みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『パラサイト 半地下の家族』についてお話していこうと思います。
早速ですが、もうめちゃくちゃ面白いので、騙されたと思って映画館に足を運んでください!!
こういう強引なことを言いたくなってしまうくらいに、面白いですし、ただただジェットコースターのような展開に翻弄されます。
しかし、今回はどうしても作品の内容に踏み込んだいつものようなネタバレありの考察を書くわけにはいきません。
まず、当ブログ管理人がこの作品を見たのは、特別先行上映という枠なので、日本での一般公開日の1月10日よりも少し早いんです。
そしてもう1つ今回の『パラサイト 半地下の家族』については先行上映前の映像やパンフレットの前書きで、監督から何度も何度も「ネタバレをしないでください」というお達しがありました。
本作をご紹介いただく際、出来る限り兄妹が家庭教師として働き始めるところ以降の展開を語ることはどうか控えてください。みなさんの思いやりのあるネタバレ回避は、これから本作を観る観客と、この映画を作ったチーム一同にとっての素晴らしい贈り物となります。
頭を下げて、改めてもう一度みなさんに懇願します。
どうかネタバレをしないでください。みなさんのご協力に感謝します。
(『パラサイト 半地下の家族』パンフレットより)
ここまで言われると、映画を愛する1人として、いつものような作品の内容に踏み込んだネタバレありの解説や考察を書くわけにはいかないなと思いました。
ということで、今回の記事はいつもとは少し趣向を変えて、核心に触れるようなネタバレなしで作品を見る際にここに注目してほしい!こういう視点で見て欲しいという自分なりの解説や考察を書いていこうと思います。
ただ、「兄妹が家庭教師として働き始めるところ」までしか語れないとなると、流石に記事の内容が膨らまないので、「起承転結」の「承」の部分辺りまでは語らせてください。
1人でも多くの人が劇場に足を運ぶきっかけになることを、そして1人でも多くの方が本作を深く味わえるように配慮しながら、今回は書き進めていきたいと思います。
一応は物語の「転」にあたる部分以降のネタバレはなしで書いていきますが、作品を未鑑賞の方で、余計な先入観を入れたくないという方は、ここで読むのを止めていただけると幸いです。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『パラサイト 半地下の家族』
あらすじ
過去に台湾カステラの事業を立ち上げたりするも、悉く失敗し、今やニートとなってしまった父キム・ギテク。
キム一家は、貧困にあえいでおり、半地下の住宅で家族4人で暮らしていた。
息子のギヴは大学進学を志しているが、何度も受験に失敗し、浪人生活を続けている。
娘のギジョンは美大進学を望んでいるものの、予備校に通うお金もなく、その才能と技能を持て余していた。
そんなある日、ギヴの友人であるミニョクが訪ねてきて、自身の留学中に教え子の女子高生の家庭教師を務めて欲しいと申し出る。
高台にある高級住宅街の一角にあるIT企業の社長パク・ドンイクの家を訪れたギヴは家庭教師として毅然と振る舞い、あっという間に母のヨンギョと娘のダヘの信頼を獲得する。
帰り際に彼は、パク一家の息子がインディアンの服装で暴れまわっているところを目撃する。
絵の才能があるも、その情緒不安定さが目立つ息子のダソンを見たギヴはとある「プラン」を思いつく。
翌日、彼がパクの家へと連れてきたのは、何と彼の妹のギジョンなのだった・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:ポン・ジュノ
脚本:ポン・ジュノ&ハン・ジヌォン - 撮影:ホン・ギョンピョ
- 美術:イ・ハジュン
- 編集:ヤン・ジンモ
- 音楽:チョン・ジェイル
近年カンヌ国際映画祭では、「貧困」を題材にした作品がパルムドールを立て続けに受賞しています。
ケンローチ監督の『わたしはダニエルブレイク』や是枝裕和監督の『万引き家族』などがそれに該当しますね。
そして今回の『パラサイト 半地下の家族』も確かに「貧困」を題材にした作品ではあるのですが、直球勝負というよりは、かなり変化球で勝負していて、単純にエンタメ映画としても楽しめるような作りになっている点が秀逸です。
監督を務めたのは、ポン・ジュノで彼は、『殺人の追憶』や『グエムル 漢江の怪物』と言った作品を手掛けたことで韓国内外で非常に高く評価されています。
撮影には『哭声』や『バーニング 劇場版』などで圧巻の手腕を披露したホン・ギョンピョが起用され、今作でもそのエッジの効いたカメラワークを存分に披露してくれています。
編集には『1987、ある闘いの真実』や『新感染』などの話題作にも携わってきた人物で、今回も最高の編集で映画をさせてくれたのがヤン・ジンモでした。
- キム・ギテク:ソン・ガンホ
- パク・ドンイク:イ・ソンギュン
- パク・ヨンギョ:チョ・ヨジョン
- キム・ギウ:チェ・ウシク
- キム・ギジョン:パク・ソダム
- イ・ジョンウン:ムングァンイ・ジョンウン
- キム・チュンスク:チャン・ヘジン
『殺人の追憶』や『グエムル 漢江の怪物』にも出演したソン・ガンホが、今作でも見事な演技を披露してくださいました。
をの他にも韓国の人気俳優たちが多く出演しており、その点でも見応えはある作品と言えるでしょう。
より詳しい情報を知りたいという方は、映画公式サイトへどうぞ!
