みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』についてお話していこうと思います。
『スターウォーズ』をここまで追いかけて来た者の義務感として、一応本作までは見届けないとという半ば使命感に駆られて、見てきた次第です。
正直に申し上げると、物語の後半は失望に次ぐ失望で、心が壊れてダークサイドに堕ちるかと思いました。
見終わった後、率直に感じたのは、「なんでこんなもののためにスターウォーズのレガシーを掘り起こさなければならなかったのか?」という「哀しさ」でした。
『スターウォーズ 最後のジェダイ』を見た時に、もちろん脚本に難があるのは分かるんですが、ディズニー『スターウォーズ』シリーズにまだ新しい物語を紡ごうという気概があることに嬉しさを感じました。
しかし、その続編の位置づけとなる本作は一転して保守的で、ルーカスの作り上げたレガシーに依存する作りで、前作は何だったんだ…という感情が拭い切れません。
今回の記事では、ネタバレありで作品の感想・解説・考察を書いていこうと思います。
ちなみですが、本記事は1回目を鑑賞した直後の「感情的なレビュー(批判的)」+2回目鑑賞後の「客観的な分析・考察」という構成になっています。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
- 1 『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』
- 2 『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』感想・解説・考察(ネタバレあり)
- 3 おわりに
- 4 関連記事
『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』
動画考察
当ブログの公式YouTubeチャンネルにて、『スターウォーズ』のシークエルトリロジーをライトセーバーに注目して振り返る動画を公開中です。
あらすじ
「Death Speak=死の口」が開き、かつてベイダーとルークによって葬られたはずのパルパティーンが復活した。
彼は熱烈な信者たちによって崇め奉られており、ひそかに大艦隊を揃え、「ファイナルオーダー」であると名乗っている。
カイロ・レンは「ウェイファインダー」を見つけると、惑星エクセゴルへと急行し、パルパティーンと邂逅する。
パルパティーンはレンに自分に手を貸すのであれば、「ファイナルオーダー」の軍勢を手渡し、君を銀河の皇帝にしてやろうと提案した。
その頃、レイはレイアの下でジェダイになるために学んでおり、レジスタンスはシスの軍勢を前に、打開策を模索していた。
惑星エクセゴルへと赴き、直接パルパティーンを叩くしかないと踏んだレジスタンスは、レイやフィンたちをもう1つの「ウェイファインダー」探しへと送り出す。
旅の中で、少しずつレイは幼少期の記憶を取り戻していき、精神的に不安定になってしまう。
砂漠の惑星パサーナで、レン騎士団の急襲を受け、窮地に陥るが、彼らは何とか「ウェイファインダー」の場所を示すダガーを発見した。
しかし、騎士団によりチューバッカが連行されてしまい、それを助けようとしたレイは怒りに身を任せ、腕から青い電流を放出する。
奇しくもそれは、皇帝パルパティーンと同じ力であった。
レイの生い立ちに隠された秘密とは何なのか、そしてレジスタンスは「ファイナルオーダー」に打ち勝つことができるのか?
「スカイウォーカーサーガ」の結末が今描かれる!
スタッフ・キャスト
- 監督:J・J・エイブラムス
- 脚本:J・J・エイブラムス & クリス・テリオ
- 撮影:ダン・ミンデル
- 編集:メリアン・ブランドン & ステファン・グルーブ
- 音楽:ジョン・ウィリアムズ
J・J・エイブラムス監督は『スターウォーズ フォースの覚醒』に続いてということですが、個人的にはあまり期待できません。
元々今回の『スターウォーズ エピソード9』の監督を務めるのは、『ジュラシックワールド』を成功に導いたコリン・トレボロウの予定でした。
しかし、製作途中で降板となり、ライアン・ジョンソンが搔き乱したサーガの締めくくりを担うことになったのが、彼でした。
正直、『スターウォーズ 最後のジェダイ』に続く作品なんてあまりにも難易度が高いのは分かり切っていることなので、ハードルは必然的に低くなりますが、それにしても個人的には彼を選んだことにモヤモヤとしてしまうのです。
というのもJ・J・エイブラムス監督が撮れば、何となく保守的な作風になることは予想出来てしまうので、ディズニーが彼を選んだということは、「守り」には入りますというある種の意思表示だったからです。
本編を鑑賞して、その見立ては間違っていなかったと確認する結果となってしまったのは、残念です。
撮影には、これまでもJ・J・エイブラムス監督作品に多く携わってきたダン・ミンデルが起用されました。
編集にも『スターウォーズ フォースの覚醒』から続いてメリアン・ブランドンが起用され、監督を支えます。
音楽はお馴染みジョン・ウィリアムズですね。
- レイ:デイジー・リドリー
- カイロ・レン:アダム・ドライバー
- フィン:ジョン・ボイエガ
- ポー・ダメロン:オスカー・アイザック
- ルーク・スカイウォーカー:マーク・ハミル
- レイア・オーガナ:キャリー・フィッシャー
- ランド・カルリジアン:ビリー・ディー・ウィリアムズ
- ローズ・ティコ:ケリー・マリー・トラン
ランド・カルリジアン役のビリー・ディー・ウィリアムズの帰還は、ファンとしては喜ばしいのですが、この期に及んでルーカスの作り上げた『スターウォーズ』のレガシーに依存することに対しては、いささか残念ではあります。
そして、個人的に気になったのは、ローズ役のビリー・ディー・ウィリアムズの起用方法ですね。
前作からの新キャラクターである彼女ですが、一応はメイン級の扱いを受けていました。しかし、物語の中でファン心を逆なでするような行動を取ったこともあり、バッシングを浴びる結果となってしまいました。
本来なら、今回の『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』では、前作の印象を払拭するくらいの活躍を描くべきであり、ローズというキャラクターの存在意義を示す必要があります。
しかし、今作のプロットでは、彼女に「基地に残るわ。」と言わせ、出番も終盤に至るまでほとんどないという有様でした。
ディズニーは人種差別問題を意識したプロットを作るのは良いですが、こういうところでもっと人種差別は断じて許さないという姿勢を見せるべきでしょう。
批判を受けたから、出番を減らしたようにも見受けられる今作での扱いは個人的には許しがたいものでした。
