みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』についてお話していこうと思います。
ただ、2018年の7月公開だったということもあり、他に見たい作品が多すぎて、結局見逃してしまった次第です。
現在、この作品がNetflixで配信されていたので、コロナウイルスの影響で自宅待機のこの折に鑑賞してみました。
当ブログ管理人は、吃音だったというわけではないのですが、やっぱり青春時代に苦い思い出はたくさんありますので、こういう「ほろ苦い青春譚」には無意識に共感してしまいます。
ちなみにこんな青春を送ってましたの断片はこの記事の中で書いております。
さて、話を戻しますが、この『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』は、原作者の押見修造さんが中学2年生の頃より吃音を患っていたことをベースに描かれた作品です。
そのため、すごく主人公を取り巻く人間関係や先生たちの対応、そして何よりその葛藤や苦悩がすごくリアルなんですよ。
そしてこの映画版は、その原作が持つ空気感を見事に映像で表現しています。
今回はそんな映画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』について語っていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』
あらすじ
吃音のために、コンプレックスを抱えていた高校1年生の大島志乃は、入学初日の自己紹介で自分の名前が言えず、クラスで孤立する。
昼食の時間も教室や屋上には居場所がなく、後者の片隅で1人でお弁当を食べていた。
そんなある日、彼女は同じく後者の片隅で、カセットテープで音楽を聴きながら歌の練習をしている同級生の岡崎加代と出会う。
彼女は、幼少の頃からミュージシャンに憧れていたのだが、音痴のために上手く歌うことができないのがコンプレックスだった。
志乃は、そんな彼女と何とか友達になろうとアプローチをかけるのだが、彼女の音痴な歌声を笑ってしまったことで、拒絶されてしまう。
しかし、ひょんなきっかけから2人は、カラオケ店を訪れることとなり、そこで加代は志乃が歌う時には、言葉に詰まらないということに気がつく。
その歌声に魅力を感じた加代は、志乃に自分と一緒にバンドを組まないかと持ち掛ける。
人前に出る恐怖と戦いながらも、志乃は徐々に前向きになり、歌うことを楽しむようになっていくのだが…。
スタッフ・キャスト
- 監督:湯浅弘章
- 原作:押見修造
- 脚本:足立紳
- 撮影:今村圭佑
- 照明:平山達弥
- 音楽:まつきあゆむ
- 吃音監修:富里周太
今回の『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』の監督を務めたのは、『THE NEXT GENERATION パトレイバー』シリーズの監督を務めてきた湯浅弘章さんです。
もう今作の出来栄えを鑑みても、今後どんどん素晴らしい作品を世に送り出してくれることが期待できるので、非常に楽しみです。
脚本には『14の夜』や『百円の恋』などを手掛けた足立紳さんが起用されました。
大作映画も多く手掛けていますが、行き場のない思いを抱えた主人公の苦悩と葛藤、その解放を描くような作品が上手い人だと思っておりましたので、今回もそんな特長がしっかりと出ていたように思います。
撮影を、『ホットギミック』や『デイアンドナイト』に参加し、映画ファンの間でも一気に評価を高めている今村圭佑さんが担当しました。
照明には、今村圭佑さんと『新聞記者』や『サヨナラまでの30分』などでしばしばタッグを組んでいる平山達弥さんが参加しました。
また、今作は吃音が題材になっているということで、きちんと専門医である富里周太さんを監修につけてるんですよ。
- 大島志乃:南沙良
- 岡崎加代:蒔田彩珠
- 菊地強:萩原利久
主人公の志乃を演じた南沙良さんは、言葉に詰まりながらも必死に自分の感情を表現しようともがく難しい演技に正面からぶつかり、それを見事にやり遂げました。
今作で評価を高めたこともあってか、以降『21世紀の女の子』『もみの家』に出演するなど、活躍の幅を広げていきました。
一方の加代を演じた蒔田彩珠さんも、もはや今作の主人公とも言える役を見事に演じ、音痴でありながらも懸命に努力し、ステージに立とうとする様をエモーショナルに見せてくれました。
彼女も、今作以降『いちごの唄』『朝が来る』などで役を射止め、一気に注目を集めていますね。
また、空気が読めないクラスの男の子、菊地強を演じた萩原利久は、『アイネクライネナハトムジーク』や『12人の死にたい子どもたち』にも出演しています。
