みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『めがね』についてお話していこうと思います。
本作の劇場公開時のキャッチコピーが「何が自由か、知っている」というものなんですが、これが実に秀逸だと思うんです。
私たちは慌ただしい日常生活を、常に何かに縛られ、何かに駆られながら、必死に生きています。
当ブログ管理人もそうなんですが、そういった生活に慣れすぎると、いつの間にかそれが当たり前になりすぎて、何もしていないと不安になってしまうんですよね。
つまり、不自由さに安心感を感じるようになっていて、知らない間に「自由」を見失ってしまうのです。
私は、この『めがね』という作品を見るたびに、ふと「自由」はここにあったかぁ~としみじみ感じます。
何もない小さな浜辺の町は、都会の喧騒に生きる人からすれば「不自由」で「不便」だと感じるでしょう。
しかし、そんな場所にこそ本当の「自由」が隠れているのかもしれません。
ただ、何も考えずに海を見ながら、かき氷を食べて「美味しい」と感じる。
慌ただしい日々の中で失われた感性のようなものが蘇り、原初的な快楽を味わうようなそんな時間がこの映画には込められています。
そんな大好きな映画『めがね』について今回は語っていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
映画『めがね』
あらすじ
南の海辺の町に、ひとりプロペラ機から下り立ったタエコは日常に疲れており、都会の喧騒から解放されたいと願っていた。
彼女は必要なものだけ入っている荷物を持ち、予約した旅館に向かいます。
辿り着いた旅館は、目立たない小さな民家のような建物であり、タエコはここならゆっくりと出来るだろうと期待する。
しかし、期待とは裏腹に、距離感が近い旅館の主人や、かき氷売りのおばさんの存在に馴染めず、居心地の悪さを感じるようになる。
自分にやたらと声をかけて来る人たちのために、ゆったりとした休暇を過ごせないと感じた彼女は、別の場所へ行こうと急遽宿を出る。
そうして、宿を飛び出した彼女が訪れたのは「マリーンパレス」と呼ばれる施設で、そこでは利用者が共同で作物を育てて、それを食べて生活をするという不思議な空間だった。
そんな生活にすぐさま嫌気が差したタエコは「マリーンパレス」を飛び出すのだが…。
スタッフ・キャスト
- 監督・脚本:荻上直子
- 撮影:谷峰登
- 照明:武藤要一
- 録音:林大輔
- 編集:普嶋信一
- 美術:富田麻友美
- 音楽:金子隆博
『かもめ食堂』や『レンタネコ』などで知られるスローライフ系映画の旗手荻上直子さんの作品であるわけですが、やっぱり大好きです。
彼女の作品って一見すると何の変哲もないように見えるんですが、じっくりと見てみるとすごく哲学的で味わい深い作品が多いんですよ。
また、少し作品を転換して挑んだ『彼らが本気で編むときは、』も傑出した出来で、近年の日本のトランスジェンダー映画では比肩するものがないのではないかと思います。
撮影には『プール』や『マザーウォーター』といったこちらもスローライフ系の作品でおなじみの谷峰登さん起用されています。
編集には『舟を編む』や『彼らが本気で編むときは、』の普嶋信一さん、劇伴には『プール』や『マザーウォーター』の金子隆博さんが加わりました。
- タエコ:小林聡美
- ハルナ:市川実日子
- ヨモギ:加瀬亮
- ユージ:光石研
- サクラ:もたいまさこ
- 森下:薬師丸ひろ子
スローライフ系映画と言えば、小林聡美、市川実日子、もたいまさこのイメージが非常に強いですし、やっぱり荻上直子さんの作品でそのイメージが確立されていった感はあります。
そんなお馴染みの面々に、加瀬亮さんと光石研さんが良い味を出してますよね。
特に、加瀬亮さんの掴みどころのない不思議なキャラクターも絶妙で、作品のミステリアスさを強調していました。
映画『めがね』感想・解説(ネタバレあり)
「めがね」というタイトルの意味
(C)めがね商会
