みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『溺れるナイフ』についてお話していこうと思います。
この作品を劇場で鑑賞した当時、既にブログは始めていたんですが、記事は書かなかったんですよ。
なぜなら、あまりにも自分の語れる領域を超えた規格外の映画でしたし、それ故に酷評した作品でもあるからです。
おそらくその年のワースト映画候補にも挙げていたと思うんですが、今となっては、くるりと手のひらを返して絶賛している次第です(笑)
山戸監督の作品をたくさん鑑賞して、ようやくこの作品が何をやろうとしていたのか見えてきた部分もありますので、新作映画があまり公開されていないこの隙に改めて考察しようと思いました。
いつもはざっくりあらすじやキャスト・スタッフ情報なんかも最初に書いていますが、今回はあくまでも作品を鑑賞した人に向けての記事なので、最初から本論を書いていきます。
記事の都合上、作品のネタバレになるような内容を含む解説や考察を掲載しております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
『溺れるナイフ』解説・考察(ネタバレあり)
「女の子」らしさからの逸脱と再定義
本作の監督を務めた山戸結希さんの作品を通底する大きな主題の1つが「女の子の主体性」でしょう。
彼女が企画、プロデュースを担当した作品の中に『21世紀の女の子』という作品がありますが、このタイトルからも分かる通りで、「女性」ではなく「女の子」と表記するところにこだわりを感じます。
彼女が監督を務めた長編映画『5つ数えれば君の夢』を見ていても、そのセリフの中にやたらと「女の子」という言葉が登場するのが印象的です。
この「女の子」という言葉を考えてみた時に、私が感じたのは、大人社会が期待する期待し、要求する「らしさ」を内包しているという意味が含まれているような気がしました。
女子高という閉鎖空間を舞台にした『5つ数えれば君の夢』では、それが顕著に表れていて、ミスコンという旧来的な「女の子らしさ」の尺度の中で優劣を競うコンペティションが作品の中心に据えられたことで、非常に示唆的な内容となっていました。
日本という国は、高校を卒業するまでは世界のどんな国よりも男女平等が徹底されているわけですが、大学に進学し、そして社会に進出していくにあたって急激に性差が拡大していくという構造になっています。
そういう状況を見ていると、社会が近づくにあたって、徐々に社会が求める「女の子」という枠に女性たちが当てはめられ、無限の可能性を削がれていっているようにも感じられます。
では、旧来的な男性中心社会において、女性が勝ち残っていくためにはそうした「女の子」らしさという尺度において優れた存在にならなければならないのか?という疑問が生じてきますよね。
そうした葛藤を正面から描き切ったのが、まさしく『5つ数えれば君の夢』でして、この作品に登場する「女の子」たちは、斎藤りこという1人の傑出した少女を除いて、誰もがその「らしさ」の牢獄に閉じ込められて苦しんでいるように見えました。
やたらと窓や柵、線といった何かを閉じ込めるようなモチーフがたくさん登場するこの作品の映像は、そんな閉塞感の表出です。
だからこそ、その牢獄から飛び立たなければならない、これからの社会を生きる女性たちを旧来的な「女の子」という枠組みから解き放たなければならないと危機感を抱いているのが山戸結希さんなのでしょう。
優れた男性と交際することが自分の価値なのか、誰かのために自分を滅して尽くせることが自分の価値なのか、男性を献身的に支えられることが自分の価値なのか。
もちろん山戸結希さんはそういった価値を否定しているわけではないと思います。
私が彼女の作品を見ていて感じるのは、そういったこれまでの「女の子」らしさという尺度に自分を当てはめて、その中で優れようとするチキンレースに自分自身を消耗させないで欲しいというメッセージです。
『溺れるナイフ』という作品においては、序盤に15歳の時の夏芽とコウの出会い、そして別れを描いています。
その中でいくつか印象的なシーンやセリフがありました。