『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』感想・解説(ネタバレあり)
「間」がもたらすひりつくような居心地の悪さ
『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』という作品を見た時に、多くの人が衝撃を受けるのは、あのタイトルが出てくるまでの自己紹介シーンでしょう。
(C)押見修造/太田出版 (C)2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会
というのも、この映画は冒頭の志乃の自己紹介の描写に2~3分ほどの尺を割いているんですね。
これはなかなか勇気の要るディレクションだと思いますし、構成だと思います。
普通の映画であれば、このくらいの描写に2分も3分も割いてしまうと、明らかに間延びしていると評されることになりますし、もっとコンパクトにと指摘されるところでしょう。
ただ、今作はそういう鑑賞する側が抱く印象すらも逆手に取っているんですよね。
つまり、自己紹介だけのシーンに2分も3分も割かれることに対する、映画としての間延び感や居心地の悪さが、そのまま志乃の置かれている状況や感情にリンクしているのです。
もちろん彼女が自分の名前を辛うじて絞り出すことに、こんなにも時間がかかるのだということを明示する意味合いもあったと思います。
このシーンで、彼女が言葉を発しようとしてから、発するに至るまでの時間をフルで見せてくれたことが、作品全体の説得力にも寄与していました。
また、この作品を見ていると、私たちはどうしても志乃に対して苛立ちを感じることになると思うのです。
会話をしていても、その節々に独特の「間」が生じるので、その度に私たちはこう返答すれば良いじゃんという思いを、彼女が言葉を発するよりも先に抱いてしまい、そのタイムラグに少し苛立ちを感じるようになるわけです。
ただ、その苛立ちを誰より感じているのは、彼女自身だということに私たちは次第に気がつかされていくこととなります。
私たちが彼女に対して抱いているイライラを、志乃は自分自身に対して常に抱いているわけですよ。
吃音を実際に抱えている人であれば、この主人公に共感しやすいと思いますが、そうではない人に志乃の置かれている状況や彼女の感情を理解させるのは容易ではないことです。
しかし、『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』は「間」を上手く使うことによって、見る人に「自分事化」して感じさせ、考えさせることに成功しています。
この映画を見ている時に、私たちが無意識のうちに感じる苛立ち、恥ずかしさ、居心地の悪さ。これらを志乃が自分自身に対して感じていたように、私たちはそれらの感情を志乃に押しつけることで、彼女の苦悩や葛藤をハッとさせられることになるんですね。
無知な善意が心を傷つける
本作、『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』は原作著者の押見修造さんが実体験をもとに描いたということもあり、主人公の周囲の人の対応も、実際にあったことなのかな?と思いました。
原作のあとがきにも、ご自身が自己紹介や授業の際に苦労した経験がいくつか綴られていました。
もちろんあの先生には、全く悪意などなく、むしろ心からの善意で彼女に学校に打ち解けて欲しいと願っているはずです。
しかし、あの対応がかえって志乃を苦しめることになったのは間違いありません。
「名前くらい言えるようになろう」
きっと何の他意もなく放った言葉なのでしょう。しかし、彼女にとっては「名前くらい」などという認識ではありません。
その温度差が彼女にとっては、大きなプレッシャーなのであり、「名前が言えないこと」を重大な問題として受け止めさせてしまい、劣等感を植えつけることとなってしまうのです。
また、これは原作とは微妙に違っていた部分でもありますが、映画版では自己紹介のシーンと授業のシーンでは別の先生が登場するんですよ。
一昔前、いや今もそうかもしれませんが、フィクションにおいてはスーパーな先生が万事を1人で解決していくというのがある種の美徳だったわけです。
『GTO』や『ごくせん』、『3年B組金八先生』のようなタイプの教師ものが流行ったのにも、そういった背景があったように思います。
しかし、今の時代の教育現場に求められているのは、チーム力です。つまり、担任が自分のクラスの生徒の全てを1人で受け持つのではなく、それを学校全体で共有して、それぞれの先生が適宜自分の領分で対応に当たるという仕組みづくりが進んでいるのです。
そう考えた時に、志乃が吃音を抱えていて、上手く話せないという状況を担任は把握しているのに、教科担任には伝えられていないという落ち度が生じているのです。
