みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『影裏』についてお話していこうと思います。
まず、タイトルを何と読めば良いのかが疑問で、「えいり」と読むのか、それとも「ようり」と読むのか。
そもそも原作を読んでいた時の印象から考えても、予告編がかなりサスペンステイストを過剰に煽っていた感じも気がかりで、あれを見て映画を見に行った人はかなり面食らったのではないかと思います。
芥川賞を受賞した作品ではありますが、選考当時も審査員の間でかなり評価が割れた作品でして、賛否両論の様相を呈していました。
文体が素晴らしく、表現が難解ではあるが奥深く、豊かであるということで高く評価された一方で、テーマを明示しない語り口や何を伝えたいのかが分からない物語については批判的な目線も多かったと言います。
審査員の1人である村上龍氏は「推さなかったのは、「作者が伝えようとしたこと」を「発見」できなかったという理由だけで、それ以外にはない。」と説明し、自身がこの作品を読み解き切れなかったと語っています。
確かに映画であっても文学であっても作者が伝えたいことは間違いなくありますが、それを解釈することでしか作品を味わえないわけではないのです。
ぜひ、この作品を見て、ありのままに感じたことを大切にして欲しいと思いますし、この作品には何か答えがあるはずだと変に力む必要もありません。
そんな中で、今回は当ブログ管理人が感じたこと、思ったことを綴らせていただければと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『影裏』
あらすじ
転勤で岩手県は盛岡に移り住んだ今野は、慣れない土地で孤独に仕事を続けていた。
東京で付き合っていた交際相手とは、長い口論の末に別れ、そしてジャスミンの植木1つを携えて埼玉から東北の地へやって来たのだ。
そんな時、職場で出会った日浅という男に惹かれ、彼は夜な夜な飲み交わし、休日には釣りに出かけるようになる。
しかし、ある日突然、日浅は誰にも何も告げることなく会社を辞めてしまう。
彼は、別の会社の営業マンとして働くようになり、毎日契約のノルマに苦しんでいた。
それでも、今野は彼のことを思い、一緒の時間を過ごすのだが、東日本大震災が起こり、日浅と連絡が取れなくなってしまう。
何とか彼に再会したいと願った今野は、彼の家族や近しい人に話を伺って回るのだが、そこで浮かび上がってきたのは、想像だにしない「裏」の顔だった・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:大友啓史
- 脚本:澤井香織
- 原作:沼田真佑
- 撮影:芦澤明子
- 照明:永田英則
- 編集:早野亮
- 音楽:大友良英
まず、原作は第157回芥川賞を受賞した沼田真佑の小説『影裏』でした。
冒頭にも書きましたが、かなり選考当時にも賛否別れた作品であり、その実は100ページほどの中編です。
そこから小説を脚色し、脚本を作り上げたのが、『愛がなんだ』でも知られる澤井香織さんです。
そして監督を務めたのが、『3月のライオン』や『るろうに剣心』シリーズでおなじみの大友啓史さんです。
やはり『3月のライオン』でも非常に登場人物の感情の掘り下げが深く、それでいて語らない演出が見事でしたので、やはり今回の『影裏』も素晴らしかったですね。
表に出てこない感情をひたすら積み上げていくという難しい物語を、ここまで「見れる映画」に仕上げることができる監督は日本に数えるほどしかいないのではないかと思わされました。
照明・撮影には黒沢清監督作品でも知られる永田英則さんと芦澤明子さんが起用されていますね。
編集は瀬々監督作品に多数携わり、淡々とした映像テーリング主体の物語を陰で支えてきた早野亮さんが務めました。
今回、大友啓史さんは今までの大友組に携わっていないメンバーを集めたということで、過去作と比較しても新しい顔ぶれが目立ちました。
- 今野秋一:綾野剛
- 日浅典博:松田龍平
- 西山:筒井真理子
- 副島和哉:中村倫也
- 日浅征吾:國村隼
- 日浅馨:安田顕
大友啓史さんは今回のキャスティングについて、脚本を読んだ段階で真っ先に綾野剛さんと松田龍平さんが浮かんだようです。
その期待に応える形で2人は、見事な演技を披露していました。
綾野剛さんはこれまでのベストアクトとも言える出来栄えでしたし、松田龍平さんは黒沢清作品で魅せた顔を今作でも覗かせ、異質な存在感を放っていました。
また、監督が「本物を集めたい」ということで、キャスティングした豪華な面々が脇を固めています。
『影裏』感想・解説(ネタバレあり)
カルバンクラインのブリーフを穿いた綾野剛に刮目せよ
(C)2020「影裏」製作委員会
本作で当ブログ管理人が、注目してしまったのは、カルバンクラインのブリーフを穿いた綾野剛さんです。
20代から30代くらいの社会人をメインターゲットに据えたファッションブランドで、とりわけ男性人気が高いぶらんどでありますが、特に本作でも登場したボクサーパンツは人気です。
