みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね『CATS キャッツ』についてお話していこうと思います。
ミュージカルとしては非常に有名で、ブロードウェイで過去には最多公演回数を誇った演目であり、また日本でも劇団四季の同作が非常に人気であることもあり、既に多くの人がミュージカルを知っている世いう状態での映画化。
だからこそ、今更フルCGでこの作品を映画化する意味はどこにあるんだろうか?とは感じずにはいられない作品です。
北米では既に公開されており、批評家・オーディエンス共に低評価が際立っています。
大手批評家レビューサイトのRotten Tomatoesでは、
- 批評家支持率:20%
- オーディエンス支持率:53%
という悲惨な数字が目につきますね・・・。
なぜ、こんなにも悲惨な数値が目立ち、大喜利バトルのような惨状と化したレビューたちが話題になっているのかは、正直当ブログ管理人としてはピンと来ていません。
というのも、過去にイギリスに行っていた時に、『CATS』のミュージカルを拝見したことがあるんですが、正直意味は分からなかったんですよね。
そもそもミュージカル版の時点で意味は分かりませんし、原作の戯れ歌集はもっと意味が分からないという状況で、映画版に対して今になってこれだけ「意味不明」「恐ろしい」といった類のレビューがつくことそのものが意味不明なのです。
そんな疑問も含みつつ、今回はこの一見すると意味が分からない『CATS』にどんな意味が込められているのかなどを掘り下げながらお話させていただければと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
『CATS キャッツ』
作品の概要
『CATS キャッツ』は全世界での観客動員数は7300万人を超えるとも言われる大人気ミュージカル作品です。
2006年1月9日に『オペラ座の怪人』に抜かれるまで、ブロードウェイでのロングラン記録を保持していたことでも知られ、長期間にわたり人気演目として親しまれてきました。
T・S・エリオットによるノンセンスヴァース(戯れ歌集)『The Old Possum’s Book of Practical Cats』を原作としており、そこにアンドリュー・ロイド・ウェバーが楽曲を製作することで成立した作品です。
ストーリー性が高いというよりは、やはり楽曲・ダンス面の素晴らしさにスポットが当たる作品であり、その「訳の分からなさ」が不思議と人を劇場に向かわせるという独特の引力を持った作品でもあります。
あらすじ
本作『CATS キャッツ』は原作がノンセンスヴァース(戯れ歌集)であるという特性上、物語的にそれほど大きな展開があるわけではありません。
ここでは一旦、ミュージカル版がどんなあらすじになっているのかをざっくりとお話させていただきます。
満月の夜、ジェリクル・キャッツがゴミ捨て場に集まってきます。
その日は「ジェリクル舞踏会」が開催される日であり、そこで「ジェリクルの選択」が為され、1匹の猫が天上の世界へと上昇し、新しい人生に生まれ変わることができると定められています。
そうして様々な猫たちが登場し、歌い、踊っていきます。
天上の世界へと上昇し、新しい人生に生まれ変わる名誉を獲得するのは、一体どの猫なのでしょうか?
驚かれる方もいらっしゃるかもしれませんが、実は『CATS キャッツ』のあらすじって簡単に説明してしまうと、本当にこれだけなんですよね。
そのためこの物語の余白を、たくさんの猫たちの歌唱とダンスで埋めていくこととなります。
このあらすじを聞くと、映画版に「意味不明」といったレビューがついている理由も何となくご理解いただけるのではないかと思います。
原作情報
ミュージカル『CATS キャッツ』の原作はT・S・エリオットによるノンセンスヴァース(戯れ歌集)『The Old Possum’s Book of Practical Cats』です。
全部で15の猫についての詩が綴られており、この中に収録されているものを若干加筆修正しつつ、音楽をつけたものがミュージカルになっているとイメージしていただけると分かりやすいと思います。
T・S・エリオットがこの原作を著した当時、本作はあまり評判も良くなく、戯れ歌集という性質もあり、あまりウケませんでした。
しかし、そこにアンドリュー・ロイド・ウェバーの楽曲が合わさることで、全世界を魅了する作品となったのです。
