みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『イヴの時間』についてお話していこうと思います。
その内容を見てみますと、SFとしては少し古臭く感じる部分はありますよね。
2008年に製作された作品であるということも関係していると思いますが、作中に登場する携帯電話端末が「ガラケー」仕様なんですよ。
「iPhone」自体は2007年に発表されていて、普及の潮目となったのは2008年頃だったと言われていますが、時期的に反映させることが難しかったのかもしれませんね。
そういったSF作品としての「古臭さ」を多少感じさせながらも、本作は長年愛され続けています。
『イヴの時間』は、単なる近未来SFという枠組みを超えて、「コミュニケーション」を題材にした映画として非常に普遍的でかつクオリティも高いです。
だからこそ、10年代以前の作品でありながら、今も新しい視聴者に受け入れられ続けているのだと思っております。
そんな個人的にも大好きな『イヴの時間』についてその魅力を語っていけたらと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『イヴの時間』
あらすじ
「未来、たぶん日本。“ロボット”が実用化されて久しく、“人間型ロボット”(アンドロイド)が実用化されて間もない時代。」
アンドロイドは人間と識別できるようにリングを頭に表示し、淡々と人間に奉仕することを求められています。
その一方で、ロボットが社会進出し、人間から仕事を奪っていく機会も増え、失業した人たちがアンドロイド反対を声高に叫ぶようにもなっていた。
加えて、アンドロイドに精神的に依存する「ドリ系」と呼ばれる人々が増え、政府はそれを防ぐべく「倫理委員会」を組織し、対策を進めていた。
また、旧式化したロボットが不法投棄され主を持たない彼らが野良ロボットとして徘徊することが社会問題となっていた。
そんな時代を生きる高校生のリクオは、ある日自分の家で使っているアンドロイドのサミィの行動ログを見ていると「Are you enjoying the time of EVE?」という不思議な記述を発見する。
不審に思った彼は、クラスメートで友人のマサキと共にそのログを辿り、路地裏にひっそりと佇むカフェに辿り着く。
そこにあったのは「イヴの時間」という不思議なカフェであり、その入り口には「人間もロボットも区別しない」というルールが掲げられていた。
ロボットに対して常に懐疑心を持っているリクオ、そしてロボットは人間に嘘をつくものであると強く感じているマサキ。
2人は、この「イヴの時間」で様々な人間やアンドロイドとの出会いを経験し、少しずつその心情を変化させていく…。
スタッフ・キャスト
- 監督:吉浦康裕
- 原作:吉浦康裕
- 脚本:吉浦康裕
- キャラクターデザイン:茶山隆介
- 作画監督:茶山隆介
- 音楽:岡田徹
- アニメーション制作:スタジオ六花
吉浦康裕さんはフリーでショートアニメーション制作しつつ、その後この『イヴの時間』を初の劇場アニメーションとして制作しました。
その後も、『サカサマのパテマ』や『アルモニ』といった独特のアニメーション表現が光る作品を世に送り出し、高い評価を獲得しています。
キャラクターデザイン、作画監督には、『サカサマのパテマ』にも参加した茶山隆介さんが起用されています。
劇伴音楽は、アニメだけでなく実写映画の劇伴も制作している岡田徹さんが手掛けました。
スタジオ六花は意欲的な作品も多く、個人的にはかなり期待を持っているのですが、ここのところは新作の発表がなく少し寂しいですね。
- 向坂リクオ:福山潤
- 真崎マサカズ:野島健児(三瓶由布子)
- サミィ:田中理恵
- ナギ:佐藤利奈
- アキコ:ゆかな
主人公の向坂リクオを演じたのは、アニメ好きで知らない人はいないであろう福山潤さんですね。
役には、『PSYCHO-PASS サイコパス』シリーズの宜野座伸元などを演じた野島健児さんが起用されています。
女性陣も田中理恵さんや佐藤利奈さん、ゆかなさんなど実力派が揃っておりますね。
とりわけこの3人の演じている役は、それぞれに性格がかなり違うということもあって、声の特性がすごく顕著に表れていて、楽しめます。
『イヴの時間』解説・考察(ネタバレあり)
未知への恐怖との直面。それでも通じ合おうとし続ける。
(C)2009/2010 Yasuhiro YOSHIURA / DIRECTIONS, Inc.