ポン・ジュノ監督の過去作とアカデミー賞作品賞受賞について
まずは、ポン・ジュノ監督アカデミー賞受賞おめでとうございます。
いやはや外国語映画賞は確定的でしたが、まさか主要3部門独占とは予想だにしませんでした。
本作『パラサイト』は作品賞、監督賞、脚本賞、外国語映画賞の4部門を制しました。
もちろんアジア圏の映画がアカデミー賞で作品賞を受賞するのは、初めてのことであり、「アメリカ映画の健全な発展を目的」とした同賞の歴史とそして位置づけを大きく変革させたと言えるのではないでしょうか。
正直に申し上げて、今年のアカデミー賞で本作『パラサイト』が受賞できるだろうと予想していた人は少ないと思います。
第91回アカデミー賞の作品賞ノミネート作品を見ていると、明らかにアルフォンソ・キュアロン監督の『ROMA』がずば抜けて優れていました。
当然、多くの人が同作の作品賞受賞を期待しましたが、アメリカとメキシコの合作であり非英語映画であった本作は、Netflix配給だったことも足かせとなり、結果的に外国語映画賞と監督賞の受賞に留まりました。
そのため多くの人が『パラサイト』が同じ運命を辿るだろうと予見していたのは事実です。
とりわけ今回のアカデミー賞は『1917』と『パラサイト』の一騎打ちに近いという見立てが為されており、この2作品が作品賞と監督賞を分け合うだろうというのが既定路線でした。
私自身も、授賞式で脚本賞と監督賞をポン・ジュノが受賞した時点で、作品賞は『1917』に決まりだなと思いました。
何と、もはやだれもがあり得ないだろうと思っていた状況をひっくり返して作品賞を受賞したのです!
もう、感動感動ですよ・・・。
これは、アカデミー賞が従来アメリカ人会員中心で投票されていたものであったのに対して、近年急激に非白人、非英語圏の人たちから会員を募ってきたことが大きく影響したようにも思います。
まさに「アメリカ映画のための賞レース」だった同賞が、世界の映画の中心的賞として、その存在価値を大きく高めた瞬間とも言えるのではないでしょうか。
ポン・ジュノ監督は韓国でも、そして世界的に見ても類まれなる才能の持ち主ですが、今までの作品を見ていると、オスカーには嫌われそうな作品もありました。
最も有名なのは『殺人の追憶』だと思われますが、その次に撮った『グエムル 漢江の怪物』は実に痛烈なアメリカ批判でした。
2000年に在韓米軍が大量のホルムアルデヒドを漢江に流出させた事件がありましたが、これをベースにしていたり、アメリカが行ってきたベトナム戦争を痛烈に批判したりする内容となっています。
そういう意味でも、ポン・ジュノ監督は本作を取るにあたり、あくまでも韓国国内の貧困問題にフォーカスし、社会風刺の内容であるという点も前面に押し出してきました。
ポン・ジュノ監督の過去作に満ち満ちていた毒気はすっかりなくなりましたが、ただアカデミー賞で勝負するには、その辺りは犠牲にすべきという大人の事情があるかもしれません。
また、今回の一件で、日本映画は遅れているというニュースが出回っていますが、個人的に思うのは、やっぱり日本人監督で海外の現場で撮影したことがある人が少ないという点です。
ポン・ジュノ監督も過去に『スノーピアサー』でハリウッドに進出していますが、韓国とは違う映画の現場の洗礼を浴び、かなり苦労した様子が作品の出来栄えから伝わってきます。
それでも作品の出来はともかく、ハリウッドで映画を撮れたことがその後の大きな糧になっていることは間違いないでしょう。今作『パラサイト』は海外で経験を積んだ彼が、韓国資本で改めて映画を作り、そして大躍進したという構図にも見えます。
ただ、是枝監督が『真実』をフランスで撮ったようなことは日本の映画監督ではレアケースで、残念ながら日本の映画監督の多くは国内でしか作品を作っていません。
今回は、やはりポン・ジュノ監督の圧倒的な才能ありきの受賞ではありますが、韓国は10年以上の長い時間をかけてハリウッドを模倣し、自分たちの国の映画産業を育ててきました。自国のクリエイターの海外進出へも手厚いサポートがあります。
その結果として日本とは対照的なほどに映画産業もそれを享受する観客も成熟しているのです。
こんなことが起きたから、今すぐに日本も国が映画にお金を出して・・・なんてことはしなくても良いとは思いますし難しいですが、業界として良い物にはお金を出す、人を出す、時間を出すという習慣を改めて根づかせていく必要があると思います。
そして何より自国の映画作品や映画クリエイターが外に出て行くサポートを金銭的な面だけに限らず、もっとしていく必要があると思います。
このようなエポックメイキングな作品を劇場で鑑賞できたことを嬉しく思いますし、日本の映画のこれからを考える上でも1つ大きな出来事でしょう。
ポン・ジュノ監督、今回は本当におめでとうございます!