それほど値段が高いというわけではないですが、そういったあまり人目につかない衣類にお金をかけるのは、やはりある程度ファッションに気を使っている人であるという印象は強まりますし、埼玉から岩手にやって来たという今野の設定を補強するうえでも重要なアイテムに思えます。
それはさておき、今作はやたらと綾野剛さん演じる今野が服を脱ぐシーンが多いのです。
冒頭の今野がパンイチで、ジャスミンの植木に水をやるシーンは、危うくポロリするんじゃないかと気が気ではなかったですが、そこは安定のカルバンクライン製ボクサーパンツということで、鉄壁の守備力で綾野剛さんの綾野剛をブロックしていました。
彼は基本的に家の中では、とりわけ夜の寝る前の時間帯はパンイチで部屋の中を動き回っているようです。
そして、来客があると、洗濯機の付近に置かれていたスウェットを穿いて対応します。
例えば、回覧板について文句を言いに来た同じアパートの住人の応対でもそうですし、突然日浅が家にやって来た時もそうでした。
しかし、ここで注目してほしいのは、今野と日浅の関係がある程度深まって来た時の彼の応対する際の出で立ちです。
基本的に来客があれば、カルバンクラインをスウェットで覆ってから玄関に向かっていましたが、何と作品の後半に差し掛かると、日浅の応対についてはカルバンクライン丸出しで行うようになったのです。
本作『影裏』は、彼が、日浅という人物に心を許しているという心情を、ボクサーブリーフで表現して見せたのです。
映画における感情表現は、ディテールにこそ宿ると常々思っておりますが、こういった何気ないところで、感情の変化を感じさせる演出が施されている点には、感動しました。
聖書的なモチーフ
本作『影裏』の映画版は強く『君の名前で僕を呼んで』を意識して作っているように感じました。
自然の描写の仕方、とりわけ水辺のシーンが多いことや2人の閉じた世界を描いている点、果実や聖書的なモチーフの登場などが共通点として挙げられるでしょうか。
ただ、本作は今野はゲイである一方で、日浅がそうではないという点で、非常に残酷な物語であると言えるでしょう。
作中に登場するモチーフを見てみると、果実はやはり印象的です。
とりわけ、「人間の味」がするということで印象的に扱われたのが「ザクロ」でした。
ザクロは中にたくさんの種子が入っていることから、キリストの永遠の命つまり再生と不死を象徴するものとして見なされるようになりました。
そういう意味でも本作が日浅とザクロという果実を結びつけたのは、彼が東日本大震災で死んでなどおらず、どこかで生きているはずだというある種の希望を描こうとしたからではないかと推察されます。
そしてもう1つ印象的だったのが、今野が日浅にキスをする直前に部屋に現れた「蛇」ですね。
聖書やキリスト教において「蛇」と言えば、もうアダムとイヴに禁断の果実を食べるように促したあの蛇ですよ。
その点でも、今野が手を出してはいけないと思いながらも、自分の中で湧き上がる日浅への思いを爆発してしまうトリガーとして「蛇」が登場するのは、理にかなっています。
あとは、これは少し想像も含まれてきますが、魚も聖書的キリスト教的モチーフとして挙げることができます。
魚がキリスト教徒のシンボルであり、イエスを象徴するモチーフとして皇帝ディオクレティアヌス治世のローマ帝国で用いられていたのは有名な話です。
さすれば、魚釣りのイメージと強く結びつけられた日浅にそうした死と再生のイメージを見ることができるのは自明でしょう。
面白いのは、今野と日浅が最後に会った時に焚火を囲んで食べていたのは、焼き魚でしたよね。
実は近年の研究でレオナルドダヴィンチの『最後の晩餐』にも魚料理が描かれていたことが判明しています。
そういう意味でも魚という観点から、日浅の生と復活への希望を読み取ることができます。
ポスト震災文学として魅せる死と愛の物語
そもそもこの日浅という男は、それがどういう種類のものごとであれ、何か大きなものの崩壊に脆く感動しやすくできていた。
(沼田真佑『影裏』より引用)
原作を読んでいる時、この言葉こそが、作品を通底する日浅という人物を表現しているように感じました。
日浅が初めて今野の家にやって来た時にしていた会話の内容を覚えていますか。
彼は、山火事が起きて、更地になってしまった場所が、工事によって失われてしまうということで、慌てて見てきたんだという内容を話していましたよね。
そんな男が皮肉にも、東日本大震災という「大きなものの崩壊」を契機に行方をくらましてしまったわけですが、彼は海辺で津波がやって来る様をまじまじと見つめていましたよね。
(C)2020「影裏」製作委員会
これからあの波がやって来て、陸地が浸食され、これまで当たり前だったものが一瞬で崩壊していくような、そんな光景に彼は言葉にならない魅力を感じ、あの場所から動けなかったのだと思います。
彼は、物語の中でたびたび「俺たちは屍の上に立っているんだ」という話をしていましたが、彼が想像していたのは、きっと何か大きなものの崩壊が人類の長きにわたる歴史の中で何度も起こってきて、その上に今の自分たちの生きる世界があるんだというすごく大きなスケールの話だと思うんです。
だからこそ、そういった人類全体を取り巻く崩壊と再生のサイクルに彼は魅了されたのでしょう。
