰めと数値化で解体していくような作業にいささかの恐ろしさと滑稽さを感じさせるような構造になっていることは指摘できるでしょう。
例えば、チャーリーとニコールが離婚調停を進めている会議の場で、昼食を取ることになったシーンで、当の2人が意気消沈しているのに、弁護士の2人がノリノリで注文しているという描写は薄気味悪いとしか言いようがありません。
個人的に印象に残ったのは、家族の中で起きた些細な出来事を弁護士たちが誇張して取り上げて、自分たちの理論を補強するためのデータとして用いる裁判の一幕です。
この場面では、ニコールが酔ってフラついたところをチャーリーが支えたという家族の美談が、離婚を有利に進めるための材料になったり、彼が彼女に告げた「君と一緒に取った賞だ。」という愛情を表す一言が、離婚のための論理的な論述として採用されそうになるなど、あまりにも異常な光景が広がっています。
その後の、調査員がチャーリーとヘンリーの食卓にやって来るシーンなんかは、もっともやもやとした気持ちにさせられます。
というのも父子の何気ない会話の粗が、第三者の視点によって父親不適格の烙印を押すための論理的な証拠ないし数値として累積させていくのですから、これほど恐ろしいものはありません。
しかし、感情でもって2人が議論を前に勧めることができたかどうかと言えば、それは無理だったと思います。
それについては、先ほどご紹介した2人の舌戦のシーンでも明らかなことであり、感情だけでは離婚調停を進めることができません。
結果的に2人は自分たちが結んだ婚姻関係を、第三者により算出された論理的根拠とデータ基づいて破棄し、そしてそれに定められた形で家族として新たな道を歩んでいくこととなります。
では、こうなってしまった時に、人は結婚するに至ったときに相手に抱いていた純粋な愛情をどこへ置き忘れて来てしまったというのでしょうか。
法的な婚姻関係が破棄されてしまえば、そんな感情までもがすっぱりと終わりを迎えてしまうのでしょうか。
本作『マリッジストーリー』の焦点はまさしくここにあると感じました。
ここで今一度思い出したいのが、先ほどもご紹介した離婚調停においては、離婚することがゴールなのではなく、離婚をしたその後にどのような未来を選択していくかの重要性についての話です。
婚姻関係という法的な手続きは、第三者の手で簡単に破棄してしまうことができますし、その上で弁護士という存在は重要です。
しかし、離婚調停に勝った負けたの話は結局のところ本質ではなく、離婚した後の未来をどうしていくのかこそが真に考えられるべき事象です。
そうなった時に、2人は改めて自分たちの感情に正直になってお互いと向き合わなければなりません。
そうしてチャーリーとニコールはお互いの間にまだ確かに愛が残っていることを自覚したのではないでしょうか。
結婚関係という法的な手続きの終わりが、家族の終わりや愛の終わりを意味するわけではありません。
そもそも愛も家族も非合理的で、非論理的な概念なのであり、それを理詰めや数値化で解体することはどうしたってできません。
チャーリーとニコールはきっと感情の面では家族の意識も、そしてお互いに対して抱いている愛も消えてはいないはずです。
そうであれば、彼らの「マリッジストーリー」は終わらないですし、これからも続いていきます。
1979年に公開され、世界に衝撃を与えた『クレイマー、クレイマー』を見事に現代版へとアップデートさせ、法的な手続きを超えた家族の在り方をまさに示そうとした意欲作だったと思います。
舞台演劇と離婚劇のマリアージュ
そして『マリッジストーリー』の面白さを演出的な側面から語るのであれば、当然避けては通れないのが、本作が舞台演劇を設定に取り入れた作品であり、それを演出にも取り入れているということです。
本作では、離婚調停が始まると、2人がニューヨークとロサンゼルスに別居し、お互いに自分が有利に離婚でき、かつ親権を少しでも多く保有できるようにするための「戦い」が始まります。
ニコールがまず弁護士を雇い、先手を取るわけですが、これは言わば演劇で言うところの「役者」に当たりますよね。ニコールの弁護士であるノーラはどちらかと言うと「監督」かもしれません。
