みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『泣きたい私は猫をかぶる』についてお話していこうと思います。
6月に劇場公開が予定されていた本作が、急遽Netflixでの公開に切り替わったのには、様々な裏事情があるようです。
山本幸治さんが語った生々しい裏話の数々は非常に印象的でした。
とはいえ、僕としては今後状況が悪化していく未来に備え、何かしらの手立てを考えなければいけないと思い動き始めました。
方策を考える中で、ツインエンジンが以前から配信に振り切った戦略を描いていたこともあり、配信会社へのアプローチを始めました。具体的な金額は言えませんが、Netflixから提示されたディールの内容も悪くなかったので、委員会にも納得してもらえたという流れです。
6月に入り、徐々に映画館の営業が再開し、新作も公開され始めていますが、やはり動員の数値は非常に厳しく、この状況では最終興行収入5億円を稼ぐことも夢のまた夢というような状況です。
そう思うと、ツインエンジンが今作を早い段階で、配信にて公開することを決断したのは英断だったと言えるかもしれません。
「Netflixから提示されたディールの内容も悪くなかった」という言葉からも分かるように、正当な対価が払われているわけですから、制作側としても悪くない話でしょうね。
ただ、山本幸治さんが「Netflixは救世主」とまでは思っていませんとおっしゃっているのは印象的で、Netflixは『鬼滅の刃』のアニメシリーズもそうですが、独占契約にこだわるようです。
そういう事情もあり、より多くのプラットフォームで同時に配信される形が望ましいなと私自身も感じましたね。
ただ、Netflixの契約者は非常に多いので、今回配信公開になったことで、より多くの人が鑑賞できるチャンスが生まれたという点は、素直に喜ぶべき点だと感じます。
さて、今回はそんなスタジオコロリド最新作である『泣きたい私は猫をかぶる』についてお話していきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『泣きたい私は猫をかぶる』
あらすじ
笹木美代は、クラスメートの日之出賢人に好意を寄せており、毎日のようにちょっかいをかけていた。
一方で、美代はかつてのお祭りで猫店主から「お面」を受け取っており、そのお面をかけることで真っ白な猫になることができる。
人間の姿の時は、本当の気持ちを巧く伝えられずにつんけんとしている彼女だが、猫の姿の時は賢人から可愛がられており、愛情を受けていた。
美代は母親に出て行かれたという複雑な家庭環境の下に育っており、現在は父の再婚相手が一緒に暮らしているということもあって、家庭に居場所を見出せずにいる。
「愛されたい」と強く願う彼女は必死に賢人にアプローチをかけるが、空回りし、最終的には彼から「大嫌いだ!」と言われてしまう。
家族からも、そして大好きな賢人からも愛されていないと感じた彼女は、家出をしてしまい、その際に「もう人間じゃなくて良いや」と弱い気持ちを表出させてしまう。
その瞬間に猫店主か美代は人間としての「お面」を奪われてしまい、人間の姿に戻れなくなってしまう。
猫になって、人間の言葉が話せなくなって、改めて自分の伝えたい気持ちの存在に気がついた美代は人間の「お面」を取り戻すべく奮闘するのだが…。
スタッフ・キャスト
- 監督:佐藤順一 柴山智隆
- 脚本:岡田麿里
- キャラクターデザイン:池田由美
- 演出:清水勇司
- 撮影監督:松井伸哉
- 編集:西山茂
- 音楽:窪田ミナ
- 主題歌・挿入歌:ヨルシカ
- 制作:スタジオコロリド
監督を『ARIA』シリーズをはじめとして、女性たちの物語を常に新しい視点で描き続けてきた佐藤順一さんが務めます。
そしてスタジオコロリドに所属し、『ペンギンハイウェイ』にも絵コンテで参加した柴山智隆さんが共同監督として名を連ねています。
『三者三葉』の作画監督を務めたことでも知られ、『GRAVITY DAZE The Animation Overture』以降キャラクターデザインを担当することも増えた池田由美さんが、今作のキャラデを担当していますね。
