みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『横道世之介』についてお話していこうと思います。
「出会えたことが、うれしくて、可笑しくて、そして、寂しい――。」というキャッチコピーが公開時につけられていましたが、このフレーズが本当に大好きです。
人との出会いってかけがえのないものだと思いますが、その出会いって必ずしもポジティブなものだけをもたらすとは限りませんよね。
出会ってしまったからこそ、その人を失うことが辛く、苦しく、寂しくなってしまうわけで、そうなるのであればいっそのこと出会わなかったらなんて…。
それでも、そんなネガティブな部分すらも包み込んで「出会い」というものを優しく包み込んで、肯定してくれるようなそんな作品です。
また、キャスティングも絶妙で裕福な家庭に生まれ育ったのに、それを鼻をかけることもなく、天真爛漫な女性、与謝野祥子を吉高由里子さんが演じています。
沖田修一監督の評価を一気に高めることとなった本作ですが、個人的に感じたその魅力を語っていこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『横道世之介』
あらすじ
長崎の港町から上京してきた青年の横道世之介が大学時代に出会ったたくさんの人たちとの物語を回想しながら、展開される。
入学式の日に出会った倉持一平と、阿久津唯と仲良くなり、サークル勧誘巡りをしていると、先輩からの強引な勧誘に遭い、サンバサークルに所属することとなる。
倉持と阿久津は、大学在学中に子供を授かり、退学し、そのまま結婚生活をスタートさせる。
その後、通い始めたドライビングスクールで出会った加藤雄介と仲良くなると、彼に一目惚れをしていた女性との繋がりで、社長令嬢の与謝野祥子と出会う。
その頃、世之介は「高級娼婦」と呼ばれるパーティーガールとして働く年上の女性に好意を寄せており、何とかお近づきになろうと奮闘していた。
世之介との出会いが、たくさんの人の人生に影響を与え、そして「普通の人」である彼は誰かの特別になっていくのだった…。
スタッフ・キャスト
- 監督:沖田修一
- 原作:吉田修一
- 脚本:沖田修一&前田司郎
- 撮影:近藤龍人
- 照明:藤井勇
- 編集:佐藤崇
- 音楽:高田漣
監督を務めたのは、『南極料理人』や『モヒカン故郷に帰る』などで知られる沖田修一さんです。
彼は、やっぱり「何気ない普通の人」の描写に長けた監督で、何気ない日常を描いた作品でも、ユーモアとエモーションに満ちたものにできてしまうんですよね。
それは『モリのいる場所』や当ブログ管理人一押しの『滝を見に行く』でも同様です。
そして先ほども申し上げたように、本作は監督以外のスタッフも超豪華です。
撮影には、『万引き家族』にも参加し、今や国内外から高く評価されている近藤龍人さんがクレジットされています。
また照明にも『万引き家族』や『見えない目撃者』でその手腕が高く評価された藤井勇さんが起用されました。
編集には、『愛がなんだ』や『さよならくちびる』などでも知られる佐藤崇さんが参加しました。
- 横道世之介:高良健吾
- 与謝野祥子:吉高由里子
- 倉持一平:池松壮亮
- 片瀬千春:伊藤歩
- 加藤雄介:綾野剛
- 室田恵介:井浦新
- 祥子の父:國村隼
演技が素晴らしいのもそうですが、本当にキャラクターのパーソナリティに合う役者を的確に選んだ映画だと感じます。
まず、主人公の横道世之介を演じた高良健吾さんは本当に良くて、彼以外の世之介像ってもう考えられないんですよね。
どこかぶっ飛んでいるんですが、自分の周りにいる人を本当に大切にする「普通の人」をこれほど見事に演じられると、もう圧巻の一言です。
加えて、記事の最初にも書きましたが、吉高由里子さんが本当に素晴らしいですよね。
裕福な家庭で育ったにもかかわらず、良い意味で「品」がないというか、飾らない性格の女性ということで、吉高さんのイメージにも凄く合うんですよね。
あれほどの美人でありながら、近寄りがたいオーラを出さず、むしろ近所の飲み屋にいそうな愛嬌と親近感を纏った彼女だからこそ演じられたのかなと思っています。
その他にも、池松壮亮さんや綾野剛さんなどキャスト陣が悉くはまり役で、見ていて引き込まれますし、そんな役者の「素」を良い意味でも引き出した沖田監督は流石ですよね。
『横道世之介』感想・解説(ネタバレあり)
あなたにとっては普通の人、私にとっては特別な人
(C)2013「横道世之介」製作委員会
『横道世之介』という作品がなぜこんなにも魅力的なのか?という問いについては定期的に考えてしまいます。
その答えを自分なりに語るとすると、この映画は見る人の「自分事化」を強く促す作品であるという点が挙げられます。
この作品に登場する人たちというのは、基本的に「普通の人」たちでしかありません。
物語そのものも極めて「普通」で、そこには誰もが経験したことがあるようなキャンパスライフの日常が広がっており、取り立ててフィクションとして見るような「特別さ」はありません。