また、今作には亡くなったキャリー・フィッシャーが登場しますが、CGではなく、『スターウォーズ フォースの覚醒』の際の未使用映像を使ったんだそうです。
『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』感想・解説・考察(ネタバレあり)
「ファンボーイズ」たちが作り上げたディズニー『スターウォーズ』の足跡を振り返って
ジョージ・ルーカスそして『スターウォーズ』という作品と、ディズニー『スターウォーズ』に携わったクリエイターたちの関係は、さながらイエスと聖書、聖職者たちのような構図でした。
『スターウォーズ』には私も含めて、世界中に多くのファンがおり、彼らを納得させることは容易ではありません。
プリクエルトリロジーはしばしば槍玉にあげられはしますが、何と言ってもジョージ・ルーカス本人が直接関わって製作した映画ですから、ファンもただ受け入れるしかなかったわけです。
しかし、ディズニー『スターウォーズ』はそうではありません。
『スターウォーズ フォースの覚醒』公開時には、既にルーカス自身の脚本やアイデアが悉くカットされていることは明らかになっていました。
だからこそルーカスという伝説亡き後の「ポストレジェンド」の『スターウォーズ』シリーズをクリエイターたちは背負うこととなったのです。
やはりその制約に1番苦しんだのが、『スターウォーズ フォースの覚醒』を手掛けたJ・J・エイブラムスでしょう。
プロットそのものは旧3部作とりわけ『スターウォーズ 新たなる希望』の焼き直しに近く、新キャラクターが登場するものの、ファンへの「分かってますよ」感が滲み出るオマージュ満載という極めて「保守的」な内容にしてきたのも、彼の苦労の結晶でしょう。
結果的にこの『スターウォーズ フォースの覚醒』はルーカス本人に「目新しいものが何もない」として批判を浴びる始末でした。
新キャラクターや新しいマシンもいまいち魅力に欠け、結局ルーカスが作り上げたシリーズの遺物に依存せざるを得なかったのは、やはりファンに受け入れられるためには、いきなり「劇薬」は投入できなかったという事情もあるでしょう。
そういう意味でもJ・J・エイブラムスが、新シリーズだけれどもルーカスの作り上げた『スターウォーズ』色を濃く残した作品に仕上げた理由は明白です。
そして翌年製作されたスピンオフ映画『ローグワン スターウォーズストーリー』はクリエイターたちにとって新たな挑戦だったと言えるでしょう。
なぜなら、この映画はどんな結末を迎えるのかが予め決められたストーリーですし、同時にルーカスが製作したオリジナルトリロジーの世界観に多くの点で準拠せざるを得ない作品だからです。
これまでのどんな映画よりも制約が多いといっても過言ではない本作は、「ファンボーイズ」たるギャレス・エドワーズによって手掛けられることとなりました。
彼は幼少の頃から同シリーズの大ファンであることを公開前から世界中のファンに向けて積極的にアピールし、作品の中には膨大な『スターウォーズ』ユニバースの中から様々な設定、要素、キャラクター、マシンなどを引用し、オリジナルトリロジーの空気感に近い作品を作り上げました。
その制約の中でも、映像的な見せ場を多く盛り込み、決められた枠組みの中でどう作品の魅力を最大化するのかを実験する1つの映画的実践となったわけですね。
そして世界中に波紋を広げているのが『スターウォーズ 最後のジェダイ』の存在ですよね。この作品は、異例に溢れています。
まず、良くも悪くもこれまでの『スターウォーズ』シリーズにはなかった「直接の続編」だったという点が挙げられます。
これについては『スターウォーズ ダークサイド禁断の果実』の中で高橋ヨシキさんも指摘しておられました。
同シリーズにおいては、あの印象的なオープニングロールがあるわけですが、あれって端的に言うと、前作との時系列的な溝を埋めるために生まれた手法なんです。
これまでのナンバリングタイトルは一応続いているという設定にはなっていますが、エピソード間にそれぞれ空白の期間があり、キャラクターたちは前作で見た時とはその出で立ちも大きく変化しています。
つまり、「直接の続編」にしたことであのオープニングロールってもはや無用の長物になってしまったんですよ。
その「お約束」を破ったライアン・ジョンソンは、ダークでかつ初見さんお断りの内容で物語を突き進め、そして最後は「ジェダイ」の定義を拡張するというとんでもなく革新的な結末へと至らせました。
世界中のファンから多くの批判が寄せられていることも理解できますが、彼の描いていたこの「拡張」のビジョンについては個人的には称賛したいと思います。
ただ、明らかに「脚本」「プロット」面で問題が多く、しかも『スターウォーズ フォースの覚醒』を見ていることが前提の内容になっていた点は擁護しづらいです。
このシリーズはどのエピソードから見ても、物語に魅力を感じられるのが「売り」だったわけで、名作と評され続ける『スターウォーズ 帝国の逆襲』もそうですし、『スターウォーズ フォースの覚醒』もルーカス版を知らない層でも楽しめる作りになっていました。
ライアン・ジョンソンは、そこを半ば放棄し、前作を見てから来てくださいねというシリーズで初めての「続編」を作り出したわけです。
その後、またしてもオリジナルトリロジーの色を強く残した『ハンソロ スターウォーズストーリー』が公開されましたが、そこから時を経て、いよいよ『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』が公開されました。
この映画でJ・J・エイブラムスに求められるハードルは恐ろしいほどに高いものとなっています。
『スターウォーズ フォースの覚醒』で自身が広げた大風呂敷を自ら畳まなければならないこともそうですが、ライアン・ジョンソンが搔き乱した『スターウォーズ 最後のジェダイ』の事後処理もしなければなりません。
そして、わざわざ終わっていたこのシリーズを墓から掘り起こして新3部作を製作したわけですからルーカスの作り上げた『スターウォーズ ジェダイの帰還』を踏襲するようなプロットは絶対に許されません。
そんなことをしたらディズニー『スターウォーズ』が製作された意義そのものが失われますからね・・・。
だからこそJ・J・エイブラムスは、『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』において新三部作をまとめ上げると共に、新3部作が作られた意義を証明しなければならないわけです。
「ファンボーイズ」たちが作り上げてきた新しいシリーズが1つの完結を迎えようとしているわけですが、一体どんな結末を迎えるのでしょうか。
墓を掘り起こして元通りに埋めただけじゃないか!