ミュージカルにするにあたって、彼の他の詩集からもいくつか詩が引用されていて、有名な『四つの四重奏』の詩集や彼の未発表の詩からも引用が見られます。
ミュージカル版ないしそれを製作したアンドリュー・ロイド・ウェバーらはこの一見意味不明な詩集に見事に物語性と崇高なテーマを見出し、それを形にして見せました。
キャラクター紹介
ざっくりと本作に登場する猫たちを登場順でご紹介していけたらと思います。
ジェニエニドッツ
一日座りっぱなしのおばさん猫で、そんな様子に「ガンビーキャット」という異名をつけられています。
英語で綴ると、「Gumbie Cats」ということになるかと思いますが、「Gummby」という語は原作者のT・S・エリオットの造語であると考えられていて、元ネタは「ガム(Gum)」であるとされています。
つまりガムのように地面に一日中へばりついていて、離れないというジェニエニドッツの様子からそんな名前がつけられたのだと思います。
しかし、彼女は、決して一日中寝ているというわけではありません。
ドタバタせわしい一日暮れる頃、
ガンビー・キャット、やっと重い腰あげる。
(『キャッツーポッサムおじさんの猫とつき合う法』より引用)
つまり、彼女は「人間が見ている間は」ずっと地面にへばりついているようなのですが、人間が寝静まると起き上がって、あわただしく活動している猫なのです。
後ほど解説しますが、このジェニエニドッツのエピソードには、原作者のT・S・エリオットが掲げる人間中心主義からの脱却への志向性が強く伺えます。
ラム・タム・タガー
気まぐれで、破天荒で、それでいてクールな猫です。
この猫のネーミングはまた強烈なのですが、元ネタは「Rum Tum Tum」という音楽の時のリズムの刻み方ではないかと言われています。
『キャッツ』の邦訳版も手掛けた池田雅之さんは、この「Rum Tum Tum」というリズムに、tigerというネコ科のクールな生き物を掛け合わせたのが、ラム・タム・タガーであると推察されていました。
つまり、そんなお決まりのリズムフレーズを微妙に自分風にアレンジしてしまうような破天荒で型破りな気質を持っていることがその名前からもうかがえるのです。
グリザベラ
ジェリクルキャッツたちの華やかな世界を描いた本作『CATS キャッツ』の中で、その陰の部分を一手に引き受けているのが、この娼婦猫のグリザベラでしょう。
過去には圧倒的な美貌を誇り、人気もあったのですが、娼婦という仕事の中でどんどんと落ちぶれていき、今も盛り場をうろうろとしている哀しき猫です。
今では、ジェリクルキャッツたちの差別と軽蔑の対象とされており、誰からも受け入れられない存在となっています。
しかし、そんな彼女に長老猫のオールドデュトロノミーは慈愛のまなざしを向けています。
このグリザベラについては、T・S・エリオットの『The Old Possum’s Book of Practical Cats』には登場せず、彼の未発表の作品の一節を舞台脚本を担当したトレヴァー・ナンらが加筆して、ミュージカルに持ち込んだとされています。
そもそも彼が原作の詩集の中に、この娼婦猫の存在を持ち込まなかったのは、この詩集が子どもたちを楽しめせるために書いたものであるという性質が強く関係していると思われます。
かなりダークなテイストであり、他の15編の作品とはかなり毛色も違うということで、未発表だった作品をミュージカルを手掛けるにあたって汲み取り、見事に作品の軸に据えた点は素晴らしいと思います。
バストファージョーンズ
太った猫であり、政治とグルメが大好きなダンディ猫がこのバストファージョーンズです。
バストファー・ジョーンズは、骨と皮どころの話じゃない。
はっきりいって、かなりのおでぶさん。
パブなんか目じゃない。
行きつけのクラブが、八軒か九軒はあるからだ。
(『キャッツーポッサムおじさんの猫とつき合う法』より引用)
ただ、身だしなみはきちんとしており、お出かけをしてはよくわからない名前のレストランや酒場で食事をしているという描写が詩の中で描かれており、非常にユニークです。
マンゴジェリーとランペルティーザ
マンゴジェリーとランペルティーザは、いたずら猫であり、しばしば人間の世界からものを盗んでくるという問題児でもありました。
あまりにその手口が鮮やかであることから、人間たちからは、常に何かが盗まれると「マンゴジェリーかランペルティーザの仕業だろう!」と言われているようです。
オールドデュトロノミー
(C)2019 Universal Pictures. All Rights Reserved.
