みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね『屍人荘の殺人』についてお話していきたいと思います。
『HELLO WORLD』の京都プレミアで浜辺美波さんが目の前を通過していくのを見てから、熱が一気に沸騰し、大ファンになってしまいました。
あの圧倒的な透明感に完全にノックアウトされている次第であります。
本作『屍人荘の殺人』も予告編で、彼女が出演すると知った時点で、鑑賞予定作品に登録しました。
ただ、今作の映画の予告編は、原作を読むまではエンタメミステリな雰囲気ですごく良いなぁと思っていたんですが、原作を読んでしまうと、何故にこんなことになってしまったんだと逆に不安になってしまいました。
原作同様に、本作がミステリものでありながら、○○○ものであるという設定を一切明かすことなく予告編を作り上げていること自体は評価されるべきだとは思いますが、それにしても原作の雰囲気と違い過ぎて困惑しました。
原作については文句なしに面白かったですし、ミステリ界隈で高く評価されたのも頷けます。
何と言いますか、ミステリの大敵であるはずの「非合理的」な存在を作品に内包しながら、それをトリックの一部として見事に使いこなし、そのジャンルの持つ面白さをも内包してしまったというとんでもない傑作なのです。
著者の今村昌弘さんはこれで新人だと言いますから驚きですよね。
さて、本記事ではまず『屍人荘の殺人』の原作の感想・解説を書いていき、映画鑑賞後に映画版の感想・解説を書いていくというスタイルを取りたいと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含みます。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『屍人荘の殺人』
あらすじ
神紅大学ミステリ愛好会の葉村譲は、先輩でホームズを自称している会長の明智恭介と共に、学内外の些細な謎を解いたり、探偵の手伝いをするなど日々の活動に勤しんでいた。
そんな時、明智は映画研究会が毎年行っている合宿で、昨年とんでもない事件が起きたという噂を耳にし、何とかして合宿に参加させてもらおうと悪戦苦闘する。
ある日、2人の前に私立探偵の顔も持つ同じ大学の文学部2年生、剣崎比留子と出会い、彼女と取引をすることで合宿に参加できる権限を手に入れる。
合宿は心霊映像、POVホラー短編映画の撮影のためとは名ばかりで、女性に飢えたOBのために開催されるコンパのようなものだった。
しかし、今年の合宿は、昨年の「事件」が尾を引きずっており、部室に脅迫状が届いたことが原因で参加者が少なくなってしまったのだ。
映画研究会の部長である進藤は、そんな女性が少なくなってしまったという事情を憂慮し、剣崎が参加することを条件に明智と葉村も合宿に参加することを認めたのだった。
そして合宿が始まり、映画の撮影やバーベキューなど楽しいイベントが続くのだが、夜の肝試しの際に思わぬ異変が起きる。
それは、恐ろしい連続殺人事件へのトリガーなのだった・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:木村ひさし
- 原作:今村昌弘
- 脚本:蒔田光治
- 撮影:葛西誉仁
- 照明:鈴木康介
- 編集:富永孝
- 音楽:Tangerine House
- 主題歌:Perfume
木村ひさし監督は、基本的にテレビドラマシリーズを多く手掛けている監督・演出家ですが、近年は『任侠学園』のような映画も手掛けているようです。
それほど期待をしているわけではないですが、まあ安定したクオリティの作品は作ってくれるとは思います。
ただ、ミステリ以外の部分にも本作は大いに見どころがあるので、そういう意味ではホラー映画畑の監督なんかを抜擢しても面白かったのではないかと思いましたね。
脚本には、『TRICK』シリーズで知られる蒔田光治さんが起用されています。
彼も基本的には、ドラマシリーズの脚本かですが、オカルトチックなテイストの作品を多く手掛けている人物ではあるので、その点で少し楽しみではありますね。
撮影には『任侠学園』や『サバイバルファミリー』など近年、コメデイメイドな映画も多く手掛けた葛西誉仁さんが起用されており、本作の予告編から漂うコメディ臭を支えているのは、彼のカメラワークかもしれません。
編集には、当ブログ管理人がその年のワーストに選出した『人生の約束』という映画の編集を担当した富永孝さんです。
楽しみな映画ではあるんですが、全体的にスタッフの面々に不安要素があるので、その辺りがどう転ぶのかは心配ですね。
主題歌はPerfumeの『再生』です。
- 葉村譲:神木隆之介
- 剣崎比留子:浜辺美波
- 進藤歩:葉山奨之
- 重元充:矢本悠馬
- 名張純江:佐久間由衣
- 静原美冬:山田杏奈
主人公の葉村譲を演じたのは、神木隆之介さんですね。
今年は『フォルトゥナの瞳』に出演していましたが、あまり印象に残らなかったので、本作で取り戻してほしい感はあります。
剣崎比留子役には、当ブログ管理人も応援する浜辺美波さんが起用されました。
彼女は『センセイ君主』でもそうでしたが、かなりコメディテイストな演技も巧いので、その点では、予告編のイメージではかなり役にハマっていました。
脇を固めるキャストも矢本悠馬さんや山田杏奈さんなど今勢いのある面々が目白押しです。
より詳しい情報を知りたいという方は、映画公式サイトへどうぞ!