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『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』は、はっきり言ってしまえば『スターウォーズ ジェダイの帰還』で完結していた物語を焼き直しただけであり、目新しさが皆無な作品でした。
ただ、J・J・エイブラムス監督の手にも余ったのか『スターウォーズ 最後のジェダイ』で明かされたレイが「ノーワン」であるという設定はあっさりと放棄され、結局「血縁」を絡めたストーリーに回帰せざるを得ませんでした。
それでも、一度ぶっ飛んだ物語を引き戻して、レイとレンの物語にオチをつけたという意味では、役割を全うしたといっても良いでしょう。
しかし、気になるのはやはりその内容が保守的すぎることでしょう。
J・J・エイブラムス監督は「誰かに愛してもらえる作品を作ろう!」というよりも、「誰からも嫌われない作品を作ろう!」という姿勢で今作に取り組んだんじゃないかと感じさせられます。
そして、その物語はひたすらにオリジナルトリロジーとりわけ『スターウォーズ ジェダイの帰還』をなぞるだけです。
レイがダークサイドへの思いや自身の生い立ちの問題に揺れているという設定は同作のルークと全く同じですし、彼女がマスターの下で修業をしており、「不可能だ」という発言をしていたり、短気で忍耐不足というディテールまで一致しています。
また、彼女をダークサイドへと誘惑しようとするレンの姿は、同作のベイダーにそっくりです。
レイとレンの関係性が、そっくりそのままルークとベイダーの関係の踏襲のようになっている点は、やはり驚きに欠けるものでした。
そして、パルパティーンを復活させるというのが、今作の最大のサプライズということなのでしょうが、彼絡みのプロットって、完全に『スターウォーズ ジェダイの帰還』と同じじゃないですか(笑)
ベイダーにルークを捕らえる(始末する)ように頼んだパルパティーンは、レンにレイを始末するように唆します。
さらには、レイが自分の目の前に現れると、怒りに身を任せて自分を殺し、皇帝の後継者となれと告げますが、この時に、彼女にかけた「お前だけが彼ら(仲間たち)を救う力を持っているんだ。」というセリフまで同じという始末です。
そして結果的には、レイとレンが共闘してパルパティーンに立ち向かうわけで、これも『スターウォーズ ジェダイの帰還』でベイダーとルークが最終的に共闘したのと全く同じです。
結果的に、シスを打倒することに成功するわけですが、ここまで全く同じ結末を描くのであれば、ディズニー『スターウォーズ』なんて必要だったのでしょうか。
プロットもテーマも全て、『スターウォーズ ジェダイの帰還』のエンドアで綺麗に終わっていたことであり、そのレガシーを無理矢理掘り返して、結局手にあまり元通りに埋め直しただけなんですよね。
また、直近で言うと今作って『スターウォーズ 最後のジェダイ』でやったことのやり直しの側面も強いんです。
- レイの血縁問題
- ジェダイとダークサイドの間で揺れるレイとレン
- 共同戦線でスノーク(パルパティーン)に立ち向かう
このように前作で既にみた展開を繰り返されるのも、いい加減にしてくれよと感じさせられる点だったと思います。
そして後ほど語りますが、あのラストシーンはあまりにも酷いと言いますか、自ら『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』の主題を否定してしまっているんです。
ディズニー『スターウォーズ』の1つの総括となった本作ですが、収まりよくまとめたと言えば聞こえは良いですが、この3部作を無意味の長物としてしまう結末だったとも言えます。
血筋や生い立ちを越えて
血筋に縛られずに生きることができるというプロットは近年のハリウッド映画でしばしば取り入れられますね。
この背景にあるのは、やはりアメリカにおいて近年「アメリカンドリーム」という言葉の欺瞞が暴かれ、経済の固定化が顕著だったという事実が明るみに出たことも大きいでしょう。
そしてアメリカにおいてドナルド・トランプ氏が大統領選挙に勝利した際に注目されたのが、ヒルビリーと呼ばれる白人労働者階級です。
渡辺由佳里氏がヒルビリーについての興味深い記事を書いているが、そこから伺えるのは、やはり親よりも豊かになることができないという負の連鎖でしょう。
「努力はしないが、バカにはされたくない」という歪んだプライドを、無教養、貧困とともに親から受け継ぐ。
子どもの教育や将来的な成功は、ある程度親の経済状況や社会的地位、教養の影響を受けてしまうと言われています。
だからこそ、子どもは親の背負った宿命を背負って生きなくてはならなくなり、結果的に親を超えることもできず、豊かな生活を手に入れることもできずに、固定化されてしまうという現象が起きるのです。
そのためディズニー映画も含めて、近年のハリウッド映画では、「血縁など関係ない」「君が誰のもとに生まれたかなんて関係ない」というメッセージを強く打ち出した作品が増えています。
そして『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』も、そんな作品群の一角に名を連ねました。
とりわけ、その宿命を背負ったのは「レイ」というキャラクターでしょう。
彼女は、パルパティーン(ダース・シディアスの孫)であったことが明かされていますが、それ故に自分の中に眠る大きすぎる力と抑えきれない負の感情に戸惑っています。
そして、レンに自身がシスの皇帝の血を引いていることを告げられると、一層情緒は不安定になり、ダークサイドへと近づいていきます。
『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』はレイの物語を通じてそんなことはないのだと強く告げています。
親が誰であっても、どんな血筋を引いていたとしても、君はなりたい自分になることができるのだ!