本作『イヴの時間』は未知の存在と如何にして、理解し合い、共存し合っていくのかという主題を真っ向から描いています。
主人公のリクオは、常にアンドロイドに対して懐疑心のようなものを持っていて、とりわけ自宅のハウスロイドであるサミィの行動を厳格に管理しています。
その根柢にあるのは、やはり未知の存在を自分の管理下に置いておくことで安心感を得たいという欲求なのでしょう。
彼はかつてピアノを弾いていて、コンクールなどでも上位に入賞するほどの腕前の持ち主でしたが、ある日コンクールの金賞をアンドロイドのピアノ奏者に奪われたことで、心境が変化します。
結果的に、彼はハウスロイドであるサミィにもピアノを聞かせないようになり、更には彼女を自分の望む範囲内に閉じ込めておくために厳格に行動を管理するようになったのです。
彼と似たような感情をアンドロイドに対して抱いていたのは、マサキの父親でしょうね。
彼は、自分の息子の父親としての立場をアンドロイドに奪われるのではないかという恐怖を感じ、「話さないこと」を命令し、その可能性や能力に制限を課しました。
アンドロイドは生き物のように振舞いますが、あくまでも「家電」だからと割り切り、振舞おうとするのは、やはり未知の存在に対する恐怖が大きな原因なのでしょう。
人間はその歴史を見てきても、いつだって未知の存在や社会の外部からやってくる異種や新参者を虐げる傾向にありました。
特に、現代においては「移民」のトピックが大きな問題となり、アメリカやヨーロッパの国々では移民排斥の風潮が高まっています。
そこには、テロや治安の悪化といった異民族に対する潜在的な恐怖心が宿っており、自分たちのコミュニティの平穏を保つために、排除しようとする力が働いているのです。
しかし、そういった他者に対する不寛容が負のループを生み、テロリズムという暴力に形を変えて、アメリカやヨーロッパの人の命を奪っているのが現状でもあります。
そして技術の面で言うなれば、2050年に到来するといわれるシンギュラリティに向けて、人工知能の発達は止まらないでしょうし、もしかすると『イヴの時間』のような世界が現実になる日が来るかもしれません。
ただ、既に私たちは「AIによって仕事が奪われる」といった潜在的恐怖を話題に挙げている状況です。
このように、人間は外からやってきたものや新しく生まれたものに対して、自分たちの大切なものを「奪われるのではないか?」という恐怖心や警戒心を抱かずにはいられません。
それでも、どんなに抵抗しても、私たちの社会は目まぐるしく変化していくわけで、いつまでもそれに対してNOを突きつけることはできませんよね。
では、私たちはどう生きるべきなのかというと、それは「声をかける」ことしかないのかもしれません。
お互いにどんな感情を抱いているのかや、どんな思いを持っているのかは、やっぱり「言葉」にしない限りは、どんなに近くにいたとしても伝わらないんですよ。
マサキのハウスロイドであるテックスは、彼の傍にずっといながらもしゃべることができなかったために、その本心を伝えることができずに葛藤し続けていました。
サミィだってリクオに伝えたいことがたくさんありましたが、それを伝えようとはせず、逆にリクオも彼女に自分の気持ちを明かすようなことはしませんでした。
そうしてお互いに通じ合っている、通じ合う可能性を孕んでいるのに、「言葉」にしないが故にすれ違いや摩擦を生み続けてしまうのです。
すぐに分かり合うことは難しいですし、分かり合うには時間がかかるものです。
それでもコミュニケーションを取ろうとし続けることで、少しずつお互いを理解し合い、認め合っていくことの大切さを見事に描き切っている点が本作の最大の魅力なのだと思います。
また、この作品(マンガ版の方ですが)は未知の存在に対して恐怖心や警戒心を抱くことを「悪」であるとして断罪していないんですよ。
マンガ版の終盤に、アンドロイドに否定的な姿勢を持っているリクオのクラスメートのカヨが、かつてサミィを破壊した芦森博士と会話をする描写があります。
ここで、彼女は自分が抱いているアンドロイドに対する根源的な恐怖を芦森博士と共有しました。
このシーンは、アニメ版では尺の都合でカットされていたんですが、非常に大切なシーンだと思っています。
なぜなら、未知の存在に対して恐怖心や警戒心を抱くことは当たり前のことであり、そんな感情を抱くことそのものが「悪」なのではないという救済になっているからです。
大切なのは、恐怖心や警戒心を抱かないようにすることではなく、そういった物を持ちつつも少しでもそれを和らげる方向へと前進し続ける姿勢なのだと思います。
そんな現代にも強く通じるメッセージを2010年に入る前に作られた本作が、この上なく丁寧に打ち出していた先見性にも驚かされるばかりです。
物語の構成とテックスの描写の巧さ
『イヴの時間』という作品は、まず物語の構成が非常に優れていると思います。
というのも、リクオたちが「イヴの時間」で出会うアンドロイドって、徐々に人間からは遠ざかっていくように構成されているんですよ。
最初に出会うのは、アキコやコージ、リナといった人型のアンドロイドで、見る側の私たちとしてもある程度感情移入しやすい作りになっています。
しかし、中盤に差し掛かると、見た目が武骨で、いかにもロボットな作りのカトランが登場しますよね。
(C)2009/2010 Yasuhiro YOSHIURA / DIRECTIONS, Inc.
