みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『デイアンドナイト』についてお話していこうと思います。
映画ファンの間で評判が良いことは知っていたのですが、公開規模も小さく、どうしても見に行くことができなかったので、配信がスタートしたと聞いてすぐさまチェックしました。
プロットの出来ももちろん素晴らしいのですが、とにかく映像が圧巻ですね。
開始数分でその豊かな映像表現に魅了されましたし、何よりタイトルが表示されるシーンが絶妙で、鳥肌が立ちました。
それでいて、善と悪について深く考えさせられるプロットの掘り下げも見事で、近年の「悪」というものの在り方を見事に捉えていたと思います。
公開から少し時期は経過してしまいましたが、どうしても語りたいことが多い作品ですので、記事にしてみようと思います。
本記事は作品のネタバレになるような解説・考察記事となります。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『デイアンドナイト』
あらすじ
明石幸次は父が自殺をしたとの知らせを受けて実家へと戻ってきた。
明石の父は大手企業の自動車のペアリングに纏わる部品の不正を内部告発したために、圧力をかけられ、仕事を奪われ「村八分」状態に追いやられていたのだった。
自らが正しいと信じてとった行動が、自分や家族、従業員たちを苦しめることになっことを悔い、彼は自殺にまで追い込まれてしまったのだ。
父がなぜ自殺に至ったのかの経緯を知らない幸次は、その経緯を知りたいと独自に調査を始める。
死の真相に辿り着いた彼は、少しずつ憎むべき「悪」の存在に近づいていく。
証拠を握りつぶし、自分たちの権益を守るために、保身のために父を追い込んだのは大手自動車メーカーの三宅良平という男だった。
一方で、父の会社に勤めていた従業員の未払い給料や退職金の支払いが残っており、金銭的に苦しい状況に追い込まれていた幸次は父の友人であった児童養護施設のオーナーである北村健一という男に出会う。
幸次は彼の下で児童養護施設のキッチン担当として働くようになるのだが、その一方で「夜の仕事」をも依頼される。
「子どもたちを生かすためなら犯罪もいとわない」という考えを持つ北村が幸次に紹介したのは、車を窃盗し、それを解体して部品を海外に販売するという違法な仕事だった・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:藤井道人
- 原案・企画:阿部進之介
- 脚本:小寺和久&藤井道人&山田孝之
- プロデューサー:山田孝之&伊藤主税&岩崎雅公
- 撮影:今村圭佑
- 照明:織田誠
- 音楽:堤裕介
- 主題歌:大野奈々&野田洋次郎
『青の帰り道』『新聞記者』でも監督を務め、一気にその知名度と評価を獲得した藤井道人監督。
その中でも特に高く評価されたのが今作『デイアンドナイト』でした。
山田孝之さんがプロデューサーを務めた本作は、主演の阿部進之介さんの原案を映画化し、現代の善と悪の物語を深く掘り下げています。
撮影には、同じく『おじいちゃん、死んじゃったって』や『ホットギミック』などで近年注目されている今村圭佑さんが起用されました。
また、「光と闇」というテーマ性の作品だからこそ非常に重要な役割を果たす照明には織田誠さんが起用されています。
彼はどちらかと言うと、暗い画作りの中での効果的な光を作り出せる照明監督だと思っていて、『ユリゴコロ』や『ごっこ』でもその手腕が光っていました。
主題歌は主演の1人である清原果耶さんがキャラクター名義で歌う『気まぐれ雲』となっています。
作詞・作曲が野田洋次郎さんであるということでも話題になった楽曲ですね。
- 明石幸次:阿部進之介
- 北村健一:安藤政信
- 大野奈々:清原果耶
- トモコ:小西真奈美
- 友梨佳:佐津川愛美
- 明石和幸:渡辺裕之
- 明石京子:室井滋
- 三宅良平:田中哲司
