みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですねアニメ『映像研には手を出すな!』についてお話していこうと思います。
とりあえずは第4話までの鑑賞ではありますが、とにかくこの作品について語りたいという思いが溢れてしまったので、記事を執筆することにしました。
第1話から湯浅監督らしいコミカルさがありながらも登場人物がダイレクトに伝わるダイナミックなアニメーションに引き込まれましたが、やはり第4話は圧倒的でした。
第1話から本作がある種のメタフィクションとして作られてきた構造の意味が明示され、そしてアニメーションを作り上げることの現実と苦悩、そしてその意義と喜びが一挙に押し寄せ、思わず涙がこぼれました。
第1話の冒頭から始まった円環を見事にこの第4話で閉じ、そしてそこからの新たな物語への展開へと繋げるというあまりにも見事な技をやってのけているのです。
ぜひ多くの人に触れて欲しい作品ですし、だからこそまだ第4話までしか放送されていませんが、自分なりの表現でこの作品の魅力を語れたらと思い筆を執りました。
本記事は第4話までの内容についてネタバレになるような内容を含む感想記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『映像研には手を出すな!』
スタッフ
- 監督&シリーズ構成:湯浅政明
- 原作:大童澄瞳
- 脚本:木戸雄一郎
- キャラクターデザイン:浅野直之
- 音楽:オオルタイチ
- 編集:齋藤朱里
- アニメーション制作:サイエンスSARU
本作『映像研には手を出すな!』は確かに大童澄瞳さんの原作が面白いことは前提としてですが、やはり湯浅政明さんらしいダイナミズム溢れるアニメーションが魅力的です。
彼は2019年にも『きみと、波にのれたら』で高評価を獲得し、世界的に認められました。
そして後ほど詳しくお話しますが、ご自身が担当されているシリーズ構成も非常に優れています。
脚本には『恋は雨上がりのように』や『Dr. STONE』などの脚本を担当したことでも知られる木戸雄一郎さんがクレジットされています。
キャラクターデザインには『四畳半神話大系』で作画監督を担当し、『おそ松さん』などでも知られる浅野直之さんが起用されました。
また、以前に湯浅監督の『ピンポン』にも楽曲提供したオオルタイチさんが劇伴音楽を担当しています。
主題歌には
OP:chelmico『Easy Breezy』
ED:神様、僕は気づいてしまった『名前のない青』
がそれぞれ起用されています。
湯浅監督の原点とも言えるサイケなOP映像がこれまた絶妙にマッチしていて、最高です。
キャスト
- 浅草みどり:伊藤沙莉
- 金森さやか:田村睦心
- 水崎ツバメ:松岡美里
女優としても唯一無二のオーラを持つ伊藤沙莉が今回、本当に素晴らしいボイスアクトを披露してくれています。
おそらく他のどんな声優であっても彼女が演じる浅草みどりの持つ独特のオタクっ気と不思議な愛嬌は醸し出せないと思っています。
そして彼女の演技に引っ張られて、本職の声優陣も良い影響を受けているように感じられます。
金森さやか役には、少年っぽい声に定評がある田村睦心さん、水崎ツバメ役には新人の松岡美里さんが起用されています。
『映像研には手を出すな!』感想・考察(ネタバレあり)
第1話から第4話へ至る構成的な巧さ
まず、個人的に今回の第1話~第4話までの一挙放送を見て驚かされたのは、今作の構成的な巧さです。
シリーズ構成についても湯浅政明監督が自ら担当しているわけですが、それにしてもここまで見事に1つの円環として物語を構築しているのは素晴らしいですね。
『映像研には手を出すな!』の作劇の特徴は、浅草氏を中心として映像研の3人がドタバタとしながらも少しずつ自分たちの製作環境を整えたり、アニメーションを製作したりする様をフィクショナルに描いている点です。
もっと言うなれば、本作は作品内作品を構築し、その世界の中で映像研の3人が様々な行動を起こしていき、それが現実世界における行動とリンクしているということですね。
この作品構造がある種のメタフィクション的に機能していることは明白で、見る側としては作品内現実と作品内虚構の境界線が溶け出していくような感覚があります。
特に顕著なのは、第3話の部室のリフォームを描いたエピソードでしょう。
彼らは工具を用いて、自分たちの部室である倉庫を修理しているだけなのに、本作はその様を宇宙船の整備に見立てて作劇しています。
私たちは何か全く別の映像を見せられているにも関わらず、彼らが今何をしているのかが理解できてしまいますよね。
