『許された子どもたち』ネタバレ感想・解説:裁かれなかったが故に与えられなかった赦しの主体

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『許された子どもたち』についてお話していきます。

ナガ
久しぶりの映画館復帰鑑賞作品は衝撃的な1本でした!

内藤瑛亮監督は個人的にも注目してきた監督で、最初に見たのは『パズル』という作品でした。

グロテスクで生々しい表現に果敢に挑戦しているのも衝撃的だったのですが、音楽の使い方であったり、独特の編集やテンポ感にあっという間に魅了されました。

題材的なリンクを感じるのは、やはり『先生を流産させる会』でしょうか。この作品も2009年に愛知県半田市の中学校で起こった実際の事件を参照して作られました。

その後、漫画原作の『ミスミソウ』の監督を務めたのことで、一気に認知度が上がり、日本のバイオレンス映画クリエイターの中でも一目を置かれる存在となりました。

そんな彼が長年の構想を経て、ようやく映像化するに至ったのが今回お話する『許された子どもたち』という作品です。

彼が、この作品にどれくらいの熱量をかけてきたのかは、エンドロールの最後に流れてくる学術論文を思わせる量の参考文献の数を見ると一目瞭然でしょう。

ただ、演出や編集、物語の構成にも非常に癖があり、見る人によっては何を描こうとしていたのかがイマイチ掴めないという方もいらっしゃるかもしれません。

今回の記事では、そんな本作に関して自分なりの見解を書いていこうと思います。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となります。

作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




『許された子どもたち』感想・解説(ネタバレあり)

モデルになった事件は何だろう?

そして今回の『許された子どもたち』のモデルは、複数の少年犯罪であるとされていますが、特に影響を強く感じるのは以下の2つではないでしょうか。

  • 山形マット死事件(1993年)
  • 川崎市中1男子生徒殺害事件(2015年)

前者は非常に有名な事件ですし、本作のプロットにも共通点がたくさんあります。

山形マット死事件は、縦に置かれていた体育用マットに逆さの状態で入れられた生徒が窒息死し、7人の中学生が逮捕されたという恐ろしい事件です。

当初、7人の中学生は全員が犯行を認める自供をしていたのですが、後にその証言を変え、7人中6人が自分の無罪を主張するという状況へと変わっていきました。

そこには「いじめ」があったというのが状況からの認識なのですが、何と山形県の家裁で7人のうちの上級生3人を証拠不十分のために「不処分」にするという判決が下され、大きな問題となりました。

その後、上級裁判所にて7人全員に有罪判決が出されるのですが、2002年に山形で再びとんでもない判決が下されることとなります。

というのも山形県の地方裁判所で、この件に関しては事件性がないので、損害賠償請求は無効であるとの判決が下されたのです。

この判決についても、後に上級裁判所で覆されることとなりますが、1993年に起きたこの事件は加害者を過剰に保護する少年法の在り方に疑念を呈する一件となりました。

一方の川崎市中1男子生徒殺害事件は多摩川の河川敷で中学1年生の少年が首をナイフで突き刺され、出血性ショックにより命を落としたというものです。

監視カメラの映像やLINEの履歴から犯人が特定されていったという状況証拠の提示のされ方が『許された子どもたち』に非常に似ていると思います。

この事件に関しても、当初少年たちは犯行を否定しており、関与していないという一点張りだったのですが、徐々に犯行を認める論調へと変化していき、最終的には殺人罪や傷害致死罪が適用されました。

また、この事件では、少年犯罪における犯人の匿名性がゆえに、ネットユーザーによる「犯人探し」が始まってしまい事件と無関係の人物が個人情報をインターネット上に拡散されるなどの事象が起き、大きな問題となりました。

