みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『Fukushima50』についてお話していこうと思います。
個人的な政治的な信条をレビューに乗せすぎると、少し論旨がぶれるので、極力それを排して、あくまでも映画として評価するという姿勢を貫けるよう、努力はしようと思います。
この映画を見終わったときに、どうしても比較したくなってしまったのは、HBO制作の『チェルノブイリ』ですね。
同じ原子力発電所での事故を題材にした作品でも、ここまで演出や作劇、作品の質に差が出るんだと呆然としましたし、このレベルの映画が「日本人が見るべき作品」として大々的に打ち出され、ありがたがられるのは、何だか残念に思えてなりません。
昨年公開された『新聞記者』と全く同じ問題を抱えている映画だと思いますが、事実ベースで作っているように見せかけて、そこに絶妙に思想誘導しようとする情報を忍ばせる一丁前のプロパガンダですよ、これは。
日本は、この手の映画が作られる気風がどうしても弱く、これまでも小規模上映作品ではありましたが、大作ではほとんど作られてこなかったので、当ブログ管理人自身への自戒もありますが、リテラシーがイマイチ涵養されていない気がしています。
この映画が、描いたことが紛れもなく全て事実なのだと受け止めてしまう人は、少し立ち止まって考えて欲しいのです。
そういうリテラシーを育てていく上でも、こういった巧妙に罠が仕掛けられている作品を見ておくのは意義があると言えるかもしれません。
今回はそんな『Fukushima50』について語っていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『Fukushima50』
あらすじ
2011年3月11日午後2時46分、マグニチュード9.0、最大震度7を記録した東日本大震災が日本を襲う。
地震を感知したことで、稼働中の原子炉は自動的に制御棒が挿入され緊急停止し、外部電源を喪失しながらも、非常用発電機による送電で何とか炉心を安定させることに成功した。
しかし、その直後福島第一原子力発電所を津波が直撃し、地下に置かれていた非常用発電機が水没し、全電源が消失する「SBO」という状況に陥る。
その結果、炉心を冷却することが難しくなり、燃料棒は過熱し、炉内温度は上昇の一途を辿ることとなる。
また、冷却水が過熱されたことによる水蒸気発生によって炉内水位が低下し、圧力容器と格納容器の内圧がどんどんと上昇し、燃料ペレット被覆管溶融に伴う化学反応で、多量の水素発生する。
水素が充満すると、当然爆発という結果を招くことになるわけで、それを防ぐために格納容器内の圧力を低下させる必要性が生じる。
福島第一原子力発電所の吉田所長は、本店や政府とのやり取りに悩まされながらも、何とか対策を練り、行動に移し始める。
そして現場の最前線では、当直長の伊崎が指示を出し、格納容器内の圧力を低下させるために建屋に入り手動でベントを開ける決死隊を編成していた。
しかし、建屋内の放射線量は高く、手動で弁を開けるにしても人間が立ち入ることもままならない。
何とかベント作業は成功したが、3月12日15時36分、1号機の原子炉建屋にて水素爆発を起きてしまう。
そんな未曽有の危機に現場の最前線で立ち向かった者たちの物語が実話に基づき描かれる…。
スタッフ・キャスト
- 監督:若松節朗
- 原作:門田隆将
- 脚本:前川洋一
- 撮影:江原祥二
- 照明:杉本崇
- 編集:廣志良
- 特撮&VFX:三池敏夫
- 音楽:岩代太郎
原作者の門田隆将さんは福島第一原子力発電所の吉田所長をよく知る人物で、朝日新聞が「吉田調書」に関するとんでもない誤報を出した際には、徹底的に糾弾しています。
もちろん、吉田所長の近くで取材を続けてきた人物ですから、それなりに肩入れにも似た感情はあるのだとは思いますが、それでもしっかりと取材をして、骨のある記事をかける人物です。
今回の『Fukushima50』は、そんな門田さんのノンフィクションを原作としているわけですが、一体全体どうして映画はこんなに偏ったことになってしまったのか疑問が残ります。