まずは、コウの芸能人としての夏芽に対する反応の違いでしょうか。
注目したいのは、ティーンファッション誌にモデルとして掲載された彼女を見た時と、写真家の広能が撮った写真集の彼女を見た時のコウの反応です。
前者においては、「こんな都合のええ顔なんて、うじゃうじゃおるやろ。」と吐き捨てるように述べています。
一方の後者においては、「お前じゃないの。お前、いっつもこんな目で俺のこと見よるぞ。」と肯定的な意見を述べているんですよね。
この2つのシーンの対比から感じられるのは、コウというキャラクターは「女の子」らしさという枠組みにはめられた彼女ではなく、それを超越した「自分」らしさを持った彼女を認めているということなんだと思います。
しかし、面白いのは夏芽というキャラクターはそこに自覚がなくて、むしろ「女の子」らしさの枠にはまることでコウから受け入れられようとするのです。
そういう依存的な姿勢をコウは拒んでいて、彼の言うとおりに面白く生きようとしたがる夏芽にどこか突き放すような様子を見せています。
ただ、その後のシーンで、面白く生きて後悔させてやると意気込む夏芽を、彼は心のどこかで認めるような素振りを見せます。
(C)ジョージ朝倉/講談社 (C)2016「溺れるナイフ」製作委員会
自分の家に代々伝わる「特別」な数珠を彼女に渡すという行為には、彼女を自分のものだと誇示するというよりは、彼女が「特別」な存在だと認めたという意味合いが強く含まれているように感じました。
しかし、そこにあの強姦魔の男が現れるわけで、夏芽に襲い掛かります。
彼の行為そのものが夏芽の女性性を搾取するものであることは言うまでもありませんが、そのセリフを紐解くと、「絶対幸せにするから。」といった独善的で、女性を自分の所有物と見るような言葉が目立ちます。
そういう意味で、彼は旧来的な男性社会が期待し、欲求する「女の子」らしさの亡霊のような存在に思えました。
そこから、コウは必死に彼女を救出しようとしますが、その手は届かず、2人の中で何かが音を立てて壊れてしまいまったようですね。
コウは自分自身が「特別」だと思えなくなり、暴力に身を任せ、近所のごろつきたちの中に自分をうずめるようになりました。
その一方で、夏芽もあの事件がきっかけでマイナスなイメージが広がり、芸能界から身を引くこととなりました。
この時に週刊誌の記事や、インターネット上でも彼女がレイプされたというニュースが晒し物にされるかのように出回りましたが、そこには「女の子」らしさとそこについた傷という構造が見え隠れしています。
彼女は、確かに「自分」らしく生きようとしていましたが、あの一件があったことで世の人間からは「女の子」という枠組みの中で消費されるようになってしまったんですよ。
彼女は何も悪いことをしたわけでもないし、事実としては未遂に終わっているわけです。
それでも、世間は「女の子」らしさという枠組みに彼女を閉じ込め、そこに傷をつけられた「女の子」として夏芽を見ることを望んでいるんですよ。
そういった消費のされ方に心を摩耗させた夏芽が、高校時代を故郷の街で過ごす中で、自分に普通の幸せを与えてくれる大友という青年に惹かれていったのは当然なのかもしれません。
しかし、そんな彼女を見て、写真家の広能は、「どこの田舎娘かと思った。」と辛辣な言葉を浴びせ、すっかり興味を失くしたように去っていきます。
「自分」らしさを見失い、「女の子」らしさの海に埋没していきそうになる彼女の様子を彼は見抜いていたんでしょうね。
彼女は、未だにコウに依存するような素振りを見せますが、彼はもう以前のような誇り高き自分ではないと自嘲し、それでも彼女には特別でいて欲しいと送り出します。
この時に、作品のタイトルにも含まれている「ナイフ」というモチーフがコウの手から夏芽に手渡されます。
この海も山も全部自分のもの、そして夏芽という美しく凛とした女性をも自分のものだと言いきれていた彼の自信と誇り。そしてあの事件以来その矛先を見失っていた行き場のない暴力。
それらを象徴するモチーフとも言える「ナイフ」を彼は放棄し、彼女に託しました。
そんな思いが、「お前は俺のことなんか追い越してくれ。」「遠くに行けるのが、お前の力じゃ。どこに行ったところでお前は綺麗やからのぉ。」といったセリフにも現れています。
