みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『AI崩壊』についてお話していこうと思います。
昨年は実写版『キングダム』が邦画実写史上最大規模の予算ということで話題になっていますが、やはり原作が人気だったのである程度予算をかけられたという側面はあります。
そのため、このようなオリジナル作品で、ここまで大規模ロケを敢行して、予算もかけてというのは珍しいのではないかと思いました。
だからこそ邦画を愛する1人として、こういうお金がかかった作品がきちんとヒットして欲しいという思いはあります。
お金がかかった作品がヒットすることは大切なことで、そこから制作会社や配給としてももっと作品にお金をかけていこうという好循環に繋がります。
パニック映画としては及第点の出来だったと思いますよ。
この作品は何を求めてみるか、どういう客層が見るかによってかなり評価は揺れる作品だと思います。
AIに詳しくて、本格SFを期待してご覧になった方は、正直肩透かしを食らうことでしょう。
ただ、この映画を見るそれほどAI詳しいわけではなく、大作邦画だから見るという大多数の層からすれば、十分リアリティを感じられるだけの考証は為されていますし、見応えはあると思われます。
ですので、本格SFを期待するのではなく、あくまでもあまりAIに詳しくない層に向けたライトな問題提起をする作品だと捉えると良いのではないでしょうか。
ということで、個々からはもう少し掘り下げて本作について語っていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『AI崩壊』
あらすじ
天才科学者の桐生浩介は妻の望が癌に侵されたことで、医療用AIの開発を始める。
苦心の末に、何とか目的のAIを開発することに成功するが、国がAIによる製薬を認可しなかったため、彼は薬を作ることができない。
彼の同僚の西村悟は法律を無視してでも自分の姉である望を救うよう懇願するが、彼女と浩介は認めなかった。
結果的に、彼女は命を落とし、その後しばらくしてに皮肉にも国の首相がこのAIに救われたことがきっかけとなり、国は医療用AI「のぞみ」を法律で承認することとなる。
こうして医療用AI「のぞみ」は、自動運転などの技術にも応用され、日本国民の第4のインフラとして生活に深く入り込んだ。
そんな時、研究者としての第一線からは退き、日本を離れていた浩介にその功績をたたえて文部科学大臣賞が贈られることとなった。
彼は日本に戻る気がなかったが、娘に説得され、記憶することを決断する。
日本はAIが浸透したことにより、難病の治療等が可能になり、便利な生活を手に入れた一方で、都市圏と地方の格差は拡大し、貧富の格差も大きくなっていた。
そして浩介が首相官邸に向かっていた時に、事件は起きる。
突然、何らかのプログラムが「のぞみ」に上書きされ、医療現場や公道で大混乱が起こり始めたのだ。
警視庁が「のぞみ」を運営する会社HOPEに介入し、犯人の追跡を始める。
そこから容疑者として浮かび上がったのは、何とAI開発者の浩介だった・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:入江悠
- 脚本:入江悠
- 撮影:阿藤正一
- 照明:市川徳充
- 編集:今井剛
- 音楽:横山克
- 主題歌:AI
- AI監修:松尾豊 松原仁 大澤博隆
- 犯第心理学監修:越智啓太
- 警察監修:古谷謙一
まず、監督を務め、脚本も合わせて担当したのが入江悠さんですね。
『22年目の告白 私が殺人犯です』や『太陽』、『ビジランテ』などの作品を手掛け、小規模上映作品でも大作映画でも実績を残し、高く評価されてきた入江監督が何とAIものに挑戦です。
インタビューを読んでみても、かねてから彼はSFに挑戦したいと考えていたようで、そう考えるとこういった大作SFを任されるまでになったのは素晴らしいですよね。
撮影には中島哲也監督の『告白』や『渇き』にも参加し、高い評価を獲得してきた阿藤正一さんが起用されています。
編集には『ナラタージュ』や『パラレルワールドラブストーリー』の今井剛さんがクレジットされています。
劇伴音楽には横山克さん、主題歌にはAIさんが起用されました。
そして重要なAI監修には、近年AI研究の第一人者として有名な松尾豊さんらがついています。
警察監修には様々なドラマや映画を手掛ける古谷謙一さんが参加しています。
- 桐生浩介:大沢たかお
- 西村悟:賀来賢人
- 奥瀬久未:広瀬アリス
- 桜庭誠:岩田剛典
- 望月剣:高嶋政宏
- 林原舞花:芦名星
- 飯田眞子:玉城ティナ
- 桐生望:松嶋菜々子
- 合田京一:三浦友和
主人公の浩介を演じたのは、大沢たかおさんです。
AI研究者という職業とは裏腹に超ムキムキの良い身体のおじさんだったので、思わず笑ってしまいました。
そして浩介のパートナーである悟を演じたのは、賀来賢人さんでした。
彼は最近福田組の影響でコメディ俳優のイメージがついていたので、こういったシリアスな役を見るのは、逆に新鮮でした。
他にも広瀬アリスさんや岩田剛典さん、玉城ティナさんら若手俳優陣も充実し、そこに松嶋菜々子さんや三浦友和さんらのベテランが加わり脇を固めています。
より詳しい情報を知りたいという方は、映画公式サイトへどうぞ!