原作の方も読みましたが、ある程度、事実を追求しようという姿勢が垣間見えるだけに、この映画の姿勢に個人的には賛同しかねます。
監督を務めたのは『空母いぶき』で知られる若松節朗さんですね。
この作品の時も、様々な意見が飛び交っていて、監督の政治的な姿勢が出ているのか、それとも脚本なのか、はたまたもっと上からの力が働いているのかは分かりませんが、個人的には彼の作品があまり得意ではないです。
撮影には『マスカレードホテル』や『信長協奏曲』など邦画超大作映画にしばしば携わられている江原祥二さんが起用されています。
VFX&特撮には『シンゴジラ』や実写版『進撃の巨人』にも携わった三池敏夫さんが参加しています。
- 伊崎利夫:佐藤浩市
- 吉田昌郎:渡辺謙
- 前田拓実:吉岡秀隆
- 浅野真理:安田成美
- 野尻庄一:緒形直人
- 大森久夫:火野正平
- 平山茂:平田満
- 井川和夫:萩原聖人
- 伊崎遥香:吉岡里帆
- 滝沢大:斎藤工
メインキャラクターを演じたのは、佐藤浩市さんと渡辺謙さんで、後者は実際に福島の最前線で戦った吉田昌郎を演じています。
現場で戦った面々には、吉岡秀隆さんや安田成美さん、緒形直人などの豪華な顔ぶれが目立ちます。
現場で戦う人たちを待つ家族という立ち位置でも吉岡里帆さんや斎藤工さんなどの有名キャストが起用されていて、これが邦画超大作か…と実感しますね。
『Fukushima50』感想・解説(ネタバレあり)
構成は秀逸だが『シンゴジラ』にはなり得ない
(C)2020「Fukushima 50」製作委員会
この映画は中盤くらいまでは、とんでもなく素晴らしい出来だと思います。
まず、「2011年3月11日午後2時46分」の地震が起きる瞬間から映画が始まるというのは、良いですね。
日常生活を普通に送っていて、そして映画館にやってきた人たちを一瞬で、あの瞬間のあの場所にタイムスリップさせ、その恐怖の中に放り込んでしまう演出であり、作品の中に没入させる効果があったと思います。
本作はドルビービジョン,ドルビーアトモスを用いた制作を敢行し、徹底的に映像と音響の迫力や臨場感を向上させることに努めています。
だからこそ、冒頭のあの自身がやって来る瞬間に、私たちは映画の中の世界というより「2011年3月11日午後2時46分」の福島第一原子力発電所にタイムスリップしたような感覚を味わうのです。
そして中盤くらいまでは、トラブル→対策→トラブル→対策のルーティンを時折、吉田所長の本店とのやり取りをスピーディーに描くことで、非常に見ごたえのある作品だったのですが、中盤からそれが崩れていきます。
まず、邦画特有の大げさすぎる演技が中盤頃から一気に顔を出し始め、さらには取ってつけたような家族映画の要素が顔を出し始めることで、これまで保っていた緊張の糸がぷつんと切れてしまっています。
『シンゴジラ』が最後まで観客の興味を損なわない作品たりえたのは、まず編集が素晴らしかったからというストロングポイントがありますが、それに付け加えるなればキャストの演技が物語のノイズにならなかったことが挙げられます。
『シンゴジラ』で役者陣のドラマに徹する演技がすごく光っていたのですが、『Fukushima50』はそういう意味では、良くも悪くも役者が物語よりも目立ってしまったように感じられました。
また、中盤以降に入ると、家族映画の要素を入れざるを得なくなったことも相まって、編集のテンポ感が一気に落ちていきます。
確かに福島第一原子力発電所で自分の家族がいることも顧みずに戦った人たちを映すわけですから、彼らの家族にもスポットを当てる必要があるというスタンスは分かるのですが、単純に家族パートに時間を割いてしまうのは、勿体なく感じました。
例えばですが、さりげないケータイへの着信や結婚指輪、手作りのお守りみたいな家族を想起させるイメージをさりげなく散りばめておくだけで、個人的に十分、家族の存在に後ろ髪を引かれながらも戦う者たちというコンテクストは十分に出せたと思います。
そして何より、個人的に差が出たのは、物語の着地のさせ方だと思っています。
なぜ未解決の問題をそんなところに着地させてしまうのか?