『パラサイト 半地下の家族』解説・考察(微ネタバレあり)
社会性を盾にしない圧倒的演出力
社会問題を扱った作品は、その事実自体が免罪符になって、映画としての出来が見過ごされてしまうことも少なくありません。
今年公開された映画の中でも、ケン・ローチ監督の『家族を想うとき』は確かにイギリス労働者階級の悲哀をリアリスティックな目線で描いてはいましたが、映画としての演出力には欠けていた印象を受けました。
しかし、ポン・ジュノ監督は本作『パラサイト 半地下の家族』が「貧困」を扱った作品であるということに甘んじる姿勢を一切見せることがありません。
単純に映画として演出力が卓越しており、それでいてエンターテインメント性も非常に高いのです。もちろん「貧困」を題材にしており、その主題について深く考えさせられる内容であることも担保されています。
これほどまでの手腕を見せつけられてしまうと、「この作品は主題に意義があるからいいんだよ!」というある種の社会派映画特有の「逃げ」はもはや許されないような気がしてきます。
ネタバレなしで語ると決めたので、序盤の映像・展開でポン・ジュノ監督の巧さを感じた部分をお話していきます。
まず、開始から1分程度の何気ない映像シークエンスで、キム一家の経済状況を観客にそれとなく伝えてしまう演出は流石としか言いようがありませんね。
ファーストカットは半地下の住宅の窓から外の通りを伺うショットで、その後カメラが下に移動していき、室内ではキム一家の息子ギヴとむすめギジョンがどこかに繋がるWi-Fiの電波がないかどうかを探している場面を描きます。
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キム一家は、スマホを持っているという点で、経済状況的に最底辺というほど貧しいわけではないのだけれども、それを持っていても電波が入らないくらいには貧しいんですよね。
そして淡々と家の中を映し出していくのですが、水圧が弱いが故に家の中の高いところに設置されているトイレ、ゴキブリやコオロギがうじゃうじゃ、通りで散布されている消毒剤が部屋の中に入ってくるなど、笑えるようで笑えない悲惨な状況が淡々と映し出されていきます。
鑑賞する我々はこれらの一連の映像を見ると、映画の開始からものの数分で彼らの経済状況を何となく把握できるようになっているんですね。
そして序盤の映像・展開において、もう1つキム一家の状況ないし映画全体の構造を暗に仄めかす役割を果たしていたのが、「ピザ屋の内職」のシーンです。
キム一家は仕事がないために、ピザ屋のバイトのさらに下請けで、ピザを入れる箱を組み立てるという内職に家族4人で取り組んでいます。
私たちの社会は下に下に世界が広がっていくようにできていて、宅配ピザの会社があり、そこには社員がいて、さらに配達スタッフという末端に近いアルバイトがいて、そしてその先には箱を組み立てるという末端の内職が存在しています。
つまり「下には下がいるのだ」という我々の社会構造の真理を、サラッとピザ屋のアルバイトと内職担当のキム一家の関係性の中でちらつかせているのです。
ピザ屋のアルバイトは、もちろんキム一家の仕事が雑だからという理由が大きいが、彼らの内職に対する対価をさらに切り詰めようとしています。
このシーンでは人間は自分よりも下に見ている人間に対して無意識に不寛容になってしまう残酷さを持ち合わせていることと、キム・ギテクが貧困を抜け出すために何か努力をしようとするタイプではないことを我々に印象づけます。
そしていよいよ物語は高台の高級住宅街にあるIT企業の社長パク・ドンイクの家へと移っていきます。
1つには、下から上へというアングルを強く意識したカメラワークが用いられていることで、これから向かうパク・ドンイクの家庭が、キム一家と比較して、どんな経済状況にあるのかが端的に透けて見えるようになっています。
ギヴが高台の高級住宅街へと向かって行くシーンでは、カメラが坂の下からのアングルになっており、彼が画面の上部へとフェードアウトしていくようなショットが採用されました。
また、詳しくはネタバレになるので伏せますが、パク家の邸宅の中のシーンでは、1つの映像の中で2つの出来事が同時に起きているというショットが多用されている点に注目していただきたいです。
例えば、ギヴが邸宅にやって来て、母のヨンギョが彼を娘の部屋へと案内するべく上の階へ上がっていくシーンは印象的です。
この案内のシークエンスが画面の左端で行われている一方で、画面の右端で家政婦のムングァンがダイニングで食べ物を片付けているシークエンスが同時に展開されていました。
こういった1つの映像の中で2つの出来事を描くという映像は、実は『パラサイト 半地下の家族』のその後を暗示する重要なカメラワークとなっています。
ネタバレになるので、冒頭の情報だけを掻い摘んで話してみましたが、パッと目についたところだけでもこれほどに映像や脚本、そして演出面の巧さを感じさせてくれます。
ストーリーテーリングや登場人物の立ち位置の説明の巧さはもちろんとして、独特のカメラワークで映画全体に漂う「居心地の悪さ」を生み出している点はポン・ジュノ監督の本領発揮とも言えるでしょう。
これらの冒頭の情報は、『パラサイト 半地下の家族』の映画全体の構造にももちろん密接に繋がっています。
ここまでに指摘した描写に注目しつつ、そして一体どんな展開が待ち受けているのかを自分なりに推測しながら鑑賞すると、物語の当事者の1人になったような気がして、楽しめるのではないかと思います。
韓国の社会状況や災害を踏まえて
韓国という国は、急激に経済成長してきた国ですが、近年その停滞感を顕著にしています。
まず、韓国は太平洋戦争期は日本に併合されていましたが、1945年の終戦を経て、独立を果たします。
しかし、1950年には朝鮮戦争が勃発し、国がどうしようもないほどに荒廃してしまうという事態に陥りました。
