みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『アングスト不安』についてお話していこうと思います。
この作品は、1980年にオーストリアで実際に起きたベルナー・クニーセクによる一家惨殺事件を題材にして作られたと言われています。
アルトレイター家に侵入した彼は、飼い猫を皮切りにして、3人の住人を次々に拷問の後に殺害するという蛮行を犯しました。
殺害するだけであれば、よくある強盗殺人なのかなとも思うのですが、その殺害の方法も残忍でかつ、殺害後に遺体だらけの家で一晩を過ごすという異常性も見せたと言います。
ウィーンの精神科へ転送され、その後終身刑を言い渡され、今も収監されているとのことですが、何度か脱走を試みたこともあるんだとか…。
今作は、日本でも一度『鮮血と絶叫のメロディ 引き裂かれた夜』というタイトルでセル版が発売されていたようですが、その内容の過激さゆえに上映やセル版の販売を中止する国もあったと言われています。
昨年公開された映画で言うと『ハウスジャックビルト』に近い内容なのかなと思いますが、実際の事件を題材にしているのが余計に恐ろしいですよね…。
しかも、起きてからわずか3年の猟奇殺人事件を映画にしてしまうというところに、狂気を感じます。
今回はそんな映画『アングスト不安』について自分なりに感じたことや考えたことを綴っていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
映画『アングスト不安』
あらすじ
殺人鬼のKはいきなり家に押し入り、70代の女優を殺害したことで10年間の禁固刑に処されていた。
Kは精神鑑定医に手紙を書き、自分にはサディストの気質があり、精神病患者だから「責任能力が欠如している」と診断書を書いて欲しいと懇願します。
しかし、精神鑑定医は「サディスト=精神疾患」ではなく、彼は責任能力がないように装っているにすぎないとして診断書を書きませんでした。
Kは、幼少の頃に叔父からしつけという名の虐待を受けており、さらにはマゾヒストのおばさんからサディスティックな行為を強要され、次第に気が狂っていった。
ある日、母親に対して強い苛立ちを感じた彼は、ナイフでめった刺しにして殺害してしまう。
そうして彼は、身の回りの生き物や人間を苦しめたい、死の恐怖に怯えさせたい、そして最終的には殺害したいという耐えがたい衝動に駆られるようになったのでした。
そして、10年の禁固刑を終えたKは、すぐに不安を抑えられなくなり、自分の獲物になりそうな人間を物色し始めます。
そんな彼が見つけたのは、人気のない森の中にぽつんと佇む一軒の豪邸。
そこには、母とその息子と娘が3人で暮らしていた。
自分のサディスト的欲望を充足させる上で、この上ない条件がそろっていると感じた彼は、窓ガラスを割って家に侵入するのだが…。
スタッフ・キャスト
監督:ジェラルド・カーグル
撮影:ズビグニェフ・リプチンスキ
編集:ズビグニェフ・リプチンスキ
音楽:クラウス・シュルツ
監督のジェラルド・カーグルは今作を撮影した後に、テレビ業界の方に転身したため、長編映画を撮ることはなかったようです。
ただ、今作『アングスト不安』がセンセーショナルな内容であり、映画的にも優れていたことから『カルネ』のギャスパー・ノエなどは多大な影響を受けたと語っています。
撮影にはズビグニェフ・リプチンスキ、劇伴音楽にはクラウス・シュルツがそれぞれクレジットされています。
前者はミュージシャンとしても活躍しており、後者はMV監督として知られていますね。
K:アーウィン・レダー
娘:シルヴィア・ラベンレイター
母親:エディット・ロゼット
息子:ルドルフ・ゲッツ
もちろん映画化から3年前に起きた事件の映画ですから実名を出すわけにもいかず、キャスト名は基本的に続柄で表記されていたり、主人公については「K」とイニシャルのみになっていたりします。
ちなみに主演のアーウィン・レダーは『アンダーワールド』や『Uボート』などの名作にも出演しており、オーストリア人俳優としてはかなり有名ですね。
それにしても、ここまでいかれた演技を披露できてしまう才能に、驚愕しましたね。あまりにもぶっ飛んでいました。
その他の3人については長編映画にはほとんど出演していないという印象を受けます。
映画『アングスト不安』感想・解説(ネタバレあり)
この映画はホラー映画ではない
当ブログ管理人が訪れた劇場でも、1日2回の上映が満席になっており、直前に座席を押さえようとやってきた人たちがうなだれて帰っていくケースを何度も目撃しました。
過去作のリバイバル上映でありながら、ここまで話題になるのは異例だと思いますし、『アングスト不安』はそれだけ注目度が高い作品なのでしょう。
ただ、見終わった後に「なんだこの映画」「くそ映画じゃん」「えっ、これだけ?」「全然ホラーじゃないじゃん!」という捨て台詞を吐きながら帰っていく方が非常に多かったんですよね。
そういう声を聴きながら感じたのは、多くの人に対してこの映画が「ホラー映画」なのだと勘違いされており、ある種の「怖いもの見たさ」と「度胸試し」のために見に来ている人が多いのだという実態です。
もちろん、そうしたお客さんが集まることで映画館という場がにぎわっているのは喜ばしいことですし、映画好きの1人として嬉しく思います。
しかし、作品の趣旨が勘違いされており、そのずれた先入観に基づいて作品が不当に貶されてしまうのは、少し残念にも感じられます。
ですので、今回は映画を見る前の方にも、そして見た後の方にも読んでいただけるものとして、自分なりにこの映画が「気持ち悪い」と感じるに至る理由を考察してみました。
この映画がなぜ「気持ち悪い」のか?