レイはそうしてシスに屈することなく、パルパティーン(ダース・シディアスの孫)を圧倒し、見事に勝利を収めます。
確かにこのテーマ性は素晴らしいのですが、これってもう『スターウォーズ ジェダイの帰還』のルークの物語でも既に描かれていたテーマなんですよね。
『スターウォーズ 帝国の逆襲』で自分の父がシスの暗黒卿であるという事実を突きつけられて、自分のアイデンティティが根本から覆されてしまったわけですが、そこから立ち直り、ジェダイとしてシスに立ち向かう姿を描きました。
そして『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』が酷かったのは、そのラストシーンです。
本作を咀嚼したうえで、どう考えてもあのラストシーンは「レイ・パルパティーン」という必要があったと思います。
皇帝から身を守ってくれた彼女の両親は「パルパティーン」だったわけですよね。
そうであれば、あのラストシーンは実の両親の存在の否定にも繋がってしまいます。
それだけではなく、『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』という作品が描いた両親や血縁に縛られることなく、君はなりたい自分になれるというテーマを真っ向から否定している様でもあります。
レイは「パルパティーン」という名前を受け入れながらも、それでも彼女らしく生きていくのだというのが必要なラストだったわけで、そこで「スカイウォーカー」を名乗ってしまえば、それは本末転倒でしかありません。
本作についてJ・J・エイブラムスの苦労を想えば、擁護したくなる部分も多々あるんですが、このラストについては「スカイウォーカーの夜明け」というタイトルに寄せすぎるがあまり、肝心なことを見失っていたように感じました。
「冒険」と「ゆるさ」と「世界」を取り戻した
ここまで批判的な論調だったので、ここからは本作『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』の良かった部分についても語っていきたいと思います。
まず、前作『最後のジェダイ』もそうですが、プリクエルトリロジーも含めて、『スターウォーズ』シリーズは純粋な冒険活劇から、フォースや血筋を巡るダークな物語へと移行していました。
今作は、そんな前作から続く物語であるということで、必然的にダークな物語になるであろうと、予告編の印象からも予想していたんですが、見事に予想を裏切ってくれました。
まず、『スターウォーズ』が冒険活劇なのだという点を改めて思い出させてくれた点は良かったですね。
今作のプロットはシスの秘密の領域であるエクセゴルへと辿り着くための「ウェイファインダー」というアイテムを探す言わば「宝探し」の旅になっているんです。
その中で、レイたちはパサーナ、キジミ、ケフ・バーなど風景の全く異なる惑星を次々に旅していきます。
その上で、『スターウォーズ』らしい「ゆるさ」を取り戻している点も素晴らしいと言えるのではないでしょうか。
本作は、笑いを誘うシーンも非常に多くて、例えばパサーナでレイが力を暴発させてしまい、チューイがあっさり死んでしまった!みたいなシーンがありましたが、これも観客としては「絶対死んでないだろ(笑)」くらいの気持ちで見れます。
そういう意味では、ファーストオーダーの旗艦に乗り込んだフィンやポーが捕らえられたシーンもシリーズ特有の「ゆるさ」が感じられました。
敵に捕らえられて、処刑間近なのに、普通に雑談をしているポーとフィンの関係性も良かったと思います。
また、ハックス将軍が自分がスパイであることを隠すために、アリバイ作りで足を撃たせたのに、あっさりばれて撃ち殺されるシーンも良かったですね。
良い意味で『スターウォーズ』シリーズらしい「冒険」と「ゆるさ」を取り戻したことは、『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』において評価できる点だと思います。
これもプリクエルトリロジー以降の『スターウォーズ』シリーズの課題ではあったんですが、ジェダイの物語、シスの物語にフォーカスしすぎるがあまり、一般の人々つまり市民があまり登場しないんですよ。
特に前作の『スターウォーズ 最後のジェダイ』では顕著でしたが、異世界モノやSF、ファンタジーにおいて一般の市民というのは、映画の世界観を構築する基礎要素であり、それを欠落させると世界観が安定しないといっても過言ではありません。
ルーカスのオリジナルトリロジーはそこをきちんと押さえていて、『スターウォーズ 新たなる希望』には帝国によって市民が虐げられる様が描かれており、市民がジェダイや帝国に対してどんな感情を抱いていて、どんな姿勢をとっているのかが分かるようになっています。
『スターウォーズ フォースの覚醒』はファーストオーダーが市民を虐げる様子を描いており、これについてはJ・J・エイブラムスのオリジナルトリロジーへのリスペクトの一環で取り入れられたのではないでしょうか。
そして『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』が素晴らしかったのは、『スターウォーズ 最後のジェダイ』に市民がほとんど登場しなかった理由を説明しつつ、物語の結末において市民を戦いの主役に選んだことですよ。
まず、ファーストオーダーの力が強大化し、レジスタンスも追い詰められていったことで、市民は怯え、次第に諦めてしまったんですね。
『スターウォーズ 最後のジェダイ』において登場しない市民たちはレジスタンスが敗れて、ファーストオーダーが全宇宙を支配下に置くことを諦念と共に受け入れているんです。
作品内世界観における市民の位置づけをきちんと明確にした点は、これまで宙に浮いていたディズニー『スターウォーズ』シリーズの世界観を地に足をつけたものにするために一役買っていたと思います。