それでも韓国民たちは、そんなどん底から立ち上がり、1960年代半ば頃から、経済成長率10%付近を維持する急激な経済成長を遂げました。
この急激な経済成長は「漢江の奇跡」としばしば呼ばれるわけですが、もちろんこの経済成長には多様な背景があるとされています。
まず、教育の普通化が進み、比較的優秀な労働者が大量に確保できる環境が国内にできていたことが1つ重要なファクターです。
韓国政府はこれを活用するためには戦略的資源配分と海外からの資本(外貨)調達という2つのアプローチをとりました。
政府の経済企画院は定期的に「長期開発計画」を発表し、政府が財閥を手厚く支援したことを背景に、収益性や利益性を無視した開発や投資が積極的に行われていったのです。
さらに韓国の国内市場が狭かったことや外貨が不足していたという状況がアメリカとの関係性強化に繋がり、とりわけベトナム戦争が始まると「朝鮮特需」と呼ばれる現象が起こり、韓国製品がアメリカへと一気に流入し、韓国には外貨が舞い込んできました。
また、アメリカが韓国を軍事的な面でサポートしたことにより、韓国は国防費に回す分の予算を自国の経済発展のために使用でき、その頃に結ばれた日韓基本条約に基づいて流入した日本からの資金供与及び貸付けも相まって、一気に経済成長を遂げることが可能になったわけです。
ただ、最初にも申し上げたように歪な経済発展だったという面は否めないわけで、結局は政府が支援する財閥系の企業ばかりが大きくなってしまったんですよね。
近年、韓国ではサムスン、現代自動車やなどの「5大財閥」と呼ばれる企業への資本の集中が顕著になっていますが、このような状況を作り出してしまった原因は、「漢江の奇跡」にあったわけです。
しかし、この経済成長にも陰りが見え始めます。
外国からの特需がなくなり、内部需要の小ささが顕著になったこと、労働力が不足するようになったこと、さらに政府主導の利潤度返しの経済成長に限界があったことなど多様な条件が重なり、韓国は経済的に苦しい状況に置かれます。
そして大きな転換点になったのが、1987年の「民主化宣言」でしょう。これにより韓国内では政治飲酒化の方向へと突き進み、財閥系の公企業の民営化や反独占政策の推進が行われたのです。
そこから1997年に起きる「韓国という国家の破綻」へと繋がっていくわけですが、これは政治の民主化が進む一方で、開発主義時代の遺産である韓国金融機関のモラールハザードが生き残ってしまったことが大きな原因であるとされています。
つまり、経済の自由化や開発主義(利潤を無視して開発を進める傾向)からの脱却を図っていたにもかかわらず、金融機関が親財閥系企業的な立場を取り続けたが故に、銀行の経済状況が切迫していき、アジアで起きた外貨危機に対する免疫が備わっていなかったというわけです。
結果的に、IMFの配下で緊縮財政を強いられ、経済成長を目指す環境が失われてしまったことで、韓国では大規模なリストラが敢行され、多くの人が職を失いました。
1997年だけに限らず、2007年にはリーマンショックによる煽りを受け、再び通貨危機に陥り、そして2019年にも韓国は通貨危機に陥りました。
こういった度重なる経済的な不遇の結果、韓国では中間層が没落してしまい、経済状況が二極化するという事態に陥っています。
『パラサイト 半地下の家族』という作品における2つの家族の存在は、まさにこういった韓国の経済状況のコンテクストを背負ったものとして描写されます。
韓国の首都ソウルで朴槿恵前政権を糾弾する反政府デモが行われた際に若者から「自殺するために勉強したんじゃない!」という悲痛な叫びが漏れ聞こえたそうです。
韓国では、若者の失業率が10%に近く、これは日本の3%付近という数値と比較すると、非常に高いものとなっています。
加えて、「就職意思があるが積極的な就職活動を行わない人、短時間働き、それ以上就業の意思がない人」という『パラサイト 半地下の家族』におけるキム一家のような人たちをも含めた「体感失業率」の尺度で見ると、何と若者の25%付近が「失業中」という異常な状態なのだそうです。
本作におけるギヴは大学に入るために必死に勉学に励んでいますが、例え大学に入れたとしても明るい未来が保証されているとは言えないのが韓国という国なのです。
結果的に、優秀な韓国の若者たちは国外へと雇用を求めるようになり、頭脳流出も懸念されています。そして優秀な若者が国内で雇用に恵まれず、絶望し、没落していくという状況も生まれています。
劇中で「プラン」という言葉がしきりに登場するので、本記事を読んだ方は、ぜひそこに注目していただきたいと思っています。
韓国は戦後政府主導で「プラン」を提示して、経済成長を遂げたわけですが、結果的にその「プラン」は破綻してしまいました。
そして個人レベルで見ても、近年、大学に入り企業で働くという「プラン」を夢見ていても、それが上手くいかずに絶望する若者が多いという状況が散見されます。
つまり、韓国の人たち特に若者は自分たちの「プラン」を持てない状況へと追い込まれているのです。
経済的困窮から這い上がれないという停滞感、そして未来への明るい展望(=プラン)が持てないという絶望感が韓国を支配しており、そんな状況に危機感を感じたポン・ジュノ監督は本作を製作しました。
作中では、近年韓国で多発し、甚大な被害をもたらしている「水爆弾」つまり集中豪雨のコンテクストなんかも持ち込まれており、非常に現代性が強い作風となっています。
また、韓国で起きている事象というのは、日本人として他人事とは捉えられない問題でもあります。
日本でも今まさに経済の二極化が進んでおり、抜け出すことのできない貧困が今まさに存在しています。
映画としても純粋に面白い本作ですが、「貧困」を主題にした作品としても非常にウィットに富んでおり、エッジが効いています。
私たちはなぜ「人の下に人を作ろ」うとするのか?