さて、今回は3つの視点から今作の異常なまでの気持ち悪さについて考えていこうと思います。
おそらく『アングスト不安』はホラー映画だと思ってみてしまうと、物足りないですし、映画としてもいわゆるB級・C級に分類されるようなテイストです。
ただ、この作品には恐ろしいまでにピュアな狂気と不快感が内包されています。
ぜひ、今作をご覧になる方には、それを感じていただけたらと思っている次第です。
シリアルキラーの抱く「不安」を体験できてしまう
(C)1983 Gerald Kargl Ges.m.b.H. Filmproduktion
基本的に殺人鬼が登場するホラー映画って、視点が「追われる側」に置かれていますよね。
例えば、老人の家に強盗に入ったら、その家の主人が盲目の退役軍人であり、めちゃめちゃ強かったというプロットの『ドントブリーズ』というホラー映画がありますが、これも老人から追われる側に視点があるので怖いんですよ。
このタイプのホラー映画は、観客を「追われる側」と同じ立場におくことによって、自分も追われている、追い詰められているような気持になるというシチュエーションを楽しむものです。
おそらく『アングスト不安』を映画館に見に来て、「なんだホラー映画じゃないじゃん!」と大きな声で愚痴ってしまう方が想像していたのは、こういった作品なのでしょう。
一方で、シリアルキラーものと言えば、昨年公開されたラースフォントリアー監督の『ハウスジャックビルト』が素晴らしい出来でした。
この映画はプロットだけを見るなら『アングスト不安』に非常に似ているとは思います。
しかし、シリアルキラーと観客の距離感の撮り方が全く異なるんですよね。
『ハウスジャックビルト』の主人公ジャックは、潔癖症で完全主義者であり、それ故に殺人に対してすごく独特な執着心を見せます。そこには彼なりの美学があるからです。
この作品では、ジャックを観客から遠いものとして描写していて、観客はある程度彼の行為を客観的に見られるように作られています。
つまるところ、『ハウスジャックビルト』はジャックの殺人に対する美学を客観的に見るというある種の芸術観商行為になっているわけです。
ただ、『アングスト不安』はそうではありません。
シリアルキラーに焦点を当てているという点では同じなのですが、観客を主人公のKに共鳴させたり、同化させたりするようなアプローチをかけているのが、衝撃的であり、この上ない「気持ち悪さ」を生んでいるのです。
後の章で解説するカメラワークやライティングなんかもそうですが、徹底的に観客に不安と不快感を与える映画としての演出が、見事にKの不安衝動にリンクしています。
断裂する編集、繋がらないシーン、セリフと行動の乖離…主人公の頭の中で起きている思考の「分裂」を映画体験として、自らの身体をもって得られてしまうという恐ろしい作品なんですよ。
映画を見終わった後に、私自身もそうですが、「吐きそう…」とコメントしていた観客の方がいて、その気持ちはすごく分かります。
『アングスト不安』を見ていると、強制的に自分の思考回路をKの思考回路にリンクさせられてしまうんですよね。
そして、その分裂性、異常性、残虐性を「自分事」として体感できてしまうので、気が狂ってしまいそうになるのです。
この映画の恐ろしさや気持ち悪さは、シリアルキラーに追われることやシリアルキラーの殺人を客観的に見ることによって生じているものではありません。
シリアルキラーに自らが強制的に「共鳴」させられてしまうことから生じる根源的な嫌悪感なのです。
観客を不快にするために計算された「不協和音」
(C)1983 Gerald Kargl Ges.m.b.H. Filmproduktion
人によって様々な作品が挙がることと思いますが、おそらく多くの人が挙げるのは「内容が気持ち悪い映画」だと思うんですね。
ちなみに当ブログ管理人がダントツで気持ち悪かったのは『ムカデ人間2』です。
この映画だけは、もう1回見てくれと言われたら発狂しますし、知り合いの勧めで白黒の劇場公開版ではなくて、リマスターのカラーバージョンを見た時は軽く吐きました。
ただ、そんな『ムカデ人間2』であっても映画としてはきちんとセオリーに則って作られていますし、その根幹の部分が脱線しているとは感じませんでした。
しかし、『アングスト不安』は内容の気持ち悪さは、正直ほどほどだったりします。
確かにKが、次々に人を殺害して、その死体を雑に扱って…とかなり残忍な描写が連続するのですが、これが他のいわゆる「気持ち悪い映画」たちと比べて傑出しているかと聞かれると、そうではありません。
これが、劇場に足を運んだ人に肩透かしを食らわせてしまうもう1つの大きな要因なのかもしれませんね。
では、『アングスト不安』の気持ち悪さがどこに内包されているのかと言いますと、それは映画としての作りそれ自体なのです。
