みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『サヨナラまでの30分』についてお話していこうと思います。
昨年の当ブログ管理人のベスト映画である『ホットギミック』の撮影:今村圭佑×編集:平井健一コンビが参加している作品と言うことで、公開前から注目していた作品です。
やはりこの2人が参加していたということで、後ほど詳しく語りますが、映像が本当に圧倒的で、引き込まれてしまいました。
それだけではなく脚本も美しく、「線」で紡ぎ、「点」で消化させるような構成に自然と感情を乗せられ、最後は涙腺がぶっ壊れてしまいましたね・・・。
いくら称賛してもしきれないほどの作品ですが、公開規模が小さく、動員もそれほど芳しくないという状況なので、少しでも多くの方に劇場で見ていただけたらと切に願っております。
『サヨナラまでの30分』は
「覚えておけ、俺のドリルは、宇宙にかざあなを開ける。その穴は、後から続く者の道となる。倒れていった者の願いと、後から続く者の希望。二つの思いを二重螺旋に織り込んで、明日へと続く道を掘る!」
をドリルではなくギター🎸と音楽🎶でやった映画です。 pic.twitter.com/CMRjGzK2rP
— ナガ@映画垢🐇 (@club_typhoon) January 29, 2020
主演の北村匠海さんの演技も、これまで何度も見てきましたが、明らかに今回がベストアクトでしょうし、歌唱シーンでの「歌い分け」は流石の一言です。
今回はそんな傑作、映画『サヨナラまでの30分』についてその魅力を徹底的に語っていきたいと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『サヨナラまでの30分』
あらすじ
「ECHOLL」は、アキを中心にして構成された5人組バンドだったが、メジャーデビューを目前にアキが交通事故で命を落とし、解散した。
それから1年が経過したある日、閉鎖されたプールの敷地内で大学生の颯太が偶然カセットテープレコーダーを見つける。
彼がレコーダーの中にセットされたカセットを再生してみても、そこからは何も聞こえない。
しかし、突然不思議な出来事が起きる。突然誰かが颯太の身体に乗り移り、そして勝手に行動を起こすのである。
彼の身体に乗り移っていたのは、何と1年前に命を落としたアキだった。
何と、颯太がそのカセットテープを再生している30分の間だけ、アキは彼の身体に乗り移ることができるのだ。
そうしてアキは彼の身体を借りて、自分の死をきっかけに壊れてしまったバンドを再結成させるべく行動を始める。
子供の頃のトラウマで、人と関わることが苦手で、奥手な颯太は自分とは正反対の性格のアキに引っ張られて、少しずつバンドの仲間たちに溶け込み、音楽を他人と奏でることの楽しさを知る。
しかし、アキの恋人カナだけはバンドに戻って来てはくれなかった。
2人は彼女がまたバンドに戻り、音楽をやりたいと思えるような楽曲を作ろうと奮闘するのだが、徐々に2人が入れ替われる時間は短くなっていく・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:萩原健太郎
- 脚本:大島里美
- 撮影:今村圭佑
- 照明:平山達弥
- 録音:矢野正人
- 編集:平井健一
- 音楽:Rayons
今回監督を務めたのは、実写版『東京喰種』などでも知られる萩原健太郎さんです。
この作品も、VFX等で予算が限られ苦しい部分がありながらも、ダークで狂気的な美しさを孕んだ映像やアクションを見事に表現しており、マンガの実写化作品の中でも成功例と数えて良い1作だったと思います。
脚本の大島里美さんは『君と100回目の恋』で知られていて、前作に引き続いてSFチックなラブストーリーを手掛けていますね。
前作は、脚本の粗さが目立ち、個人的に評価が高くなかったのですが、今回の『サヨナラまでの30分』は完全にしてやられたという感じです(笑)
そして何と言っても撮影には、今邦画界で最も注目されている撮影監督の1人である今村圭佑さんが起用されています。
- おじいちゃん、死んじゃったって