『屍人荘の殺人』感想・解説(ネタバレあり)
「死」が取り巻く環境でそれでも殺人を犯すことの意義
(C)2019「屍人荘の殺人」製作委員会
本作『屍人荘の殺人』の面白さは、やはりミステリにゾンビという全く異なるジャンルを組み合わせたこととも言えるでしょうか。
では、なぜゾンビに湖畔のペンションが取り込まれる構図がこんなにも面白いのかと考えてみますと、その理由は「死」を自分がもたらさなくとも、そのうちに訪れる可能性が高い環境が設定されたところにあるからではないかと感じました。
山の向こうのライブ会場で大量に発生したゾンビが、主人公たちの居るペンションに殺到したことで、彼らは閉じ込められ、そしてゾンビたちが非常扉やバリケードを破って侵入してくるのは時間の問題というのが、本作の肝になっています。
そんな状況下で、わざわざ人を殺害することの意味とは何なのかというのが、『屍人荘の殺人』の大きなテーマの1つとなっているのです。
高山宏氏が自身の著書『殺す・集める・読む―推理小説特殊講義』の中で、探偵小説が時代の病を治療する薬としての側面を孕んでいることを指摘しました。
彼は、第1次世界大戦によって、「死」というものが日常と化し、生命の価値が相対的に軽視されるようになった社会の中で、探偵小説は、1つの「死」に纏わる足跡を辿り、そこに至るまでの過程を解き明かすことで、死者の尊厳を取り戻そうとしたと分析しました。
本作『屍人荘の殺人』を見てみても、その考え方は1つ根柢にあると捉えることができるでしょう。
パンデミックにより大量のゾンビが発生する、つまり数千人の人が命を落とすという大事件が起こり、そんな事件と比較するとペンションで若者が数人命を落としたなんてニュースは矮小化されて聞こえてしまいます。
現に、本作のエピローグでは、ペンションでの猟奇殺人の話題は、1~2週間ほどで人々の間から消えてしまったと記されています。
また、本作の終盤には、この探偵という人間が人の死の足跡を辿り、その尊厳を取り戻す役割を担っているということが如実に表れたセリフが登場します。
「犯人の目的はすでに達成されたんですよ。」
「今罪を暴き、殺人者を名指ししたところでどうなるというんですか。私たちはこれから力を合わせていきのこらなければならないのに。犯人の検挙は私たちが救助された後、警察がやってくれるはずです。」(『屍人荘の殺人』より引用)
この言葉は剣崎のものですが、彼女は、ミステリ小説をほとんど読んでおらず、事件のロジックを解き明かすことに対して興味があるわけではありません。
彼女は自らが犯罪に巻き込まれやすい体質であることを自覚しており単に、その状況から自分が脱出するために推理に取り組んでいるに過ぎません。
だからこそ彼女は、既に犯人が目的を達成してしまった後で、推理を述べて、犯人が誰であるかを断定することに価値を見出すことができないのです。
彼女は七村という人物がまだ生きていたからこそ、彼の命を救うべく推理に奔走しましたが、彼が死んでしまったわけですから、もはやどうしようもありません。
しかし、それでも探偵であるならば、その「死」を暴き、死者に1人の人間としての尊厳と価値を取り戻さなければならないのです。例え意味などなくとも。
ゾンビが大量発生し、「死」というものがありふれた環境でもなお、探偵という生き物は1つの「死」を調べ、その人物が生きた痕跡を証明します。
その点で本作は、探偵小説が第1次世界大戦を経て、探偵小説というジャンルが黄金期を迎えたコンテクストを見事に踏襲しています。
また、それだけではなく、本作は犯人の静原という少女の視点を通じて、「死」が目前に迫った状況で、それでも自分が手を下して「死」をもたらさなければならなかった理由を描きました。
彼女の動機は端的に言うと、自分の慕っていた先輩を追い詰めて自殺に至らせたOBたちへの復讐でした。
彼女がゾンビ大量発生という異様な状況の中でもOBたちの殺害を遂行したのは、自分の手で殺すことにしか意味がないと考えていたからでしょう。
例え、ゾンビが彼らを殺害してくれたとしても、それは復讐にはならないわけで、やはり自ら手を下さざるを得ません。
そんな彼女が1つの命を終わらせることに対して強い執着を見せる様は、無差別にウイルスに感染し人が死んでいくというシチュエーションとは対比的です。