ニコニコ動画の配信者だった当時中学生の少年が、「正義」を気取り、被害者の自宅を撮影したり、個人情報を暴露したりするなども問題視されましたね。

週刊誌が少年の実名を報道したことに対しても賛否両論で、インターネット上では称賛するような意見も目立っており、そんなビジランテ的な思想には恐ろしさも感じました。

事件の内容を鑑みると、やはり『許された子どもたち』に大きな影響を与えたのは、上記の2つの事件ではないかと思います。

公式サイトには大津市中2いじめ自殺事件や東松山都幾川河川敷少年殺害事件も挙げられていました。



神の視点を与えられ、「真実」を知る我々

(C)2020「許された子どもたち」製作委員会

この『許された子どもたち』という作品が非常に面白いのは、観客には真実が明かされているという点でしょう。

つまり、私たちは劇中の人物たちが繰り広げる「愚行」の数々をある種の神の視点から眺望する立場にあるため、彼らが如何に愚かな生き物だろうかと呆れるばかりなのです。

全てを知っているわけですから、市川絆星という少年が主犯格であり、その取り巻きの3人の中学生が殺人に関与したことも当然知っており、だからこそ彼が無罪放免となることに対しては憎しみを抱かざるを得ませんし、彼らが市井の人たちの私刑に裁かれるのも当然の報いだと思うことでしょう。

しかし、考えてみて欲しいのは、現実に今作と同じような事件が起きた時に、私たちは当然真実を知ることはできませんよね。

ナガ
提示される状況証拠や報道、証言に基づいて、何が真実なのだろうかと推察するのが関の山でしょうね…。

ですので、現実で同様の事件が起きれば、私たちは今作の登場人物たちのような神の視点から見れば、愚者でしかない人間の立場に置かれてしまうんですね。

ただ、私たちは自分たちがそんな「愚者」の立場にいるにもかかわらず、「神の視点」を与えられていると錯覚してしまいます。

つまり、自分たちが真実を知り得ない立場に居ながら、自分は真実を知っているのだと錯覚し、そんな自分が作り上げた「真実」に基づいて実行するビジランテ的行為を正義だと勘違いしてしまうのです。

ナガ
何も見えていないのに、自分には全てが見えている気になってしまうわけだ…。

この映画を見ている間、私たちにはまさしく全てを見通す視点を与えられているわけですが、それ故に自分たちが劇中に登場するたくさんの「愚者」と同じような思想をもっていることを突きつけられます。

そして、もう1つ重要な役割を果たしていたのが、絆星が転校先で出会った少女が受けていたいじめです。

劇中でこのいじめに関する真相は一切明かされることがなく、彼女が本当に教師とキスをする等の関係にあったのかは不明でした。

では、みなさんは真実が分からない状態で、彼女がクラスの他の生徒たちからいじめを受けていることについてどう思いましたか。

ナガ
純粋に可哀想だとか、いじめっ子が報いを受けるべきだとか…。

しかしクラスメイトたちは教師とそういった関係を持った彼女に対して「いじめ」をするのは、正義だと錯覚しており、そこに犯の疑いも持っていません。

ここで考えていただきたいのは、私たちが現実において、絆星をインターネット等の媒体を通じて裁くビジランテ側に回ったときにしている行為というのは、あのクラスで行われていたいじめと同質なのではないかということです。

私たちは絆星が犯人だと知っているから彼に対する「いじめ」については、いじめっ子を正当化し、逆にあの少女が受けている「いじめ」については、真実を知り得ないためにいじめっ子を糾弾します。

ただ、これってダブルスタンダードじゃないですか?

なぜなら、現実において私たちが神の視点を持ちうることは基本的になくて、あくまでも断片的でかつ不確定で不安定な情報の中から「真実」を自分なりに推測して作り上げることしかできないからです。

川崎市中1男子生徒殺害事件では、まさしくそんな市井の人々のビジランテ的思想が暴走し、何人かの無関係な生徒の個人情報を流出させ、心的な外相を負わせるなどの事案が発生しました。

私たちが「愚者」にならないためには、絆星が犯人ではないかもしれないという視点はやはり持たなければなりません。

そしてどんな形であれ、加害者側に悪があるという視点を捨ててはいけないと思います。

ナガ
これはいじめの問題に向き合う時も同じことだよね!

