みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『カイジ ファイナルゲーム』についてお話していこうと思います。
まずこの類の映画を見に行く時点で、説明的なセリフがどうとか演出がテレビドラマすぎるなんてことはもう今更言うつもりはありません。
実写版の『カイジ』シリーズは「マンガ実写化」の成功例として語り継がれている感がありますが、以前からこの手の「映画的なダメさ」を内包していた作品です。
ただ、そういったものを補って余りあるほどの藤原竜也さんや香川照之さん、伊勢谷友介さんの熱演があり、魅力的な心理戦・ギャンブルがあったからこそ、エンタメとして楽しめていました。
説明台詞上等!!
安っぽい演出上等!!
面白けりゃ良いじゃん!!
これくらいの気持ちで『カイジ』の実写版シリーズを追いかけてきたからこそ、今回の『カイジ ファイナルゲーム』は映画的にダメであったとしても面白くないなどということは万が一にもないと思っていました。
それがですよ!!
まさかのですよ!!
圧倒的つまらなさ!!キンキンに冷えてやがるっ!!
だったんです。
昨年、多くの映画ファンがワースト候補として挙げていた『麻雀放浪記2020』という作品がありましたが、作品のクオリティや世界観、脚本のレベル、劇中ゲームの酷さはかなり似ていると思います。
今回は本作『カイジ ファイナルゲーム』のどこが圧倒的なヤバさの原因となっているのかを探りながら、自分なりにどうすれば面白くなったのかを考えてみようと思います。
本記事は作品のネタバレになるような感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『カイジ ファイナルゲーム』
あらすじ
2020年・東京オリンピックの終了を機に日本の景気は急速に悪化し、国債の総額は1500兆円というとんでもない金額に膨れ上がっていた。
物価は異常なまでに高騰し、国民の生活は荒廃し、一部の富裕層が貧困層を搾取する社会構造が構築されてしまっている。
カイジは派遣会社を経由して、安賃金で肉体労働に従事するなかで、そんな社会構造に疑問を感じるようになる。
そんな時、彼は帝愛グループ企業の社長に出世した大槻という男に、「バベルの塔」というゲームに参加しないかとの提案を持ち掛けられる。
大槻から借金をし、何とか「バベルの塔」に勝利したカイジは、その勝利者報酬として「人生逆転のためのヒント」を得る。
そのヒントが指し示した場所にいたのは、同じく大阪で行われていたゲームに勝利した桐野加奈子という女性と、ゲームの主催者の不動産王、東郷滋という男だった。
彼がこのゲームを主催した目的は、崩れ行く日本という国を救うことだった。
政府は秘密裏に「預金封鎖」「新紙幣発行」の計画を進め、国民の預金残高を国債の返済に充てようとしていたのだ。
カイジと加奈子は「天性の運」「天性のギャンブル強さ」の持ち主として、東郷滋と共に国家の陰謀に立ち向かうこととなるのだが・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:佐藤東弥
- 原作:福本伸行
- 脚本:福本伸行 徳永友一
- 撮影:小原崇資
- 照明:木村明生
- 編集:佐藤崇
- 音楽:菅野祐悟
これまでの実写版『カイジ』を手掛けたことでも知られ、テレビドラマシリーズでも『ごくせん』、『マイ☆ボス マイ☆ヒーロー』、『14才の母』、『家政婦のミタ』などヒット作を多く手掛けてきた佐藤東弥さんが引き続き監督を務めています。
まあ良くも悪くもドラマシリーズっぽい演出が目立つわけですが、多くの人を惹きつけるエンタメ性の高い作品に仕上げるための演出は決して悪いものではないと思います。
そして脚本には、原作者の福本伸行さんと『翔んで埼玉』『かぐや様は告らせたい』の徳永友一さんがクレジットされていますね。
徳永友一さんは『翔んで埼玉』で一気に評価を高め、その後の『かぐや様は告らせたい』でその評価を一気に落とした印象があります。
今回は原作者の福本伸行さんが絡んでいることもありますので、彼の原案を映画用にコンバートする役割を果たしていたのではないかと推察します。
撮影には、こちらもテレビドラマ畑の小原崇資さんを起用しています。
実写版『カイジ』の第1作には、北野映画なんかでも撮影を担当していた柳島克己さんを起用していたんですよ。