彼女は、その言葉を受けて、大友に別れを告げて、再び東京に戻って女優として戦う道を選択しました。
しかし、そこに立ちはだかるのが、1年越しに起きる「あの事件」の再現であることは言うまでもありません。
夏芽は「自分」らしさを追求しようとしましたが、そこに旧来的な男性社会が期待し、欲求する「女の子」らしさの亡霊が憑りつきます。
そんな彼女をコウは再び守ろうとするのですが、彼が選んだのは、夏芽がそんな亡霊に憑りつかれて、自分自身をすり減らしてしまう未来を防ぐことでした。
男の死体を海に沈め、そして「ナイフ」を証拠品と共に海の中に沈めました。
原作だと、あの男が1年越しの祭りの日にレイプするのは、カナの方でして、ただ動機そのものは映画版同様に「夏芽の人生に巣食ってやる」というものでした。
映画版では、あくまでも1年前の事件の再現として視覚化し、コウが夏芽を如何にして守ろうとするのかをより明白にしたように感じます。
かくして、コウはそんな悪しき未来の芽を断ち、夏芽を守ったわけですが、この行為は彼自身のためでもあると思いました。
彼の願いは、あくまでも彼女が遠くで綺麗でい続けてくれることであり、輝きを放ち続けてくれることです。
だからこそ、彼は彼女そのものを守ったというよりは、彼女の輝きを守ったと言えるのでしょうか。
コウと夏芽は、あの事件が起きて以来、お互いのことを思うたびに傷付き合っていたのだと思います。2人にとってあの事件が、自分たちの全能感を失わせた契機でもあります。
結局、そんな全能感と誇り高さは、海の中に沈んでいく「ナイフ」が如く、どこかに消えて行ってしまいました。
しかし、お互いに依存し、関わるたびに、相手のことを思うたびに自分をすり減らす関係だった2人は、きっとそこから抜け出すことができたのだと思います。
原作では、そこからコウと夏芽のそれぞれの人生にスポットが当たり、最終的には2人が結婚したことを仄めかす描写も描かれていました。
ただ、山戸結希さんはあくまでも本作を夏芽の物語として描き切ることにこだわっていたように感じました。
終盤の映画祭のシーンで、スクリーンに映し出された映像が想起させるのは、彼女がコウという存在の所有物になることに憧れていた頃の情景です。
(C)ジョージ朝倉/講談社 (C)2016「溺れるナイフ」製作委員会
しかし、そこにはコウに別れを告げる夏芽が映し出されます。
お互いのことを思うたびに、後ろ向きな気持ちになっていた2人ですが、このラストシーンから、2人はお互いのことを思うたびに前に進むことができる関係になれたのだと思うんです。
山戸監督は、映画『ホットギミック』の公開にあたり、「自分自身の主体性を知るための恋が、もしもこの世にあるのなら、そのようなものをこそ、恋そのものとして、今新しく生まれる映画に映し出してみたい」という思いを語っていました。
まさしくその思いの原初が、今作のラストにも込められていて、夏芽はコウという存在に寄りかかって立つのではなく、彼の存在が自分が自立するための支えになっているという構造が透けて見えます。
この映画においては、しきりに「神様」という言葉が登場します。
神様とは言わば、全能であり、この世界のあらゆる物事を見通し、決定づける存在と言えますよね。
ただ、そんな存在に寄りかかり、自分の人生の選択や決断を委ねてしまうことが果たして「生きる」ということなのでしょうか。神がこう生きなさいと言えば、その通りに生きることだけが果たして正しいと言えるのでしょうか。
言い換えると、今の社会が作り上げ、求める「女の子」らしさに基づいて、生きることだけが女性の生き方なのでしょうか?ということになります。
本作『溺れるナイフ』において、夏芽にとっての神様はきっと最初から最後まで変わらずにコウなのでしょう。
しかし、信仰とは自分が生きる上で支えとなるものではありますが、寄りかかるものではなく、縋るものではないと遠藤周作がかつて『沈黙』という著書の中で表現しました。
きっと、夏芽にとってのコウもそんな風に、意識の中でその存在意義が変化したのだと思います。