思えば第1話の冒頭の浅草氏による『未来少年コナン』(を模したアニメ)の解説の場面で、この作品の方向性は明示されていたのかもしれません。
この丸っこい簡単なメカが浮き上がるという事実を得体のしれない半重力装置の細やかなディテール描写と・・・手で持ち上げるんじゃよ!エンジンのかかりにくい車を押すみたいに。見てわかるアニメーション描写でリアリティを醸し出しとるんじゃ。
(『映像研には手を出すな!』第1話より引用)
この解説があるからこそ、本作が作品内にメタ的な手法で現実と虚構のリンクを描き出し、「アニメーション」そのものを作品の中に内包させようとしていることが分かります。
そして見ている私たちは、確かに浅草氏らの作り出す妄想的アニメーション空間が、現実離れをしていると分かりながらもそこにリアリティを感じてしまうんですね。
こうして丁寧に第3話に至るまで積み上げてきた上で、あの第4話のラストに用意されている生徒会による予算審議会でのプレゼンのシーンが効いてきます。
このシーンにおける生徒会を含めた観衆というのは、言わば第3話までの本作を観てきた私たち自身なんですよ。
ただただ純粋に湯浅監督の作り出すダイナミックでコミカルなアニメーション内にアニメーションに現実とのリンクを見出し、楽しんできた私たちが、第4話ではそれを楽しむ人たちの姿を俯瞰で見るという構図になっています。
そして憎い演出として機能するのが、劇中の観衆の1人がステージの脇に落ちている倒れたゴミ箱のような容器を見つめながら、それがアニメの世界の薬莢とリンクして見えている一幕です。
これは私たちが第3話までに見てきた作品内現実と作品内虚構のクロスオーバーそのものであり、この場面では私たちがそれを俯瞰で見ているということになります。
このようにこの作品に私たちをどんどんと引き込んでいき、さらにはその様子すらも作品の中に内包してしまうことで、私たちにアニメーションの面白さをハッと気がつかせるような演出と構成には脱帽です。
加えて、物語的な構成として見ても、やはり第1話から第4話までの流れは洗練されています。
第1話の冒頭で、浅草氏はアニメ研究会のイベントで「観客」の1人として作品を見る立場にありました。
しかし、そこから映像研としての活動が始まり、第4話のプレゼンの場で彼女は自分自身の作品を作り上げ、それを「見てもらう」側にいるのです。
見る側にいた時、彼女は純粋にアニメーションを作ることに憧れており、無限のイマジネーションに希望を抱いていました。
ただ、第4話のAパートで描かれる内容ではありますが、彼女はアニメーションを生み出すことの苦悩を身をもって知ることとなります。
ただ理想を追い求めるだけでは、作品は完成しません。作品を完成させるためには理想と現実に折り合いをつけなければならないのです。
終わるとか完成するとかではなく、魂を込めた妥協と諦めの結石が出る。
(『映像研には手を出すな!』第4話より引用)
浅草氏は自分で初めて作品を生み出す立場になってみて、この言葉に辿り着いたのだということはよく分かります。
自分たちの理想からは程遠い、とても満足できるものではない。
それでも作品を生み出して、世に送り出し、それを見てもらわなければならないのです。
そういう「生みの苦しみ」を知ったからこそ、内気だった彼女は思わずステージでべらんめえ調の口上を垂れるのです。
© 2020 大童澄瞳・小学館/「映像研」製作委員会
苦しんで生み出した作品なんだから見ることもなしに判断しないで欲しいというクリエイターの心からの叫びがこのワンシーンに凝縮されていました。
内気な性格で作品を「見る」側にいた彼女が、作品を生み出す苦しみを知り、今は「見られる」側に立っており、そして強い信念をもって震える声で自分の作品を見てくれと訴えている。
第1話からの変化と成長が明確に感じられるようなっており、1つの物語の円環が閉じるかのような構成になっている点はお見事と言う他ないのではないでしょうか。
アニメーションを作り上げることと「詭弁」
私が今作『映像研には手を出すな!』を見ていて、一番心に残った言葉は「詭弁」です。
辞書で確認してみますと、この言葉には「本来つじつまの合わない事を強引に言いくるめようとする議論」という意味があるとされています。
劇中では、主に金森さやかが「詭弁」の使い手として描かれており、部活動の在り方に文句を垂れる教員や活動内容にケチをつける生徒会に対して強引な議論を進めています。
しかし、この作品を見ていて感じさせられたのは、むしろアニメーションというものが「詭弁」なのかもしれないということです。