本作のメインキャラクターの1匹であり、ジェリクルキャッツたちの長老であるオールドデュトロノミーは長い期間を生きています。
原作の『The Old Possum’s Book of Practical Cats』は穏やかにのんきな生活を送る隠居猫という印象が強いのですが、ミュージカルになると、ジェリクルキャッツたちの指導者として君臨する威厳あるキャラクターへと変貌します。
このキャラクターの名前の元ネタは、『旧約聖書』の『申命記(デュトロノミー)』から引用されたと言われています。
『申命記(デュトロノミー)』に登場するモーゼが120歳まで生きたとされており、その伝説をオマージュしたのが、このオールドデュトロノミーという長老猫なのだろうと解釈できますね。
ランパスキャット
このランパスキャットも原作とミュージカルでは、大きく扱いが違うキャラクターだと思います。
原作では、犬と猫の戦いを描くという何ともユニークな「ペキニーズ一家とポリクル一家の仁義なき戦い」という詩に登場する親分的立ち位置の猫として描写されています。
しかし、ミュージカルの方では、先ほどご紹介したバストファージョーンズの取り巻きのように描かれていたりしますね。
ある種のマフィアのドン的な立ち位置の猫であり、原作の詩も非常に面白いので、個人的にはお気に入りです。
ガス&グロールタイガー
ガスは劇場猫であり、かつては有名な俳優だったようです。
年老い、足が麻痺しているためか引きずっており、その痛々しい様子が目につきますね。
ガスが原作者のT・S・エリオットの考えを強く引き継いでいるように感じられるのは、英国の古き良き時代ヴィクトリア朝に強い憧れを抱いている点ではないかと思われます。
過去の栄光と、落ちぶれた現在という点では、先ほどご紹介した娼婦猫のグリザベラにも通じるキャラクター性があると思います。
原作にあるこういった詩から過去への憧憬と遺恨、そこからの救済というテーマ性を見出したミュージカル版のスタッフは流石の一言ですね。
また、ミュージカルとしましては、このガスが回想劇の中で、自らグロールタイガーを演じるという1人2役のユニークな演出となっており、これが非常に見応えがあります。
スキンブルシャンクス
ミュージカル版の『CATS キャッツ』の中でも特に人気が高いのが、この鉄道猫スキンブルシャンクスではないでしょうか。
グラスゴー行きの夜行列車の非公式担当をしていた猫であり、原作の詩を読んでみると、彼が勝手に人間のまねごとをして働いていた気になっていたようなそんな印象も受けます。
「モーニングティーは薄めになさいますか?
それとも濃いめがよろしいでしょうか?」
スキンブル、車掌の背後に控えおり、
そそうがあってはならじ、と気を配る。
(『キャッツーポッサムおじさんの猫とつき合う法』より引用)
ただ、ミュージカル版になると、彼の号令でステージ上に機関車が完成していくという豪華絢爛な演出がひときわ目を引くということもあり、ファンからも非常に人気が高いパートとされています。
マキャヴィティ
(C)2019 Universal Pictures. All Rights Reserved.
本作『CATS キャッツ』の中で、唯一の悪役的な立ち位置で登場するのが犯罪猫のマキャヴィティです。
掟破りなど物ともしない犯罪王。
スコットランド・ヤードは手を焼くし、特別機動隊も音をあげる。
犯行現場に駆けつけても、
「マキャヴィティの姿、すでになし!」
(『キャッツーポッサムおじさんの猫とつき合う法』より引用)
原作者のT・S・エリオットは、オリジナリティもそうですが、過去の様々な文学作品や、自分が先人から学んだことなどを自身の作品の中に「総合化」する能力が高いと評価されていました。
このマキャヴィティはおそらくですが、コナンドイルの『シャーロックホームズ』シリーズの悪役であるモリアーティ教授を参考にしていると考えられます。
ミュージカル版では、華やかなジェリクルキャッツたちの世界に突如として現れ、長老猫のオールドデュトロノミーを誘拐するという役割を担っています。
ミストフェリーズ
ミストフェリーズも非常に『CATS キャッツ』ファンから人気のある、非常に華やかな猫ですね。
ジェリクルキャッツたちからも慕われており、そのマジックを駆使して、見事にマキャヴィティからオールドデュトロノミーを奪還します。
『キャッツ』の邦訳版も手掛けた池田雅之さんは、この猫の名前は『ファウスト』のメフィストフェレスから引用したものではないかと指摘しています。
ミュージカルの盛り上がりとしては最高潮と言ってもよく、ここからの『メモリー』への繋がりが最高ですね。
ヴィクトリアとシラバブ
(C)2019 Universal Pictures. All Rights Reserved.