『AI崩壊』感想・解説(ネタバレあり)
パニックエンタメとして見るか本格SFとして見るか
- 第1条:ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
- 第2条:ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
- 第3条:ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
(アイザック・アシモフ『われはロボット』より引用)
AIないしロボット工学における古典的名作と言えば、やはりアイザック・アシモフの『われはロボット』でしょうか。
ここで示された上記のロボット工学三原則は非常に有名で、この短編小説集の中では、開発されたロボットやAIがこれに反したり、矛盾するような行動を取る様がミステリテイストで描かれています。
ハリウッド映画を見てみても、『トランセンデンス』や『エクスマキナ』は非常に面白かったですし、少し毛色は違いますが『her』や『アイアムマザー』もすごく考えさせられました。
まず、この手のAIものを作るときに、作品の方向性として定めておく必要があるのは、本格派SFに寄せるのか、それともあくまでもエンタメを目指すのかという点だと思います。
前者に寄せるのであれば、考証はかなりハイレベルなものが求められますし、その分野に詳しい人が見ても、ある程度納得が行くものを作り上げなければなりません。
一方で、後者を目指すのであれば、映画としてある程度視覚的に見栄えがするように「嘘」を孕ませることも認められますし、ライトな映画ファン向けにディテールを若干放棄してでも、分かりやすくするのはアリでしょう。
(C)2019「AI崩壊」製作委員会
そういう意味でも、やはり本作はパニック映画路線で力を入れていることはうかがえます。
入江悠監督は本作の方向性について次のように語っていました。
ひとつよかったなと思うのは、子どものころに見ていたハリウッド映画のマネをすると絶対に失敗すると思っていたので、人工知能がターミネーターのような姿をしているわけではなく、僕らの生活の“日常の延長線上”にある身近なものとして描いたことです。そこの日常性みたいなところは、意外とハリウッド映画はあまり描いていないんです。
(ねとらぼより引用)
ただ、この発言から読み取るに『AI崩壊』は本格SFを目指して作られた作品ではないことは明白でしょう。
とりわけ、AIや近年のテクノロジーについてあまり知見のない層に向けて、とりあえずライトに問題提起をしたいというのが本音なのではないでしょうか。
松尾豊さんらが監修に参加していることもあり、AIの基本的な事項については近年の研究の到達点やそこからの短期的なビジョンに基づいた内容になっていましたし、最低限のリアリティは保てていたと思います。
ただ、詳しく見ていくと、なんで医療用AIの「のぞみ」が自動運転や金融関係のシステムまでおなじサーバーで一元管理してるんだ?とかそもそもこの作品におけるネットワークの概念はどうなってるんだ?という疑問は当然噴出することでしょう。
私もAIについてはそれほど知識があるわけではないながらも、ちらほらとおかしな点には気がつきましたし、それを仕事にしている人から見れば、もっとたくさんのツッコミどころがあるのは明白です。
しかし、この映画を見る多くの人はそういった踏み込んだ疑問にたどり着かないと思いますし、エンタメとしては敢えてそこにはこだわらないというアプローチは認められ得ると思っています。
そのために、あえて映像にした時に視覚的に映えるようにリアリティと決別したり、物語として単純明快なものにするためにディテールを犠牲にするのは、エンタメ映画のアプローチとしては間違っていないはずです。
あくまでも『マイノリティ・リポート』や『逃亡者』を思わせる逃走劇であり、AI崩壊によるパニックものであり、エンタメとしては充実の内容だったと思います。
そして何よりも大切なのは、AIにあまり知見がない人でも考えてみたいと思える主題性です。