つまり、これは逆説的に1つの命というものの重さを表現しているとも言えるんですよね。
大量死の中の1つに位置づけるのではなく、自らが引き起こした殺人事件の中の「死」に被害者たちを組み込みたいという強い願望は、むしろ1つの「死」の価値を高めようとする方向に働いています。
1つの生命、そして1つの死。これらには確かに存在価値があるのであり、それは例えどれだけ多くの人が死んでしまおうと、揺らぐことはありません。
命の価値とは相対的なものではなく、絶対的なものなのであるという探偵小説の原初にあった考え方を『屍人荘の殺人』は見事に受け継ぎ、新たなアプローチでもって完成させました。
ホームズがゾンビと化すことの意味
(C)2019「屍人荘の殺人」製作委員会
本作『屍人荘の殺人』は、ミステリという合理性をベースにしたジャンルに、極めて非合理的でフィクショナルな存在であるゾンビを持ち込んでいます。
この合理性と非合理性を見事に融合させるロジックも非常に優れていたと思います。
もちろんゾンビがあまりにも不可解な存在であっては、ミステリが成立しなくなりますので、ある程度のガイドラインは決め打ちしてあります。
本作に登場するゾンビには知性がないことや、近年のゾンビ映画に登場するような運動能力に長けた個体はいないことは明確にされています。また、ゾンビ化に至る感染経路は噛まれることと粘膜に体液や血液が付着することとされており、感染から発症までの潜伏期間もある程度判明しています。
しかし、こんなオカルトチックなモチーフをミステリというジャンルに用いるのは、コナン・ドイルの著した『シャーロックホームズ』なんかの王道探偵ミステリと比較しても、想像がつきません。
みなさんは『シャーロックホームズ』シリーズに電話というモチーフが当時の社会では普及し始めていたにも関わらず、登場しなかった理由は何だと考えますか。
岡室美奈子氏は、これについて自身の論考『コナン・ドイルの心霊主義と探偵小説』の中で、電話というモチーフが持つオカルト性が、ホームズの合理性と相反するために登場しなかったのではないかと考察しました。
確かにコナン・ドイルという人物は、ホームズとは対照的に非合理でオカルトチックな心霊信仰に相当入れ込んでいたと言われています。
彼は自身の著作で幾度となく、心霊現象は電話のベルにより始まると語っています。そこに彼の電話というモチーフに対する考えが如実に反映されているとも言えるでしょう。
その点で、『屍人荘の殺人』という作品は、大胆にもゾンビというオカルトモチーフを作品のギミックの中心に据えているわけで、合理性を追求した『シャーロックホームズ』シリーズとは対照的と言えます。
本作の中で、もう1つ重要なのは、この物語は葉村という「ワトソン」を巡る、剣崎と明智(ホームズ)の戦いでもあったという点ですね。
剣崎というキャラクターは、『名探偵コナン』よろしくの犯罪を引き寄せる体質であり、彼女自身もそのことを自覚しています。
言わば彼女自身もオカルトチックなモチーフと言えるわけですよ。一方で、従来のような犯罪のギミックやトリックを暴くことに固執せず、あくまでも自分が生き残るために謎を解くという姿勢を貫いています。
この点で剣崎は、非合理性の象徴であり、常に他者の事件に介入してはそのロジックを解き明かすことに努めたホームズという探偵像とは対照的な場所にいます。
そんなキャラクターが仮にも「神紅のホームズ」と呼ばれている明智という人物と「ワトソン」を取り合うという構図はアイコニックと言えるでしょう。
そしてゾンビが大量発生した肝試しの時に、明智はゾンビに噛まれて命を落としてしまうんですよね。これが、ホームズがライヘンバッハの滝で消えた「最後の事件」に重なることは間違いありません。
だからこそ、作品を読んでいると、無意識に明智が何らかの形で復活することを私たちは想像してしまいますし、ミステリ小説が大好きな葉村であれば尚更そう感じていたのではないかとも思います。
しかし、本作の終盤に明智はゾンビと化した状態で現れ、葉村に襲い掛かります。そんな彼に、剣崎は「あげない。彼は私のワトソンだ。」と告げ、持っていた槍で突き刺します。