彼の存在が実写版『カイジ』の緊迫感溢れる映像に大きく貢献していたことは、2作目そして今作『カイジ ファイナルゲーム』を見ても明らかなのです。
編集には昨年『愛がなんだ』や『さよならくちびる』でその手腕を評価された佐藤崇さんが起用されましたが、今回の編集は明らかに違和感がありましたし、所々映像のつなぎにミスがあるような印象すら受けました。
劇伴音楽はこれまでの2作品と同様に菅野祐悟さんが担当していますが、今作は明らかに劇伴音楽を用いるタイミングが悪く、音楽が作品のノイズになっている印象すら受けました。
- カイジ:藤原竜也
- 高倉浩介:福士蒼汰
- 桐野加奈子:関水渚
- 廣瀬湊:新田真剣佑
- 黒崎義裕:吉田鋼太郎
- 東郷滋:伊武雅刀
まず、主人公のカイジ役にはお馴染みの藤原竜也さんですよね。
彼はこの役で一気にその人気に火をつけたといっても過言ではありませんから、思い入れのある役ではあると思います。
そして本作のヴィランである高倉浩介役には福士蒼汰さんが起用されています。
『ラプラスの魔女』を見た時に、彼は結構悪役も似合う俳優だと認識していたので、今回の『カイジ ファイナルゲーム』も密かに楽しみにしておりました。
演技面は悪くなかった印象ですが、どうしても『カイジ』シリーズの悪役のしかもラスボスとしては、どうしても迫力や威厳に欠けていたので、これはキャスティングの問題かと感じました。
そして桐野加奈子役には『町田くんの世界』で映画でデビューを果たした関水渚さんが起用されました。
『町田くんの世界』の時は粗削りな演技が逆に巧く機能していたのですが、今作ではちょっと苦しい印象を受けましたね。
何というか、自分のセリフがないけれども、映像に映り込んでいる時の挙動で見せる演技の引き出しが少ないのか、棒立ちやわざとらしい相槌を打っている場面も目立っていて、そういった「間」の部分の演技をもう少ししっかりと見せて欲しかったですね。
映画的には、かなり残念な内容でしたが、吉田鋼太郎さんの悪役っぷりは良かったと思っています。
威厳や風格的には、彼がラスボスでも良かったのではと思ってしまいますが、「カイジの悪役」らしい悪役を見事に演じ切っていたと思います。
より詳しい情報を知りたいという方は、映画公式サイトへどうぞ!
『カイジ ファイナルゲーム』感想・解説(ネタバレあり)
日本 VS カイジの構造が生んだ光と闇
(C)福本伸行 講談社/2020映画「カイジ ファイナルゲーム」製作委員会
まず、本作『カイジ ファイナルゲーム』はこれまでとは打って変わって「社会派な」内容に寄せたというのが、大きな変化でした。
その世界観は、明らかに今の日本が向かって行く可能性のあるポストオリンピックのディストピアを模しています。
労働者を搾取する異常な労働、給料から天引きされていく年金や社会保障、それにも関わらず年齢が引き上げられ、挙句の果てには廃止されるのではないかとも言われる年金、上昇を続ける消費税、貧富の差の拡大・・・。
こういった諸問題を取り込んだ世界観がまさしく『麻雀放浪記2020』にそっくりである所以なのですが、『カイジ ファイナルゲーム』はきちんと物語の主軸にその世界観を紐づけることには成功しています。
つまり、貧困層や民衆の「民衆を導く自由の女神」的存在としてカイジを位置づけることで、「日本 VS カイジ」という構造を作り出したわけです。
冒頭に、派遣会社にカイジたち派遣労働者がクレームをつけるシーンで、権力者に揺さぶりをかけられると、労働者たちは声を上げることができないという状況を描いていました。
日本人の気質的に、どうしても自分から立ち上がって、声を上げづらいという状況はありますし、そんな中で国民のために戦おうとする「ファーストペンギン」的にカイジを描くことで、社会問題へのこのシリーズなりのアンサーとしても機能していました。
では、これらの社会問題を絡めて、「日本 VS カイジ」という大きな構造を生み出したことが必ずしも良かったのか?と聞かれるとそうではなかったと思います。
個人的に強く感じたのは、あまりにも物語構造やギャンブルの対立構造を肥大化させ過ぎたがために、カイジという一人の自堕落な男が、自分の人生や金銭をかけてギャンブルに挑む、その哀愁と必死さが失われてしまったことです。
これまでの2作品だって、彼は自らの人生を切り崩し、そして借金を背負い、地下労働施設に一生囚われる危険を背負いながら、帝愛グループとの戦いを続けてきたわけです。