彼は、彼女が「自分」らしく生きる未来を守り抜いてくれた人物であり、きっと夏芽は、彼のことを思い出すたびに「自分」らしく生きようと思えるはずです。
そんな恋愛があっても良い、男女の関係があっても良い、生き方があっても良い。
これまでの「女の子」らしさそのものが確かに揺らぎ始めた社会の中で、これからを生きる人たちに向けて、山戸監督はそのらしさを改めて問い直そうとしています。
「いい子は天国に行ける。でも悪女はどこへでも行ける」なんて言葉があります。
一方で、山戸監督が「女の子」に伝えようとしているのは、「君たちはどこにだって行けるんだよ。」というメッセージなのかもしれません。
平凡と特別、その埋められない差
そしてもう1つ、山戸監督作品に通底する大きなテーマが、この『溺れるナイフ』には流れています。
そのテーマを最も感じるのは、現在Youtube上で公開されている『玉城ティナは夢想する』です。
この作品は、A子という平凡な女子大生が玉城ティナに憧れてるという状態を玉城ティナ自身が夢想しているというメタ的な手法で作られた短編映画です。
ああ、もしかして私は、そんな女の子たちの心の、集合体なのかもしれない。
(『玉城ティナは夢想する』より引用)
このナレーションを聞いた時に、鳥肌が立ったのですが、何を表現しようとしているのかと言いますと、それは「あんな女の子になりたい」という願望の集合体が「玉城ティナ」というイメージを作り出しているのではないかという視点なんですね。
そこにあるのは、平凡と特別の見えない境界線であって、平凡な人間は、そんな特別な人間に対して自分の思いや願望を投影し、ある種神格化しているとでも言えるでしょうか。
しかし、その一方で特別の側にいる玉城ティナが平凡に憧れを抱いているという側面を描き出しているのも、この短編の魅力です。
それが、作品中のとあるナレーションによって、強く表現されています。
A子ちゃんには、君にはない魅力があるよ。君みたいにどこに行っても、君としか扱われない女の子と彼女は違うんだ。彼女はA子のままで、まだ何者にもなれるんだ。でも、君はもう君としてしか生きられないだろう。
(『玉城ティナは夢想する』より引用)
平凡と特別には、確かに途方もない距離があるのかもしれません。
しかし、平凡に生きる人間は特別に憧れ、それと同時に特別に生きる人間は平凡に憧れるのです。
A子は玉城ティナのような特別な存在になりたいと嘆き、玉城ティナはA子のようなまだ何にでもなれる存在になりたいと夢想する。
この短編には、自分自身の価値を自分で推し量って、過小評価しないで欲しいという思いが強く込められているように感じられます。
平凡と特別は隔てられており、相いれないものかもしれませんが、お互いがお互いに憧れを抱いており、お互いに持っていないものを持っているのです。
『5つ数えれば君の夢』でも、斎藤りこという特別な少女が1人君臨しており、その周囲の人物たちは、彼女に憧れを抱きつつも遠ざけようとするという姿勢をとっていたように感じます。
彼女にミスコンで是が非でも勝ちたい少女、彼女に好意を抱きながらもどこか遠くにいる存在だと自覚している少女。
そういったまだ何者でもない少女たちの願望と眺望が具現化した存在として描かれた「斎藤りこ」というイメージは、美しく踊り、そして学校から去っていきます。
平凡な少女たちは、きっと彼女にはなれないし、彼女のような生き方はできないと痛感したことでしょう。それでも、彼女がはたいていく姿を見て、自分たちがまだ何者にもなれる可能性を秘めていると希望を持ったことを事実ではないでしょうか。
そして、今作『溺れるナイフ』を見てみると、そんな平凡と特別の対比が見事に表現されています。
カナが夏芽に対して眺望を抱いているのは、平凡から特別へのまなざしであり、これは明白ですよね。
しかし、その一方で、夏芽もまたカナに対して眺望を抱いているのであり、大友と付き合って普通の恋愛をしようとするのは、そんな感情の表出に思えます。
夏芽は「望月夏芽」というイメージをあまりにも背負いすぎており、もう他の何者にもなることが許されていないわけで、そんな「特別」を生きることしかできない人物なんですよ。