本作『屍人荘の殺人』は文句なしに面白いエンターテインメントでありながら、ミステリというジャンルの可能性を見せてくれる作品でもありました。
劇中で葉村と剣崎が会話する中で、ミステリというジャンルの行き詰まりについて言及する一幕がありました。そういう意味でも、ミステリ小説が大好きな明智や葉村と、それらを全く読まない剣崎のコントラストは印象的です。
また、河村幹夫氏の『コナン・ドイル――ホームズ・SF・心霊主義』などでも触れられていますが、『シャーロックホームズ』シリーズの著者コナン・ドイルはジェンダー観が非常に従来的であったとされています。
そのため、女性が参政権を求めて立ち上がった時も、それに対して否定的な論調だったといいます。
その価値観は『シャーロックホームズ』シリーズにも反映されていて、このシリーズの中では男性が「暴く」側であり、女性は「暴かれる」側であるという関係が根底に据えられています。
その点でも「ホームズ」と相対するのが、女性探偵であるという点も実は重要なのです。
つまり本作は、合理性の象徴である「ホームズ」というアイコンから、剣崎というニューヒロインが「ワトソン」を奪い取るという構図を描くことを通じて、ミステリというジャンルの可能性を広げようとするメタフィクションのようになっているんですね。
その点で、浜坂教授という真の悪役は別にいて、個別の事件の背後に彼がおり、主人公は謎を解きながら、その黒幕を追っていくという構図も『シャーロックホームズ』シリーズの踏襲であり、そういう意味でも本作は新時代の「ホームズ」誕生を描いた1作といえるのではないでしょうか。
ゾンビものとしても興味深い1作
『屍人荘の殺人』はジャンルとしてはミステリに分類されるのですが、ゾンビものとしても非常に見応えがあり、面白い作品です。
ゾンビの根本的な設定としては、ジョージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』からの引用が見られます。
ゾンビには、知性がなく、そして自分たちの種を増やすために、つまり繁殖のために人間に喰らいついて、そして感染者を増やしていくものとなっていました。
斑目機関という組織があり、そこで開発された薬品がゾンビ化を引き起こしたという物語も、『バイオハザード』シリーズのアンブレラ社とパンデミックの関係性に類似していると言えるでしょう。
また、ゾンビ映画のお約束も多く反映していて、それをミステリのギミックにも組み込んであった点などは見事としか言いようがありません。
映画研究部の部長である進藤は自身の恋人である星川がゾンビに噛まれたにもかかわらず、自室で匿い、生かそうとしました。
しかし、介抱の甲斐なく彼女はゾンビ化してしまい、進藤に噛みつき、彼をもゾンビ化させてしまいました。
この家族や恋人がゾンビ化してしまったのを匿うという展開は、ゾンビものにおいてはある種の「お約束」であって、多くの作品に登場します。
また、本作のラストで、ゾンビが生まれたことに対する根本的な原因は特に解明されることなく、主人公たちがヘリコプターで救助されて事なきを得るという展開が描かれますが、これも如何にも「ゾンビもの」な幕切れです。
このように本作はミステリでありながら、実に巧妙に「ゾンビもの」というジャンルを融合させており、その点で非常に優れています。
そして何より素晴らしいのが、ゾンビというものが持っている批評性や主題性をも見事に継承している点ではないでしょうか。
ゾンビは人間に近い化け物であるということも相まって、『屍人荘の殺人』の劇中でも何度か言及されましたが、人間の映し鏡として描かれます。
例えば、ジョージ・A・ロメロ監督の『ゾンビ』ではゾンビがショッピングモールに集結する様を描くことを通じて、消費社会への皮肉を込めたとしばしば解釈されるようです。
岡本健氏は著書の『ゾンビ学』の中で、近年ゾンビの移動速度が速まっていく傾向にあるのは、価値観や情報の伝播速度が急激に速くなる情報社会が背景にあるからではないかと指摘しています。
このようにゾンビという生き物は、社会や人間の映し鏡として機能していることも少なくないのです。
本作『屍人荘の殺人』では、終盤に次のように言及されています。
人はゾンビに対してそれぞれのエゴや心象を投影する。