それまでのシーンで、私たちはアキコやコージ、リナといった人型のアンドロイドを見ており、彼らとリクオたちの掛け合いであれば、人間と人間の会話と相違なく見れていたと思うんです。
しかし、相手がカトランになると途端に、「人間とロボット」という対比が強烈になるんですね。
つまり、アンドロイドが人間とは異質な存在であるという事実が、ここで改めて視聴者に強調されるように構成されているのです。
そして、アニメ版の『イヴの時間』はマサキとテックスの物語をクライマックスに配置しています。
テックスは、旧型のアンドロイドであり、カトラン以上に見た目が、現代を生きる私たちの想像しうる「ロボット」的に作られています。
テックスには、カトランのような四肢もほとんど備わっておらず、口に当たる部分がないため表情もありません。
そんな存在に対して人間が感情を抱いたり、愛着を持ったりするのかというのは、疑問に感じる部分でしょうし、今作を見ている私たちも同様に感じたはずです。
しかし、マサキとテックスの物語って本当にエモーショナルに作られていて、テックスがロボット三原則や家電としての役割の柵ゆえに、彼に話しかけることができなかった葛藤を吐露します。
それに対して、ロボットに対して信頼の一切を失っていたマサキが、涙を流しながら抱きしめるというリアクションをするのが、何とも感動的です。
加えて、この一連のシーンにおけるテックスの描写の仕方がまた凄まじいんですよね。
マンガ版では、テックスの目頭から涙の跡のような線は入っていなくて、マサキが抱きしめた時に、本当に涙を流しているかのように描かれているんです。
(『イヴの時間』第3巻より引用)
しかし、アニメ版ではテックスの目頭には、最初から涙の跡のような線が入っていて、それが単なるマシンとしての仕様と言いますか、劣化のように見えるんですよ。
(C)2009/2010 Yasuhiro YOSHIURA / DIRECTIONS, Inc.
マンガ版の方の、実際にテックスが涙を流す演出は、どことなくフィクショナルな印象が強まります。
しかし、アニメ版の方の描写のアプローチはどちらかと言うと、リアリスティックなんですよね。
つまり、テックスが「泣いた」という事実はどこにも存在しないように描かれています。
しかし、あの涙を流したような跡が残っていることで、テックスが長年にわたってマサキへの思いを閉じ込めてきたことに対する悲哀や苦悩が、こべりついてしまっているように見えるのです。
そのため、テックスには感情表現らしいものが一切にないにもかかわらず、私たちは2人の対話の中に「エモーション」を見出せてしまい、涙が止まらなくなります。
本作の監督を務めた吉浦康裕さんは、きっとこのシーンで観客の感情を揺さぶることに、全てを託したのではないかと思います。
序盤に描かれる人型のアンドロイドやサミィの物語に、感情を動かされるのは、ビジュアル的にも人間と相違ないため、それほど障害はないはずです。
しかし、如何にもロボットでしかないカトランやテックスの物語に感情を思いっきり揺さぶられてしまうのは、私たちが彼らを「家電」以上の何かと認識してしまっているからなんですよ。
つまり、リクオたちが「イヴの時間」で少しずつアンドロイドに対する認識を変化させていったように、作品を見ている私たちも無意識的にその認識を変化させられてしまうのです。
作品を見ている側に、そういった一種のパラダイムシフトが起きるように、巧妙にビジュアル面の情報や物語の構成を調整している点は、非常に優れていると思いました。
マンガ版を読まないと分からないエンドロールとラストの意味
アニメ版『イヴの時間』は、もちろん優れた作品ではあるのですが、サミィの謎については、ほとんど言及できていないという消化不良を起こしている作品でもあります。
これについてはマンガ版の最終第3巻をチェックしていただけると、全てが判明するようになっています。
まず、芦森博士と潮月がタッグを組んで開発していたアンドロイドのプロトタイプが「セイム=サミィ」だったんですよ。