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私たちは、みんなで豊かな生活を目指そうという方向になぜか一致団結できない傾向にあります。
日本では2016年にNHKがニュース番組で「子どもの貧困」について報じたことが大きな波紋を広げたことは記憶に新しいと思います。
この特集では、アルバイトの母親と2人暮らしという女子高生がピックアップされ、経済的理由で専門学校への進学が厳しいことなどが語られ、見る人に「貧困」について考えさせる企画になっていました。
しかし、放送終了後にこの女子高生がコンサートや外食を楽しみ、キャラクターグッズを購入していたことがSNS経由で発覚し、それが大問題となり、炎上騒動へと発展します。
この女子高生は、SNSを通じて住所等のプライバシーを晒され、壮絶なバッシングに晒されました。
しかも、このネットの心内バッシングに現職の国会議員までもがSNSを通じて便乗するという騒動が起きたのです。
この騒動から透けて見えてくるのは、「貧乏人は貧乏人らしくしろ!」という考え方であり、「貧困」状態にある者に対する顕著な不寛容です。
もっと言うなれば、この騒動において「貧乏人は貧乏人らしくしろ!」という論調を強めているのは、同じ「貧困」状態にある人たちでもあり、SNSでも自分の経済状況を赤裸々に語り、出演した女子高生は「貧困」ではないとこじつけようとする傾向も見られました。
日本においては「生活保護」に対する偏見が根強いのも大きな問題です。2012年に起きた不正受給騒動が根底にあるのは間違いないのですが、「生活保護」が恥ずべきものの様に捉えられるがために、その受給を拒み、「貧困」の果てに命を落とした人もいるわけです。
『パラサイト 半地下の家族』の中で個人的に印象的だったのは「金はしわを伸ばすアイロン」という言葉でした。
私たちは、経済的に苦しい暮らしを強いられると、どうしても自分のことで精いっぱいになり、他者に不寛容になります。
そして私たちがその不満の矛先を向けるのは、雲の上の生活をしている富裕層ではなく、むしろ自分よりも少しだけ豊かな生活をしている人、そして自分よりも少しでも貧しい暮らしをしている人なのだと気がつかされます。
『パラサイト 半地下の家族』という作品は、そんな貧困の下に貧困を作り出していくという世界が下へ下へと広がっていく歪な構造を見事に表現しています。
自分よりも少しだけ豊かな生活をしている人が妬ましく、彼らを自分と同じ水準に引きずりおろしてやりたい。
そして自分より少しでも貧しい生活をしている人がいれば、彼らに対して優越感を抱き、不寛容になる。
「貧困」がもたらす負の連鎖はこのような形で社会に通底し、そして静かに社会を壊していきます。
近年何も失うものが無くなり、絶望の果てに凶行に及ぶ「無敵の人」と呼ばれる人が話題に挙がることも少なくないですが、そういった人たちはそんな負のループが生み出した怪物とも言えます。
しかし、暴力でこの社会構造を覆そうとしてもどうにもならないわけで、それについても『パラサイト 半地下の家族』という作品は見事に描写してくれています。
どうすれば、私たちは下ばかりを見て生きるのではなく、上を向いて生きることができるのでしょうか?