『CATS キャッツ』のミュージカル版にはもちろん原作の中では登場していない猫も数多く登場します。
その代表がこのヴィクトリアとシラバブではないかと思います。
ヴィクトリアは、どうやら映画版の方では、主人公に抜擢されているようなので、俄然注目度は上がりますよね。
彼女は、美しい純白の猫ですが、首輪をしているため、過去に人間の飼い猫だったことが伺えます。
加えて、先ほども書いたように原作者のT・S・エリオットは劇場猫のガスのエピソードでもヴィクトリア朝への憧憬を描くなど、その時代に強いあこがれを持っていたことでも知られています。
そんな思いを汲んで、この名称がつけられたのだと思うと、何だか感慨深いものがあります。
そして、シラバブは原作には登場しませんし、ミュージカル版でも出番は少ないのですが、非常に重要な役割を果たします。
彼女は、ある種の「神の使い」的なキャラクターであり、娼婦猫のグリザベラの救済を手助けします。
クライマックスの『メモリー』をシラハブとグリザベラが共に歌うシーンは、ミュージカル史に残る名シーンと言っても差し支えないと思います。
『CATS キャッツ』解説・考察(ネタバレあり)
猫の名前ってなんだ?
本作『CATS キャッツ』が始まると、まず多くの人が疑問を感じるのは、「猫の名前」について延々と歌い始める冒頭のパートでしょう。
原作の邦訳のタイトルには、『キャッツーポッサムおじさんの猫とつき合う法』とありますから、これが何らかの形で人間と猫が付き合う法に関係しているのだということは何となく推察できるでしょう。
劇中の「猫に名前をつけること」では、「3つの名前」があることが示されています。
簡単に言うと、猫には人間につけられた名前と自分本来の名前、そして「格別の名前」も3つが備わっているのだというのです。
人間は猫を飼い始めると、必ず名前をつけるわけですが、これって猫からしたら勝手に名前をつけられているという感覚なんだということを猫の視点から表現しているのが、本作の冒頭の1曲なのです。
また「名前をつける」という行為には非常に特別な意味があります。
ジブリアニメ『千と千尋の神隠し』において「名前」というモチーフはその人のアイデンティティを示すものであり、同時に名づける側と名づけられる側の支配構造を仄めかすモチーフでした。
テレビアニメの『夏目友人帳』なんかも「名前」を巡る物語ですし、名前を巡る物語や伝承は日本に限らず世界中に存在しています。
エジプト神話におけるイシスとラーの物語もそうですし、有名な『オデュッセイア』の中でも「名前」を巡ってオデュッセウスとキュロクプスの戦いが描かれるなどしているのです。
つまり、猫たちは人間に名前をつけられることによって、彼らの支配下に置かれてしまうことを意味するんですね。
だからこそ、本作において猫たちが自分たちの名前があるんだということを声高に主張し、物語全体が「壮大な自己紹介」のような構成になっているのも、これは猫が自分たちの主体性を主張しているが故なのです。
猫の世界を猫の視点で描く
『CATS キャッツ』の映画版が多くの人に、「幻覚でも見ているかのようだ」ですとか「インフルエンザの時に見る夢」といった謎めいたレビューを書かせているのは、本作の視点の特異性にその原因があると思います。
改めて、原作のタイトルを見てみると、『The Old Possum’s Book of Practical Cats』となっているわけですが、これが『キャッツーポッサムおじさんの猫とつき合う法』と訳されています。
まず、ポッサムおじさんとはだれなのかということになりますが、これは言うまでもなく原作者のT・S・エリオット本人です。
『キャッツ』の邦訳版も手掛けた池田雅之さんは、この名前について詩人のエズラ・パウンドが彼につけたニックネームが「ポッサムおじさん」だったようで、それを気に入ってか、作品のタイトルに入れたのだと言います。
この原作は、そんなポッサムおじさんの視点で、猫が人間の知らないところでどんな行動をしていて、どんな文化や思想、歴史を持っているのかなどを事細かに語っていくという手法を取っているのです。
つまり、この作品はT・S・エリオットが猫たちの代弁者となって、読み手である私たちに猫たちの世界について伝えるという作品なんですよ。
ミュージカル版の『CATS キャッツ』では、その傾向に一層拍車がかかります。
まず、冒頭に有名な光る黄色い目が開いていくシーンがあるのですが、これは映画『ブレードランナー』の冒頭にも採用された目のカットによく似ています。