- 志乃ちゃんは自分の名前が言えない
- デイアンドナイト
- ホットギミック
- 新聞記者
どれも映像が非常に引用に残った作品ばかりであり、これを見るだけでも彼の撮る映像の凄みが伝わって来ると思います。
照明には、今村圭佑さんと何度もタッグを組んできた平山達弥さん、編集には『溺れるナイフ』や『ホットギミック』で知られる平井健一さんがクレジットされています。
そして印象的な劇伴音楽を女性アーティストのRayonsさんが手掛けました。
ちなみに挿入歌は様々なアーティストが楽曲提供をしているようです。
- 『風と星』:内澤崇仁(androp)
- 『瞬間』:ミゾベリョウ&森山公稀(odol)
- 『もう二度と』:福永浩平(雨のパレード)
- 『stand by me』:岡林健勝(Ghost like girlfriend)
- 『目を覚ましてよ』:武市和希(mop-7 4)
- 『真昼の星座』:Michael Kaneko
これだけのメンバーが集まったからこそ、挿入歌の1つ1つが物語にマッチし、そして見る人の心を揺さぶるんでしょうね。
- 宮田アキ:新田真剣佑
- 窪田颯太:北村匠海
- 村瀬カナ:久保田紗友
- 吉井冨士男:松重豊
『君の膵臓をたべたい』や『勝手にふるえてろ』あたりから一気に出演作を増やしてきた北村匠海さんですが、既に「イケメン俳優」という敬称が失礼なほどの、本格派俳優に成長しています。
昨年は『HELLO WORLD』や『ぼくらの7日間戦争』で声優にもチャレンジしており、そこでも非常に高い評価を獲得するなど、役者としての評価はうなぎのぼりですね。
今回の『サヨナラまでの30分』はそんな素晴らしい演技を見せてくれたかこの作品と比較しても、頭1つ抜けた素晴らしい演技だったと思います。
そしてもう1人の主人公であるアキを新田真剣佑さんが演じました。
今回は前半は底抜けの明るさを見せつつも、後半になるにつれて切なさを表情に宿らせていくという「変化」をその何気ない佇まいや表情で見事に表現していました。
そしてヒロインのカナを演じたのは、『ハローグッバイ』の久保田紗友さんですね。
この作品は、当ブログ管理人がその年のベスト3にランクインさせていた傑作でもあるので、ぜひ多くの人にご覧になって欲しいですね。
より詳しい情報を知りたいという方は、映画公式サイトへどうぞ!
『サヨナラまでの30分』感想・解説(ネタバレあり)
2つのブルーが紡ぐ新しい光のその先へ
永遠の青空の穏やかな皮肉は
花のようにそのままで美しく、
苦痛の不毛な砂漠を越えて
自らの才能を呪う無力な詩人を打ちひしぐ
(『青空』:『詩集』ステファヌ・マラルメより)
「青」という色は不思議なもので、見る人によってその表情を大きく変化させるものです。
詩人のステファヌ・マラルメはかつて『青空』という詩を読み、その「青」と対比させ、無力な詩人である自分自身を嘆いたのです。
野口修氏は自身の論文の中で、このマラルメの詩における「青」は「アレゴリー化され、詩人にはどうしても手の届かない理想、しかも、そこに到達しようともがき苦しんでは挫折を繰り返す詩人を嘲り笑う残酷な理想」であると表現しています。
きっと、本作『サヨナラまでの30分』におけるアキと颯太は、同じ「青空」に全く違うものを見出すことでしょう。
底抜けの明るさを気質として持っている前者は、「青空」に無限の希望と自分の夢を見るのでしょう。
「自分にぶち破れない壁はない」と語るからこそ彼は「青空」に「届かない理想」を投影することはないと思います。
一方の後者は、きっとマラルメのようにそこに手の届かない理想を見て、そこに永遠にたどり着けないであろう自分の姿を嘆くのでしょう。
今作におけるアキと颯太を象徴する色は、きっと共に「青」なのだと思いますが、2人の体現するその色は微妙に異なります。
アキはまさに「青春=ブルー」を象徴するかのような人物であり、人を寄せ付ける求心力や、底抜けの明るさを有しています。
(C)2020「サヨナラまでの30分」製作委員会
対照的に颯太は「憂鬱=ブルー」を象徴している人物であり、常に人と関わることを拒み、憂鬱そうな表情で自分の世界に閉じこもっています。