演出には、『ガッチャマンクラウズ インサイト』で作画監督を務めた清水勇司さん、撮影には『狼と香辛料』をはじめ多数作品の撮影を担当した松井伸哉さん、編集には『空の青さを知る人よ』の西山茂さんと実力のあるスタッフが集結しました。
また、劇伴音楽を『マクロスΔ』シリーズの劇伴にも参加した窪田ミナさん、主題歌を男女2人組のロックバンドで今絶大な人気を誇るヨルシカが手がけました。
- 笹木美代:志田未来
- 日之出賢人:花江夏樹
- 深瀬頼子:寿美菜子
- 伊佐美正道:小野賢章
- 坂口智也:浪川大輔
- 楠木先生:小木博明
- 猫店主:山寺宏一
志田未来さんは『借りぐらしのアリエッティ』などのジブリ作品でも主演を務めた経験がありますよね。
そのためボイスアクトの面では申し分のない実力者であり、それでいて良い意味で「本職の声優っぽくない」自然な演技が期待できるので、今回の抜擢は好印象です。
敢えて本職ではない声優を起用することで、掛け合いにアクセントが生まれ、独特な化学変化をもたらしてくれるので、その点も注目したいところですね。
脇を固めるキャスト陣は超豪華で、花江夏樹さん、寿美菜子さん、小野賢章さんといった人気声優から、山寺宏一さんのような大御所まで幅広い年代の実力派が集結しました。
芸人である小木博明さんが、どんな演技を見せてくれるのかにも期待してしまいます。
『泣きたい私は猫をかぶる』感想・解説(ネタバレあり)
誰にも奪えないあなたの居場所
最近SNSでもテレビでも、どこを見回しても猫の写真や動画が溢れていますよね。
見ているだけで癒されて、あんなにバズりまくって…そして飼い主からの寵愛を受けて…。そして人間のように面倒なこともなくて。
ああ猫になりたいと、そう思ったことがないと言えば嘘になるかもしれません。
閑話休題、今作において重要なのは「居場所」という考え方でしょうか。
誰にだって居場所はあるというのは、当たり前のことなのかもしれませんが、それが自分にもあると感じたり、思った利するのは、意外と難しいものです。
学校でも、職場でも、どんな場所だってそうですが、自分は誰からも気に留められていない、価値のない存在なんだと感じ、ふわっと消えてしまったところで、誰も気に留めてくれないのではないかという不安は、きっと誰しもが抱えたことのある感情でしょう。
現代というのは、人工知能が人間にとって代わるなんてトピックも話題になりましたが、1人1人の人間というものがどんどんと「代替可能な」存在になっていく時代なのかもしれません。
あなたにできることは、他の人にだってできるし、もっと言うなれば人工知能にだってできると言われてしまえば、自分の存在意義って何なのだろうかと思わずにはいられないでしょう。
そうやって、すぐに他人にとって代わられてしまうような、不確かで不安定な場所に自分が立っているのだと思うと、やっぱりどうしたって苦しいと思います。
笹木美代は、母親に捨てられてしまったというトラウマを抱えているわけですが、その一件以降、学校でもいじめを受けるようになり、自分の「居場所」なんてどこにもないのだと錯覚するようになっていました。
彼女の内包する人一倍の愛情への渇望は、自分の「居場所」を認めてくれる存在が欲しいというある種の承認欲求だったのでしょう。
とりわけ彼女が求めていたのは、日之出賢人からの愛情でした。
序盤の心情のモノローグで彼女は、「早く彼と結婚して家を出たい」と語っていましたが、このセリフは実に象徴的です。
このセリフには、彼女が父親とその再婚相手が暮らす自宅に居場所がないという諦念と賢人に自分の「居場所」になって欲しいという願いが込められています。
しかし、彼女は賢人に自分の本心を伝えた時に、強い言葉で拒絶されてしまいます。この言葉がトリガーとなり、彼女は「笹木美代」という人間としての居場所はどこにもないと感じ取ったのかもしれません。
一方で、彼女は白猫の「太郎」として賢人からの愛情を受けており、猫の自分だったら彼から居場所を与えてもらえるのだと一瞬幻想を抱いてしまったのでしょう。
そうして家出をし、さらには頼子が寵愛していた猫のきなこに自分の人間としての「お面」を奪われてしまうわけですが、そうして彼女は初めて自分にも「居場所」があったのだと気がつかされます。
「戻ってきて欲しい」という気持ちを誰かから抱かれるのは、あなたに「居場所=戻るべき場所」があるからでもありますよね。