『めがね』という作品のタイトルを耳にすると、その不思議さに惹かれますよね。
ただ、それほど読み解くための情報が作品にあるわけではなくて、ただ登場人物が全員めがねをかけているだけであるというのが全てだったりします。
というのも、本作のタイトルがつけられた時には、大した意味はなくて、タイトルが決まった後で、メインキャラクター全員にめがねをかけさせるという運びになったようです。
私は、今作においてタエコがかけている「めがね」と他のキャラクターがかけている「めがね」では意味合いが異なるのではないかと思うんですよね。
それを強く感じたのは、終盤に車に乗って、町から去っていくタエコがめがねを落とすシーンがあったからです。
このワンシーンは、タエコがメガネを落とすという事象を描くことで、彼女の視点や価値観が大きく変容したということを明らかにするシーンなのではないかと推察しました。
めがねというものは、基本的には、ぼんやりとした視界をくっきり見えるようにするためのツールです。
ただ、タエコの場合は、そうやって物事をいつもクリアに見ようとし過ぎたがために、そこに囚われていつしか見失ってしまった景色があったのではないかと思います。
物語を経て、物事の味方が大きく変わった彼女はめがねを失っても、変わらず外の景色を眺め続けています。
それは、「ぼんやり」を受け入れたということであり、自分なりにこの人生の本質に気がつけたことを表しているように感じられました。
季節が巡り、再びあの町に戻ってきた彼女は、再びめがねをかけています。
そこで、めがねというモチーフに込められたもう1つの意味を考えてみましょう。
とりわけ、浜辺の小さな民家のような宿に集う人たちは全員がめがねをかけています。そして彼らの特技は「たそがれ」ることなわけです。
何とも面白いのは、「マリーンパレス」の人たちがめがねをかけていないことだったりするわけですが、本作においてあの宿に集う人たちのめがねが意味しているのは、まさしく「自由を知っている」ということなんだと思います。
「マリーンパレス」では、自給自足というシステムにはなっていますが、施設の規則や方針に従う必要があり、そこには自由はありません。
ユージの宿に集う人たちは共にご飯を食べたりしていますが、決してそれをタエコに強制することはありません。
そう思うと、本作『めがね』は、タエコの「めがね脱皮物語」なのかもしれませんね。
自分が正しいと信じ続けた、凝り固まった視界の象徴としてのめがねが飛び去っていき、ぼんやりとした世界の美しさを知り、そして自由の何たるかに気がつく。
そんなプロセスをめがねというモチーフで描こうとしたのかもしれないと個人的には考えています。
人生に本当に大切なモノは少しだけ
Mir ist bewusst was Freiheit bedeutet
何が自由化かを知っている
Folge dem Wege geradeaus,
この道を真っ直ぐ歩きなさい
meide die Tiefen des Meeres,
深い海には近づかないで
doch hab ich solch Wort hinter mir gelassen.
そんな言葉を私は置いてきた
Der Mond scheinet auf jedem Wege,
月はどんな道の上にも輝く
wie die, in der Dunkelheit, wie Diamanten schwimmenden Fische;
暗闇に泳ぐ魚たちは宝石のよう
heiss wie durch Zufall Mensch – und hier bin ich.
偶然にも「人間」と呼ばれて、私はここにいる
Was hat ich zu befuechten,
私は何を恐れていたのか
mit was zu kaepfen,
何と戦ってきたのか
bald ist es Zeit die Lasten zu legen.
そろそろ重荷をおろす頃
Erteile mir noch mehr kraft,
もっと力を与えたまえ
Kraft zur Liebe.