それとは対照的に描かれたのが今野という人物でしょう。
彼は、埼玉で副島と人物と交際関係にありましたが、岩手にやって来るにあたって破局してしまいました。
これは彼にとってのほんの小さな「崩壊」です。しかし、「崩壊」に引き寄せられるという観点では、そんな元恋人に夜中に会いに行った彼もまた、日浅とリンクする性質を持っています。
そして彼は東日本大震災というあまりにも大きな天変地異を前にして、ただひたすらに日浅1人を追い続けました。
このように「大きな崩壊」に観念的に惹かれた日浅とは対照的に、今野は自らの内面に纏わる「小さな崩壊」に感情的に惹かれています。
ポスト文学的作品として読み解くのであれば、本作は東日本大震災というあまりにも大きな災害と失われた多くの命を、今野と彼の下から消えてしまった日浅に置き換えて描いていますよね。
あくまでも震災という大きな災害で、多くの命が失われたのは事実ですが、彼にとって失われたのは、日浅という大切なたった1人なのです。
しかし、彼の家族を当たっても失踪から3か月たっても捜索願を出そうとしない有様で、父親に至っては息子との縁を切ったというのです。
それでも、日浅の父と兄は口を揃えて、「あいつのことだからどこでだって生きていけるよ。」と絶望的な状況でありながら生を信じるコメントを残していました。
積極的に探し出そうとするわけではないですが、心の片隅にはきちんと彼の存在があって、そして生きているだろうと、突き放すようでいて、希望的観測に裏打ちされたような複雑な愛を言葉にしていると私は感じました。
「俺たちは屍の上に立っているんだ」
物語の結末において、結局日浅が生きているかどうかは描かれることがありません。
今野は震災より前に日浅が自分の住所宛に送ってきた営業資料を開封し、そこに書かれた彼の名前を見ながら号泣します。
これはまさに彼が生きていた証そのものであり、同時に自分の元から彼が消えてしまったことを実感させるトリガーでもあります。
深い喪失感を抱え、そしてそんな彼の屍の上に立って生きなければならないという残酷な運命を悟った今野の悲痛な表情は真に迫るものがありました。
ラストシーンで彼は新しい恋人を見つけましたが、どこかで未だに日浅の幻影を追い求めているようです。
それでも、彼にとっての「小さな崩壊」を経て、心は少しずつ平穏を取り戻していき、日浅を失った深い喪失感の上に、彼は大切な恋人への愛情を築いています。
生と死は常に裏表の関係であり、生を光とするなれば、死は影ということになります。
「知った気になんなよ。お前が見てんのは、ほんの一瞬光が当たったとこだけってこと。人を見る時は、その裏っかわ。影の一番濃いとこを見んだよ。」
私が、人間を見る時に、その人への喪失感に思いを馳せ、向き合うことこそが大切なのではないかと感じさせられました。
震災で多くの人が亡くなり、そして残された人たちはその現実と向き合うために長い時間にわたって葛藤を抱え続け、今もまだその絶望に打ちひしがれている人も多くいるでしょう。
それこそが人の影の部分つまり「死」や「喪失感」を見つめるということなのかもしれません。
世界は「大きな崩壊」とそこからの再生を絶えず繰り返し続けています。
人間の心もそうして「小さな崩壊」とそこからの再生を繰り返しているのだと思います。
だからこそ、ポスト震災後の日本を生きる私たちは、そんな「崩壊」「死」「喪失」というある種の「影」を見つめて生きていかなければならないのです。
本作のタイトルでもある『影裏』を含んだ漢語が日浅の父の部屋に飾られていました。
「電光影裏斬春風」(電光影裏に春風を斬る)
「この世のすべては空です。剣で斬るならそうすれば良いでしょう。しかし空を斬ったところで、それは電光が光るうちに春風を斬るようなものでしょう。」といった意味合いでしょうか。
私はこの言葉は「希望」だと思いました。
人間には元々光と影のように「生」と「死」の部分が存在しており、例え、剣で斬ったところでその存在そのものが消せるわけではないということを言っているように感じられたからです。
「死」や「喪失」を見つめるということは、その人を忘れてしまうということではありません。
その人が確かに存在していたのだということを深く受け止めることなのです。
震災が起きて多くの人が命を落としましたが、その存在が消えたわけではなく、彼らは永久に滅びることがなく、存在しているのだという、ポスト震災の世界へ希望の灯を灯すメッセージだと感じました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『影裏』についてお話してきました。
象徴的な言葉である「電光影裏斬春風」(電光影裏に春風を斬る)がそもそも禅僧の言葉であることからも、本作がある種の禅問答であるということもできるかと思います。
著者がどんなことを意図してこの作品を綴ったのかを言い当てることは難しいですが、その分解釈は読み手に委ねられていると思っています。
ぜひ、本作が何を伝えようとしていて、何を描こうとしていたのかを考えてみてください。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。