『パラサイト 半地下の家族』は、そんなコンテクストをも物語の中に見事に内包しており、私たちに強烈なインパクトを与えます。
注目してほしい5つのキーワード
ここからは本作『パラサイト 半地下の家族』を見る上で、ぜひ注目していただきたいキーワードを5つ挙げていきます。
「窓」
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本作に登場するパク家の邸宅には、印象的な「窓」が登場します。
邸宅のリビングに面したこの窓は、さながら映画館のスクリーンの様でもありますし、ガラス張りのショーケースを思わせる作りでもあります。
外側見ると、そこには裕福で幸せな生活が広がっており、内側から見ると、そこにはただ庭が広がっているだけです。
この内側から見ると「外界から遮断された」空間のように感じられるというのが、1つ大きなポイントになっていると思います。
作中で、パク家の邸宅の庭で富裕層が集まって誕生日パーティーを催すシーンがあるのですが、この時、ギヴはそれを家の内側から眺めています。
まさに裕福な生活をショーウィンドウに展示したようにも見える、その美しい光景は韓国人たちの理想と言えるのかもしれません。
そして終盤に、ギヴが今度は窓の外から家の中をのぞくシーンがあります。
そこには変わらない豊かな生活があるわけですが、彼が最初に家を訪れた時とは、違った意味を内包しています。
窓という向こう側が見える壁を通じて、ポン・ジュノ監督が何を描こうとしているのかを分析して見ると、本作をより深く味わうことができるのではないでしょうか。
「水石」
本作には「水石」が印象的に登場します。
これは作品の冒頭で、ギヴが友人のミニョクから譲り受けたものです。
とりわけこの石には「受験の成功」に通じるようなスピリチュアルな効果があるとされており、だからこそミニョクは何度も受験に失敗しているギヴにこの石を渡しました。
また、この石は「芸術的な価値」をも内包しています。
抽象的で美しい形をした石なのですが、母のチュンスクが「食べ物が良かった。」と思わず口から発してしまったように、「貧困」の底にある者にとって価値がある者ではありません。
つまり、この「水石」はギヴにとって、「身の丈に合わない自分」の理想の象徴的事物なんだと思います。
受験に成功してきちんとした職に就き貧困から脱出するという「プラン」とそしてこんな芸術的事物を味わえるだけの生活的余裕を手に入れたいという「ホープ」がこの「水石」には込められています。
この視点で見ると、本作『パラサイト 半地下の家族』の後半に待ち受けているこの石の処遇をより深く理解することができると思います。
「鍵」
本作『パラサイト 半地下の家族』においてもう1つ重要なモチーフを上げるとするならば、「鍵」でしょうか。
鍵があれば、扉を開けて、向こう側の世界へと足を踏み入れることができます。
しかし、逆に言えば鍵がなければいつまでもその内側に閉じ込められてしまうこととなります。
韓国の若者たちが置かれている現状は、まさにこの後者の状況ではないかと推察できますよね。
自分のプランがあって、そしてそこに至るまでの扉は目の前にあって、その向こう側の世界も薄っすらと垣間見えているのに、その扉を開ける鍵だけがどうしても手に入らないのです。
キム一家は、パク家に入り込んでいく中で、彼らの家の「鍵」を獲得していきますよね。
それは自家用車であるベンツの「鍵」であり、家政婦として様々な部屋や場所に出入りできるようになる権限であり、そして子供たちの心の「鍵」でもありました。
だからこそキム一家は自分たちが、貧困の世界から抜け出す扉を開けるための「鍵」を手に入れたのではないかと錯覚してしまうのです。
ぜひ、本作の後半に「鍵」というモチーフがどのように扱われているのかに注目してみてください。
そしてそこに反映されている、韓国の若者たちが抱えている閉塞感と絶望感を感じ取って欲しいと思います。
「臭い」
本作において、非常に印象的に登場するのは、やはり「臭い」だと思います。
見た目や経歴はいくら偽造できても、貧しい者たちと裕福な者たちには決定的に違うものがありそれが「臭い」という形で本作中で具現化されています。
とりわけ当ブログ管理人が興味深かったのは、ギヴたちが家族4人でパクの邸宅で宴会を開く場面です。
芸術家が設計した美しい邸宅のリビングのテーブルに無造作に並べられた酒とつまみ。
彼らの行動は明らかにその空間に不釣り合いであります。
つまりこのシーンというのは、どんなに豪華な家に住んでいても、その行動や振る舞いで、ライフスタイルや社会的地位が透けて見えてしまうという恐ろしさです。
特に子どもは生まれてから自分の生まれ育った環境を「スタンダード」として社会を見るようになります。
何とも面白いのは、ギヴたちは自分たちの「切り干し大根のような臭い」に全く気がついておらず、ヨンギョやドンイクばかりがその匂いに不快感を感じています。
つまり、「臭い」とは単なる臭いに限らず、その人の一挙一動に染みついた「貧しさ」のことでもあり、キム一家はその自分たちの生まれ育った環境が持つ「臭い」が当たり前すぎて気がつかないのです。
本作『パラサイト 半地下の家族』はそれをコメディメイドに描いていますが、これは実は恐ろしい問題です。
ぜひ、本作を鑑賞する際には「臭い」というキーワードには注目してほしいと思います。
「半地下」
本作において主人公のキム一家が住んでいるのが「半地下」の住宅です。
この住宅は、ほとんどが地下にありながらも、少しだけ地上が見えており、それでいて地上にいる人からはあまり中が見えていないという状況にあります。
裕福な人たちには、貧しい人たちなど眼中にないことが本作では痛烈に演出されます。
彼らは貧困に苦しんでいる人たちを差別したり、嫌っているわけではなく、ただ単に眼中にないだけなのだと感じさせられました。
しかし、その一方で、貧しい人たちは半地下から虎視眈々と地上に住む裕福な人たちの姿を見ているのです。
ここにこそ本作においてキム一家が「地下」ではなく「半地下」に住んでいることの意味があるとも言えます。
私たちの生きる現代社会はグローバル化が進行し、先進国では富裕層と貧困層の格差が一気に拡大しています。これは今まさに日本でも同様の傾向が見られますよね。