だからこそ、まだ何者にでもなれるカナという少女がどこか羨ましいのだと思いました。
一方の男性キャラクターを見てみても、同様の対比関係が伺えます。
大友はコウに対して、夏芽を巡って複雑な感情を抱いていることでしょう。彼は、彼女がコウでなければ駄目だと分かっていても、それでも彼女の「特別」になりたいと願う青年です。
(C)ジョージ朝倉/講談社 (C)2016「溺れるナイフ」製作委員会
一方で、コウは自分が特別だと思っていた全能感をぶち壊され、平凡と特別の境界線で苦しむ人物であり、だからこそ平凡にもなり切れずに燻っています。
どのキャラクターも自分にはないものを求めていて、その境界線の向こう側にあるものを手に入れたいの願っているのです。
しかし、この物語は、あくまでも特別は特別なままで、平凡は平凡なままでというスタンスを崩すことはありません。
だからこそ、大友は夏芽から別れを切り出されるわけで、カナがコウと結ばれることもないわけで、逆に夏芽には平凡な人生を選べず、コウも同様なのです。
既に誰かが存在している領域において、特別になるということは、その誰かと優劣で競わなければなりません。
しかし、そんな戦いにおいて、勝ち目はないわけで、結局は自分自身の劣等感と失望を深め、心をすり減らすだけです。
夏芽は、そんな眺望と嫉妬と、期待と…いろいろな陰の部分を背負って、特別な自分自身を、「望月夏芽」としての人生をひたすらに生き続ける決断をしました。
(C)ジョージ朝倉/講談社 (C)2016「溺れるナイフ」製作委員会
あの負の感情というのは、まさしく彼女が特別を生きるために背負わなければならない「業」とも言えるものでしょう。
『玉城ティナは夢想する』が描いたように、彼女は選ぶことができなかった平凡をふとした瞬間に思い出しながら、そして、たくさんの人からの期待と眺望を背負いながら、前に進み続けなければなりません。
きっと、それはどこまでも苦しく、終わりのない道でしょう。
しかし、特別を生きるということは、誇り高く美しく、どこまでも綺麗なのだと山戸監督は『溺れるナイフ』という作品を通じて訴えかけています。
個人的には、今作を夏芽の物語として位置づけたために、あえて平凡讃歌の側面を削り、特別を生きる人間の葛藤と気高さという部分に焦点を絞ったのかなとも思っています。
今作がそういう性質だからこそ、その次の長編作品となる『ホットギミック』で痛烈に、平凡に生きる少女の「生」を肯定するようなメッセージを打ち出してきたというのもあるでしょうし。
先ほども書きましたが、山戸監督の作品は、常に優れていることよりも、異なっていることに価値を見出しているように感じます。
何者かになりたいと願う平凡も、もう何者にもなれない特別も、そのどちらもに美しさと価値を見出し、肯定しようとするのが彼女の作品作りの1つのスタンスなのかもしれません。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『溺れるナイフ』についてお話してきました。
ただ、『溺れるナイフ』の原作からのアレンジの仕方を考えても、彼女自身の作品作りへのスタンスがすごく反映された作品であることが分かります。
彼女が追求しているのは、特別と認知された誰かに追従しようとすることから逸脱し、旧来的な「らしさ」に縛られない生き方を模索することの重要性なのではないかと思います。
誰かと同じ価値尺度で比較すれば、必ず優劣が生じ、特別と平凡が生まれます。そしてその差が埋まることはありません。
だからこそ、大友が夏芽に「友達」という立場で関係を続けることを提案したのは、1つの希望だったのではないかと思います。
夏芽と恋愛関係になるというレースにおいて、大友がコウを上回ることはきっと難しいでしょう。
しかし、彼は「友達」という立場を手に入れ、それをコウに脅かされることは絶対にありません。
そういう意味でも、山戸監督が描く、人間の価値の在り方は、これからの社会にコミットしているように感じられました。
A子は玉城ティナにはなれないけれど、玉城ティナはA子にはなれないのだ。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。