そのために、教科担任から配慮がなされず、同じような恥ずかしい経験を強いられてしまったんですね。
また、母親がこちらも心からの善意には違いないのですが、志乃に催眠術を進めるシーンは残酷でしたね。
(C)押見修造/太田出版
母親という一番身近な存在すらも、普通なら縋らないような怪しげな催眠療法を善意の名のもとに押しつけてくる他人に思えてしまうという志乃の心情がすごく表れていました。
映画版では、母親の顔が見えるカット割りにしていましたが、それによって母親の善意は強調されたと思うんです。
ただ、善意が強調されたことによって、かえってそんな怪しげな療法を進められなくてはならない自分自身を彼女は悲観したと思うんですね。
ここについては原作と映画版で演出のトーンが違うのですが、どちらも見事だと思いました。
光の使い方の見事さと世界の終わり
映像的な面で言うなれば、やはり光の使い方が抜群に巧いというのは感じましたね。
まず映画の冒頭は、新学期の希望に満ちた高校生活の始まりを象徴するような明るい白色光(自然光)が印象的でした。
ただ、自己紹介に失敗し、1人で過ごす時間が増えるようになると、どことなく暗い影が目立つようになったりして、徐々に光が薄れていきます。
しかし、その後の加代と出会うシーン以降は、夕暮れ時のシーンが増えていきます。
放課後の帰り道、加代の自室でのバンド練習、カラオケ店での再会…そして2人がバンド結成を決めた帰り道は、もうすぐ日が落ちそうな時間帯です。
ここで、私は1つの「世界の終わり」が描かれたような気がしました。
1人ぼっちで過ごし続けてきた志乃の世界が終わりへと向かって行き、そして新しい世界に足を踏み入れようとしている。
その様子を1日の始まりと終わりに準えたような光の演出で描こうとしていたのではないかと思っています。
そして、2人がバンド結成を決めると、再び昼の白色光に照らされたシーンが増えていきますよね。
(C)押見修造/太田出版 (C)2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会
ただ、菊地が介入して来るようになると、徐々に夕暮れ時のシーンが増えていき、何だか映像全体に影の存在感が強まっていきます。
その結果、志乃はバンドからの脱退を宣言し、加代からも距離を取るようになります。
そうして2人がようやく正面から向き合ってコミュニケーションを取れたのが、次はもうほとんど日が沈みかけている夕方のシーンになっているんですよ。
つまり、志乃の世界の終わりが、世界の大きな変革が間近に迫っていることが視覚的に表現されているとも言えます。
そうして、終盤のライブシーンへと突入していくわけですが、もちろん文化祭のライブが行われる会場は暗く、まるで「夜」のような印象を与える舞台になっています。
そんな暗い闇の中で、志乃はこれまで自分が表現することができずにいた胸の内を叫びに乗せて、思いっきり声に出します。
(C)押見修造/太田出版 (C)2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会
涙をボロボロとこぼしながら。鼻水をズルズルと垂らしながら。
そうして、確かに彼女の世界は「終わり」へと向かって行ったのだと思います。
自分自身を恥じる自分自身の存在を捨て去り、あるがままの自分自身を受け入れることで彼女は前に進もうとしました。
今作は、主人公の志乃の世界に大きな変化がもたらされる際に、決まって夜に近い夕暮れ時や照明を落とした暗い空間を使うようにしていると感じました。
しかし、それは決して志乃の変化をネガティブに描こうとしているというわけではなく、彼女の世界が1度終わり、また新しく作り替えられていくというプロセスを、1日が昼から夜へと向かい、そしてまた新しい1日が始まるという流れに重ね合わせて描こうとしたからなのではないかと思います。
劇中では、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの『世界の終わり』が挿入歌として使われました。
この楽曲の中でも特に印象的なのが、最後のこの部分でしょう。
世界の終わりがそこで見てるよと
紅茶飲み干して 君は静かに待つ
パンを焼きながら 待ちこがれている
やってくる時を 待ちこがれている
(THEE MICHELLE GUN ELEPHANT『世界の終わり』より)
この楽曲では、「赤みのかかった月が昇るとき」に世界の終わりが訪れるとありますので、まさしく夜の到来が世界の終わりに準えてあります。
加えて引用した歌詞にも表れているように、世界の終わりは悲観するものではなく、むしろ待ち焦がれるものなのです。
そういう意味でも、夜を思わせるような暗い体育館の中で、そしてスポットライトの月を思わせるような丸い光に照らされた加代がステージに立った状態で、その空間で、志乃は鼻水と涙と共に自分の世界を終わらせるのです。