いじめ問題においても、「いじめられている側にも非がある」という考え方は基本的にタブーです。

ビジランテ的な行動は、確かに事件の加害者に法では下せない裁きを下すという役割があったのかもしれませんが、絆星やその家族に加害している以上は「悪」でしかないんですよ。

『許された子どもたち』は、私たちに「真実を知ったつもりになること」の恐ろしさを教えてくれます。

真実を知ったつもりになると、何が恐ろしいのかは既にお話したように、本来であれば「悪」であるはずの加害行為を「正義」だと錯覚してしまうことでしょう。

この作品は、司法が被害者を守ってくれないという無力さややりきれなさも描いていますが、どんな時も私たちは「被害者」側に寄り添って考えなければなりませんし、その過程で自分が「加害者」になってはいけません。

入念なリサーチの下に作られた『許された子どもたち』は、本当に鑑賞した後に様々なことを考えさせてくれました。

 

見事な編集や色彩の演出

『許された子どもたち』という作品は、やはり内藤瑛亮監督の作品であるということもあり、非常に編集や演出、撮影が独特です。

編集面で見ていくと、ストップモーションのような映像を取り入れていたり、ネットの誹謗中傷や配信映像を所狭しと流し込み映画を情報で氾濫させています。

映像と文字という2つのメディアは全く異なる性質を持っており、その使い方によっては凄まじい不協和音を奏でることが可能です。

本作は、徹底的に映像の連続の中で文字というものの違和感を強調させており、異物感を感じさせるように設計しているんですよ。

この異物感は事件に関係のない人間が勝手に介入してきては、自分の「正義」を押しつけているという状況を巧く再現していると思いますし、同時に言葉というメディアが持つ鋭利さを演出していると言えるでしょう。

撮影面では、ボーガン越しに絆星の表情を捉えるような独特のPOVショットや、スマホ映像・報道映像、配信映像などの断続的なインサートが目立ちました。

様々な映像メディアによるパッチワーク的な仕上がりにすることで、現実でも1つの事件が様々な情報による継ぎ接ぎで作り上げられていく構造を表現していたと思います。

序盤の審判のシーンでも、「不処分」の判決が下され、参列者が礼をすると、座ってただ前を見つめている被害者遺族の表情が浮かび上がり、被害者やその遺族をを蔑ろにする司法の歪みが際立ちました。

ナガ
こういったショットも非常に効いていたね!

そして、何とも印象的だったのは、本作における「赤」の色彩の使い方です。

映画において、執拗に1つの色を映画の全編にわたって散りばめるというアプローチを取ることがありますが、『許された子どもたち』は徹底的に赤色を映像の隅々に散りばめています。

(C)2020「許された子どもたち」製作委員会

それは、絆星が蹴っているゴミ袋の色であり、彼の母親が着ている服の色であり、そして彼がボウガンを試し打ちしている廃墟の風船の色であり、彼を殴った少女のボクシンググローブの色でもあります。

では、本作におけるあらゆる「赤」の大元にあるものは何かと考えた時に、思い当たるのは当然彼が殺害した同級生の倉持樹の血液の色ですよね。

ナガ
が苦し気な音を立てながら血を噴き出し、絶命していくシーンが妙に生々しく描かれていたよね…。

この時、観客にもそして絆星にも彼の血の「赤」が鮮烈に印象づけられるのです。

そのため、私たちはこの映画の映像の節々に「赤」を発見するたびに、姿の見えない樹を否が応でも想起させられるようになっているんですよ。

面白いのは、彼が赤色のゴミ袋を蹴っ飛ばしたり、赤色の風船をボウガンで割ったりする描写でしょうか。

そこには、絆星が必死に倉持樹の亡霊を振り払おうとしている様子が見え隠れしています。

しかし、彼がそうして目を背けようとすると、直視させるように抵抗する力が働くんですよ。

ナガ
それがあのボクシングの構えで思いっきり絆星にボディをかました少女の登場意義だったんじゃないかな!

