みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『リチャードジュエル』についてお話していこうと思います。
クリントイーストウッド監督の最新作ということでもう当ブログ管理人はテンションが上がりまくりです。
前作の『運び屋』は、かなりぶっ飛んだ内容で、イーストウッドはこの作品で引退するんじゃないか?なんて思ったりもしたんですが、1年もしないうちに新作を撮るとは流石です。
とりわけ今回の『リチャードジュエル』は近年の彼の作風の流れからすると、必然に思える1本でした。
『アメリカンスナイパー』『ハドソン川の奇跡』『15時17分、パリ行き』の3本からの流れを汲んでいることは明白ですし、特に『15時17分、パリ行き』とは対になる作品だと感じました。
また、ヒーロー映画の文脈として見ても、他のイーストウッド作品と一線を画する異色の映画になっていたと思います。
「131分」という比較的長尺の映画作品ですが、イーストウッドの卓越したセンスとキャスト陣の迫真の演技もあり、本当にあっという間に終わってしまいました。
1996年のアトランタオリンピックの当時を知る人も、当ブログ管理人のように当時を知らない人もぜひ見て欲しい作品に仕上がっていると思います。
本記事は史実をベースにした作品と言うこともあり、そこに触れていく都合上、作品のネタバレになるような内容を含みます。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『リチャードジュエル』
あらすじ
リチャード・ジュエルという男は、法執行官の職業に憧れ、常に「正義」のために働きたいと願っていた。
彼は法律事務所で用具係として働いていた際に、ワトソン・ブライアントという弁護士の男に出会う。
職場の誰もが彼を「豚」扱いする中で、ワトソンだけは対等に接しようとし、彼の仕事ぶりを認めるのだった。
その後、リチャードは転職することになり、ワトソンは「困ったことがあれば、いつでも電話してくれ。」と声をかける。
学校寮の警備員として働いた後に、彼は1996年のアトランタオリンピックの期間中に、センテニアル・オリンピック公園の警備員として働くようになる。
そして突然、その夜は訪れる。
彼は公園の警備中に、ベンチの下に置かれているリュックサックを発見する。
駆けつけた警察官がその中身を確認すると、無数の釘が仕込まれたパイプ爆弾だった。
リチャードは懸命に人々の退避を呼びかけるが、ライブに熱狂する人たちはなかなか退避しようとしない。
そしてついに爆弾がさく裂し、結果的に2人が死亡し、100人以上が負傷する大惨事となってしまう。
リチャードは爆弾の危険を顧みず、必死に人々を助けようとしたこともあり、メディアで連日報じられ、「英雄」として扱われる。
しかし、とある地元メディアがFBIから極秘に情報を入手し、「リチャード・ジュエルがFBIの捜査下にある」ことを報じてしまう。
その日から一転して、彼は大量虐殺テロの「犯人」として祭り上げられてしまうのだった・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:クリント・イーストウッド
- 原案:マリー・ブレナー
- 脚本:ビリー・レイ
- 撮影:イブ・ベランジェ
- 編集:ジョエル・コックス
- 音楽:アルトゥロ・サンドバル
前作の『運び屋』が日本では2019年の3月公開で、今作が2020年の1月公開ということで、1年も経たないうちに新作が公開されるというのは、本当にとんでもないことだと思います。
日本でも三池崇史監督なんかが1年に数本新作を公開するというようなことがありましたが、ハリウッド映画で1年に1本コンスタントに新作を製作するのは、相当な労力だと思います。
今年(2020年)で90歳になるクリント・イーストウッドは一体何歳まで現役なのか・・・。
今作の原案はマリー・ブレナーがVanity Fairに掲載した「AMERICAN NIGHTMARE: THE BALLAD OF RICHARD JEWELL」という記事だったとされています。
この記事を読むと、かなり映画よりも深いところまでリチャードとワトソンの関係を理解できるので、英語の記事ではありますが、興味のある方はぜひ読んでみてくださいね。