そして特に韓国では所得の下位20%の層と上位20%の層の所得水準にとんでもない隔たりが生じ、それが現在進行形で拡大し続けているという危機的状況が生じています。
韓国では「財閥」系の企業が圧倒的なシェアを誇り、韓国産の恋愛ドラマなどを見ていると、しばしば財閥の子息が登場し、華やかな生活を送っています。
貧しく暮らしている人たちは富裕層の豊かな生活を眺望のまなざしで見つめています。
「貧富の格差は感じますか?」
「強く感じています。私はここから、あの高層マンションに上っていく人の姿をいつも眺めていますから。遠くから眺めていても格差は感じます。貧乏は自慢になりません。でも貧しいせいで、教育を受けられないために、まともな職場に就けないし、そのようなことが積もり積もって、抜け出すことができないのです。」
「見えないガラスの壁のせいでそれを壊して進んでいくことができない。」
(『韓国社会が向き合う格差の実態』より引用)
その一方で、富裕層は自分たちの利益が守れればそれで良いのであり、グローバル化が進行する世界で、国内ではなく常に国外に目を向けています。
だからこそ本作『パラサイト 半地下の家族』に登場するパク一家には、キム一家が「見えていない」のです。
ぜひ、この作品を見て、そして「半地下の家族」というタイトルに込められた意味は何なのかを自分なりに考えてみてください。
見えない壁と5つのモチーフが表現した残酷さ(ネタバレあり)
公開日を迎えたということで、少しだけネタバレを含む解説・考察を追記させていただきます。
ここまで5つのモチーフを取り上げて解説を加えさせていただきましたが、その中でも特に本作『パラサイト 半地下の家族』を象徴していたのは、やはり「窓」だと思います。
先ほども申し上げたように、「窓」というのは「向こう側が見える壁」と捉えることができます。
これは、まさしく韓国の社会において、貧困層から富裕層へと成り上がっていくことがほとんど不可能に近いという経済の固定化とその残酷さを表現していると言えます。
韓国において貧しい暮らしを強いられている人たち、職もなく途方に暮れている人たちは、その「窓」の向こうに富裕層の暮らしが広がっていることを知っています。
しかし、いくら見えていても、彼らがそれに近づくことはほとんど不可能なのです。
本作のラストシーンはそんな韓国社会において、父を救うために、あの窓の向こう側に行くのだと決意する少年の姿を通して、確かに希望を描いていました。
ただ、彼がパク一家の住んでいた豪邸を買い上げるシーンが「夢」でしかなかったことが象徴しているように、彼が半地下の暮らしから抜け出すことは、今の韓国社会においては途方もなく難しいのです。
そういう社会的な事情や物語における残酷さを「窓」というモチーフは上手く表現しています。
ギヴが大切にしていた「水石」は、芸術的な価値を持っているわけですから、まさしく裕福な生活の象徴と言えるでしょう。
作中では、彼がパク一家の息子の芸術鑑賞をするシーンもありましたが、これらの一連のシークエンスが仄めかしているのは、「芸術を味わう余裕がある=富裕層」という考え方でしょうか。
だからこそ、ギヴは「水石」を大切にし、いつかこんな芸術を味わう余裕のある人間になりたいと願うのです。
しかし、彼はその「水石」をパク家の隠された地下室に落としてしまいましたよね。
このシーンがまさしく彼の行く末を暗示していたように思いますし、そんな大切な「水石」に彼自身が殴りいたぶられるという描写は、成り上がろうとしても、成り上がることなどできないという残酷さを感じさせます。
そして、「鍵」についてですが、終盤のムングァンの夫が暴走するシーンで、父キム・ギテクがドンイクに、車を出せと命じられる一幕がありました。
キム一家は、パク一家に寄生することで、彼らの家や車の「鍵」を手に入れ、自分たちがそれを持つ者かのように錯覚していましたが、結局それらはキム一家はのものにはなりませんでした。
そのため、キム・ギテクが娘のギジョンを介抱している際に「鍵」を返さざるを得ない状況というのは、どんなに足掻いても、持たざる者が持つ者になることなど不可能なのだという、その圧倒的なまでの断絶を表現しています。
また、「臭い」というモチーフは、かつて強固な身分制度と上下関係が社会に通底しており、それが今も尚、空気の中に溶け込んでいる韓国社会の構造を見事に表しています。
きっとパク一家のような人たちにとっては、貧困層の人たちの暮らしなんて気にかけることもないはずで、だからこそ彼らはキム一家の人たちを特に警戒するしていないのだと思いました。
「半地下」の住宅とは、まさしく下からは見えているけれども、上からは見えていないという、富裕層と貧困層の関係を表現するのに、最適なモチーフです。
しかし、彼らがグローバル化に伴い国内から目を逸らし、国外にばかり目を向けて、今の韓国社会の危機的状況を放置し続けるとどうなるのかと言うと、まさしく『パラサイト 半地下の家族』の終盤に起きたような「無敵の人」による事件が生じてしまうのだと思います。
経済的な困窮や社会への絶望の極致には、ただ幸福に暮らしている人たちを引きずり降ろしてやりたいという衝動が待っているはずです。
だからこそ、貧困にあえいでいる人たちがその境地に至ってしまわないように、社会が目を向けていかなければならないわけで、もはや富裕層も見て見ぬふりはできないのです。
作中で、幾度となく「プラン」という言葉が登場しました。
今まさに、韓国の人たちは劇中でキム・ギテクが言ったように「プランを立てると、それは上手くいかない」という絶望感を抱えて生きています。
そのため、如何にして全ての人たちが「プラン」を持てる社会を構築していくかが韓国社会のこれからのキーであり、そしてこれは世界に通底する普遍的な課題でもあります。
ラストシーンで半地下の住宅の片隅で、高台の豪邸での暮らしの「プラン」を夢見るギヴ。
どんなに努力してもその「プラン」が実現しない社会ではなく、努力が報われ、その「プラン」を実現できる社会こそ、私たちが目指していかなければならないもののはずです。
ポン・ジュノ監督が本作を通じて、世界に問うたのもまさにこのことなのではないでしょうか?