彼が自分の人生をベットしているからこそ、自分の金銭をベットしているからこそ、『カイジ』シリーズの緊迫感や重厚感は生まれていたと思うんですよ。
その点で、今回の『カイジ ファイナルゲーム』は「日本 VS カイジ」の構図に持ち込むために、カイジが人の金でギャンブルをする言わば「雇われギャンブラー」的な扱いにされています。
失うものなど何もない彼が、自分の人生をベットして、失うものを作り出してまで挑むギャンブルに私たちは血を滾らせていたわけで、他人のふんどしで相撲を取るカイジには、あまり魅力を感じません。
そもそもカイジ本人には預金もないわけで、仮にギャンブルに敗れたからと言って失うものはありません。
その代わりに、今回の『カイジ ファイナルゲーム』では、彼がギャンブルに敗れたら、日本国民全員が破滅に向かうというあまりに大きすぎる枠組みが用意されていました。
ここまでいくと、あまりに「失うもの」の規模が大きすぎるので、地下施設の一個人のギャンブル対決描写に、それを投影して見ることが難しくなってしまいます。
そして、今回唯一カイジが自分自身をベットして挑んだのが、あの「ドリームジャンプ」だったわけですが、これも全く盛り上がりに欠けましたね。
というより本筋に寄与するサブエピソード的な扱いのギャンブルだったため、大したいかさまやギミックがあるわけでもなく、スパイ映画のような要領でサクッとクリアしてしまったので、せっかく彼が「命」をベットしたのに、その重みが感じられない演出になっていました。
このように、社会問題やポストオリンピックの日本を世界観に溶け込ませて、「日本VSカイジ」を描きたかったのは、分かるのですが、それにより『カイジ』シリーズ本来の魅力がまるっきり失われてしまったことは残念に感じます。
ギャンブルが1つ残らずつまらない
これが個人的に今回の『カイジ ファイナルゲーム』の最大の減点対象なのですが、本作で登場する4つのゲームが1つ残らず、どうでもいい上にあまりにも運任せすぎるという点です。
まず、最初の「バベルの塔」ですが、これが「ブレイブ・メン・ロード」を模した構図を作り出すための舞台装置であったことは明白でしょう。
ただ、このゲームは特にトリックやイカサマがあるわけでもない、ただの「早い者勝ち」の戦いなので、何も面白くはないんですよね。
しかも、このゲームの大きな問題点はカイジが他の群集よりも優位な立場でゲームをスタートしているというところにあると思います。
本作におけるカイジの戦いが熱く感じられるのは、いつだって彼が逆境に立たされ、圧倒的に不利な状態で戦うところにあると思っています。
つまり、「バベルの塔」の開催場所をいち早く知っていて、事前に準備をしているという他の参加者よりも圧倒的なアドバンテージを得ている状態の戦いなんて、見ても全く熱くなれないわけですよ。
そうであれば、カイジはフェイクの開催場所を知らされていて、他の参加者たちよりも出遅れた状況から戦って、それをひっくり返して勝利するという展開の方が良かったと思います。
ただ、「バベルの塔」についてはゲームとして単純に映画に出して良いレベルの代物ではないですし、これが原作者考案かと思うと、本当に「Eカード」や「ブレイブ・メン・ロード」と同じ人が作ったゲームなのか?と愕然とします。
そして本作の目玉であった「人間秤」ですが、これもまた酷いとしか言いようがないですよね。
まず、このゲームにおいて観客をアッと言わせるような「イカサマ」が登場しないのが、大問題だと思いました。
『カイジ』シリーズのギャンブルの面白さは個人的に、相手のイカサマをどう攻略するか、また相手のイカサマをいかに逆手にとるのかの駆け引きにあります。
この映画の中で「人間秤」に関連して描かれたイカサマは、基本的に黒崎が自らの権力を活用して、システムそのものに圧力をかけていたり、ギャンブル施設そのものに圧力をかけていたりというある種の「政治工作」でしかありません。
そしてこのゲームで大きな疑問を感じざるを得なかったのは、名画のくだりだと思います。
黒崎が利根川だったら、間違いなく事前に名画がどれくらいの価値を持っているかの査定はするでしょうし、それに基づいて、勝利するためにはどれくらいの金銭が必要になるのかを計算するはずです。
それくらいの初歩的な審査すらせずに、会場で名画の価値はいくらだろうかとワクワクしている黒崎が本作のメインヴィランの1人であるという事実にがっかりさせられました。