そこから解釈するならば、あの冒頭の目のシーンは、私たちが猫の世界に「目を開く」という行為を表しているのだと考えられます。
では、なぜ猫たちの世界をわざわざ猫たちの視点で描く必要があるのでしょうか。
これについて考えるにあたって、T・S・エリオットが自身の批評の中でもたびたび用いていた「客観的相関物」という用語を挙げておきたいと思います。
『J・アルフレッド・プルーフロックの恋歌』という彼の作品の中に、人間が社会の定理に苦しめられる様を針に刺された昆虫の様子で例えるという一節がありました。
これに限らずとも、彼はこのように人間の行為や感情、状態を非人間の客観物を用いて描写するという手法に長けており、今作『The Old Possum’s Book of Practical Cats』もその延長線上にあると考えられています。
つまり、彼は猫の視点で猫の世界を描くことを通じて、最終的にはその向こう側に透けて見える人間の世界を描こうとしたわけです。
また、彼は幼少の頃にピューリタンの中でも異色の流派であるユニテリアリズムの家系に生まれ育ちました。
この流派は、人間の生得の善や高貴さを強く信じており、「人間は神に似ている」などと語り、人間中心主義をちらつかせていた流派でした。
彼はそんな幼少期の自信を取り巻いていた宗教の在り方に疑問を抱いていたとも言われており、だからこそ今作では、人間中心主義からの脱却を目指したのではないかとも言えます。
この点を踏まえて、『メモリー』や娼婦猫のグリザベラの描写に込められた本作のメッセージ性を紐解いてみようと思います。
仏教的・キリスト教的世界が入り混じる救済譚として
(C)2019 Universal Pictures. All Rights Reserved.
本作が物語性に乏しいために、意味が分からないと感じる人が多いことも理解できますが、きちんと主題やメッセージ性が込められた作品であることは明白です。
その中枢にあるのは、紛れもなく娼婦猫のグリザベラが救済されていくという物語です。
かつてはそのグラマラスな容姿で多くの猫たちを虜にした猫が、時を経て落ちぶれていき、今ではジェリクルキャッツたちから軽蔑され、蔑まれる存在となってしまいました。
そんなグリザベラは過去に対して、強く後悔の念を持っており、それ故に未来へ向かって足を踏み出すことができません。
実は、今作『CATS キャッツ』では、Act1とAct2のそれぞれの終盤にこの『メモリー』という作品を象徴する楽曲を効果的に配置しています。
そこには一度目に聞いた時と、二度目に聞いた時には楽曲の印象ががらりと変化するという効果が秘められているのです。
最初に聞いた時は、過去の様々なことを悔いるグリザベラの心情の吐露であったこの曲が、二度目には、悔やまれる過去を払拭して力強く未来に向けて足を踏み出そうという楽曲に聞こえます。
こういった人生の罪や呵責、後悔が赦されるという物語構造は、T・S・エリオット自身も幼少期にはユニテリアリズム、後にイギリス国教会を信仰するなど、信仰していたキリスト教的な告解に基づいているとも言えます。
また、彼は自身の人気に火をつけるきっかけとなった『荒地』で、仏教的な輪廻転生の在り方について言及している場面があります。
「ジェリクルの選択」によって1匹の猫が救済され、生まれ変わって新しい生を生きるという設定は実に、仏教的世界観に基づいていると考えられ、その点でもミュージカル版の『CATS キャッツ』はT・S・エリオットの世界観を引き継いでいます。
加えて、『キャッツ』の邦訳版も手掛けた池田雅之さんがその批評本である『猫たちの舞踏会 エリオットとミュージカル「キャッツ」』にて「娼婦」を「聖婦」と表記したうえで、面白い論考を書かれていました。
彼によると、グリザベラは性行為という生物の「聖」なる部分を背負いながら、同時にそれを金銭でやり取りするという「負」の要素も同時に背負い込んでいるというのです。
これを考えた時に、彼女を取り巻いているジェリクルキャッツたちにもそんな2つの側面があることに気がつかされます。
彼らは華やかな生活を送っており、そういった「明」の側面がありつつも、その一方で人間の世界における「いじめ」のような行為をグリザベラに対して行っているという「暗」の部分を持っています。
つまり、誰にだって「明」と「暗」の部分があるのであり、そのどちらもが受け入れられ得るのであるという可能性を本作『CATS キャッツ』は描いているのかもしれません。
加えて、徳永暢三氏の著した彼の伝記を読ませていただき、その中でT・S・エリオットが妻のヴィヴィアンとどんな関係だったのかについて知る機会がありました。