それでも、レイやレジスタンスの面々が懸命に抗戦を続ける中で、市民は失いかけていた希望を取り戻し、立ち上がり、ファイナルオーダーに戦いを挑むのです。
『スターウォーズ』というのは、単なるジェダイの戦いの物語ではなく、心に善なるものを持つ全ての人たちが強大な悪に立ち向かう物語でもあります。
そういう意味でも、『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』が最後の最後で「市民VSシス」の構図を作り上げてくれたことには感激しました。
繰り返す物語は繰り返す人間の歴史そのものか
(C)2019 Lucasfilm Ltd. All Rights Reserved.
この記事の冒頭で、散々槍玉にあげて批判した『スターウォーズ ジェダイの帰還』の焼き直しでしかないという主張を、ここで再考してみようと思います。
本作のプロットはすでに指摘した通りで、ルーカスの作り上げた『スターウォーズ』のパッチワークに近いわけで、特に目新しさがあるというわけではありません。
ただ、2回目を見終わった今気がついたのは、キャラクターが変わるというのは実は大きなことなんですよね。
ディズニー『スターウォーズ』の世界におけるメインキャラクターたちは、オリジナルトリロジーの物語が「伝説」となった時代を生きる若者たちです。
そもそも『スターウォーズ』シリーズは人類の歴史をベースに作られたと言われていて、プリクエルトリロジーは共和制ローマの崩壊やヒトラー誕生、オリジナルトリロジーはベトナム戦争の影響を強く受けています。
とりわけ元々は元老院の議員であり、極めて正規のルートに則って最高議長の座に上り詰め、共和制を崩壊させたダース・シディアスは、まさにヒトラーをベースに作られたキャラクターです。
ただ、そんなダース・シディアスもベイダーとルークの前に敗れ、帝国は崩壊へと向かいました。
近年のヒトラーを題材にした映画の中に『帰ってきたヒトラー』という秀逸な1作があります。
この作品はヒトラーが現代に蘇り、コメディアンとして活動しながら、次第に独裁者へと返り咲こうとするというブラックコメディとなっています。
作品中でヒトラーが街頭インタビューをするシーンがあるのですが、このシーンは実際に街の人にインタビューするという形式をとったそうです。
同作でヒトラーを演じたオリバー・マスッチは、「私(ヒトラー)を選挙で選んでくれるか?」と聞いたところ、肯定的な意見を持っている人もいたことを後に語っています。
というのもドイツでは近年、メルケル首相が推し進めてきた移民政策に対する反発が強まっており、それに比例して、右翼ポピュリスト政党のAfDが勢力を伸ばしているんです。
こういう状況があることは、非常に恐ろしい傾向でもあるわけで、現にAfDの議員がドイツではタブーとされている「ヒトラーの絶対悪を否定する旨」の発言をしたとも言われているのです。
ドイツで起きているこの状況はヨーロッパの他の国々でも起きているわけで、この状況が続けば私たちは再び負の歴史を繰り返してしまう危険性もあります。
とりわけヒトラーはダース・シディアス同様正当な手続きを経て君臨した君主であり、その後の政策に対しても市民はストップをかけなかったのです。
ドイツ映画の巨匠フォルカーシュレンドルフは、自身の作品『ブリキの太鼓』のコメンタリーの中でギュンターグラスの同名の原作の素晴らしさについて次のように語っています。
ギュンター・グラスによって出版されたこの作品は、自分たちもヒトラーに魅せられ、進んでヒトラーのその情熱の中に身をささげていったのだということを描き出したのである。
(『ブリキの太鼓』コメンタリーより引用)
非常に興味深いのは、フィンとジャナという2人の元ストームトルーパーの若いキャラクターが登場した点でもあります。
一方、ファーストオーダーは自分たちの戦力を増強するために「若者」狩りをすると作中でも明言していました。これは当然トルーパーとして戦わせるためでしょう。
つまり、今作において何も知らない若者たちがファーストオーダー(ないしファイナルオーダー)の野望に加担させられ、そして何となくそれに流されて、市民の殺害に一役買ってしまう若者がいたということがこの2つの情報から分かります。
強制的に連行されたところから始まったとしても、最終的にはファーストオーダーの野望に共鳴して任務を遂行していた若者だっているはずです。
そう考えると、フィンやジャナのようなストームトルーパーとしてファイナルオーダーに仕えた若者たちは、フォルカーシュレンドルフが指摘しているような、ヒトラーが現れた時にそれに自ら加担する姿勢をとってしまったドイツ国民の姿に重なると言えます。
しかし、フィンやジャナは自らの意志でそれが間違っていると判断し、そこから抜け出すことができました。
また、人間というものは、支配されることに安心を感じる傾向があると言われますが、当時のドイツ市民たちはヒトラーを半ば肯定してしまっていたんですよね。しかし、それでも抵抗した人は少なからずいたわけです。
この状況って『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』におけるダース・シディアスとレジスタンス、そして一般市民の関係性に似ているんじゃないでしょうか。
今作の世界における一般市民たちはファイナルオーダーによって支配されることを半ばあきらめにも似た気持ちで受け入れてしまっているのです。
今の時代における若者は、もう第2次世界大戦の時代を知らない世代ですし、ヒトラーのような独裁者がいる時代を知らない世代とも言えます。
歴史は繰り返すのだとして、私たちの世界に再びヒトラーのような「絶対悪」が現れた時に、私たちはどうすれば良いのでしょうか?