愛ための力を
Mir ist bewusst was Freiheit bedeutet,
何が自由か知っている
mir ist bewusst was Freiheit bedeutet
何が自由か知っている
この詩の中でも、「重荷」という言葉が登場しており、これが作品の1つのキーワードであることが強調されています。
本作『めがね』において物語の大きなターニングポイントになったのは、やはりタエコが自分の必要なものを詰め込んだトランクケースを道端に置き去りにしたシーンでしょう。
あのトランクケースは、たくさんの物で満たされており、言うなれば、物質主義の象徴とも言えるモチーフです。
都会の喧騒の中で生きていた彼女は、やはり自分の空白の時間を埋めてくれるものを持っておかなければ不安になるんですよ。
そういう不安や恐怖を振り払うために、人はたくさんの物を身の回りに置いて生活していますが、結局そういった物の多くは実際のところ必要のないものばかりなんですよね。
物への執着から離れ、何もない状態を受け入れることで、人生はもっと豊かになるんだという少し哲学的なメッセージを感じました。
浜辺の町の地図はいつだってぼんやりとしていて、明確に曲がるべき道を指し示してはくれません。
しかし、そこに残された「ぼんやり」とした感覚こそが人間にとって1番大切なモノなのかもしれません。
自分にとって必要だと思うものをたくさん手放した時に、大切なものに気がつくことができる、それが人生なのではないかと『めがね』という作品は私たちに語りかけているようです。
かき氷が意味するもの
本作において印象的なのが、サクラが提供している糖蜜と小豆のかき氷ですよね。
本作『めがね』において、南の海辺の町が一体どこにあるのかは明かされておらず、ある種の「異世界」として機能しています。
そして、タエコはかき氷が嫌いだからということで、最初それを食べることを拒んでいますし、何なら最初の夜は弁当を食べ逃しているんです。
日本の「黄泉戸喫」でもそうですが、ギリシャ神話などでも「死者の国の食べ物を食べると現世に戻れない」という設定が逸話の中に登場することがあります。
『千と千尋の神隠し』の中で千尋の両親が最初に異世界の食べ物を食べて、豚になるというシーンがありましたよね。
実は、これも異世界の食べ物を食べると、異世界の住人になってしまうという、日本の伝承をベースにした描写なのです。
そう考えると、『めがね』においてタエコが頑なにかき氷を食べようとしなかったのは、サクラたちのコミュニティに馴染もうとしない彼女の意思表示だったのかもしれません。
しかし、物語の中盤を過ぎて、少しずつ彼女の心境が変化し始めると、自然な流れでかき氷を口にします。
この時に、初めて彼女は南の海辺の町の暮らしやゆったりとした時間の流れを受け入れることを決めたのでしょう。
そんな心境の変化を、日本の伝承を参照しつつ、かき氷というモチーフで示していたのは良かったですね。
余韻を残すラストシーンの妙
(C)めがね商会
『めがね』という作品のラストシーンは、何とも穏やかで、静かなのですが、それでいて強く引き込まれるような引力を持っています。
私が個人的に本作のラストシーンが大好きなのは、サクラがタエコの編んだ赤いスカーフを身に着けて、あの町に戻って来るところなんですよ。
本作は、自分が必要だと思い込んでいるものは、その大半が大切なものではないのだから手放してしまえば良いのだというメッセージを内包しています。
しかし、あらゆるものを手放してしまえば良いということを言っているわけではなくて、本当に大切なものをきちんと見極めて生きることが大切だと言っているわけですよ。
サクラはあの海辺の町にほとんど身1つで、必要不可欠な大切なものだけを小さなカバンに詰め込んでやって来ます。
そういう彼女が、1年越しに帰って来た時にタエコが渡した赤いスカーフを身に着けていたというのは、実にすごいことだと思いませんか。
なぜなら、サクラは自分にとって本当に大切なものしか持ち運ばないからです。
つまり、あの手編みの赤いスカーフは、サクラにとって非常に大切で、身に着けておきたいと思うだけのアイテムになっているんですね。
だからこそ、今作のラストシーンは、非常に人と人との結びつきや絆を感じさせてくれるのです。
劇中で、ハルナが「編み物は空気も一緒に編む」なんてことを言っていましたが、そう思うとあの赤いスカーフは1年前の春に彼らが過ごした時間と空気を織り込んだスカーフでもあります。
そんなマフラーを印象的に映し出しながら、5人の1年ぶりの再会と結びつきを描くというラストは、静かではありますが、非常に雄弁で豊かだと感じました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『めがね』についてお話してきました。
何と言うか、こういった感想では魅力が伝えづらい映画ではありますよね。
考えるのではなく、映像を見て、その空気感を感じることでしか、その魅力を味わえない作品だと思うんです。
ですので、ぜひ皆様自身の目で確かめていただきたいと思いますし、その不思議な中毒性の虜になって欲しいと思っております。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。