彼は妻と悲劇的な結婚生活の末、1933年に破局を迎えるわけですが、その後妻のヴィヴィアンは1947年に命を落としてしまいます。
離婚こそしていましたが、彼は自分の元妻の死に激しく動揺していたと言われています。
彼女は精神的な病を抱えており、常に不安定だったことに加えて、浮気癖が酷かったとも言われていました。
そういう彼の人生の背景を踏襲したうえで、改めてT・S・エリオットが未発表の詩の中に「娼婦猫のグリザベラ」のエピソードを描いた理由、それを汲み取り、ミュージカル版で彼女が救済されたプロットを見てみると、何だかヴィヴィアンの姿が投影されているようにも感じられます。
このように『CATS キャッツ』は一見意味不明で、摩訶不思議な世界を描いた作品なのですが、その実は非常に深い主題性と背景に裏打ちされた作品なのです。
全員が主人公の物語として
そして『CATS キャッツ』の特徴は、明確な物語がないことに加えて、主人公的立ち位置のキャラクターが存在しないことが印象的です。
強いて言うなれば、先ほど挙げたグリザベラの物語であるとは言えるのですが、彼女も出番は非常に少ないですし、主人公かと聞かれると、そうとは返事をしにくい立ち位置です。
私たちはモダニズム的な「大きな物語」に強く依拠してきて、その後それを脱構築していくポストモダニズムの潮流が目立つようになりました。
そもそもこの作品そのものが人間中心主義からの脱却を目指すというポストモダン性を孕んでいるのですが、それに加えて主人公の不在性も非常に重要です。
1匹の猫を主人公に据えるのではなく、様々な猫たちが全員主人公の物語を作り上げることで、作中から「大きな物語」を排除したことで、本作は「小さな物語」の集合体として構築されています。
そして彼らが、自分たちの「罪」を自覚しグリザベラの救済を祈るというゴールを据えることで、本作は1つの物語としての結びを獲得しています。
先ほど、グリザベラとジェリクルキャッツたちの二面性の一致のお話をしましたが、この共通点があるからこそ「グリザベラの救済=ジェリクルキャッツたちの救済」としても機能しているわけです。
そしてこの物語は直接、現代の人間の物語へと投影されていると言えます。
池田雅之さん本作『CATS キャッツ』が20世紀に書かれた書でありながら、21世紀の予言書的でもあると評していましたが、今まさに私たちの社会がこうなってしまっていますよね。
移民や難民の話題がニュースに上がり、それを隔て、差別し、迫害するようなニュースが飛び込み、コミュニティ単位で見ても他者への非寛容さがホームグロウンテロリズムなどの問題にもリンクしています。
グローバル化が進んだ世界においては、一部の富裕層が富を集中的に掌握し、一方で中間層が没落し、貧困層が一気に拡大していることもまた大きな問題です。
そんな他者への非寛容さや自分たちの繁栄のために、誰かを切り捨てても良いというような冷たい世界が、確かに猫たちの世界にも広がっていたことを描いたのが『CATS キャッツ』なのかもしれません。
そう思うと、この物語を見ていると、私たちもまた、黄色い目をあの世界に開いた1匹の猫としてグリザベラの救済を目撃し、そして救われる1匹の主人公なのではないかと感じさせられます。
ここにこそ、T・S・エリオットが本作を徹底して、猫の視点で描いたことの意義があるのだとまさに感じました。
猫の世界を通じて、人間の世界を考えるという彼らしい詩集であり、そしてその意志を見事に汲んだミュージカル作品だったと思います。
映画版はどうやらヴィクトリアという白猫を主人公的立ち位置に据えているようなんです。
ここが、明らかにミュージカル版とは異なる点になるので、どういう風に物語の見え方が変化するのかが心配ですね。
加えて、VFXで再現した猫が極めて「人間っぽさ」を強く残している点も気がかりです。
その辺りがどう転ぶのかに注目しながら映画版についても鑑賞できたらと思います。
映画『CATS キャッツ』感想・解説・考察(ネタバレあり)
身体芸術と猫人間を巡る葛藤
映画『CATS キャッツ』は既に世界の多くの国で公開され、批判の声が相次いでいるのですが、今作を大喜利のネタのようにしてネタにする風潮はいただけません。
舞台でミュージカル版の『CATS キャッツ』を鑑賞するのであれば、私たちは演者と1つの空間を共有し、ライブ感と共にその作品を味わうことができます。
加えて、舞台演劇における最大の特徴とも言える「身体性」が実体を持って現前するわけですから、『CATS キャッツ』のような観客を異世界に誘うような作品ではそれが非常に有効に機能することは言うまでもありません。