福島第一原子力発電所の事故で反原発へ誘導したいからと陰謀論めいたニュースや過剰な主張を為すことは、あまりするべきではないと思いますが、この事故の問題は未だ収束していないというのが共通認識だと思っています。
燃料デブリを取り出すことができず、地下水が流れ込むたびに汚染水が増加し続けているという現状もあります。それに加え、デブリの周囲は線量が高く人間がなかなか近づくことができないというのも事実です。
東京電力は、福島第一原子力発電所の廃炉に40年近い時間を要するという見立てを出していることからも分かる通りで、この事故は未だ終わってなどいないわけです。
こういった終わっていない事象を題材にする上で、映画はすごく慎重にならなければならないと思っています。
先日鑑賞した、ハリウッドが米テレビ局「FOXニュース」で起きた2016年のセクハラスキャンダルを題材にした映画は、この点で素晴らしかったです。
まず、起きてから4年ほどしかなっていない事件を、実名キャストで映画化してしまうという文化的な土壌が日本にはありませんし、何より女性のセクハラ問題を「現在進行形で続く問題」と位置づけ、安易に作品内で解決してしまわない姿勢が明確でした。
そして先ほど話題に挙げた『シンゴジラ』も、物語を、日本とゴジラの戦いはまだまだ終わらないし、「これからが本番だ!」というところに着地させています。
HBO制作の『チェルノブイリ』だって1986年の事故を題材にしていますが、事故とその余波が今も続いているのだということを真摯に描いています。
現実でまだ収束したとは言えない現代進行形の問題を描く際には、まだ終わっていないけれども戦いを続けていかなければならないというスタンスを崩してはならないと個人的には思っています。
だからこそ、『Fukushima50』があの着地のさせ方には、個人的に納得がいきません。
何と言うか、吉田所長が死んで、福島の街には桜がまた咲いてというハッピーエンドを匂わせるような映像的着地をして、最後に東京オリンピックの聖火が福島から始まるという話をテロップで持ち出しています。
もちろん日本が復興していくにあたって、この作品のラストに希望を込めたいんだという気持ちは分かるのですが、原発の問題が今も続いていて、今も戦い続けている人たちがいるんだという事実に向き合い切れていない着地だとどうしても感じてしまいました。
特に、オリンピックの話題を持ち出してきたのは、個人的にはすごく嫌悪感がありました。
フィクションとしての希望を打ち出すことは確かに大事ですが、その希望が現実から目を背けるためのデコイにされてしまっては本末転倒です。
観客を、あの時の福島第一原子力発電所にタイムスリップさせ、現実を直視させるようなスタンスを予見させながらも、最終的には、現実から目を逸らさせてしまうような着地には納得がいきませんでした。
現場で戦った人間を讃える作品なのであれば、ラストでは、今も現場で戦い続ける人たちにフォーカスすべきだったと思うのは自分だけでしょうか。
本作の物語としての着地のさせ方には、個人的には疑問を抱きました。
正義には実名、悪には仮名
(C)2020「Fukushima 50」製作委員会
日本アカデミー賞にて、『新聞記者』が作品賞を受賞しましたが、個人的に今作『Fukushima50』は同様の臭いがする映画です。
フィクションだからということで、キャラクターや施設名、事物に実際とは異なる名称をつけながら、それが現実に存在しているものを強く匂わせるような作りにしてあるんですよ。
『新聞記者』は、現政権を強く糾弾する映画であることに間違いはないのですが、糾弾される側の人物や組織には基本的に実名を用いていません。
これによりフィクションであるという事実を隠れ蓑にして、何でもありな描写ができてしまうという危険性があります。
『新聞記者』は、非常に意義のある作品だということは認めますが、見る側にリテラシーが欠如していると、劇中で描かれていることが全て真実なのではないかと鵜呑みにしてしまう可能性があるわけです。
『Fukushima50』も同様の問題を抱えていることは明白だと思います。
まず、今作において実名で登場しているのは、吉田所長だけで大半のキャストが、実名ではなく架空の名前、架空のキャラクターとなっています。
今回の『Fukushima50』は、事実を描く作品なのですから、徹底的に取材を重ねた上で、現場の作業員たちは別としても政府の人間や、東電の上層部の人間なんかは実名で登場させるぐらいの気概はあっても良かったと思うんです。
しかし、実名で登場するのは、本作中で「ヒーロー」として扱われる吉田所長だけなんですよ。
そして、既にブログやSNSなどで書かれている方もおられますが、事実とは異なるとされているような情報が映画の内容に反映されてしまっていました。
例えば、今話題になっている菅直人元首相を思わせる劇中の総理大臣の言動についても、真実と虚構がごちゃ混ぜで描かれています。