これこそが『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』においてレイたちレジスタンスやこの世界の住む市民たちが置かれた状況なのかもしれません。
迷った人たちの背中を押すのは、『スターウォーズ』シリーズのレジェンドたちです。
レイの背中を押したのはルークとレイアであり、レンの背中を押したのはレイアとハンソロであり、そして市民たちの背中を押したのはランドでした。
かつての伝説の一部である彼らが、若い世代の背中を押し、立ち上がらせることで、繰り返されようとしている負の歴史を断ち切ろうとしているのです。
そしてそのために重要なのは、レジスタンスのような少数精鋭が果敢に立ち向かうことではなく、市民が立ち上がり、NOを突きつけることでもあります。
ディズニー『スターウォーズ』は確かにプロット自体はオリジナルトリロジーの焼き直し感に満ちてはいましたが、繰り返される歴史に何も知らない世代がどう立ち向かうのかを考えさせてくれるという点では、現代性を有していたと言えるのではないでしょうか?
ラストの黄色いライトセーバーについて
本作のラストでタトゥイーンを訪れたレイが持っているのは、黄色い刀身のライトセーバーでした。
これまでのシリーズにおいてライトセーバーの刀身は緑色やら紫色といったパターンもありましたが、基本的にジェダイが「青」、シスが「赤」となっていました。
そういう意味でも「黄色」はそのジェダイとシスの概念とは別に確立された色でもあります。
レイが『スターウォーズ』の世界にバランスをもたらす者だと考えても、一応は妥当性のある色ではないでしょうか。
また、黄色は幸福や希望を象徴する色でもありますから、壮大なサーガの1つの結末としては相応しいものだったと言えるかもしれません。
こういう視覚的な分かりやすさで、お茶を濁さないで欲しかったとは思います。
ちなみにですがアニメシリーズの『スターウォーズ』で黄色いライトセーバーを使うキャラクターが登場します。
ジェダイテンプルの守護者が持っているライトセーバーが黄色なんですよ。
これがエピソード10以降の物語で何らかの形で関わってくるのかどうかは定かではありません。
ただ、今回レイを呼ぶ声の中に『クローンウォーズ』や『反乱者たち』のキャラクターも交じっておりましたので、アニメシリーズの要素が今後クロスオーバーしてくる可能性は高いとみて間違いないのではないでしょうか。
過去の作品への言及が見られる小ネタ
記事の最後に、『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』の中で描かれたいくつかの過去作への言及をご紹介してみようと思います。
ウェイファインダー
今作のキーアイテムとなった「ウェイファインダー」ですが、実は『スターウォーズ』シリーズにおいては似たようなアイテムが既に登場しています。
それが『スター・ウォーズ 反乱者たち 』の劇中にも登場する「シスホロクロン」というアイテムです。(ちなみに言うと「ジェダイホロクロン」もありますが)
『スター・ウォーズ 反乱者たち 』より引用
このアイテムは、長らく惑星マラコアにて管理されており、その中にはシスの英知が詰まっていたとされています。
今回の『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』では、逆にシスの本拠地(テンプル)を指し示すアイテムとして用いられましたが、そのデザインからして影響を受けたことは間違いないでしょう。
「2人の掟」と「死を欺く力」
そもそもシスの暗黒卿であり、ダースシディアスの師であったダース・プレイガスは、死を欺き、ミディ=クロリアンを捜査して、新しい生命を作り出すことができたとも言われています。
しかし、ダースシディアスはその力を受け継いでいるわけではなく、しかし、彼はその伝説を誘惑の材料とし、アナキンをダークサイドへと引き込みました。
その点で、「死を欺く」という行為そのものがシスの伝説の1つでもあり、彼はそれを見事に達成したと言えるのかもしれません。
そしてもう1つシスにおいて重要なのは、「2人の掟」です。
同じ時代に存在できるシスの暗黒卿は2人までという原則であり、これはダース・ベインという人物によって取り決められました。
『スターウォーズ 帝国の逆襲』や『スターウォーズ ジェダイの帰還』においてベイダーがシディアスを殺して親子で銀河を支配しようと提案するのも、シディアスがベイダーを殺せと唆すのもこの「2人の掟」が絡んでいるからなんですね。
スピンオフシリーズでも惑星マラコアにあるシスのテンプルには2人のフォースの使い手が同時にいないと入れないという仕様になっていました。
『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』では、「ウェイファインダー」が2つ作られていたというのが、「2人の掟」を仄めかしていますよね。
また、終盤にダースシディアスがレイとレンの能力を吸収して、復活を遂げましたが、ここでも「2」という数字がちらついています。
このように本作においてシス関連の情報に「2」という数字が絡むのは、「2人の掟」という事情があるからなのです。
レイを呼ぶ声は誰のものだったのか?