脚本には『ジェミニマン』や『ターミネーター ニューフェイト』といった作品を手掛けたビリー・レイが起用されています。
撮影には前作『運び屋』から引き続きイブ・ベランジェ、編集には『アメリカンスナイパー』『ジャージーボーイズ』のジョエル・コックスが起用されました。
- リチャード・ジュエル:ポール・ウォルター・ハウザー
- ワトソン・ブライアント:サム・ロックウェル
- ボビ・ジュエル:キャシー・ベイツ
- トム・ショウ:ジョン・ハム
- キャシー・スクラッグス:オリビア・ワイルド
主人公のリチャードを演じたのは、ポール・ウォルター・ハウザーでした。
『ブラッククランズマン』や『アイ、トーニャ』などにも出演し、近年注目を集めていますが、今回主演として大抜擢されました。
そもそものルックスが本人に似ているのはもちろんとして、その演技も圧巻で、リチャードが抱える静かな怒りと国家に対して立ち上がろうとする勇気を力強く演じてくれました。
パートナー弁護士のワトソン役には、名優サム・ロックウェルが起用されています。
ぶっきらぼうで粗野な雰囲気でありながら、友人であるリチャードのためには労力もバッシングも恐れない姿に胸が熱くなりました。
また、リチャードの母であるボビ・ジュエルを演じたキャシー・ベイツはゴールデングローブ賞にて助演女優賞にノミネートされました。
そして敏腕ジャーナリストの役でオリビア・ワイルドが出演していますが、このキャラクターに少しケチがついているようです。
The Atlanta Journal-Constitutionは2001年に亡くなったキャシー・スクラッグスの本作における描写について、事実でなくフィクションであると明言するように『リチャードジュエル』の製作側に求めていたようです。
ただ製作サイドは、本作は信頼できる情報と事実に基づいて製作しているとコメントし、この要求を取り合うことはなかったようです。
これについてはアトランタジャーナル紙の彼女の元同僚たちも否定しており、アメリカでも議論を呼んでいるようです。
この描写は無くても映画の成立に影響を与えるものではなかったですし、ステレオタイプ的な女性ジャーナリスト像の投影に過ぎないので、避けるべきだったのではないかと個人的には思ってしまいます。
映画についてより詳しい情報を知りたいという方は、公式サイトへどうぞ!
『リチャードジュエル』感想・解説(ネタバレあり)
人生の全てが悪の担保にされていく恐怖
(C)2019 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC
クリントイーストウッド監督は『15時17分、パリ行き』と今作を対になるヒーロー映画として撮ろうとしていたのではないかと強く感じさせられました。
『15時17分、パリ行き』では、実際にテロ事件に関わり、テロリストに立ち向かった3人の人物をそのまま映画に起用するという驚くべきキャスティングも話題になりました。
同作は、まさに「市井の人々がテロに対して行動を起こしたあの一瞬」をフォーカスし、なぜそんな行動が取れたのかを、彼らの人生を振り返りながら、ある種の運命論的な視点で語っていきます。
つまりクリントイーストウッド監督は彼らの人生の1つ1つの出来事を、彼らが「市井のヒーロー」足り得た事実の担保として扱い、「人生の何気ない一瞬が未来のとある一瞬に繋がっていく」というメッセージを打ち出したわけです。
しかし、今作『リチャードジュエル』において彼が描いたリチャード・ジュエルという肖像は、まさに『15時17分、パリ行き』の主人公3人とは真逆と言っても過言ではありません。
彼は、勇気を振り絞り、幕番が仕掛けられているという異様な状況の中で懸命に人命を救助しようと行動を起こしたわけですが、後にFBIやメディアによって「ヒーロー」ではなく「犯人」として祀り上げられてしまいます。
つまり、彼は自身の人生の1つ1つの出来事を、彼が「悪」であることを保証し、妥当性を与えるためのエビデンスとして解釈されてしまったわけです。
正義感が空回りし、解雇されてしまった学校寮での警備員のエピソードや、彼が猟や射撃に興味があること、子供の頃に友人と事件と同型の爆弾を作ったことがあること、そして彼の容姿でさえも彼が「英雄に憧れる孤独な男」という犯人像に合致するための担保として取り上げられてしまいました。