それは、美代だけでなく、猫のきなこも同様です。彼女は猫としてではどうやっても達成できない、飼い主と長く一緒に居たいという願いを果たそうとしていましたが、結果的に頼子が待っていたのは、どこまでも猫としてのきなこでした。
どんなに自分には価値がないと思えても、それでも、あなたは自分が思っているよりもずっと、誰かに思われているんだという優しさをぎゅっと詰め込んだファンタジーに思わず心が温かくなりました。
見上げる、見下ろす、そして見つめる
今作『泣きたい私は猫をかぶる』の人物の動きには、ある一連の象徴性が宿っています。
それは「見上げる」「見下ろす」「見つめる(平行)」の3つのパターンでキャラクターの視線が交錯するように作られている点ですね。
まず、太郎と賢人の掛け合いで言うと、猫と人間なので、太郎が見上げる、賢人が見下ろすの構図が多くなります。
(C)2020 「泣きたい私は猫をかぶる」製作委員会
賢人にとって太郎という猫は、今は亡き大切な飼い犬の「代わり」でもあり、とても大切な存在です。
一方で、この時に見上げている太郎にとっての彼は自分の居場所になってくれるある種の「太陽」のような存在なのでしょう。
一方の、美代と賢人の関係性で紐解くと、彼女が見下ろす、彼が見上げるという構図が圧倒的に多いことに気がつかされます。
(C)2020 「泣きたい私は猫をかぶる」製作委員会
それは、言葉にこそしませんが賢人にとっては美代が太陽のような存在であるというコンテクストが反映されているからでしょう。
彼らはお互いがお互いを照らす太陽なのですが、このように微妙に視線が噛み合っておらず、すれ違いを繰り返しているわけです。
面白いのは、序盤から中盤にかけて何度か「見つめる(平行)」の視線の描写はあるのですが、これらはどれも上手くいかなかったり、フィクションであったりしています。
彼女が夜の工房で賢人に会った時の妄想、教室で美代が手紙で彼に告白したとき、賢人が「好き!」という言葉を口にして声が裏返ったとき、これらのシーンでは「見つめる(平行)」の視線が用いられていましたが、どれもすれ違っています。
そんな視線の物語として『泣きたい私は猫をかぶる』を読み解いた時に、重要な転換点となるのは、猫店主と対峙したときに、賢人と美代(猫の姿)がともに空を見つめるシーンです。
賢人にとっての見上げる視線は美代への視線であり、猫の姿をした美代の太郎としての見上げる視線の先には賢人がいます。
つまり、この時彼らは初めて「見上げる」という行為を通じて、視線を交わすことができたんですよ。
そして、何とか猫の世界から脱出し、2人は人間の世界に戻り、そして人間の姿を取り戻します。
朝焼けの中に静かに消えていく大きな世界樹…。
そうして2人は初めて同じ視線の高さで、お互いのことを見つめ合うのです。
(C)2020 「泣きたい私は猫をかぶる」製作委員会
このシーンはヨルシカさんの挿入歌も相まって鳥肌が立ちましたね。
視線というものは、映画において常に重要な意味を孕んでいますが、今作『泣きたい私は猫をかぶる』は丁寧に見上げる、見下ろす動作を重ねていき、最後に「見つめる」というところに美しく着地させて見せました。
愛そうとしなければ愛されないということ
本作の大筋はやはり主人公2人の恋愛譚です。
主人公の美代は母親が幼少期に自分を置いて出て行ってしまったことを根に持っており、自分は誰からも愛されないのではないかという諦念を抱いています。
そんな彼女が現実に折り合いをつけるためにやっているのが、他人を自分に関係のない存在だと割り切り、「愛情を期待しない」ことなんですよね。
美代のイメージの映像の中では、しばしば他人が「案山子」として登場しますが、彼らは自分に愛情を注ぐこともなければ、何の関心も持っていません。
しかし、愛情を期待して裏切られることがない分、少しだけ心が軽くなるように感じられるんですよ。
また、愛される為に自分自身も「仮面」を被らざるを得ない時があります。
ペルソナ(仮面)とは、心理学的に言えば自己の外的側面であり、言わば自分が社会に適応するための顔と言えるでしょう。
賢人は父親が早逝していることもあり、母親から「一家の大黒柱」となることを早くから期待されており、それ故に陶芸家になりたいという自分の夢を口に出すことができません。