主演の1人である清原果耶さんはなんと高校生でまだ17歳ということですが、既に2度の朝ドラ出演も経験しており、その演技も圧巻のレベルに達しています。
広瀬すずさんが成人したということで、現状10代の女優では最もその演技が高く評価されている女優と言っても過言ではないのではないかと思います。
今作でも苦しい境遇に行きながらも、微かな希望を頼りに生きる少女を見事に演じ切り、終盤に表出する絶望と葛藤、そこからの前進を真に迫る演技で私たちに突きつけてくれました。
主人公の幸次を演じたのは、企画・原案も担当した阿部進之介さんです。
脇を固めるキャスト陣の演技も圧巻で、安藤政信さんや小西真奈美さんも非常に印象に残りました。
『デイアンドナイト』解説・考察(ネタバレあり)
開始5分で引き込まれる映像的世界観
『デイアンドナイト』という作品を見ていて、まず驚かされるのは、冒頭の圧倒的な映像ですよね。
とにかくセリフがほとんどないままに登場人物が置かれている状況が淡々と提示されていくのですが、このシークエンスが今年見たどの映画よりも雄弁で、豊かなのです。
まず、本作は海辺にそびえたつ風力発電機を映し出します。その回る方向を見てみると、画面右から吹き込む風を受けて、時計回りに回っているようですね。
そしてその次のカットで画面右方向から進行してくるバスを映し出します。これが直前の風力発電機に影響を与えていた風の吹く方向と一致しているように感じさせる点には、注目したいですね。
その後のカットで、主人公の幸次が実家に戻って来るシーンの直前に、止まっていた風車が少しだけ時計回りに回転を始める模様が映し出されています。
つまりこれらの一連の映像シークエンスは、「固定化されていた時間」を動かしていくというコンテクストを強く意識させるように作っていて、幸次が実家に戻って来ることで、何かが動き始めるのだということを予感させるのです。
ちなみに後のカットで、彼が止まっていた歯車の形をしたオルゴールを動かすというカットもありましたので、これは極めて作為的に取り入れられたカットですよね。
その後、居間で幸次が父の亡骸と対面するシーンがあるのですが、ここでも特にエモーションるを表に出そうとすることはありません。
続いて映し出されるのは、家族写真とネジなどの部品で作られた人形です。
家族写真はもちろん、特に素晴らしいのがこの「ネジなどの部品で作られた人形」を映し出したカットですよね。
まず、部品で作られているという点が、父親の職業像をぼんやりと浮かび上がらせる役割を果たしている上に、彼が子供のために仕事道具の一部でおもちゃを作ってあげているというコンテクストが父子の関係性や父の性格をそれとなく伝えています。
そして、その後の食卓のカットで幸次が「何があったの?」と父の自殺の真意を図りかねているセリフが出てくるのですが、このタイミングでというのがまた絶妙です。
直前の「ネジなどの部品で作られた人形」で何となく仲の良い父子関係を私たちは想像できますから、このセリフがあることで、何らかの形でその関係性の断絶が起きたのだということがはっきりと理解できるようになっています。
まさにその通りで、ここで事情を伏せるからこそ、その次のシークエンスで提示される本作のメインテーマがずしんと重たく響くように計算されているんですね。
彼が部屋に戻り、父の手記を紐解くと、そこには「善と悪はどこからやって来るのか。そして私は今、どちらにいるのだろうか。」という哲学的なメッセージが記されています。
父の身に起きたことを、具象から提示していくのではなく、まずは哲学的で抽象的な事象から提示していくことで、見る人の注意を惹きつけようとする工夫が為されていますよね。
そこから淡々と人の死に纏わる手続きが為されていくのですが、家族の表情に宿る苦虫を噛みつぶしたような葛藤と苦悩がその「死」の背後にある事象の重たさを感じさせてくれます。
ここまでが物語の本筋が動き出すまでの、5分~7分程度のシークエンスなのですが、その間セリフは非常に少なく、淡々と映像が提示することに努めています。