先ほども書きましたが、アニメーションというものは現実とは隔絶した空間に事物を描き、見る人にリアリティを感じさせ、その世界に引き込むメディアと形容できます。
そうであれば、「虚構をあたかも現実であるかのように錯覚させること」がアニメーションの意義であり、これはつまり「詭弁」なんですよね。
しかし、重要なのは、アニメーションという「詭弁」は見る人にそれが「詭弁」であることを悟らせてはいけないという点です。
第4話で浅草氏が自分たちの作品を「魂を込めた妥協と諦めの結石」と形容したように、彼らが作り上げた作品はきっと理想からは程遠いものだったのでしょう。
ただ、それが悟られることはあってはなりませんし、見る人にとっては「作り手の作りたかったもの」が最善の形で提供されているのだと信じ込ませなければならないのです。
そこまで含めて「詭弁」を押し通せる者こそがプロフェッショナルなクリエイターということになるのかもしれません。
朝井リョウさんの『何者』という小説の主人公がこんなことを言っていました。
もっと考えて煮詰めて、最高のものをお客さんに提供するべきだって俺は思うんだよね。
(朝井リョウ『何者』より)
これを口に出すことは簡単ですが、いつまでも理想を口にしていても、それを形にできなければ、何もしていないのと同じなのかもしれません。
だからこそ、同書中で主人公の発言に対するカウンターとしてこんな発言が飛び出します。
十点でも二十点でもいいから、自分の中から出しなよ。自分の中から出さないと、点数さえつかないんだから。これから目指すことをきれいな言葉でアピールするんじゃなくて、これまでやってきたことをみんなに見てもらいなよ。
(朝井リョウ『何者』より)
『映像研には手を出すな!』の第4話で描かれていたのは、まさにこのことだと思いますし、彼らが「魂を込めた妥協と諦めの結石」を「自分たちの作りたい最善」であると観客や生徒会に信じ込ませようとする様です。
面白いのは、アニメーションが流れた後の、映像研の面々と生徒会を含めた観衆との反応の差ですよね。
© 2020 大童澄瞳・小学館/「映像研」製作委員会
映像研の面々は自分たちが最善を尽くしたわけではないと自覚していますから、それを踏まえて反省点や次に向けての目標を熱く語っています。
一方で、観衆は彼らの生み出した「詭弁」に見事に打ち負かされているではありませんか!
言葉ではどうすることもできなかった生徒会を、彼らはアニメーションで圧倒して見せたわけです。
そして何より、ここでも先ほどお話した「観衆=第3話までを見ていた私たち視聴者」的な構図が効いています。
私たちは第4話を通じて、映像研の面々が作り上げた作品が理想とはほど遠いことを知っている立場にいますよね。
つまり、ある種の特権的な立場から視聴者は、その「詭弁」に純粋に感動し、心を動かされる観衆と予算を承認する生徒会の面々を見ているということになります。
これはアニメーションの力というものを「主観的に」ではなく、「客観的に」私たち視聴者に感じさせるための魔法のような演出だと感じました。
自分が視聴者であるときは、自分たちもその「詭弁」を信じる側にいたわけで、そういう状況にいると、意外とアニメーションの力というものに鈍感になってしまうのかもしれません。
しかし、彼らのアニメーションが「詭弁」に過ぎないことを知った上で、その「詭弁」に魅せられる人たちの姿を見ることで、私たちはアニメを見ている自分自身を客観視することができるのです。
これほどまでにアニメーションというメディアの本質を突き、その力を実感させてくれる『映像研には手を出すな!』に惜しみない賛辞を贈りたいですね。
最終回と劇中アニメ「芝浜UFO大戦」に込められたメッセージ
『映像研には手を出すな!』の最終回を観ましたが、これまた完全にやられました。
この作品が、クリエイター讃歌として如何に優れているのかを、最終回で描かれたことを中心にして語っていきたいと思います。
そしてそれを考えていく上で、欠かせないのが劇中アニメの「芝浜UFO大戦」です。
この作品は、水の中で暮らす種族と地上で暮らす種族の争いを描いたアニメなのですが、劇中でも描かれたように、そのラストシーンが土壇場で変更されました。
当初は、人間と河童(水中で暮らす人々)が和解して、ダンスを踊るという大団円だったのですが、劇伴音楽の都合で改変せざるを得なくなりました。
そして、採用されたのが、2つの世界を結ぶ鐘が復旧し、音楽が鳴り響いても尚、戦争は終わらないという結末です。
その結果、両方の世界に住んでいるそれぞれの主人公は、互いに相手側の世界で捕虜として捕まることとなりました。