本作はこの点では、かなり優れていたのではないかと思っています。
AIを使うのはあくまでも人間であるということ
(C)2019「AI崩壊」製作委員会
最近、映画を見ていると、いわゆる「強いAI」が目立つ傾向にあります。
これは人間に近い知能を何らかの形で有するようになったAIのことですが、先ほど挙げた『her』や『エクスマキナ』と言った作品はそこに分類されるように思います。
そして何と言っても、AIが人間に牙をむくという作品は、非常に多いですし、そういった作品があるために、AI技術への恐怖心がいたずらに煽られていることもまた事実です。
また、オックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン教授がAIによって今ある人間の仕事の多くが奪われると発表したことも、そういった風潮に拍車をかけているかもしれません。
しかし、こういった分かりやすいニュースが一過性のものとはいえ話題になったインパクトは強く、その後彼の論文に対する反証が多く飛び出し、既にその論旨の大半が否定されているにもかかわらず、そこについてはあまり伝わっていないのです。
今回の『AI崩壊』におけるAIもそうであったように、基本的に今の技術からできる予測では、AIが人間と同等の意識をもつということは考えにくいと言われています。
つまり、AIをどう使うのか、そしてAIによる管理や制御を受け入れるのかという決断は基本的に人間に委ねられているのです。
本作は、本格SF作品を志向するのであれば、日本を揺るがす大規模テロ事件が、AIがプログラム内で解釈違いを引き起こして人間を攻撃するようになったりといったよりディテールにこだわったトリックを用意するでしょう。
しかし、『AI崩壊』はおそらく意図的にだと思いますが、「人災」としてそのトラブルの原因を描写しているんですね。
どこの馬の骨かも分からないプログラムをマルウェアの感染チェック程度のことで読み込ませるのは、いくら何でもリスクが高すぎます。
ただ、それでも「人災」として描くことを選んだのは、結局AIに対して選択するのも、決断するのも、事故や悪用をもたらすのも、その被害を被るのも人間なのだということを強調したかったからではないでしょうか。
AIには、非常に便利な側面があり、もちろん私たちの生活を飛躍的に豊かにするポテンシャルを秘めています。
しかし、私たちは同時にAIを社会に受け入れていくには、様々な問題があることも理解しておかなければなりません。
例えば、AIによる自動運転が普及したとして、それによって事故が起きた時に責任の所在をどこに求めるのかというのは1つ大きな問題です。
以前に読んだ記事の一節にこんな表現がありました。
自動運転車、そして人工知能は、悪意が少なからず存在するわれわれの社会に受け入れるには、あまりにも無垢すぎる。それでもなお、自動運転車や人工知能を社会の中で有意義に活用しようと望むのであれば、人工知能を悪意から守る規範を社会の側で用意しておかなければ、かえって社会の崩壊を招きかねない。
(松浦哲也『自動運転車の事故はだれが責任をとるべきか』より)
これはまさしくその通りで、AIを受け入れるという選択をすることは、それによって生じる問題を引き受けるということにもなるわけで、それを想定した法整備が当然必要になります。
『AI崩壊』の劇中で、浩介や望が頑なに治療のために「のぞみ」を使用しなかった理由もここにあるのだと思っています。
つまり、法的な整備が整っていない状況で医療用AIを使った時に問題が起きたとすれば、その責任を追うことができないのです。
浩介や望はAI開発者として、自分たちが法を破るという「責任」放棄をしてしまえば、必ず後で問題が起きることも分かっていたのだと思います。
結局はAIに罪はなく、罪を犯すのか犯さないのかの選択をするのは、「人間」です。
本作の逃亡劇の終盤に、特殊部隊がAIの判断を鵜呑みにして発砲し、悟を射殺してしまう描写がありました。