しかもこれはどちらもメディアのなし得る業なんですよね。
『15時17分、パリ行き』の主人公3人だって、彼らがなぜあの時あの場所で行動できたのかを、彼らの人生に紐づけて、メディアがヒーロー性の担保にしたわけですよ。
しかし、英雄的な行動をしたとしても、過去に暗い経歴があれば、それを取り上げられて、自らのヒーロー性を否定されてしまうというのは、何と恐ろしいことなのでしょうか。
だからこそクリントイーストウッド監督は、これまで「市井のヒーロー」に目を向けてきた映画クリエイターの1人として、その悲劇的な歴史でもある「リチャードジュエル」という人物の名誉を挽回させる必要があったのだと思います。
もしも同じような事件が起こったときに、第一発見者や市民のために行動した自分の様な人が逆に「犯人」として祀り上げられる可能性があるのだとしたら、誰が行動を起こそうと思うのだろうか、と。
映画クリエイターが悲劇的な歴史に組み込まれてしまった人物の名誉を挽回しようとしたり、本来のイメージを取り戻させようとすることは少なくありません。
2019年に公開された『ワンスアポンアタイムインハリウッド』もシャロン・テートという悲劇的事件のアイコンを、1人の映画女優として取り戻そうとした作品と言われました。
クリントイーストウッド監督も、メディアやFBIによって作り上げられ、名誉を奪われた「リチャード・ジュエル」という人物をいま改めて描くことによって、失われた「ヒーロー」を取り戻そうとしたように感じられます。
人間誰しも、人に知られたくない経歴や過去があるものですし、それをこじつければ「悪」を作り上げることは可能かもしれません。
それでも、目の前で多くの人が亡くなろうとしていて、自分自身も危険な状況というのに、行動を起こそうとする勇気と正義感は誰にも否定できないヒーロー性の担保です。
人生の1つ1つが英雄的行動に繋がっていくという前作とは対照的に、一瞬の善性や正義から成る行動で人は「英雄」になり得るのだという彼なりの新しいヒーロー映画が誕生したように感じました。
扇動的なメディアと静かな勝利
(C)2019 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC
本作『リチャード・ジュエル』はまさにメディアの光と闇をくっきりと描き出す作品となっています。
近年の日本のメディアでもそうですが、金になる話題があれば、その真偽すらも曖昧なままで、ハイエナのように食いつき、報道を過熱させて話題作りをするのに、それが誤りであったと後から分かっても、訂正のニュースは扱いが矮小化されるというケースが多く存在しています。
メディアは他人の情報を好き勝手に誇大解釈、誤解釈しておきながら、自分たちの非を認めざるを得ない状況になると、途端にトーンが抑えめになるわけです。
そのために、「リチャード・ジュエル」という人物は、未だに名誉が回復されたとは言えない状態だったと思います。
というのも、彼は2007年に亡くなっていて、真犯人が逮捕されたのは、2003年のことでした。
1996年に起きた事件で、その年が終わるまでには、彼はFBIの捜査対象から外れたわけですが、やはりメディアの扇動的な報道が原因で、リチャードが犯人だろうという風潮も根強く残ってしまったわけです。
クリントイーストウッド監督は本作についてインタビューで次のように語っています。
「マスメディアはとても競争が激しく、みんながただ引き金を引きたいと思って、よく調査するということをしたがらない。当時からそういう状況だったが、多分将来はもっと悪いことになるだろう」
メディアは「引き金を自分が引くこと」にばかり興味があって、それが誰にあたろうと、間違った方向に飛んでいこうとお構いなしというのは、大いに共感できるところであります。
しかし、近年その傾向がより恐ろしいものへと変貌しつつあることは否定できません。
というのも、メディアに限らずともスマートフォンとSNSが登場したことによって、ただの一般市民が簡単に世界中に向けて情報を発信できる時代になったのです。
つまり、特に裏付けもなく個人が「つぶやき」感覚で発進した情報が、一気に拡散され、多くの人たちに鵜呑みにされて「事実」として広まってしまう危険性が高くなっているということでもあります。