意外と気がつかない舞台美術の凄み
本作『パラサイト』を見ていて、意外と気がつかないのが舞台美術・舞台演出の凄さです。
日本の映画だと、基本的には既存の場所、空間、街の中から監督を初めとするスタッフ陣が最もイメージに近い場所を選んで、撮影をします。
しかし、今作『パラサイト』については、街の一区画やパク一家の邸宅を実際にセットを組んだり、建築したりして撮影を敢行しているのです。
例えば、あの半地下の住宅があった貧困層の住宅街も既存の場所を使って撮影したというよりは、完全に街ごとセットを組んで撮影してしまったというとんでもないアプローチを取っています。
(C)2019 CJ ENM CORPORATION, BARUNSON E&A ALL RIGHTS RESERVED
一方のパク一家の邸宅も並々ならぬこだわりの下で製作されています。
パク一家の邸宅は元々建築家が自らデザインし、そしてそこにそのまま住んでいたという設定でした。
それ故に、実際に建築家に住宅デザインを依頼して、監督のイメージを盛り込みながらセットとして完成させていったそうです。
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もちろん、邸宅の中に置かれている家具や小道具、アートに至るまで、全てを計算しつくしたうえで、配置しており、作品の映像的なキーとなる階段もかなり意図的に配置されたと見えます。
こういった舞台美術へのこだわりに加えて、本作は照明にも並々ならぬこだわりを見せています。
舞台演出において、大きなこだわりを見せたのは、明らかに「窓」だと思われますが、キム一家の半地下の住宅とパク一家の邸宅では、その大きさに雲泥の差があります。
その違いを反映させるために、半地下の住宅においては暗めの室内照明に加えて、自然光があまり入ってこない仕上がりにし、逆に高台の邸宅では、室内照明を控えめにして自然光が入って来るように照明を調整しています。
自然光がほとんど入ってこない半地下の住宅は、やはり独特の暗さとじめじめとした雰囲気を醸し出しています。
一方の自然光が多分に入って来る高台の邸宅は、その住宅の建築学的な美と融合して、まるで1つの美術品を見ているかのような美しい風景を作り上げています。
そしてそんな邸宅には、全く光の入ってこない地下シェルターがあるわけですから、この居住領域に入って来る光の量がそのまま経済的地位を表現しているようにも感じられます。
また、多くの点で計算されているのは、やはり階段のシーンですよね。
この作品は、先ほども解説しましたが、階段を上る、下るという行為にその人物の行く末であったり、経済的地位であったりを投影しています。
とりわけそういった階段演出が機能するように住宅のデザインを作り上げた点は見事と言う他ありません。
特に、怖かったのは、パク一家の邸宅において、あの地下のシェルターへの入り口がある物置への階段は、豪華な食器棚の真ん中に作られた通路から続いている点です。
階段の演出でもう1つ印象的なのは、やはりキム一家が「雨爆弾」の日に、パク一家の邸宅から逃亡するシーンですね。
それまで彼らはあの邸宅で豪勢な宴会を開いていたわけですが、雨が降り始め、パク一家がキャンプを中止にして帰宅を始めたことで、状況が一変し、家から逃げ出す羽目になりました。
この「雨」の映え方が、2つの舞台において全く違う趣になっているのは何とも残酷です。
先ほどの自然光と同様で、パク一家の邸宅において「雨」はある種芸術品を彩るためのエッセンスのようです。
しかし、所を変えてキム一家の半地下の住宅を見てみると、「雨」は家や生活を破壊するものとして描かれています。
このように自然界からもたらされる、日光や雨といったモチーフがそれぞれの住宅にどんな影響を与え、どんな視覚的印象を生み出すのかという点を徹底的に分析したうえで、今作『パラサイト』の舞台は構築されているわけです。
この点に気がつくと、本作をより一層楽しむことができるのではないかと思います。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『パラサイト 半地下の家族』についてお話してきました。
ネタバレなしの解説・考察記事をめったに書かないので、かなり苦戦しましたが、それでも気がついてみれば1万字超えの大作記事になっていました(笑)
とりあえずはポン・ジュノ監督をはじめとするスタッフ陣の思いを受け止めて、このようなネタバレなしでの記事とさせていただきました。(公開日にネタバレありの内容を若干追記しています。)
作品の内容に深く言及せずに、語るというのも非常に考えさせられる経験となったので、今後とも自分の文章力向上も目して、多様な切り口で映画について語っていきたいと思います。
ぜひ『パラサイト 半地下の家族』を劇場でご覧ください!
間違いなく面白いです!!
とにかく面白いです!!
そして全く読めない展開に翻弄され、圧倒されること間違いなしです!!
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。