これも人間がAIに選択と判断を外部化してしまったが故に起きた問題だと思います。
哲学者のミシェル・フーコーは「権力のダイナミクスはわれわれの思考に深く影響を与え、権力の階段を上るにつれて、われわれの内なる議論はねじ曲げられ、他者への自然な共感は否定されるようになっていく。そして自らの行動が他者や社会に及ぼす影響など顧みることもなく、実行するようになっていくのだ。」なんてことを述べていました。
私たちは、AIに判断と選択を委ねるときっと権力に身をゆだねたのと同じような状態になってしまうのではないでしょうか。
だからこそ、手綱をすべて握られてしまうのではなく、最後のところでは人間がきちんと「責任」を持たなければならないのです。
私たちがこれから社会にAIを受け入れていくにあたって、基本的なことではありますが、今一度考える必要があるのは、この技術を「使う側」には常に人間がいるのだという点でしょう。
『AI崩壊』はラストシーンにてAIと人間の関係性を「親子」に例えていました。
親は子を幸せにすると断定できる親はきっといません。それと同様にAIが人間を幸せにするかどうかも断定できません。
それは結局のところ、それを扱う人間次第です。
ディテールに雑な部分はありましたが、基本に立ち返って、まずは考えていかなければならないこの命題をライトに提起した作品に仕上がっていた点は評価できるのではないでしょうか。
アナログで良いじゃんという批判を内包して
AIに対する恐怖ばかりがいたずらに煽られた影響もあり、AIが人間を不幸にするのではないかという考えが広がっています。
そのため、AIなんていらないですとか、アナログなままで良いという批判は当然存在しており、それについては今作の『AI崩壊』中でも描かれていました。
ただ、私たちの社会は否が応でも変化していきますし、今後AIの発展の流れが止まることは考えにくいです。
そうなのであれば、私たちはAIをどうやって批判するかではなく、AIとの共生が求められる時代に人間はどうなっていて、何をすればよいのかを真剣に考えていく必要があるはずです。
もちろん、AIが台頭すれば、データの処理や分析といった側面では人間よりも圧倒的に優れていますから、それによって人間の方が劣る仕事はどんどんと取って代わられるでしょう。
ただ、AIには現状の見立てでは感情や意識を宿らせることは難しいと言われていますし、創造性や感性の部分で人間に迫ることも現状考えにくいとされています。
例えば劇中で「百眼」というAIシステムが構築され、日本中のネットワークを使って犯人を見つけ出すという描写がありました。
刑事の合田京一が頑なにアナログにこだわる姿は印象的でしたが、彼の言う「刑事の勘」というのは、非常に属人化されたスキルなんですよね。
こういったスキルを普遍化してあまねく提供できるというのは、大きなアドバンテージでしょう。
しかし、それでも刑事や特殊部隊は、最後のところで「人間らしい」決断をしなければなりません。
それを放棄して、AIに選択や決断を委ねてしまえば、もはや人間は人間ではなくなってしまします。
AI技術が否が応でも発達するであろう未来の社会を生きる上で、頑なにそれを拒否したり、アナログが良いと意地を張っても、もはやどうにもならないのです。
そんな社会になっても「人間」ができること、やならければならないことは何かを常に考えていく必要があるはずです。
テレビアニメ『PSYCHO-PASS』シリーズではシビュラシステムというAIに基づくインフラにより、人間の犯罪係数が測定でき、それに基づいて人が人を裁くという社会が構築されています。
ここでも、人が人を裁くときに、最後に責任を負うのは人間でなくてはならないという強いメッセージが描かれていました。
『AI崩壊』ができるのは、あくまでもライトな問題提起に過ぎませんが、それでもこの作品をきっかけに少し調べてみよう、勉強してみようという人が増えるのであれば、映画として意義があったと言えるでしょう。
当ブログ管理人としても、もう少しAIについては書籍を読んだりしながら勉強していく必要があると痛感しました。