ラストシーンの巧さと原作との違い
実はこの『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』は映画と原作で、そのラストの描写が大きく変わっています。
原作では、志乃が結婚して、子どもがいて、そしてかかってきた電話に応答した際に言葉に詰まってしまい、それを娘が助けてくれるという少し微笑ましいシーンで幕を閉じます。
一方の映画版では、3人はそれぞれに後者の片隅で、1人ぼっちで食事をしているシーンを順番に映し出していくという内容になっています。
最初に見た時は、このラストシーンの意味がイマイチつかみきれませんでした。
普通に考えれば、志乃が再びあの2人とバンドの練習をしているという類のカットを持ってくると思うんですよ。
しかし、そうはしなかった意図、そして原作とは同じにしなかった意図は何なのだろうかとふと考えました。
その中で、私が思い至ったのは、この映画のゴールは3人がバンドを組むことや、3人が友人同士になることではなかったなという点です。
そもそも『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』という作品は、彼女が自分の名前を言えるようになって、自分のことを認められるようになることが大きなゴールだったわけです。
だからこそ、3人の友情をゴールにしてしまうと、実は物語の最初で為された問題提起から脱線してしまうんですね。
このシーンで何よりも注目すべき点は、志乃が座っている席が変わっているという点ではないでしょうか。
思えば、文化祭の前までは、彼女の席は最後尾の掃除用具入れの前のところでしたよね。
しかし、ラストシーンで彼女が座っているのは、おおよそクラスのど真ん中とも言えるポジションなのです。
彼女が1人で昼ご飯を食べているという状況が変わったわけではありません。それでもクラスの端に座っており、お昼時にはいつもどこかへ逃げ出していた彼女がクラスの中央で弁当を食べているという点が大きな変化を示していることは明白です。
まさしく彼女は自分の世界の中心を生きる人生の主人公になれたのだということが視覚的に表現されていたのではないでしょうか。
加えて、そんな彼女に前の席に座っている女子生徒が声をかけ、それに対して志乃が返答する一幕があります。
先ほども言ったように、この作品のゴールは、志乃が加代たちと普通に会話ができるようになることでも、彼らが友達同士になることでもありません。
だからこそ、志乃が加代と菊地以外の人とコミュニケーションを取ろうとするという一幕が、次なる世界の広がりを感じさせてくれるわけですよ。
これまで2人だけ、3人だけの閉じた世界を描いた作品が、少しずつ広がっていく未来を予見させたところで、エンドロールに突入するという演出がこの上なくグッときました。
いや、むしろあのラストシークエンスは、3人の関係もきちんと描いていたんですよ。
加代と菊地がいた場所がどこだったのかを思い出してください。
加代は屋上に、菊地は志乃が序盤に1人で昼食を取っていた後者の片隅に居ましたよね。
そしてこの2つの場所が何を意味しているのかと言うと、これらは冒頭に昼食を食べる場所を探していた志乃が立ち寄った場所なんですね。
つまり、あのラストシークエンスで、2人がいる場所というのは、志乃が逃げ出した時に訪れた場所なんですよ。
3人の繋がりを明確に描くということをこの映画はやっていません。
しかし、もし教室で辛いことがあって、また志乃が逃げ出そうとしてしまった時に、その先には加代や菊地がいてくれるのだという目には見えない「心強さ」を可視化していたのではないかと思いました。
いろいろと想像が膨らむラストシーンでしたが、こういった風に解釈の余地がたくさん残されていたのも、この作品が多くの人の心を掴んだ要因なのかもしれません。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』についてお話してきました。
物語が優れているのはもちろんなのですが、やはりこれだけ映像で丁寧にストーリーテーリングできるのが素晴らしいですね。
というより、主人公が言葉にできないのだから、映画としても言葉で説明してしまうような演出は避けるべきでした。
そして、志乃が言葉を紡ごうとしたあの終盤の文化祭でのシーンで、これまで言語化されなかった心情を一気にセリフに乗せてぶつけるという緩急に痺れました。
湯浅弘章監督は、間違いなく今後日本を代表する映画監督の1人になっていくはずだと、その可能性を感じさせてくれた1本でした。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。