しかし、映画というフォーマットに落とし込んでしまうと、当然ミュージカル版にはあった生の身体性とは決別しなければならないわけです。
今作の映画化という試みにおける最大の難関は、おそらく舞台芸術を映画のフォーマットに如何にして落とし込むかというところにあったと思っています。
映画になると、VFXをふんだんに活用することができるというメリットがありますから、猫を完全に作り上げてしまうことは当然できるわけですが、そうするとさらに失われてしまうものがあります。
というのもミュージカル版の『CATS キャッツ』の醍醐味というのは、素晴らしいダンサーたちによるバレエダンスを基調にした「身体美」を特徴とするダンスシーンの数々なのです。
おそらくVFXで完全に猫を作り込んで、超実写版の『ライオンキング』のようなことをすれば、原作者のT・S・エリオットが志向した「猫の世界」を完全に再現することは容易にできたでしょう。
原作者の意図とミュージカル版が身体芸術として持ち合わせていた身体の曲線やしなやかさが光るダンスの魅力。
映画版『CATS キャッツ』はおそらくこの2つのどちらを重視するのかという選択を迫られ、その結果として公開に至った「猫人間」を選んだのだと思います。
そして演劇が有するライブ感の欠如を埋め合わせるために、映画版はミュージカル版以上に猫たちの表情で観客に感情を伝える必要があり、その結果として顔についても猫というよりは人間に近い仕上がりになったのでしょう。
「猫の世界を猫の視点で描く」というコンセプトが、そのVFXを用いたヴィジュアル面で大きく失われてしまったことは事実です。
しかし、この映画版は、それを補完するために1つ大きな仕掛けをしています。
それがヴィクトリアを主人公に据えるという改変です。
映画には、観客が登場人物に自分を重ねて、物語を追体験できるという特性があるわけですが、今作『CATS キャッツ』はそれを効果的に利用しています。
映画版の物語はヴィクトリアが人間の手によってゴミ捨て場に捨てられるところから始まりますよね。
これは人間の世界から捨てられ、そして猫の世界に至るというベクトルを暗示しており、まさしく映画を見ている観客が「人間の世界→猫の世界」へと至るベクトルに重なります。
そして単なる猫たちの自己紹介の羅列であったミュージカル版を再構築し、新参者のヴィクトリアの視点を通じてジェリクルキャッツたちの世界を描くという構成に仕上げているんです。
これにより、観客は舞台で演劇を見ている時のような「同一空間性」や「ライブ感」を得ることはできませんが、その代わりに映画の中に「自己」を見出すことができるようになっていたわけです。
また、それだけではなく映画版は舞台とは違い猫たちがゴミ捨て場から飛び出してイギリスの様々な場所を巡るという映像に仕上げています。
これはミュージカル版を通り越して、明らかにT・S・エリオットが著した原作へのリスペクトでしょう。
彼は、自分の詩の中に具体的な地名を取り入れるのが大好きだったので、『The Old Possum’s Book of Practical Cats』の中でもイギリスの地名が数えきれないほど挙げられています。
そして映像の細部を見てみても、マキャヴィティが最初に登場するシーンで彼の座っている看板にモデルとなった「モリアーティ」の名前が書かれていたりと、非常に細かな小ネタが散りばめられています。
舞台版では、Act.1とAct.2に分かれているのですが、映画では、その境界がなくなっいますよね。
それを表現するために、第2部の最初の猫紹介パートである劇場猫のガスのパートでは、彼が「出番ですよ。」と呼ばれ、舞台袖の控室から出てくるという演出を活用しています。
これが舞台版の構成への目くばせであることは間違いないでしょう。
他にも今作では幾度となく「荒地」という言葉が登場するんですが、これはおそらくT・S・エリオットの代表作『荒地」への言及でもあると思います。
このように、今回の映画版『CATS キャッツ』は、ミュージカル版と原作に敬意を払いつつも、映画というフォーマットへの対応に苦心し、必死に工夫を重ねた努力の結晶なのです。
だからこそ、大喜利のネタにするような敬意の無いレビューを上げる前に、少し作品について考えてみていただきたいと思ってしまうのです。
ヴィクトリアを主人公として現代版にアップデート
(C)2019 Universal Pictures. All Rights Reserved.