沖田修一監督は、この映画に関してインタビューで次のように語っています。
いかにも「台詞を読んでます」というように見えないように、仕向けたかったというのはすごくありますね。自分の当時を思い出してもそうですけど、19歳同士ってそんなに的を得たことばかり言ってないですよね。すごく無駄なこと話してたり、微妙なニュアンスだったり、相手の話を聞いてなかったり、会話に間があったりとか。そういう無駄があるコミュニケーションっていうのが、作品のなかに垣間見られるといいなって、思ったんです。
(「普通に暮らしてきた人間だからこそ撮れる映画」より引用)
この映画の「飾らなさ」や「普通さ」ってまさしく登場人物の掛け合いの機微に宿っていると思います。
登場人物のやり取りの中に登場する言葉たちは、物語には直接関係しないようなとりとめのないものも多く、だからこそ映画を見ているというよりは、私たちの生きている世界のどこかで実際に起こっていることを見ているような実在感があるのです。
『横道世之介』という作品が孕むこの類の「素朴さ」は、世之介というキャラクターを通じて、私たちが自分なりの「特別な人」を想起させるように作られています。
この作品の中でたびたび言われるのですが、世之介ってすごく「普通の人」なんですよね。ただ、彼と関わった人たちにとっては「特別な人」で、何年経っても心の片隅に残り続けるような存在なのです。
こういう「あなたにとっては普通の人、私にとっては特別な人」という感覚をすごく感じさせてくれるのが、本作の最大の魅力だと私は思っております。
私たちは、本作を見ているうちに、自然と世之介というキャラクターと関わった人たちの1人となり、彼の存在に出会えた嬉しさや喜びを共有するとともに、彼が失わたことへの寂しさも噛み締めることとなりますよね。
つまり、何でもない「普通の人」が、自分の「特別」になっていくというプロセスをこの上なくリアリスティックに追体験させてくれるんです。
そしてその過程で、私たちは、世之介の向こう側に自分自身の「特別な人」の姿を見るんですよね。
あの頃出会ったあの人は、昔好きだったあの人は、学生時代はいつも一緒にいたあいつは…。
この物語は、世之介を観客にとっての「特別」にする過程を通じて、それを私たちが「自分事化」して、考え、自分自身の特別な人たちに思いを自然と馳せてしまうように設計されていると思っています。
私は、『横道世之介』を見ると、無性に旧友や地元の友人たちに連絡を取りたくなるんです。
きっと私にとっての、そういった人たちは、他の人からすれば何でもない「普通の人」なんだと思います。しかし、私にとっては「特別」です。
人生の中で、私たちは多くの人と出会い、関わり、そして関係を結びます。
そのプロセスというのは、きっと誰かの「特別」になることであり、誰かを「特別」にすることなんですよね。
「特別」を手に入れるということは、その喜びと幸せと共に、それを失う不安や恐怖、寂しさも内包するということです。
しかし、それすらも愛おしく感じさせてくれるような、本作は、まさに人と人とが出会うことの全てを優しく肯定してくれるような映画に感じられます。
当ブログ管理人が、何度も見返してしまう不思議な「引力」もここにあるのではないでしょうか。
あまりにも見事で希望に満ちた、奇跡の構成
最近、Twitterで『100日後に死ぬワニ』というマンガ企画がバズっていて、この連作を見た時に私が一番最初に想起したのは、『横道世之介』なんです。
物語において、「死」というモチーフはしばしば扱われるものですが、それを扱うことの意義って何だろうというのは、常々考えてしまいます。
日本の映画やドラマには「余命もの」がすごく多くて(最近は減少傾向ですが)、こういった作品は、しばしば「死」をお涙頂戴の道具にしているというような批判を受けていますよね。
ただ、やはり「死」を描くことには、確かに意義があると思っていて、それは「祈り」なんだと私は解釈しております。
小説を読むことは、他者の生を自らの経験として生きることだ。見知らぬ土地、会ったこともない人々が、いつしか親しい存在へと変わる。小説を読むことで世界と私の関係性が変わるのだ。それは、世界のありようを変えるささやかな、しかし大切な一歩となる。世界に記憶されることのない小さき人々の尊厳を想い、文学は祈りになる。
(岡真理『アラブ、祈りとしての文学』帯文より引用)
『100日後に死ぬワニ』という作品は、作者のきくちさんが、かつて友人であった故人の死を思い、それを追体験するかのような物語に仕立てていました。
作品の中に、自分を投影したキャラクターを忍ばせ、フィクションの中であれば、その友人を助けることができるというシチュエーションを作りながらも、最終的には「死」が無情にも訪れます。
そこには、フィクションは現実を変えることはできないという「無力さ」のようなものを感じました。
しかし、先ほど引用した岡真理さんの書籍の中でも語られるように、フィクションは世界を変えられなくとも、私と世界の関係性を変化させます。