Twitterを見ていると、しばしば誤った情報が大量のRTやいいねを獲得しており、時にはそれが他人の誹謗中傷に該当するような内容だったりもします。
しかし、それが誤りだと分かっても、その訂正をする内容や謝罪をする内容を後から発信しても、既に拡散されてしまった最初の情報ほどには広がらず、結果的に誤った情報だけが知れ渡った状態になることもしばしばです。
クリントイーストウッド監督もまさに危惧されていることですが、きちんと裏を取らずとも個々人が簡単に情報を発信し、拡散できてしまう時代には、メディアに限らずとも、私たち市民によって新たな「リチャード・ジュエル」を生み出してしまう危険性があるわけです。
そんな現代だからこそ、今一度私たちは、過去に誤った情報を広められ、その名誉を著しく傷つけられ、人生を狂わされたリチャード・ジュエルに思いを馳せる必要があるのではないでしょうか。
クリントイーストウッド監督は実に淡々と実話に基づいたプロットを描いていくわけですが、その結末において、リチャードとワトソンの勝利を過剰に演出することは一切ありませんでした。
むしろ彼が描いたのは、メディアの扇動的な姿勢とは対照的な「静かな勝利」です。
小さなダイナーの片隅で、リチャードとワトソンがFBIからの通知書を受け取り、静かに「勝利」を噛み締める本作のラストは、彼が名誉と尊厳と誇りを取り戻した瞬間と言えるでしょう。
普通に考えると、リチャードが国民から改めて「英雄」として認められて賛辞を贈られるというような見栄えのするラストシーンを用意するところだとは思うのですが、それをしなかったことこそが重要だと私は感じました。
彼は、世間から人生の些細な出来事の1つ1つを取り上げられて、「悪」のレッテルを貼られてしまったわけですよね。
だからこそ、そのカウンターとしてクリントイーストウッド監督はリチャードのヒーロー性を外部から担保するのではなく、彼自身の内部から溢れ出る強さと勇気でもって担保しようとしました。
本作において、最も映画的な力点が置かれていたのは、リチャードがFBIの執拗な取り調べに対して、立ち上がり真っ向から抗議をして見せるシーンです。
誰からも認められなくとも、自分の信念と心からの正義感で毅然とした態度でFBIに立ち向かい、彼は自分自身の中にあるヒーロー性を自分自身で信じ、そして証明して見せたのです。
この戦いの結末の描き方にこそ、クリントイーストウッド監督なりのリチャード・ジュエルへの敬意が感じられますね。
リチャードジュエルあるいは番号のついたタッパー
原案になったVanity Fairに掲載されているマリー・ブレナー著の記事「AMERICAN NIGHTMARE: THE BALLAD OF RICHARD JEWELL」をせっかくの機会ですので、読んでみました。
この内容を読んでおりますと、本作『リチャード・ジュエル』はかなりこの内容に忠実に作られていると感じましたし、ただ同時にリチャードが容疑者として疑われるまでにどんな人生を送ってきたのか?については多くの部分がカットされている印象を受けました。
例えば、今回の映画版を見て、彼がなぜ結婚をせず、母親と2人暮らしをしているか?のその理由が分かりましたか。
今回の映画版は、リチャードとワトソンのエピソードに絞って回想を構築しているので、基本的にそこに関わらないエピソードは省かれているということになります。
そこで、今回はマリー・ブレナー著の記事を参照しつつ、映画では描かれていないリチャードのエピソードをいくつかご紹介したいと思います。
まず、リチャードが結婚していない件についてですが、彼は過去に思いを寄せていたガールフレンドがいて、プロポーズするにまで至っているようです。
ただ、そこから結婚するには至らなかったようで、2人の関係性は破綻してしまったようです。
劇中で少しだけ語られていた内容ですが、多くの人が疑問に感じるのは、かつてリチャードが逮捕されていたという一件ですよね。
これについてですが、彼は過去にハーバーシャムでパートタイムのセキュリティ作業に従事していたことがあるそうで、その際にアパートの風呂場で騒ぎすぎているカップルを逮捕したんだそうです。
ただ、これが問題でして、彼は警官でもないのに、警官のふりをして逮捕しようとしたため、これが罪に問われてしまったわけですね。