(C)2020「サヨナラまでの30分」製作委員会
作中の演出を見ていただけると印象的なのは、アキのいる世界といない世界では微妙に「青」のトーンが異なっているという点です。
冒頭から、主に颯太のシーンや元「ECHOLL」のメンバーのシーンが続くのですが、この一連のシーンにおいては「青」の照明が印象的です。
ただ、特に元「ECHOLL」のメンバーのシーンで顕著なのですが、彼らのシーンを包んでいるのは、「憂鬱=ブルー」の方の「青」に思えます。
そして「青」は「死」を強く連想させる色であるとも言われています。
ある意味では、青の向こうには、暗黒があり、闇があり、死があると言ってもいいでしょう。青を通して生命の高い理想を見、同時に、死を見ていた。
(小林康夫『青の美術史』より引用)
そう考えると、冒頭から続くアキを失った者たちのシーンで顕著な「青」というのは、彼の「死」をそこに内包させた色と形容することもできるわけです。
しかし、そんな青の印象を颯太に憑依したアキ自身が少しずつ変化させていきます。
印象的なのは、彼がペンキ塗りの仕事をしているメンバーの元へと向かい、そこで青く塗られている壁に、より明るい青色を塗り足しているシーンです。
これは、つまり明白にアキが有している「青」というのは、颯太やバンドメンバーたちを取り巻く「憂鬱」や「死」の表象としての「青」ではないということを視覚的に描写したシーンとも言えるのではないでしょうか。
そして、いよいよ序盤の山場であるアキが颯太の身体でステージに上がり、バンドメンバーと再び音楽を奏でるシーンを迎えるわけですが、ここでその映像に圧倒されました。
彼がステージに上がり歌い始めた瞬間に、どんよりと闇に包まれていたステージをいきなり底抜けに明るい「青」の光が包み、文字通り世界を塗り替えていくのです。
では、この映画は颯太の有している「憂鬱=ブルー」を否定しているのかと聞かれると、決してそうではありません。
それを象徴しているのが、彼とカナが『トロイメライ』をピアノで演奏するシーンですね。
(C)2020「サヨナラまでの30分」製作委員会
この時、画面は夜の陰鬱で暗い「青」が支配していることが明白なのですが、そんな中で2人は演奏しています。
ここで注目したいのは、カナが非常に「赤」を印象的に身に纏っているキャラクターであるという点です。
思えば、先ほどお話したライブシーンでも、アキがステージに現れた途端に、映像を「青」が支配するのですが、そこにカナが現れると、「赤」が目立つようになるのです。(ちなみに衣装も赤色でしたね。)
『トロイメライ』を連弾するシーンでは、服装そのものは白いワンピースですが、その紅潮した頬と唇には「赤」が印象的に宿っています。
「赤」はしばしば生命の輝きを象徴する色であるとも言われますが、それ故に「憂鬱」や「死」が渦巻くブルーな世界で、彼女は存在感を放っています。
そして2人の間には、優しく光が差し込んでいるわけですが、ゲーテの『色彩論』によると、最も光に近い色は黄色とされていました。
ゲーテは「青」を闇に最も近い色、「黄」を光に最も近い色とし、その中間に高昇し生まれるのが「赤」であると位置づけていました。
この『色彩論』においては「赤」を頂点とするという見方になっていましたが、これを闇に最も近い色である「青」の視点から読みかえると、「青=闇」が光へと辿り着くための架け橋になるのが「赤」であると捉えられるかもしれません。
これまでは、アキという「青」があって、カナという「赤」があって、そしてその先に「光=黄色」が生まれ、この3つの色が調和していたことで、「ECHOLL」が存在していました。
しかし、アキがいなくなったことで、カナがバンドを去り、そのバランスが崩壊し、「光=黄色」は失われてしまったのです。
それ故に、本作の冒頭のシーンではアキを失ったことを「死」を強く感じさせるようなブルーが映像を支配しているのではないでしょうか。
ただ、そこに現れた颯太は確かにアキではありませんが、確かに「青」を有した人間であり、そして彼が持つ「憂鬱=ブルー」が再び「ECHOLL」を繋ぎ、「赤=カナ」と「光=黄色」を取り戻すことをこの『トロイメライ』の連弾シーンは予見させてくれます。