『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』で気になっている方が多いのは、やはりレイの覚醒時に呼びかけていたジェダイの声の主は誰だったのかという点ですよね。
もちろんアナキンやクワイガンジン、オビワン、ヨーダといった面々は非常に分かりやすいのですが、声だけでは判別できないキャラクターもいました。
ただ、エンドクレジットを見ていると、一応キャラクター名とキャストがクレジットされていたので、あの時聞こえたのは10人の声でしたが、その大半が明白になっています。
- アナキン・スカイウォーカー
- オビワン・ケノービ
- ヨーダ
- クワイ・ガン・ジン
- メイス・ウィドウ
- アイラ・セキュラ(EP2&3に登場)
- アディ・ガリア(EP1&EP2や『クローンウォーズ』に登場)
- ルミナ―ラ・アンドゥリィ(Ep2や『クローンウォーズ』に登場)
- アソーカ・タノ(『クローンウォーズ』『反乱者たち』等に登場)
- ケイナン・ジャラス(『反乱者たち』等に登場)
特にプリクエルトリロジーの頃に登場したジェダイたちがこんな形でレイたちの物語に関わってくるというのは、非常に印象的でした。
あとは『クローンウォーズ』や『反乱者たち』といった映画シリーズとは違った物語に登場するジェダイたちまで登場させたのは、本作の総力戦感を一層高めているようにも感じました。
チューイのメダル
『スターウォーズ 新たなる希望』のラストにレイアが戦いで活躍したルークやソロたちにメダルをかけるシーンがあります。
というのもなぜかチューイはレイアからメダルをかけてもらうことができないんですよ。
この件には「チューイはメダルをかけてもらうには身長が高すぎた」「チューイは自分でメダルをかけるから」といった弁解が為されているようですが、今作『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』でその論争がようやく結実したと言えます。
チューイはマズ・カナタからレイアより送られたメダルを無事に授与されていました。
ただ、この描写が描かれたことで、『スターウォーズ 新たなる希望』の時はチューイはメダルもらえなかったんだという事実が補強されてしまう形にはなりましたね(笑)
細かなセリフや行動についても
今作『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』では、細かいセリフや行動に至るまでルーカスの『スターウォーズ』への小ネタが詰め込まれています。
- カイロレンが部下の首をフォースの力で締める
- エンドアの戦いで活躍したイウォークの登場
- ルークがXウイングを水中から引き上げる
- ハンソロが息子ベンに「I know.」と告げる
1つ目はかつてダースベイダーが自分の部下に対して同じこと行動を取っていました。
3つ目はかつて『スターウォーズ 帝国の逆襲』においてヨーダが水中からXウイングを引き上げたシーンへのオマージュを捧げていると言えます。
そして4つ目は言わずとも明らかですよね。
他にも数多くの小ネタが散見されましたが、また後程追記していこうと思います。
「スカイウォーカーの夜明け」というタイトルの意味を探る
(C)2019 Lucasfilm Ltd. All Rights Reserved.
さて、記事も終盤ということで、最後に今作のタイトルの意味について改めて考えてみようと思います。
それを読み解く上で、重要なのが、スカイウォーカーの物語の始まりとも言えるアナキンの存在です。
パドメへの愛と執着に囚われたことが、彼がダークサイドへと落ちていくきっかけともなってしまったわけですが、元はというとアナキンは妻のパドメをフォースの力で救おうとしたんですね。
しかし、その大きすぎる不安と恐怖はダークサイドへと続いており、アナキンはダースベイダーとなり深い闇の底へと落ちていきました。
そんな彼を救ったのは、他でもないルークスカイウォーカーです。
彼はダースベイダーとなってしまった父に対して、その善なる心の存在を信じ、それに応えたベイダーは皇帝ダースシディアスを打倒しました。
そして、物語は新しい世代へと移行したわけですが、『スターウォーズ フォースの覚醒』を見てみますと、カイロレン(ベンスカイウォーカー)が非常に興味深いセリフを残しています。
『I will finish what you started.』(私があなたの始めたことを終わらせる。)
これはカイロレンがベイダーの意志を受け継いで、銀河を支配することを決意したセリフとも言えます。
つまり、ベンがダークサイドへと堕ちてしまったことで、再びスカイウォーカー家は暗い夜の闇を迎えることとなったのです。
そして、今作『スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け』の終盤で、カイロレンは父と母の愛を受けて、改心し、そしてレイと共にダースシディアスに挑みます。
その結果、レイが瀕死の状態になってしまいました。
それを見たベンは、必死に彼女のことを救おうとし、そのために自分の中に残されていた最後のフォースの力を使いきってしまいます。
ベンの愛とそしてフォースによってレイは一命をとりとめたのです。
ここでまさに彼は、アナキンが実現することができなかった「フォースの力で誰かを救う」をやってのけたんですね。
だからこそ、『I will finish what you started.』というセリフが非常に効いてきますよね。
この言葉における「what you started」が、シリーズ最終作にして「フォースで誰かを救うこと」だったと解釈できるようになるのが素晴らしいです。
また、ようやくアナキンの「what you started」がベンの手によって終わりを迎えたからこそ、今作のタイトルは『スカイウォーカーの夜明け』ということになっているのではないかと思います。
ポストエンドアの善と悪の物語としての成功と失敗
(C)2019 Lucasfilm Ltd. All Rights Reserved.