重元にとって興味の尽きぬ謎の塊であったように、俺にとって人の無力さを思い知らせる災害であったように、比留子さんにとって彼女の特異な体質が引き寄せる過去最悪の脅威であったように、そして立浪にとっては愛という正体不明の病気に踊らされる患者の姿であったように、静原にとっては人の命を二度奪うという、前代未聞の復讐を可能にした道具だった。
(『屍人荘の殺人』より引用)
とりわけ静原は、自分の慕っていた先輩を妊娠させた上に、堕胎費用だけを渡して切り捨てた立浪という男に激しい憤りと憎しみを抱いていました。
立浪や七宮たちは女性を自分たちの慰み者とすることしか考えておらず、大学の後輩に女子大学生を手配させてはペンションに呼び込み、性的な関係を迫りました。
そう考えると、本作のゾンビというのは、そうして愛もない状態で、ただ生殖本能のままに女性を食い散らかしては、そのまま捨ててしまう男性の表象にも思えます。
しかし、それ対して本作には、進藤というアンチテーゼとなり得る存在がいました。
彼は、確かに先輩からの申し出を断ることができず、女性を集めて、ペンションに連れてくるという愚行を犯しはしましたが、ゾンビ化した恋人を最後まで介抱し、最後には自分が噛みつかれてゾンビ化してしまうという最期を遂げました。
きっと人間には、美しい部分と醜い部分があるはずです。そして誰だって、その醜い部分はさらけ出したくないと願うはずです。
そういった人間の最も醜い部分の映し鏡となるのが、ゾンビという存在なのかもしれません。
進藤だって、元はと言うとペンションに先輩方への供物として女性を招き入れようとした醜い一面を持っていますが、ゾンビ化していく彼女に最後まで添い遂げるという美しい一面も持っています。
妊娠した彼女を捨てた立浪もまた複雑な家庭環境のために女性を信じられなくなってしまい、それ故に深い関係になることを恐れているという一面も持っているわけです。
誰しもがそういった「ゾンビ的」な醜い一面を持っていて、だからこそゾンビと直面した際に、思わず自分の醜い一面を曝け出してしまう可能性があります。
静原は、ゾンビたちの存在を見て、自分が憎んでいる人間を2度殺すことができるという思考に至り、殺害計画を実行に移しました。まさに彼女の中にあるどす黒い一面が覚醒したといっても良いでしょう。
しかし、彼女には、先輩のことを自分のことのように心配したり、また自分のために命を落とした明智に対して罪悪感と感謝を抱いたりという美しい一面を持ち合わせているのです。
誰しもがそういった二面性を持っている中で、相手の「ゾンビ的」な醜い一面を見てしまった時に、それでもその人のことを大切に思えるかどうかは、人が人を愛するうえですごく重要なことなんだと思いました。
立浪がまさに「愛という正体不明の病気に踊らされる患者」とゾンビたちのことを例えていましたが、彼はそういう醜い一面を相手に見てしまうのが怖いからこそ、踏み込めなかったわけです。
人と関わる、人を愛するということは、その醜い一面をも愛して受け入れることなのだというメッセージを本作はゾンビに込めていたように思います。
そして、そのテーマを体現していたのは、ある意味で進藤という男だったのかもしれません。
映画版に欠けてしまったゾンビ愛とミステリ愛
(C)2019「屍人荘の殺人」製作委員会
原作よりミステリとしてもゾンビものとしてもかなり劣った内容になっていた感じは、どうしても否めず、その点はがっかりさせられましたね。
そもそも、この『屍人荘の殺人』という作品がなぜゾンビが登場するいわば邪道なミステリでありながら王道クローズドサークルとしても、本格ミステリとしても評価されたのか。
映画版は、その点をきちんと理解できていないままに作られてしまったような印象を受けてしまうんですね。
『屍人荘の殺人』は、ゾンビという非合理的でオカルトチックな存在を、「ゾンビもの」のお約束に則って1つ1つ分解していきました。
そしてゾンビたちを合理的な存在に落とし込むに至らせ、本格ミステリに組み込まれ得る市民権を獲得させたのです。
ゾンビマニアの重元というキャラクターを中心にして、ゾンビはどこが弱点なのか、例えばよくある火が弱点というようなことはあるのかといったことも1つ1つ丁寧に検証していきます。