本作『サヨナラまでの30分』の最後の山場となるロックフェスでのライブシーンでは、アキが演奏するパートでは、ステージをひたすらに底抜けに明るい「青」が包み込みます。
しかし、颯太が歌うパートになると、そこには「赤」色が入り混じり始め、そして観客席の向こうには太陽が「黄」色い光を輝かせ始めるのです。
確かにアキと颯太は、「青」を思わせる人物ではあるのですが、だからと言って全く同じ人間ではありません。
それぞれに少しずつ違う「青」を持っていて、そして今の「ECHOLL」に必要なのは颯太なのだと、ラストライブで明確に打ち出すかのような色使いだったと感じています。
もちろん、彼らにとってアキがもう不要な存在なのかと聞かれると、そうではありません。
2人がその色を重ね合わせることで生まれた「青」だからこそ、再び光を取り戻すことができ、そしてその先の景色を紡ぐことができたのです。
空っぽのプールあるいは麦茶の入ったグラス
(C)2020「サヨナラまでの30分」製作委員会
今作のキービジュアルを見てみても、水の入っていない空っぽのプールは印象的に登場しています。
もちろん映画の本編の中でも、この廃業した市民プールのシーンは幾度となく登場し、アキと颯太はそこで音楽を作り、演奏の練習をしています。
その謎を解くカギは、おそらく颯太がカセットテープを再生することで現れるアキの存在を麦茶を使って、説明しようとしたシーンにあるのではないかと思います。
正直、あの麦茶の説明が分かりやすかったかと言うと、そうでもないのですが、それでもあのシーンではどうしても「液体」で説明をする必要があったのではないでしょうか?
なぜなら、水ないし液体というものは、「記憶」を持つのではないかということがしばしば言われているからです。
水はその形を変えながらも、私たちの世界を循環し、古来よりずっと存在し続けています。そういった特性が水は全てを知っているという伝承を生んできたのかもしれません。
本作『サヨナラまでの30分』においてキーとなるのは、まさしく「記憶」ですよね。
颯太が作中で「記憶」を液体に準えて説明しようとしたことで、本作が「水=記憶」というコンテクストを明示しようとしていたことは明らかでした。
そうであれば、あの空っぽのプールというのは、人と関わることを避けてきたが故に友人や仲間たちと過ごすという経験をした「記憶」を持たない颯太の心象風景なのだと思います。
しかし、そんな空っぽのプールに、颯太はきっとこれからの水を注ぎ続けていくのでしょう。
「ECHOLL」のメンバーやカナと過ごす時間は、彼に「記憶」をもたらし、そしてそれが心象風景の中の乾いたプールを潤していき、そして満たしていくのです。
「線」で繋ぐ演出と物語
本作『サヨナラまでの30分』は実に見事に「線」で構築された作品だと思います。
まず、演出的な側面から見ていくと、やはり「カセットテープ」というモチーフが登場したことが大きいですよね。
カセットテープにおいて上書きしたとしても、古いデータは消えるわけではなく、層となって下側のレイヤーに行くだけでずっと残り続けているというセリフが非常に印象的でした。
このセリフを踏まえて、本作を思い返すと、実に多くの「線」的な演出が施されていたことを思い出します。
序盤のシーンでは、アキが体に乗り移っている時は、颯太はただの傍観者的な振る舞いをしており、2人は少なくとも別の「線」の上にいました。
2人の利害が一致し、颯太は面接の合格のために、アキは自分のバンドを取り戻すために動き始めるシーンでは2人は同じ線の上を走っているかのような演出が施されていました。
(C)2020「サヨナラまでの30分」製作委員会
ここから、颯太自身が「ECHOLL」のメンバーたちやカナと共に過ごす中で、その時間を愛おしいと思い始めたことで、少しずつ2人の関係性は変化します。
別々の「線」の上にいたはずの2人の物語が重なるようになり、そして颯太の物語がアキの物語を上書きしていく方向に働くのです。