それ故に、「善と悪はどこからやって来るのか。そして私は今、どちらにいるのだろうか。」という本作を通底する言葉がズシンと重みをもち、その抽象的な言葉から登場人物の置かれた状況を推察しようとする心理的作用が働きます。
今村圭佑さんの映像が素晴らしいことはもちろんとして、ここまで戦略的に映像と言葉を組み合わせて、観客を物語の世界に引き込む工夫がなされていることに圧倒されました。
良い映画は開始5分で物語や登場人物の説明を終え、観客を引き込むとよく言われますが、本作『デイアンドナイト』はそのお手本の1つとも言えるイントロだったと思います。
内在化され不可視化されていく「悪」の物語
(C)「デイアンドナイト」製作委員会
「悪」というものは宗教的世界や哲学的世界の産物であり、特に宗教的教義においては、「悪の何たるか」は明白であったと思います。
元来、「悪」とはゾロアスター教の二元論に代表されるように、宗教的世界観の中で取り上げられており、「この世のすべてのことが善と悪の抗争である」という言葉に代表されるように、2つをはっきりと区別していました。
キリスト教の世界の中にも善と悪の区別は存在していますが、それらが現代社会における善と悪の審判において効果的に機能するかと言われると、それは難しい部分があります。
だからこそ、私たちは今の社会をベースにしながら、「悪」とは何なのかを真に考えていかなければなりません。
というのも、私たちは「悪いものは悪い」という非論理的なアプローチで、「悪」を規定する傾向があります。
その事象が今日の社会でなぜ「悪」と位置づけられるのかを検討しないままに、思考停止をした状態で、「悪」であると決めつけてしまうということでもあります。
大虐殺は「悪」であると私たちは断言したいところなのですが、ナチスドイツ政権下ではユダヤ人虐殺は正当化されていましたよね。
つまり社会が変われば善と悪の境界線は変わりますし、善の側にいたものが、気がつくと悪の側にいる場合もあり、その逆も然りなのです。
作中の児童養護施設ではキリスト教の教義が読み上げられており、まさに宗教的価値観に裏付けられた絶対的「善」の存在が仄めかされていました。
18世紀から19世紀初頭に活動したマルキ・ド・サドは「悪の文学者」として知られています。
彼の作品は、盗みや殺人などのアンチキリスト教的な行動を一貫して描き、ある種それを正当化するような内容になっていました。
サドは「富の不平等が全面的に狂わせている」として、弱者が裕福な人間から盗みを働くという行為を正当化しているのです。
何はともあれ、この時代には明確な外部悪が存在しており、そして宗教的・哲学的な観点から「悪」の何たるかが定義されていたため、単純明快であったと言えます。
また、19世紀に『シャーロックホームズ』シリーズなどが発行され、黄金期を迎えた探偵小説というジャンルも「犯人」という「悪」の存在が明確に存在し、それを「正義」の側にいるホームズが暴くという構造でした。
しかし、20世紀に入り、少しずつ「悪」の在り方は変化していくこととなりました。
興味深い悪役と言えばジョージ・オーウェルの『1984年』に登場するビッグ・ブラザーが挙げられるでしょうか。
管理社会を描いたSF作品ですが、この作品の中では「ビッグ・ブラザーがあなたを見守っている」というスローガンが幾度となく登場し、政府が市民を監視していることが仄めかされます。
ただこのビッグ・ブラザーは実体をもって登場するわけではなく、あくまでも管理社会の象徴として登場する「悪」です。
つまり、このころの作品になると、「悪」というものがシステムに内包されるようになるのです。
また功利主義者のベンサムによって構想された「パノプティコン」と呼ばれる監獄のシステム(元はベンサムが自身を中心にしたハーレムを形成するために構想したとも言われる)を哲学者のフーコーが『監獄の誕生 監視と処罰』において社会の在り方に転用して論じました。
このように20世紀の悪というものは肥大化していく社会システムの中に見出されるようになったのです。