この結末だけを見ると、なんだが2人が決死の覚悟で臨んだ2つの世界を繋ぐコミュニケーションツールの復旧が無意味に思えますよね。
私は、この劇中アニメにおける「コミュニケーションツール」に浅草氏たちは自分たちにとっての「アニメ」を重ねているのではないかと感じました。
浅草氏や水崎氏の頭の中には、常に豊かな空想の世界が広がっており、彼らのフィルターを通せば、何でもない風景も幻想的な風景に早変わりです。
しかし、彼らがそれを外に出そうとしなければ、その空想は彼らの頭の中にしかないものとなってしまい、誰にも理解されることはありません。
だからこそ、彼らはクリエイターとしてアニメを作り、自分たちの中にある世界を誰かに伝えていかなければならないのです。
そうしなければ、自分たちの思い描く世界を、大好きなものを誰にも理解してもらえません。
そういう意味でも、本作において「アニメ」はある種の「コミュニケーションツール」として描かれています。
しかし、アニメを作ったからと言って、それが全員に好意的に受け入れられることはありませんし、誰からも理解されるわけではありません。
これは、「芝浜UFO大戦」で鐘の音が鳴り響きながらも戦いが終わらなかったことに重なると言えるでしょうか。
それはきっと違うはずです。
「芝浜UFO大戦」においてあの「コミュニケーションツール」が復旧した意義は確かにあるはずで、それが存在しなかった昨日と存在する今日とでは何かが違います。
それはアニメもきっと同じで、君が何かを生み出して送り出した世界は、少しだけ昨日とは違う世界なんだ…と言い換えられるかもしれません。
© 2020 大童澄瞳・小学館/「映像研」製作委員会
当ブログ管理人は、最終回の終盤に登場するこのシーンがたまらなく大好きです。
世界が大きく変わったのかと言われると、きっと変わっていないのですが、あなたが世界に作品を産み落としたことで、その在り様は少しだけ変化したはずだと確信させてくれます。
そして、憎い演出なのがこの風景に浅草氏のイマジナリーフレンド的な存在であるウサギのぬいぐるみを重ねている点です。
これは、まさしく彼女の想像の世界が、少しだけ現実世界とリンクしたことを表現しているんですよ。
あなたの作った作品が、あなたの中にある世界と現実、そして他者を繋げていく。
クリエイターにとっての最大の「コミュニケーションツール」はどこまでも自分の作品そのものだと思っています。
ここで、作品の中で水崎氏が言っていた「自分自身を救うためにアニメを作る」という言葉も繋がってきますね。
どんなに想像力が豊かで、頭の中の世界が魅力的でも、それは単独で存在している限りは実体がありません。
だからこそ、それを現実や他人と結びつけ、「共生」させることで、具現化していく必要があります。そしてその懸け橋になるのが「アニメ」なんですよ。
自分自身の頭の中にある世界が、少しずつ現実に溶け出していく…。
「自分が何かを生み出し、送り出した今日」を生きるために、クリエイターは「魂を込めた妥協と諦めの結石」を作り続けていくのです。
そんなプロセスを愛おしく描き、クリエイターたちを肯定した本作に拍手を贈りたいと思います。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は『映像研には手を出すな!』についてお話してきました。
上記の部分で触れなかったのですが、第4話の終盤に印象に残っているシーンがあります。
生徒会の面々がアニメーションを見た後で、こんな言葉を発していました。
「こいつら予算無くてもやるタイプじゃん。」
この言葉の次に、「だったら低予算でこれからも良いものを作ってよ!」という言葉が続いてきたのが、当ブログ管理人としては今の日本の映画やアニメの業界だったのではと邪推してしまうのです。
しかし、本作はこの次にこんな言葉を紡ぎます。
「こいつらに予算渡したらどうなるんだろうな・・・。」
映画やアニメが発展していくためには、こういう発想こそが重要になっていくと強く感じますし、この発想がなければ業界が才能に依存し、疲弊していくだけになってしまう気がしています。
学生の映像研を描いた作品でありながら、ここまでのメッセージを内包させてしまうところに本作の素晴らしさがあります。
ぜひ、まだ作品をご覧になっていない方がいれば、ぜひチェックしてみてください。
まだまだ第4話が放送されたところですから、今から追いかけても間に合いますよ。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。