『スターウォーズ フォースの覚醒』から始まる続3部作は、『スターウォーズ ジェダイの帰還』以後の世界を描く作品です。
それはつまり、デススターが撃墜され、ダース・シディアスという絶対悪が失墜した後の世界ということになります。
この6作目と7作目の間の物語を描くノベライズシリーズも展開されておりますし、ディズニーデラックスでは『マンダロリアン』の配信もスタートしました。
では、このポストエンドアの戦いを描くシリーズに求められるものとは一体何なのでしょうか。
それは、弱い善と悪の物語なんだと私は考えています。
『マンダロリアン』のコンセプトにも「デススターやダース・シディアスが消えても、悪は消えない」というものが挙げられています。
これがエンドアの戦いで一応の完結を見た『スターウォーズ』を改めて語りなおす原動力だと思うんですよね。
オリジナルトリロジーは、ルークという主人公の善と悪の間で揺れる葛藤を描きはしましたが、あくまでもスカイウォーカー家の選ばれし者だったわけで、その物語の結末はダース・シディアスという絶対悪の打倒という形でもたらされました。
しかし、絶対悪の権化を打倒したところで、この世界からそう簡単に悪が消えることはないのです。
『マンダロリアン』は、まさにそんな圧倒的な善も悪も存在しない世界の片隅で起きる出来事を描く作品であります。
そしてそこから接続する続3部作は当然、ポストエンドアの世界観を継承することが1つの大きなコンセプトとなっていたはずです。
『スターウォーズ フォースの覚醒』はまさにカイロレンというキャラクターを通じて、「弱き悪」の端緒を描こうとしていたと思います。
そして『スターウォーズ 最後のジェダイ』では、レイというキャラクターを通じて「弱き善」の葛藤を描きました。
そんな弱き善と弱き悪の葛藤と衝突を描こうと、続3部作は努めてきたわけですが、『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』はそれを活かし切れてはいなかったように感じます。
まず、ダース・シディアスという絶対悪をラスボスとして復活させた点はどう考えても大失敗と言う他ないでしょう。
なぜなら続3部作は「ダース・シディアスという巨悪が打倒された後の世界である」という事実を前提にしているからなんですよ。
巨悪を打倒するだけでは悪は終わらないのだというコンセプトで展開した物語のラストに、巨悪の打倒という幕切れを用意するのは、明らかに悪手と言う他ありません。
この点で、『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』はポストエンドアの物語の完結編としては最もやってはいけないことをやってしまっているわけです。
ただ、悪いところばかりというわけではなくて、今作のラストで「市民」が立ち上がって、シスの軍勢に立ち向かうという展開を描いたところは良かったと思います。
ポー・ダメロンのセリフにもありましたが、「良き人たちは先導さえしてあげればちゃんとついてきてくれる」のです。
弱き善が懸命に立ち上がり、悪と対峙することを選ぶという展開を描いた点は称賛できます。
その一方で惜しかったのは、ファーストオーダーのトルーパーたちが善に目覚めるという展開は描かなかったことでしょうか。
フィンやジャナといった元トルーパーのキャラクターを登場させるという試みは面白かったのですが、本作のラストの展開的には、トルーパーたちが善性に目覚めるという展開はあっても良かったのではないかと思っています。
彼らはあくまでも何も知らないままにトルーパーとして徴兵され、知らない間にファーストオーダーという悪に加担させられているのです。
そんな弱き悪たちを善の方向へと引き寄せるような展開があると、続3部作の結末としてもっと熱いものになったのではないかと考えています。
そして何より続3部作のラストはレイ VS レンであって欲しかったと個人的には強く感じています。
『スターウォーズ 最後のジェダイ』は1度は交わりかけた2人の運命を大きく分岐させることで、「レイ VS レン」への布石を作ってくれていました。
だからこそ、単なる悪役の打倒ではなく、それを超えた「弱き者たちによる内なる悪の打倒」という新しい物語を紡ぐ下準備は出来ていたはずです。
現代に生きる私たちは、もはや「絶対悪」というものに具体的なイメージが湧かなくなっているように思います。
だからこそポール・オースターの探偵小説のように犯人性を自己の内側に見たり、アニメ『PSYCHO-PASS』シリーズのように社会的システムの内部に悪を見出すような作品が次々に生まれています。
『スターウォーズ』続3部作において、レイもレンも自分自身の内側にある小さな悪と常に戦い続けていますよね。
こうした巨悪が存在しなくなった世界における小さな善と悪の芽生えや葛藤、衝突こそ真に描かれるべきだったと思いますし、それをもってオリジナル版にはとらわれない新しい「悪の打倒」を描くべきだったと思います。
ファンからは不評である『スターウォーズ 最後のジェダイ』もこの点については押さえてくれていたので、それだけにそのコンセプトを継承できなかった今作を手放しに褒めることはできません。
市民が立ち上がり悪に立ち向かうという、理想の結末の端緒を見せてくれていただけに、ダース・シディアスを登場させるという最悪の一手を打ってしまったことが悔やまれてなりません。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け』についてお話してきました。
2回目を見終わった後に、1万字クラスでもう少し掘り下げた解説や考察を書いていく予定です。
そのため、1回目を見終わっての、率直な感情をひとまずぶつけたという状態です(笑)
2回目を見て、評価が上がるのか、それともより下がってしまうのか?
不安と期待が入り混じった2回目の鑑賞に行ってまいります・・・。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。