映画としてはダメダメな点も多い
(C)2019「AI崩壊」製作委員会
ここまでは比較的肯定派な論調で書いてきたつもりですが、ここからは少し作品に対する批判点も書いてみようとは思います。
今作『AI崩壊』は、やはり映画としては物足りないと言いますか、残念に感じられた点も散見されました。
まず、個人的に一番勿体ないと感じたのは、本作が「タイムリミット」系のパニック映画なのにも関わらず、一切それに基づく緊迫感を感じさせないで点です。
一応冒頭に、浩介の娘がサーバールームに閉じ込められた描写があり、そこから1日で事件を解決しなければ、彼女は命を落としてしまうという状況に置かれています。
そんな設定があるにも関わらず、作品のテンポ感は緩く、全体的にのらりくらりと進行していくため、「タイムリミット」があるという設定そのものを忘れてしまいそうになるほどでした。
あとは、やはりキャラクターのイメージがあまりにも典型的すぎるがあまりに物語が透けて見えてしまうという点もあるでしょう。
岩田剛典さん演じる桜庭誠が最初から悪役感を放ちすぎていて、彼が結局主犯格なんでしょと言うのは、すごく冒頭に察しがついてしまいます。
あとは、後に善の側に目覚めそうな合田京一と奥瀬久未も典型的なキャラクター描写なので、分かりやす過ぎます。
こういったステレオタイプ的なイメージをキャラクターに当てがいながらも、それらを一切裏切ることはなく、そのまま映画の中で描いていくので、何の驚きもないというのは悲しいですよね。
キャスト陣の話で言うと、やはり全体的に邦画の悪いところが出ていて、大げさでしつこい演技を見せる場面が多いので、それ自体がタイムリミットものである本作のリズムを損なっているという問題が生じていました。
インタビューなんかを読んでいると、入江監督はヒューマンドラマとしての側面に力を入れておられたようですが、それがかえって作品のノイズになっているというジレンマも垣間見えました、
そして、やはりいくら何でも望の死ぬ直前の「多くの人を助けるAIになって欲しい。」という死ぬ直前の言葉の回想を3回も4回もインサートするような演出は蛇足と言う他ないでしょう。
撮影や映像の面で言うならば、かなり視覚的に見せようというアプローチが前面に出ていて、その点でAI考証のディテールがおざなりにされている部分はそれなりには感じました。
AIに虐殺や戦争などの画像を読み込ませて、人間の命を選別をするというのは、いくら何でも無茶苦茶な発想です。
また、ラストの鏡でAIに視覚的にコードを読み込ませるというのは、フィクションだからできることではあると思いますね。
ただ、これについては映画という題材だからこそ、あえて視覚的情報でという意図もあったかもしれません。
と、まあ細かく語っていくと、キリがないですし、ツッコミどころは山のようにある作品なのではあると思います。
個人的に一番ツッコミたいのは、誰でも入れるような廃校になった大学に国家機密レベルのAIのプロトタイプを放置するな!でしょうか(笑)
まあ、こんな感じでツッコミを入れながら見ると、楽しいエンタメ作品ではありますね。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は『AI崩壊』についてお話してきました。
設定や考証の面でツッコミどころがあるのは事実ですが、あくまでもライトに問題提起するためと考えれば、邦画大作でこの作品を作った意義はあると思っています。
ただ、主題や方向性は良いとしても、いくら何でも脚本が適当すぎましたし、演出もくどく、ヒューマンドラマ要素を強めようとし過ぎて、タイムクライムサスペンス感が減退してしまうというジレンマも孕んでいました。
邦画大作で、しかもオリジナル脚本で、個々までの規模で作るとなると、かなり予算はかかっているのではないでしょうか?
そういうこともあって、ぜひ本作にはヒットして欲しいと個人的に祈っております。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。