きくちさんは、あの作品を書くことで、かつての友人がいなくなったという現実に折り合いをつけたかったのかもしれませんし、私たちもあの作品を見ながら、自分の周囲から去ってしまった大切な人を思ったはずです。
そして、そんな人たちにささやかな「祈り」を捧げることになるわけで、文学ないしフィクションには、そんな力が備わっているのだと確かに実感します。
さて、少し脱線しましたが、話を『横道世之介』に戻しましょう。
実は、この作品にもそういった「死」というモチーフが含まれていて、それが物語の中盤過ぎに明かされる主人公の横道世之介の死なんですね。
ただ、本作の構成と演出が非常に巧いのは、「死」を作品のクライマックスに据えなかったことと、観客のエモーションを掻き立てるためのツールにしなかったことです。
普通に考えると、ラストに世之介の死を持ってきて、彼に思い入れや愛着が湧いた観客の涙を誘うという演出意図が為されても良いところだと思うんですが、沖田監督はそうはしていません。
それどころか、世之介の死は作品の中で、あまりにもあっさりと扱われていて、劇中のニュースでちらりと報じられる程度なんですよね。
どれだけ私たちが彼の生を願ったところで、無情にも訪れる死を避けることはできませんし、それを変えることはできません。
しかし、この作品は、フィクションとして確かに「死」の物語に希望と救いをもたらしています。
この映画が、邦画史に刻まれる傑作になり得たのは、ラストシーンに「世之介がこれからの人生に向かって走っていく上り坂」を持ってきたからなんだと思いました。
(C)2013「横道世之介」製作委員会
ウェットでエモーショナルな幕切れではなく、彼がカメラで写真を撮ることの喜びに目覚め、無限の可能性が広がる人生へと繰り出していくまさにその瞬間に映画が終わるのです。
もうこのラストシーンを見た時に、私は度肝を抜かれました。そして同時に「死」を物語ることの意味ってまさにここにあるのだと思いました。
先ほども書きましたが、フィクションは現実を変えるものではなく、私たちと現実の関係性を変えるものです。
そして現実を生きる私たちは、自分の大切な人の死に抗いがたい苦痛と悲しみを抱き、それでも人生を続けていかなければなりません。
そんな痛みを、和らげてくれるものがあるとすれば、やっぱりフィクションなんだと個人的には思っています。
本作のラストシーンが描きだしたのは、横道世之介という普通の人間を「特別」だと思っている、周囲の人たちのささやかな「祈り」なんだと思うんです。
苦しみの中で死んでいったのではなく、今もどこかで能天気に写真でも撮りながら、ブラブラとしているんじゃないか、そうしていて欲しいという、ささやかな、しかし大切な「祈り」なのです。
彼の死は現実だとしても、そう心の中で思うことができたのであれば、きっと彼らにとって現実は変化せずとも、現実のの関係性は変化することでしょう。
そして、そんな世之介を「特別な人」に感じるまでのプロセスを追体験した私たちは、彼の「死」の向こうに、自分の「特別」を失ってしまったことを思うのかもしれません。
過去と現在を織り交ぜながら、作られた独特な構成もそうですが、ラストシーンにこれほどまでに希望と救いと、そして未来への躍動感を込められていたことに、圧倒されましたし、涙が止まらなくなりました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『横道世之介』についてお話してきました。
何回も見たくなる映画って、やっぱり自分が落ち込んでいる時や辛い時に、現実との関係に折り合いをつけさせてくれる映画だと思うんです。
そういう意味でも、この映画には何度も救われていて、そして見るたびに新しい感情に出会えます。
個人的に好きなシーンが2つありまして、最後にそれについてお話しておきたいと思います。
1つ目は世之介が倉持一平の引っ越しを手伝うシーンです。
一平は、きっとまだ親になる覚悟もできていないのに、親にならざるを得なくなったので、相当不安だったんだと思います。
ただ、そんな不安を深く考えるのではなく、同情するのでもなく、1番苦しい時にただ傍にいてくれた、支えてくれた彼の存在はすごく大きかったと思うんですよ。
これは、自分にも経験がありましたし、そういう人がいてくれたことの心強さを身をもって知っているからこそ、すごく感情移入してしまって涙が止まらなくなりました。
そしてもう1つ、加藤雄介がゲイの告白をした時に、世之介が全く意に介さないような返答をするシーンは大好きです。
(C)2013「横道世之介」製作委員会
純粋に、何の偏見も悪意もなく、彼の性的志向を受け入れるその姿に、大切なことを教わったような気がしました。
彼が堂々と同性の恋人を作って、一緒に暮らす未来を選ぶことができたのも、世之介の存在が大きかったのではないかと思います。
自分自身が、社会に受け入れられる余地があるんだということを実感させてくれる存在って大切です。
まだまだ語りたいことが山ほどある作品なので、何かの機会にまた追記していこうと思います。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。