彼女の持っていたボクシンググローブは赤色であり、ボディをかました経緯というのは、彼が赤いゴミ袋を蹴っ飛ばしていたことでした。

目を背けようとしても無駄で、彼はこれからもと向き合い続けなければならないのだという事実を、「赤」という色が見事に表現したようにも感じます。

ただ、面白いのは、終盤に自分の母親の血の「赤」を見た彼は、そこで意識が大きく変化するんですよね。

ナガ
ある種の上書きのような現象が起きたとでも言えるでしょうか…。



他の映画へのオマージュ

『許された子どもたち』は、いくつかの映画へのオマージュを取り入れていると思いますが、真っ先に浮かぶのは、やはり『スタンドバイミー』でしょうね。

冒頭にある案山子をぶっ壊した4人の少年が田畑に囲まれた道路を走っていくシーンなんかは、もろ『スタンドバイミー』の4人の少年が線路を歩いていくシーンに重ねていたように感じます。

ナガ
そして、『スタンドバイミー』と言えばブルーベリーパイ食いコンテストですよね(笑)

映画『スタンドバイミー』より引用

パイの早食い競争に参加することになったホーガンが、ブルーベリーパイを盛大に吐き出すという映画ファンの間では語り継がれるなかなかにショッキングなシーンです。

『許された子どもたち』において絆星が母親と一緒にブルーベリーパイを焼いて食べるシーンがあったのは、決して偶然ではないでしょうね。

ナガ
他にも『悪魔のいけにえ』に受けた影響は大きいんじゃないかな!

当時、前衛的すぎる演出やカメラワークで観客の度肝を抜いた伝説のホラー映画ですよね。

この作品のラストシーンにレザーフェイスがサリーを取り逃がしてしまい、チェーンソーを振り回すというシーンがあるのです。

これが完全に、『許された子どもたち』における絆星が空き地でボウガンを振り回すシーンと一致していましたね。

他にも映画からの引用はあるのではないかと思いますが、当ブログ管理人が鑑賞して、パッと気がついたのはこの2作品でした。

 

裁きと赦しについて

(C)2020「許された子どもたち」製作委員会

『許された子どもたち』においての、1つの重要なテーマは「裁き」と「赦し」だと思います。

まず、前者に関しては、人間が人間を裁くということに対する不完全さや脆さ、恐ろしさを描いている作品だと感じました。

私たちは社会を構築していく上で、ある程度の秩序を保つために、法律というものを受け入れて、そこから外れれば裁かれるという原則の下で生きています。

つまり、法律ないし司法というものはそもそも絶対的な正義を保証するものではなくて、不完全ながらも私たちがその存在を共通認識として受け入れることによって妥当性を有しているのです。

しかし、これに対して納得がいかない個人が出てくると当然の如く、自分たちの正義感や倫理観を盾にして「裁き」を実行しようとするビジランテと化していきます。

さて、今作においては少年法に対する過剰な加害者保護の状況が取り上げられていました。

そもそも少年犯罪において殺人事件が発生した場合は、被害者は法の庇護下から除外される為に実名報道が為され、逆に加害者は実名報道が為されないという現状があります。

ナガ
しかも家庭裁判所における審議や判決に至るまでのプロセスが原則として公開されないという恐ろしさもありますよね…。

これは「環境の犠牲者としての子ども」という観点が日本の少年法には強く反映されているためです。

少年法では、事件の真実を明らかにするよりも、非行少年の要保護性の有無の判断が主軸とされることが多く、それ故に山形マット死事件では、一時3人に「不処分」の判決が下されるという異例の事態となりました。

成人の裁判であれば、徹底的に加害者側が糾弾され、真相の究明が重視されますが、少年審判においては加害者側であっても保護されるべきだという観点が存在するが故に真実が蔑ろにされることすらあったわけですよ。

こういった状況もあり、子どもが法律で定められたような「裁き」に晒されることもなく、そして罰を受けることもなく、何の更生もしないまま社会へと戻っていくというのは大変恐ろしいことですよね。

そして、もう1つのキーワードが「赦し」だと思いました。

劇中で絆星は、ひたすらに樹の亡霊に憑りつかれており、そして自分のせいで家族がボロボロになっていくという状況の中で、必死に「赦し」を求めている様でもありました。

しかし、彼は自分が誰から「赦し」を得たいのかが分かっておらず、とりあえず被害者の遺族に謝罪をしさえすれば、自分は赦されるのではないかと錯覚していました。

ナガ
そんな彼のとにかく誰でも良いから「赦し」を与えて欲しいという彼の心情を樹の母親は見抜いていたんだろうね…。

ドストエフスキー『罪と罰』の中でも印象的に描かれている内容ですが、「罰」というのはその人が罰だと感じるからこそ罰足り得るのであって、そう感じていなければ罰にはなり得ないんですよね。