映画版『CATS キャッツ』の物語的な改変の最たるものは、やはりヴィクトリアを主人公に据えた点でしょう。
これによって物語の構造そのものも大きく変化しましたが、同時に作品が現代性を帯びた点を指摘できると思います。
彼女は、ミュージカル版では美しく踊りの巧い白猫と言うだけだったんですが、今回の映画版では「シラバブ」が務めていたグリザベラの救済を幇助する役割を任されています。
シラバブというキャラクターは「神からの使い」であるようにしばしば解釈されますが、映画版のヴィクトリアは捨て猫です。
これもミュージカル版でヴィクトリアが首輪をしているというところから解釈を広げた結果でしょうから違和感のない設定だとは思います。
ヴィクトリアはいわば私たち観客の投影の対象であり、とりわけ「余所者」としてジェリクルキャッツたちの世界に介入します。
だからこそ、彼女はジェリクルキャッツたちの世界の掟には縛られませんし、そこに通底する空気にも左右されません。
そんなヴィクトリアという特異点的な立場を通じて、私たちはマジョリティに迎合するのか、それともマイノリティを救おうと試みるのかという重要な問いを託されるのです。
アンドリュー・ロイド=ウェバーが今作のために書き下ろした『ビューティフル・ゴースト』は非常に美しい楽曲ですが、この曲は重要なキーとして機能します。
グリザベラはいわば過去に悪しき「メモリー」を抱えた人物であるわけですが、ヴィクトリアはそもそも「メモリー」を持たない猫であることがこの楽曲の中では描かれています。
そんな2人が手を取り合うラストの『メモリー』は、過去に嫌で目を逸らしたいような「メモリー」がある人も、そしてまだ「メモリー」を持たない人も、手を取り合って明日に一歩踏み出そうという力強い楽曲として機能しているんですね。
そして「余所者」的立ち位置のヴィクトリアが、ジェリクルキャッツたちの世界に奇跡をもたらすというのもまた示唆的で、そこには現代の移民や難民の問題が透けて見えます。
非寛容さを捨て、他者を受け入れることが未来を切り開くのだというミュージカル版にも宿っていたメッセージが、見事に現代版にアップデートされ、1つの形になっていたと思います。
ミュージカル版や原作のノンセンスヴァースは非常に作品の物語や主題性が分かりにくいものとなっていましたが、今回の映画版はそれを明確に打ち出したことにより、万人に勧めやすい内容になっていたと感じました。
そうして私たちが自分自身をヴィクトリアに投影して物語を見進めてきたわけですが、本作はその最後にきちんと私たちを人間の世界へ戻す手引きをしてくれています。
オールドデュトロノミーがスクリーンの向こう側から私たちに語りかけるように歌っている最後の一曲は、まさに私たちが猫の世界とは切り離された存在であることを明示し、そしてヴィクトリアは「余所者」から「ジェリクルキャッツの一員」へと転じます。
この結びに至るまで、本作は丁寧に物語を紡ぎあげ、そしてミュージカルの映画化として、そして舞台芸術の映画版として、さらにはT・S・エリオットの追求した猫視点で猫の世界描いた作品として、見事な出来栄えとなっているのです。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は『CATS キャッツ』についてお話してきました。
映画版についてはまだ未鑑賞なのですが、既に海外から酷評がたくさん届いているということもあり、それについて疑問に感じた点もあったので、一旦原作やミュージカル版の解説を綴らせていただきました。
既にどんな酷評をするかという大喜利の場と化している印象を受けますが、それでも本作が非常に深いテーマ性に裏打ちされているのだという点を1人でも多くの方に読み取っていただけると嬉しいです。
ぜひそちらの方も読みに来ていただけると嬉しいです。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。