まず、菅直人元首相が福島第一原子力発電所に視察に行った時の、言動には色々と思うところがあります。
既に多くの人が取り上げられているように、当時の首相が視察に行ったことによって、その間ベントの決行が見送られていたのではないかというのは、当時の野党からの糾弾に過ぎず、事実ではなかったというのが今の認識です。
そして、なぜ当時の首相が官邸に東電の人間がいて、しかも本局とは連絡を取り合っていたにもかかわらず、現地に視察をしに行かなければならなったのかの経緯もおざなりにしています。
当時の首相は、確かに官邸にいた東京電力の人間から情報を受け取っていましたが、そこには不正確でかつ自信のない情報も多く、信用に値するのかが確かめづらかったのだそうです。
これについては門田隆将さんの原作の方では、きちんと触れられています。
そういう東京電力の本局サイドからの情報提供がままならない状況にあり、メルトダウンが迫り一刻もベントの作業を急がなければならないという中で、首相は自ら現地に行って吉田所長に状況を聞くという決断を下したのです。
もちろん、日本の最高責任者が、司令塔の立場から離れて、震災の初動対応の段階で現場に向かってしまうというのは、判断として適切かどうかは分かりません。
しかし、そもそも首相を納得させ、落ち着かせるだけの情報を、本局の人間や官邸にいた東京電力の人間が提示できていなかったというのが、大きな問題なのです。
その後も、東京電力の本局が官邸側に情報を公開しなかったことに付随するトラブルが何度も起きていることからも、明白です。
また、海水を注入することについて、政府側が決断を渋っていて、中止させようとしているというような作劇をしていましたが、これも後々ビデオ通話のログから、東電側が原子炉に海水をかけてしまうと廃炉にせざるを得なくなるから回避したいという目論見があったのではないかということが確認されました。
とりわけ3号機については、東電本局側が海水を入れて原子炉を使えなくしてしまうという懸念を抱いていたがために判断が遅れてしまったというデータも出てきていました。
また、中盤過ぎにあった首相の「撤退などありえない!逃げられないぞ!」というセリフも、事実から恣意的な切り取りが為され、当時の発言から意図が捻じ曲げられています。
描く描かないの判断はあって叱るべきですが、こういった事象の責任が東電側にあることを「描かない」ことを通じて、当時の首相や政権側に全ての非があるのだと観客を誘導してしまうようなアプローチが果たして誠実だと言えるのでしょうか。
先ほどもお話したように、フィクションなのでという隠れ蓑を口実にして、実在の人物を想起させる人物を、現実とは異なる事実で悪役に仕立て上げるという姿勢が垣間見えて個人的に納得がいかないんですよ。
思想的には右寄りだとか何とか言われている門田隆将さんの原作では、一応この菅元首相の視察や海水注入の件にも、菅首相側の発言や主張にも触れられており、一定のフェアさを保とうとする姿勢は垣間見えました。
そういう意味でも、今回の映画版は「描かない」という取捨選択によって、事実を歪曲して受け手に解釈させてしまう危険性を孕んでいます。
もちろん『Fukushima50』は、現場ないし吉田所長を中心に据えた作品ですから、彼に見えていた領域にフォーカスしていくという判断は間違ってはいないと思います。
ただ、ここまで史実ベースで作っておきながら、微妙に事実が歪曲されているように感じられる箇所については、今作はあくまでも実名のキャラクターがほとんど登場しないフィクションですから…という逃げ道を用意しているように感じられるのが何ともズルいと感じました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『Fukushima50』についてお話してきました。
当ブログ管理人も、福島第一原子力発電所の事故について当時、様々な情報を仕入れましたが、事故直後だったということもあり、情報が錯綜していました。
どの情報を信用して良いのかも判断できないほどに、玉石混交な情報がメディアに満ちていました。
当然、当時開示されなかった情報が、数年後に後出しで公開されるケースも多く、また桜を見る会の一件と同様に、重要な資料が平気で捨てられている(おそらく隠ぺいしたことへの言い訳だが)というケースもあります。
大切なのは、1つのソースを読んで、それが真実だと過信しないリテラシーを涵養していくことです。
特に、今作『Fukushima50』にはプロパガンダになりかねない、描写の取捨選択が行われています。
私自身も、もっといろいろな情報に触れて1つの出来事を多角的に見る視点を持つ必要があると実感させられましたし、こういった作品を見る際には注意が必要だと思いました。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。