絆星という青年は、きっと樹を殺害したことに対してそれほど罪悪感のようなものは感じていないのだと思いますし、だからこそ彼の亡くなった河川敷のお供え物を蹴散らすなんて行動に及ぶのでしょう。

しかし、彼は法によって裁かれなかったが故に自分の行動に対する「赦し」を得ることができなかったんですよね。

自分は悪くないと思っていても、母親は自分が罪人ではないと信じてくれていても、世間がそうさせてくれない、赦してくれないのです。

そういった自分自身が抱いている「罪」の自覚と、世間が彼に対して投げかける「罪」の認識に大きなギャップがあるが故に、絆星は苦しんでいたのではないでしょうか。

ただ、そんな彼も母親が正義を気取る配信者によって暴行を加えられ、血を流し、入院せざるを得なくなった時に何かが吹っ切れてしまいました。

何と言うか、彼は自分で自分自身に「許し」を与えてしまったというような、そんな感じに見えましたね。

それまで、徹底的に加害者だと断罪される側にあった彼が、被害者側に回ったことで、自分の母親に暴行を加えられるというある種の「罰」を加えられたことで、自分自身が「赦された」と錯覚している様でもありました。

ナガ
結局のところ誰が人を裁き、そして赦しを与えるのでしょうか…?

絆星という少年がこれからどんな風に成長していくのか分かりませんが、1つ言えるのは彼が成長したら恐ろしい人間になるということでしょう。

なぜなら彼は自分自身の罪に対して自分で「赦し」を与えてしまう人間になってしまったからです。

「許す」と「赦す」は根本的に意味が異なります。そして「赦し」というのは、「憎しみや怒りの感情から相手に罰を与えたり、復讐したり、償いを求めたりする行動や気持ちの持ち方を放棄する」ことです。

そして「赦し」を与える主体は、キリスト教においては神ですが、人によっても異なるでしょう。

絆星の同級生の1人が必死に樹の亡くなった場所に献花や手紙を供えているシーンがありましたが、彼にとっては「赦し」を与えてくれる主体が樹なんでしょうね。

ただ、反省するに至らなかった絆星にとっては、その主体が自分になってしまったのでしょう。

人は一度犯してしまった罪を取り返すことはできませんし、それによって命が失われたとしたらどんなに願ってもそれが戻って来ることはありません。

そのため、永遠に「赦される」ことはないのかもしれませんね。ただそれでも「赦し」を得たいと願い、行動し続けることがきっと償いなのだと思いました。

裁判の場では、確かに4人の子どもたちは「許された」わけですが、それはあくまでも法律の手続き上の話であり、彼らが「赦された」わけではありません。

それでも絆星は、自ら「赦し」に到達してしまいました。

裁かないということが、そして許してしまうということが人間の「赦し」を捻じ曲げて、価値観や倫理観を完全に破壊してしまいます。

そんな壊れてしまった少年が、将来犯罪を起こしたとして、起きてから嘆いたところでもうどうしようもありません。

そして彼が傷心の呵責を感じることはありません。

「環境の犠牲者としての子ども」という強い信仰が、そして少年審判における「要保護性」の観点が、子どもを守ろうとし過ぎるがあまりに壊してしまうという恐ろしい例を『許された子どもたち』は痛烈な皮肉と共に描き出したと言えるのではないでしょうか。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『許された子どもたち』についてお話してきました。

ナガ
久しぶりの映画観でいきなりこんなドギツイ1本を見るとなかなかに重たかったですね…。

描写の癖も相まって万人に勧められるとは思いませんが、見る価値がある作品ではあると思います。

特に、何か事件が起きた時にインターネット上で個人情報を特定して晒し物にする行為に「正義」を見出してしまっているような人はぜひ見ていただきたいです。

そういったビジランテ的行為が如何に恐ろしいものなのかについてもしっかりと考えさせてくれる1本でした。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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