勉強をして、良い高校に進学して、大学に進学して、就職して…そんな人生を誰からも期待されていると感じているからこそ、彼は「仮面」を被らなければなりませんでした。
一方の美代は本当は暗い感情を抱えており、人一倍愛情に渇望して悩んでいるわけですが、それを見せまいと気丈に明るく振舞っているのです。
とりわけ賢人の前では、暗く弱い自分を必死に振り払うかのような「から元気」を披露しているわけですが、それらはいつもどこか空回りしていますね。
そんな彼女の社会に適応するための「仮面=ペルソナ」が剥がれ落ちるのが、まさしく教室で彼に「大嫌いだ」と言われた時でしょう。
(C)2020 「泣きたい私は猫をかぶる」製作委員会
顔では必死に笑おうとしているのに、その内側からどうしようもなく涙が溢れ出してしまうという、「泣き笑い」の表情は、彼女の「仮面」が脆くも崩れ落ちようとしている瞬間を見事に表現していました。
しかし、そんな2人の恋愛譚が進行するトリガーとなるのは、お互いの「仮面の内側」を知ることでした。
美代はクールに振舞い、勉強も何でもこなせてしまう努力家の賢人にも実は弱い一面があり、そして自分のことを憎からず思ってくれているということを知りました。
一方の賢人も彼女の笑顔の内に隠された弱い一面や、それでも自分を元気づけようと振舞ってくれていたことに気がつき、心情が変化していきます。
物語の終盤に、猫の世界から脱出した2人の「仮面」が剥がれ落ち、静かに消えていくシーンがありました。
その直前のセリフも非常に重要です。
「いろんな顔のムゲが見たい。笑っている顔だけじゃなくて、怒ってる顔とか、わがまま言ってる時の顔とか…。」
「そんな顔見せて、日之出は私のこと嫌いにならないの?」
「そんで、猫じゃないムゲにちゃんと好きって言いたいんだ。そんで笑っている顔がまた見たい。」
「私も見たい。日之出のちっちゃい子みたいな笑顔。ちゃんと言いたい。あなたのことが好きだって。言われたいんじゃなくて。言いたい。」
(『泣きたい私は猫をかぶる』より引用)
ペルソナというのは、周囲に自分を適応させるためのものであり、これって言わば他者から求められる自分を演じることなんですよね。
つまり、美代の当初の願望である彼から好きと言われたいという受け身的な欲求を実現させるためには、彼が求める「仮面」を纏う必要があったわけです。
しかし、彼らはもうお互いのどんな表情も仕草も、愛おしいのであり、きっと受け入れられることでしょう。
だからこそ彼らは「仮面」を脱ぎ捨て、そして「好きだと言われること」ではなく自分から「好きと伝える」ことを望むんですよ。
誰かから望まれる自分になろうとし過ぎるがあまり、疲弊するのではなく、自分がありのままを曝け出し、そして主体的に「受け入れられようとすること」こそが大切なのです。
「仮面」というモチーフは「守り」や「受け身」といったイメージを内包しています。
それらを脱ぎ捨て、愛されようとするのではなく、主体的に愛そうとし始めるに至るプロセスをファンタジーを交えつつ見事に演出した作品だったと言えるのではないでしょうか。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『泣きたい私は猫をかぶる』についてお話してきました。
個人的には、美代が人間の身体に戻れなくなってしまった後の後悔や絶望は、もう少し強めに演出しておいて欲しかったと感じています。
あまりウェットに演出しすぎるのも良くないとは思いますが、人間に戻れないという事象に対する危機感が今一つ漂わないので、彼女がこのままだと彼に思いを伝えられないんだという状況に対して情が乗らない部分がありました。
また、ファンタジー要素を盛り込むにしては、異世界の描写がすごく甘いのが気になります。
作品の終盤に美代が「向こうの世界の人もずっと幸せで暮らしてくれていたら良いなぁ」と発言する一幕がありましたが、ファンタジー世界の掘り下げが皆無すぎて、この言葉に何の共感も抱きません。
ここは、正直ファンタジー世界を扱った作品としては致命的な落ち度だと思いますので、少し勿体なく感じました。
もうちょっと上映時間を伸ばして、猫の世界のパートを描き切れていれば、今作に対する思い入れも変わってきたのかなと思います。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。