同様に探偵小説も興味深い方向へと移行していきます。
例えばポール・オースターの『幽霊たち』という作品では、主人公の探偵は依頼人からとある男性を監視して欲しいという依頼を受け、監視するようになるのですが、次第に自分が監視しているのは自分自身なのではないかという問題に巻き込まれていきます。
これまで犯人という自分の外にある存在を探偵が暴いていくという構造であった探偵小説が、探偵が自己の内部に犯人性を見出していく構造へとまさに転換されているのです。
これにともなって『シャーロックホームズ』シリーズのようなモダニズム探偵小説を、ホームズに内包された犯人性を読み解くという試みもなされました。
このように私たちにとっての「悪」というものは外部悪ではなく、むしろ自分たちの社会ないし自分自身の中に溶け込む内部悪へと変換されるようになりました。
一方で、近年新しい風潮も見え隠れしています。
アニメ『PSTCHO-PASS』シリーズや今年公開されたオリジナル映画『HUMAN LOST 人間失格』は絶対的「善」を保証するシステムの内部に「悪」を見出していく物語でありつつも、システムの外部や私たちの外部に生じ得る「悪」の可能性を示唆しています。
『PSTCHO-PASS』第2期と『HUMAN LOST 人間失格』はどちらも冲方丁さんの作品だからこそその世界観が通底しているのも頷けます。
最近ニュースで取りざたされているひき逃げ事件を起こしても尚、逮捕されない飯塚幸三氏が「悪」であると国民から大バッシングを受けるのは、単純に彼が人を殺害したことに加えて、彼が私たちの生きる社会のシステムから逸脱しているという観点が見え隠れしています。
この作品は、まさに「悪」の在り方の変遷を1つの人間ドラマの中に落とし込んでいるとも言えます。
序盤部分では、主人公が父を陥れたとされる三宅良平や、父の集めた証拠を横流しにした元社員のような人物が単純悪として描かれ、それに立ち向かった父の和幸が正義であるかのように描かれます。
また、北村健一という男は児童養護施設で恵まれない子供たちを養っていくために違法行為に手を染めていますが、彼の論理はある種マルキ・ド・サドの作品のそれに近いものがあります。
(C)「デイアンドナイト」製作委員会
しかし、その構造は物語の中で徐々に変化していきました。
絶対正義であるかのように思っていた父の和幸も実は盗んだ車の解体に協力していたという事実があり、一方で三宅良平にだって大切に思う家族がいて、守りたいものがあるのだという事実があったことが判明していくのです。
さらに言うなれば、主人公の幸次も児童養護施設で恵まれない子供たちのために料理を作るという昼の顔を持ちつつも、夜は車の窃盗に加担しています。
善は悪であり、悪は善である。まさに「悪」というものが自分たちの生きる社会や自分たち自身の中に内包されていく過程を見ているようでもありました。
幸次は自分自身を父親の姿に重ねるようになり、父が内包していた善性と悪性を自らの身をもって感じるようになりました。
終盤に彼は、自分の父親や自分自身を苦しめた三宅良平を殺害しようとしますが、それを実現させることはできませんでしたよね。
彼は良平にも家族がいて、そして彼も必死に何かを守ろうとしている人間であることを知っています。そして、後悔の中で人生を送ることとなった北村が、復讐のために娘のいる父親を殺害したことを深く悔いていることをも知っています。
だからこそ、彼は「大切なモノを守ろうとしている」三宅という男を殺すことができなかったのです。
私たちの社会において絶対的な「正義」や絶対的な「悪」というものは、もはや存在し得ないと思います。
存在するとすれば、それは私たちの社会システムから逸脱した存在でなければ不可能でしょう。
しかし、私たちはそのシステムの中から逃れることはできません。そのシステムの中で不確かな「善」と「悪」のレッテルを貼られて、生きていくことしかできないのです。
ラストカットはまさに夜と朝の間のような薄暗く、それでいて仄かに明るい景色の中で、大野奈々が乗るバスが走っていくシークエンスになっています。