劇中でチャーリーが演劇の舞台用の衣装を選ぶシーンがまさに描かれていましたが、ヘンリーのハロウィンコスチュームを巡る2人の「戦い」はまさに「衣装」を争点としています。
他にも、離婚調停の成り行きから旗色が悪くなったチャーリーがロサンゼルスに家を借りて、自宅に家具を揃えたりしつつ、調査員に良い印象を与えるような部屋づくりを進めていましたが、これは演劇で言うところの「小道具」ですね。
このように、本作『マリッジストーリー』はチャーリーとニコールがお互いに「演劇」を作るような演出が施されており、そしてどちらの劇にヘンリーを「出演」させるのかという争いを演じているわけです。
しかも面白いのが、この戦いには、チャーリーが舞台監督であり、ニコールが役者であるいう側面も見事に表現されています。
チャーリーは自分自身が監督となって、「衣装」や「舞台装置」そして「演者(弁護士)」を揃えていきますが、ニコールは弁護士のノーラを監督に据え、自分が彼女から「演技指導」を受けるような形で、離婚調停に臨んでいます。
このように演劇という空間を介した2人の立ち位置が離婚調停の戦い方の違いにも持ち込まれているのが、非常に興味深いポイントですね。
ニコールは、離婚調停の末に、映画界で監督としても活躍するようになっています。
そして終盤に、彼女が書いた手紙をチャーリーとヘンリーが音読するシーンがあり、これが見事に演劇における「セリフの読み合わせ」のような演出になっている点に注目です。
つまり、これまではチャーリーが監督で、ニコールが役者という関係性が確立されていましたが、このシーンではそこに明確な変化が起きているんです。
2人の関係性の変化を単なる離婚調停としてだけではなく、演劇的に表現してしまうところも非常にスマートだと言えますね。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『マリッジストーリー』についてお話してきました。
本作は離婚調停の現場を生々しく描いた作品でありながら、それ以上に女性のジェンダーの物語でもあります。
近年、女性の社会進出が進む中で、夫の影に隠れて内助の功を果たすことが女性の役割だという考え方はアウトオブデイトになりつつあります。
スカーレット・ヨハンソン演じるニコールは女優として活躍しながらも、夫の劇団に縛り付けられる生活に、どこか不満を抱いています。
「幸せなのに、なぜ離婚したいんだ?」とチャーリーが彼女に問いかけるシーンがありましたが、これはまさに『クレイマー、クレイマー』と同じ状況ですよね。
彼女は夫に与えられた居場所ではなくて、自分で切り開いた場所に立ち、自分自身の価値を証明したいのです。
しかし、そういった女性が増えてくると、今度は子どもはどうするんだという話が浮上してくることになったり、夫の仕事はどうなるんだという話になってきます。
チャーリーは自分の仕事の拠点がニューヨークだから彼女にもこちらにいてもらわないと困るというスタンスで、彼女の世界を縛り続けていました。
しかし、彼女がロサンゼルスに行ってしまったら、子どもはどうするんだという問題も生じてきたりと一筋縄ではいきません。
ただ、こういった問題が生じるからという理由でニコールのような女性を縛り付けておくことはもうできないわけですよ。
だからこそ、私たちは新しい「家族」のカタチを模索していかなければならない状況に確かになって来ています。
女性が活躍する社会の実現のために、私たちはこれまでの家族観に縛られない柔軟な考え方をしていく必要があるはずなのです。
チャーリーとニコールは離婚という道を選びましたが、彼らが「家族」として終わってしまったわけではなく、彼らはこれからも「家族」であり続けます。
そして、また彼らなりの「家族」のカタチを見つけ出すことができるはずです。
その点で、作品性こそ『クレイマー、クレイマー』に非常に似ていますが、描いている主題はアップデートされています。
ぜひ本作を鑑賞して、これからの結婚や家族の在り方について深く考えてみて欲しいです。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。