2人はそれぞれ「セイム=サミィ」の身体と心を担当し、子どものように一緒に暮らしながら開発を進めていたのですが、ある日潮月がセイムと共に姿を消してしまいました。
しばらくして、芦森博士の前にほとんど「心」に近いものを有したサミィが現れるのですが、芦森はそのあまりの完成度の高さに恐怖心を覚えます。
「アンドロイドが受け入れられ人間と共存する社会」を夢見ていたにもかかわらず、芦森自身が彼女を受け入れられず、破壊してしまったのです。
そうして、1度アンドロイドとの共生を否定してしまった彼女だからこそ、「イヴの時間」という空間やリクオと心を通わせて変化していくリクオに希望を見出すようになります。
アニメ版のラストでもチラッと描かれたように、潮月が「イヴの時間」という空間を作り、そこに「人間とアンドロイドを区別しない」というコードを書いた張本人です。
そして、彼はいつまでも人間とアンドロイドが分かり合い、手を取り合う日が来ると信じています。
これも、アニメ版では描かれていないことですが、潮月はアンドロイドに元々「心」が備わるように設計してあって、そこに芦森博士が制御機能をつけることで商品化されました。
つまり、アンドロイドたちは自分たちが人間と同様に振舞うことができるにもかかわらず、人間に制御機能をつけられているという状況をメタ的に認知していて、それ故に人間が望むように「機械」として振舞っているという側面があります。
しかし、「イヴの時間」という小さな空間がきっかけとなって、やがて世界全体が変化していくかもしれません。
マンガ版のラストにすごく印象的な言葉が書かれています。
心や世界が思い通りに変わっていく事はないのだろう
それはとても難しいものだから
でも、ほんの小さなきっかけがあれば
輪は広がっていく
(『イヴの時間』第3巻より引用)
私たちは、自分の心や他者の在り様を、自分の思い通りに規定することはどうしたってできないんです。
だからこそ、そうした変化に対して不安や恐怖、疑いの念を抱いてしまいます。
しかし、そんな状況や心情も、些細なことがきっかけで変化していくかもしれない、たった1人の1つの場所の出来事がやがては世界全体へ波及していくかもしれない。
そんな希望を『イヴの時間』は描いています。
アニメ版もよく出来てはいますが、少し余白が多すぎて、ラストは観客の想像に委ねられた部分がかなり多くなっています。
ただ、そんな余白が生んだ余韻も心地良いものです。
輪郭をぼんやりとさせたままで、その感触を味わいたいという方はそのままで良いと思いますし、もしもうちょっとはっきりさせたいという方はマンガ版をチェックしてみるのも良いでしょう。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『イヴの時間』についてお話してきました。
2010年に入る前に作られた作品ですので、ビジュアル面で現代から見ると、SFとして少し古臭く感じさせてしまう部分はあると思います。
しかし、時代を超えて今を生きる私たちがまさに考えていかなければならない「コミュニケーション」や「共生」についての普遍的なメッセージがこの作品には込められています。
未知の存在、外からやって来る存在、新しく登場したもの。
誰だって怖いと思いますし、それを受け入れることに対して不安を抱くものです。時には抵抗もするでしょう。
ただ、そういった感情を抱くことは「悪」ではありません。
「声をかける」ことで少しずつでも、そんな感情を消化できるように、前進し続けることこそが美徳なのです。
SF作品でありながら、ミニマルな未来世界の日常を切り取った不思議な作品なのですが、そんな作品が時代を超えて多くの人を惹きつけるのは、そんな普遍的で優しく包み込むような温かさが宿っているからなのでしょう。
ぜひ、多くの人にご覧になっていただきたい1本です。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。