また、彼はハーバーシャム郡保安官事務所で働き、昇進を続けていくのですが、ある日任務中に自らの乗るパトロール用の車を破壊してしまったそうで、これが原因で彼は監獄の管理人に降格させられます。
彼は、監獄で働くことが、自らの法執行官になるという夢に繋がるものとは考えられず、結果的に職を辞すこととなるわけです。
その後、彼がありついたのが映画の中でも描かれた学校寮の管理人ということになりますが、彼が務めていた学校は厳格なバプテスト派の学校でした。
そのため、校内に明確な飲酒禁止規則があり、リチャードはただそれを厳格に守ろうとしただけなのですが、その厳格さゆえに多くの敵を作ってしまい、結果的に警備員の職を追われることとなりました。
そして、彼がアトランタに戻ることになった経緯ですが、彼の母親はアトランタに住んでおり、そんな彼女が足で手術を受けることになったそうです。このことがきっかけで、母のためにアトランタに帰り、そこで新しい仕事を探しました。
こういった過去が彼にはあり、その結果として未婚のまま母親と暮らしているという事情を知っておくと、より映画を深く読み解くことができるのではないでしょうか。
これも映画の中ではスニッカーズに対する対価としてのお金というニュアンスで描かれていましたが、実際は彼がワトソンからレーダー探知機を借りていて、それを返却しなかったんだそうです。
その保証金としてリチャードはワトソンに100ドルを返却するという約束をしたそうで、ただ彼は金銭的な余裕がなくそれを先延ばしにしていたんだとか・・・(笑)
また、映画のラストでは先ほども書いたようにリチャードの「静かな勝利」が描かれましたが、彼の名誉が回復されたのは2005年の真犯人逮捕より後のことだったようです。
加えて、彼はアトランタジャーナル紙を初めとする彼の名誉棄損に関与した人や機関を訴訟し、その大半に勝利しています。
このように、マリー・ブレナー著の記事を読んでいくと、映画の中では描かれていないことや、微妙に脚色されていることなどが見えてきます。
ただ、クリントイーストウッド監督は基本的に「実話」へのこだわりが強い映画監督であり、脚色はかなり控えめになっている印象ですね。
そしてこの記事で最も印象に残ったのが、終盤に登場するこの一節です。
Then he becomes not the innocent Richard Jewell, but the Richard Jewell who may be innocent. “You don’t get back what you were originally.
この一節は、例えFBIの捜査の対象外となったとしてもリチャードは「無罪の人」になるわけでなく、「無罪かもしれない人」にしかなれないわけで、元の自分には戻れないのだということを述べています。
私がこの一節を読んで、ふと思い出した映画のシーンは、終盤に彼の家に押収物が戻されていくシーンで、母親のボビのタッパーに書かれていた捜査資料用の数字です。
タッパーに直接書かれたその数字は、もはや消えることはない、彼が「容疑者」であったという証明です。
確かに、タッパーは彼女の元に戻ってきましたが、それはもう元通りの状態ではありませんし、それこそが彼女にとってのリチャードなのだと感じさせられました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『リチャードジュエル』についてお話してきました。
本当に実話ベースの淡々としたヒューマンドラマなのに、2時間超えの映画があっという間に感じられるというイーストウッドマジックを体験してしまいました。
今作はまさにいつの時代にも起こりうる悲劇を描いていますし、特にスマートフォンとSNSが普及した現代では、よりその危険性は高まっているとも言えます。
他人を貶すような内容や誤った情報を発信してしまうことがないように、今一度自分自身を戒めることができるような、そんな作品にもなっていますね。
アトランタオリンピック期間中に起きたテロ事件の当時を知る人が見てももちろん面白いですし、あくまでも今作はリチャード・ジュエルという1人の男にフォーカスした映画なので、史実を知らない人が見ても十分に楽しめます。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。