他にも噛まれてから感染に至るまでにどれくらいの時間がかかるのかや知能レベル、そして身体能力に至るまで細かく分析されていきます。
こうして少しずつ作中におけるゾンビの定義を決め打ちしていくことで、ゾンビがクローズドサークルを形成させ得る存在となり、そして本格ミステリに置ける推理の中で合理的に機能するようにしたわけです。
映画版は、随分とこの点を適当にやったなという印象で、だからこそゾンビ愛を感じませんし、同時に本作のミステリとしての肝を大切にしていない点でミステリ愛もあまり感じませんでした。
まず、冒頭のフェスでのゾンビパニックシーンで、下松孝子が噛まれてすぐゾンビ化した辺りで嫌な予感はしたんですよ。
そしてその後のシーンで出目がかなり時間差でゾンビ化しました。
そのため、噛まれてからゾンビ化に至るまでの時間は正確には不明ということで片づけられてしまいましたよね。
また、ゾンビ映画のお約束で、「弱点はどこなの?」問題がありますが、原作ではそれについて重元を中心に分析がなされたりするんですが、映画版では、最初から頭狙いといった感じで特に言及することはありませんでした。
あと、今回の映画版にゾンビ愛を感じなかった最大の理由は、ゾンビが何かを投影したモチーフで登場するというゾンビものとしての批評性をかなぐり捨ててしまったところなんです。
今回の映画版は、原作には存在していた立浪や七宮、進藤そして何より剣崎といったキャラクターたちの内面を掘り下げるサブエピソードを根こそぎカットしました。
ゾンビ映画においては、登場人物、もっと大きなくくりでの人間、社会、政治、宗教といった様々なコンテクストが投影されます。
『ゾンビ学』の著者である岡本健氏は、同書の中で「ゾンビコンテンツ=『価値観』の伝播を描く映画」ではないかという見立てをしました。
ゾンビはどんな化け物よりも人間に近いわけで、何なら数分前まで人間として生きていた他者が突然異形のものとなって襲い掛かって来るのです。
そういう人間への近似性が多くの批評性を生み、そして様々なものの映し鏡としての機能を果たすのです。
『屍人荘の殺人』の原作は、そこの落とし込みも見事で、それぞれの登場人物が自分の抱えている問題に関連づけて、ゾンビに投影しているという状況を作り出しました。
例えば、立浪は幼少期に母親の不倫に直面したことがきっかけで女性を信用できなくなっており、彼が静子の先輩を捨てた理由はそこにありました。
『屍人荘の殺人』という作品において、ゾンビは人間が持つ最も醜い部分、自分が嫌悪している部分の投影として登場していました。
そしてこのコンテクストが、作品全体のテーマにも密接に関わり合っていたんですね。
映画版のゾンビは極めて単純明快なパニック映画の道化でしかなくて、全く造詣の深さが感じられません。
あとは、ラストシーンですね。ここでマイナス90点だったといっても過言ではないほどのマイナスです。
一応原作にはあるシーンですが、状況があまりにも違い過ぎて、取ってつけたかのような展開で失笑してしまいました。
そういった原作にはあったミステリ愛とゾンビ愛を根こそぎ捨てながらも、その代わりにポップで軽快なエンタメ性とキャラクタームービーとしての特長を獲得していた点は良かったですね。
やはり浜辺美波さんと神木隆之介さんの掛け合いは実に見事で、テンポも良かったので、ずっと見ていたい気持ちになりました。
浜辺美波さんは『君の膵臓をたべたい』のような王道も行けますが、本作や『センセイ君主』のようなコメデイエンヌ路線も完璧ですね。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は『屍人荘の殺人』についてお話してきました。
ミステリとしても、ゾンビものとしても本当にお見事で2つのジャンルを組み合わせて、その面白い部分を足し算ではなく、掛け算式に増幅させた点が見事だったと思います。
また、過去のミステリやゾンビ映画に対するオマージュや言及も徹底されており、それでいて革新的なので、非常にバランスも良い作品です。
これほど素晴らしい原作を、映画版はどこまで活かし切れるのかには、非常に注目ですね。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。