ギャンブルそのものがしょうもないことは置いておいて、単純に派遣労働の長に対して、切り捨てた派遣労働者が牙をむいて勝利するという筋書きそのものは良いんですよ。
ここで、きちんとシステムに不正を施して勝利しようとした黒崎に対するカウンターも示せていますから、よくできています。
しかし、単純なビジュアル的問題で、あそこまで黒崎側に傾いていた天秤が数枚のコインであんなに東郷側に傾くのは、いくらなんでもファンタジーすぎて緊迫感が無くなりますよね。
そして「人間秤」に関連した描写で、個人的に最も疑問を感じたのは、観客の使い方なんですよね。
このゲームにおいて最終的に必要だったのは、派遣労働者の力を借りて勝利されたことにも代表されるように、搾取される側が搾取する側に勝利することです。
ただ、それは「お金」の力ではなく、もっと大きな力に突き動かされて成し遂げられるものであって欲しかったと思うのは、私だけでしょうか・・・。
黒崎側に傾いていた観客の心が東郷側に傾いたのは、カイジたちの言葉や行動に賛同したからでも何でもなく、ただ単に観客が勝ち馬に乗って儲けようとしただけなんですよね。
つまり、結局は「お金が全て」という結論にしかならないわけで、人は「お金にしか心が動かされない」という証明をしてしまっているとも言えます。
搾取する側と搾取される側の対立構造を描き、そこに決着をつけるのだとすれば、間違いなく最後は「お金」を超えた何かに突き動かされる人たちの行動が勝利に結びつくという展開が必要でしたし、それが描けなければ、本作に「社会派」のエッセンスを取り込んだ意味が皆無でしょう。
3つ目に描かれた「ドリームジャンプ」もお粗末と言いますか、もはやこれはスパイ映画か何かですか?という勝利法でしたよね。
この3つ目のギャンブルについても、ギャンブルそのものがしょうもないので、もう少し見せ方や演出で工夫が必要だったのではないかと思いました。
演出を軽くするのであれば、ここで加奈子の「ラッキーガール」であるという設定を活かして、彼女が命がけのギャンブルに飛び込み、あっさり勝利するという展開でも個人的には悪くなかったと思います。
もしくは演出をもっと重たくして、「命がけのギャンブル」であるという点を念頭において、描写して欲しかったですね。
この3つ目のギャンブルは、今作で唯一カイジが自分自身をベットして挑む戦いであったわけですから、そのヒリヒリとした緊迫感を映像や編集でもっと醸し出せなかったのか?という疑問が残りました。
そして最後のゲームであった「ゴールドじゃんけん」ですが、これがもう酷すぎて笑ってしまいますよね。
このゲームでは、3回じゃんけんをする際に、1度だけ「金玉」・・・すみません「金色の玉」を握りしめて、「グー」を出さなければならないという縛りがあります。
そして、グーを握りしめて相手に勝利した場合には、その握りしめていた「金色の玉」を自分のものにすることができるという設定なのです。
まず、このゲームって1回目に金色の玉を出してしまえさえすれば、後の2回はただのフリーじゃんけんなんですよね(笑)
そのため、このゲームで高倉浩介が連戦連勝しているというのは、よほど頭が悪い相手としか対戦していないのではないかと感じさせられます。
(C)福本伸行 講談社/2020映画「カイジ ファイナルゲーム」製作委員会
冒頭で金に目が眩んだ大臣と高倉が「ゴールドじゃんけん」で対戦し、大臣が3度続けて「金玉」握りしめて「グー」を出したという説明がありましたよね。
大前提として、このゲームがある程度成立しうるのは、相手が貧困にあえいでおり、どうしてもその「金玉」を手に入れて帰りたいと切望している場合に限ると思うんです。
お金が有り余っていれば、別に「金玉」に固執することはないですし、そうであれば不利な「グー」を一度目に消費して、残りのフリーじゃんけん2回で勝負すれば良くなってしまいます。
そうなれば、高倉がこのじゃんけんで連戦連勝という事実は不可解ですし、自分の政治家としての進退がかかった状況で、3回とも「金玉」を握りしめて、じゃんけんをしたというあの大臣の説明も意味が分かりません。
『カイジ』実写版シリーズの第1作では、そのラストにカイジVS利根川の「Eカード」対決がありましたが、この戦いが見ていて痺れるものになったのは、「こんなイカサマ返しは自分には出来ないよ・・・。」と明確に感じさせてくれたからだと思うんですね。
しかし、今回の「ゴールドじゃんけん」における駆け引きやトリックは、正直見ていて、「自分でも思いつくよ、そんなの。」としかかんじないんです(笑)