善も悪もないそれらが混じり合い同居する世界の中で、ただ人は自らが選ぶ「後悔なき道」を善であると信じて生きていくしかないのかもしれません。
風力発電機と鳥が象徴したもの
本作『デイアンドナイト』には、風力発電機と空を飛ぶ鳥のカットが幾度となくインサートされます。
風力発電機は、夜と朝の時間帯によって、海から吹く風、陸から吹く風が入れ替わり、その回転する方向が変化しますよね。
風力発電機は時計回りに回転するか、それとも反時計回りに回転するのかを、風によって決定づけられ、自らの意志でそれを選択することはできません。
すると時計回りに回転しているものが反時計回りに回転しているように見え、逆に反時計回りに回転しているものが時計回りに回転しているように見えますよね。
人間の善と悪の在り方ってまさにこういうものだと思っていて、私たちは抗えない運命に右に左にかき回されて、それを見る方角によって「時計回り」と「反時計回り」が反転するのです。
そして地上から柱で繋がれている風車は、このシステムから逸脱することを許されません。
そんな風力発電機と対比的に描かれているのが、空を飛んでいる鳥なのでしょう。
彼らはどちらの方向に飛ぶのかを自ら決定づけることができ、システムに縛られることはありません。
ラストカットを見てみますと、大野奈々が乗るバスと空を飛ぶ鳥たちが同じ方向に飛んでいく光景が映し出されています。
彼女は路線バスに乗り、システムの中で自らの行く先と到着する場所が決定づけられている一方で、鳥たちは数ある選択肢の中からこの方向を選んでいるという点で、同じ方向に進んでいる2者ですが、その性質には決定的な差異があります。
つまり鳥たちは、先ほど挙げた私たちのシステムから逸脱することで存在しうる可能性のある絶対的「善」や絶対的「悪」の表象なのかもしれません。
しかし、路線バスに乗る大野奈々は決してそこに辿り着くことはできません。それでもシステムの中で、自分の道を選び生きていこうとするのです。
それが「善」なのか「悪」なのかは分かりません。
社会の在り方はどんどんと移り変わっていきますし、科学技術の進歩によって「善」と「悪」が反転していくこともあるでしょう。
その曖昧な領域の中で、それでも自分たちの在り方に葛藤し、自らの後悔しない道を選び取ろうとする。
(C)「デイアンドナイト」製作委員会
それこそが人間であり、その「過程」にこそ「善性」は宿り得るのかもしれません。
『デイアンドナイト』という作品は、私たちに明確な答えを提示する作品でありませんが、善と悪についてひと時でも考えさせてくれる作品です。
「善とはこうである」や「悪とはこうである」を提示するわけではなく、それを考え続けることこそが大切なのであると強く発信しているように感じられました。
空の色は青だと決めつける必要はありません。赤でも黒でも良い。そして緑でも良い。
そのどれもが正しくて間違っている。
そんな状況で空の色は何色なんだろうかと考え続けることこそが人間の為すべきことなのでしょう。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『デイアンドナイト』についてお話していきました。
エンドロールで流れる主題歌の『気まぐれ雲』がまた素晴らしいので、ぜひその歌詞に注意して聞いてみて欲しいですね。
土砂降りの心に
ちょうどいい天気はくれない
(『気まぐれ雲』より引用)
私たちは誰しもが「ちょうどいい天気」を求めているんだと思います。
日差しが強すぎる日も、土砂降りの日も、風が強すぎる日も、暑すぎる日も、寒すぎる日も、そのどれにも属さない「ちょうどいい」が存在するのかどうかは分かりません。
それでも「ちょうどいい」があると信じて生きていくことが人間らしいとそう思わせてくれます。
ぜひ、本作を観て、深く考えてみて欲しいと思います。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。