序盤の一連のシーンにおいては、颯太は「ECHOLL」のメンバーたちやカナと過ごす時間に何の興味もありませんでしたが、その心境が変化したことで、彼はアキに簡単に主導権を渡さなくなっていきますよね。
これはつまり、2人の物語の「線」が重なり始めたことを如実に表しています。
個人的に印象的だったのは、颯太とカナが夜のプールで星を見上げるシーンです。
このシーンは、2つのウォータースライダーがある高台の場所であり、2人はそのレーンを隔てる手すりにもたれかかるようにして会話をしていました。
(C)2020「サヨナラまでの30分」製作委員会
そしてカナというアキの物語の中心に颯太が踏み込むか踏み込まないかというところで葛藤をしているんですよね。
「線」の向こう側には、アキの物語があり、そして彼の死を悲しんでいるカナの物語があります。
そこに踏み込み、文字通り「一線」を超えるのかどうかで彼は葛藤し、そして彼女の手を握ることを選びました。
このように作中には、多くの「線」的な演出が施されていますが、映画を見終わってから考えると、本作のポスターに用いられていたキービジュアルにも実は「線」的な演出が見られます。
プールの中にいる颯太とプールサイドに座っているアキが1本の「線」で区切られているように見えるので、2人がお互いに自分の「線」を持っているという見方もできるのですが、同時に2人が1本の「線」を紡いで1つの景色を構築しているという見方もできます。
本編を見ることで、このパラダイムシフトがもたらされるのも、このキービジュアルの優れた点だと思います。
そして物語的にも、本作は美しいまでに「線」で描き、「点」で結ぶ構成になっていたと思います。
『サヨナラまでの30分』には、
- 颯太
- アキ
- カナ
- 「ECHOLL」のメンバーたち
の4つの軸で主に物語が進行しています。
そしてこの4つ全てに葛藤があり、ドラマがあるわけですが、基本的にそれぞれの物語を「線」的に描いていくのが、本作の主な構成です。
颯太は音楽をやりたい夢がありながらも、それを自信をもって外に出していくことができない悩みを抱えています。
アキは自分が命を落としたことで、バンドが解散してしまったことや、カナが音楽を離れてしまったことを悔いています。
カナは大好きなアキが死んでしまったことで、音楽やバンドの楽しさを見失ってしまいました。
「ECHOLL」のメンバーたちは、アキが死んだ日のことを悔いており、自分たちがリハーサルを駄目にしたことや、自分たちが彼を支えられず、リンゴフェスで演奏できなかったことが心につっかえています。
こうした4つの交わりそうで交わらなかった物語が、あのラストシーンのライブという「点」で一気に交錯し、大きなカタルシスを生み出します。
『サヨナラまでの30分』が凄いのは、4つの物語の主人公それぞれにとっての葛藤と苦悩の打破、そして未来へと踏み出す1歩があの「ライブ」として形になる点でしょう。
颯太の音楽で生きていきたいという思い、アキのもう一度だけあのメンバーでリンゴフェスの舞台に立ちたいという思い、カナが取り戻したいと願う音楽の楽しさ、「ECHOLL」のメンバーたちの今度は颯太を自分たちが支えるんだという決意。
きっとその全ての思いのベクトルの先にあのステージが確かにあったんだと確信させてくれます。
それぞれの物語に対するアンサーがあの1つの「ライブ」に集約されており、そのカタルシスが一気に押し寄せるわけですから、涙腺がぶっ壊れてしまうのも無理はないです。
まさに「線」で描き、「点」で結ぶ。
本作『サヨナラまでの30分』は演出的にも脚本的にも傑出した出来だったと思います。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は『サヨナラまでの30分』についてお話してきました。
昨年も『さよならくちびる』という素晴らしい音楽映画がありましたが、まさかこんな短いスパンで日本から音楽映画の傑作が生まれるとは思いませんでした。
ぜひ1人でも多くの人にこの作品が届いて欲しいと切に願っています。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。