それに加えて、このゲームに連戦連勝している高倉が、これまで「金玉」を握らずに「グー」を出す人に遭遇しなかったというのが、あまりにも間抜けすぎて大爆笑してしまいました。
ここまで4つのギャンブルについての講評を書いてきましたが、1つたりとも魅力的なものがなかったうえに、2時間映画に詰め込みでサクサク進めていくので、全てが薄っぺらくなっていたように思います。
1作目に及ぶものは出せないと思いますし、原作通りに続編を作って「麻雀」のパートを映画化するのは難しいだろうとは思うのですが、ここまで燃えカスのような何の面白みもないギャンブルで、わざわざ続編を作る必要があったのかと邪推してしまいます。
ギャンブルに勝利する瞬間に訪れないカタルシス
やはり『カイジ』シリーズの醍醐味は、終盤にカイジがギャンブルに勝利したことで訪れる特大のカタルシスだと思っています。
実写版の2作をとっても「Eカード」や「沼」での勝利を作品の終盤に持ってくることで、特大のカタルシスを生んでいました。
しかし、今回の『カイジ ファイナルゲーム』には、それがないのです。
先ほども言及したように、ラストの「ゴールドじゃんけん」がゲームとして破綻気味な上、そのトリックもしょうもないという点もそうなのですが、「ギャンブルに勝利すること=カイジ陣営の勝利」という構図が分かりにくいのも問題です。
彼はギャンブルに勝利しましたが、その場では、高倉にトランク以外のキーを奪われてしまい、「敗北」を印象づけられますよね。
ただ、その後のサッカースタジアムでのシーンでカイジが高倉に自分が「ゴールドじゃんけん」において何を目論んでいたのかの種明かしをして、そこでようやくカイジの勝利が明確になります。
しかし、本作を観ていて、「勝ったんだ!!」という感慨深さを抱くことは特にありませんでした。
確かに第1作の「Eカード」もカイジ自身のトリックについてのネタバラシは、勝利の瞬間の後に行われましたが、今作はそれまでの「ブレイブ・メン・ロード」や地下労働の描写で、虐げられる者たちの苦悩がしっかりと描かれていたので、勝利の瞬間に、「ようやく風穴を開けたんだ!!」というカタルシスがありました。
映画は視覚志向のメディアですから、やはり物語的な盛り上がりやカタルシスも当然セリフや言葉ではなく、映像で魅せる必要があります。
そう考えた時に、登場人物の語りによるネタバラシのパートに作品のカタルシスが訪れる「勝利」の瞬間を持ち込んでしまうと、どうしたって弱くなってしまうわけです。
だからこそ、今回の『カイジ ファイナルゲーム』についても、カイジがギャンブルに勝利する瞬間にもっと映画的な盛り上がりをもたらしてほしかったと思います。
そこのカタルシスの力点が明らかにずれてしまっていたことで、終始何の盛り上がりもなく映画が終わってしまうという事態が起こってしまったのではないでしょうか?
ラストのカイジの語りも、話している内容自体は良いと思うんですが、それを映像と物語の中で語るのが、映画であって、ただセリフでべらべらと話すだけなら、それはもう「演説」ですよとしか・・・。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『カイジ ファイナルゲーム』についてお話してきました。
実写化の成功例として語り継がれるほどの作品かと聞かれると微妙なのですが、エンタメとして実写版の『カイジ』シリーズは結構好きだったので、それだけに今作は失望の連続でした。
この映画が巧くいかなかったのは、やはり物語のスケールを大きくし過ぎたことに、ディテールが対応しきれておらず、ほころびが生じ過ぎてしまったことでしょうね。
「日本VSカイジ」を原作者の福本先生は描きたかったんだろうとは思うんですが、それによって「他人の褌で相撲を取る」カイジが生まれてしまい、シリーズ本来の魅力が失われてしまいました。
加えて、新作の4つのギャンブルが総じてしょうもないというエンタメとしての致命的な落ち度があり、これで完全にノックアウトですね。
2020年の早々からとんでもないものを見せつけられてしまいましたし、多くの映画ファンが今年のワースト映画候補に入れることは間違いないであろう作品でした。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。
関連記事
福士蒼汰さんの熱演が光る東野圭吾原作のミステリー映画
関水渚さんの粗削りな演技が光る青春映画