おそらく、この映画は映画をある程度見てきて、映画における撮影、ライティング、編集…といった要素のセオリーをある程度分かっている人の方が気持ち悪く感じられると思うんですよ。
なぜなら、そういう自分の中にある映画の定石を丸ごとひっくり返されてしまうからです。
映画って「和音の芸術」だと思っていて、脚本や演技、撮影、照明、編集、劇伴音楽といったあらゆる要素がかけ合わさって1つのハーモニーを完成させるとき、初めて観客の心を動かします。
そしてその諸要素の重なりが美しければ美しいほどに映画としての完成度は高くなっていくのではないでしょうか。
先ほど引用した『ハウスジャックビルト』もあくまでもジャックの美学を描くための映画になっているので、その方向に演出の統一性は取れています。
それ故に、映画という枠組みそのものに対して「気持ち悪さ」を感じることはありません。
ただ、『アングスト不安』は極めて意図的に映画の諸要素に「ズレ」を生じさせることで、「不協和音」を作り出しています。
例えばですが、みなさんは一定のリズムでドラムのビートが刻まれているところに、突然違うリズムないしテンポのドラム音が介入してくると、当然そちらに意識が向きますよね。
これは人間の脳の作りからしても当然の働きですし、一定のリズムが維持されているところに、異質なものが混ざれば、それに対して違和感を感じるのは、普通に考えて当然です。
映画では、何か強調したいことがある時に、時折こうしたリズムやテンポの変化をつけることで、観客の注意を向けさせるというアプローチを取ることがあります。
例えば、アピチャッポン・ウィーラセタクンの『ブンミおじさんの森』という作品では、映画の終盤に突如として静止画(写真)のスライドショーが盛り込まれ、映像から静止画へという転調が起こります。
監督は、この演出について観客の目を向けさせるためだと明言していました。
このように「ズレ」は上手く使うことで、映画における緩急をつけることに繋がるのですが、『アングスト不安』はそういった「ズレ」が最初から最後まで断続的に起きていて、見ていると気が狂いそうになります。
まず、撮影が本当に意味不明です。アングルは自由自在ですし、意図の分からないクレーンショットが頻発し、イマジナリーラインはあってないようなものと言った具合に、映画的文法などどこ吹く風な映像が連続します。
そしてそこにかけ合わさっていく、ライティングや編集、録音、劇伴音楽、登場人物の演技が絶妙に「ズレ」を生じさせていきます。
ライティングにおいては、例えば奇妙な光の点滅が繰り返されたり、夜のシーンからいきなり朝の日光ギラギラのシーンに飛んで観客の視力を攻撃したりと、頭がおかしくなるような演出が連発していました。
そこに効果音と劇伴音楽、そして登場人物の行動が絡んできますが、これらもまた絶妙に噛み合っていません。
例えば効果音(録音)が「トン トン トン」というリズムでつけられているのに対して劇伴音楽は「ドンガチャドンガチャドンガチャ」と違うリズムを刻み、さらに登場人物は「ブルブルブルブルブルブル」といった謎の振動を繰り返しているという具合の異なるリズムの混在が映画の中で頻発しています。
しかも、編集は時間の流れを完全に無視しているために、完全に「分裂」しており、さらにはジャンプカットを頭がおかしくなるくらいに多用するので、「気持ち悪さ」が尋常ではありません。
このように『アングスト不安』は映画における諸要素を徹底的に噛み合わないように計算し、それによって気が狂いそうになる映像の世界観を作り上げているのです。
正直、この作品の「気持ち悪さ」の際たる部分はこれだと思っています。
意味の分からないシーンのチョイス
そして、もう1つ個人的にこの映画の「気持ち悪さ」の構築に一役買っていると感じたのは、シーンのチョイスですね。
この手の映画は「残虐描写」「ゴア描写」的な部分で注目されるケースがほとんどですが、『アングスト不安』はそれ以外の部分で不快感を連発するようなシーンを多く取り入れています。
まず、序盤のKがソーセージを食べるシーンなんて、どんな神経をしてたら、こんな映像を映画に取り入れようと思うのかが理解できません。
(C)1983 Gerald Kargl Ges.m.b.H. Filmproduktion
彼がソーセージを食べている口元とカフェに座っている女性の唇を交互に編集で繋いでいるのですが、あまりにも口元をクローズアップショットで捉えすぎていて、もはや何を映しているのかが分からないレベルです。
そして、ただただ彼が獣のようにソーセージを食べている咀嚼音だけが劇場に響き渡り、生理的な気持ち悪さを醸成しています。
また、彼が犯行現場となる自宅に辿り着いたシーンでは、彼が偵察のために自宅の周りをぐるりと回る描写を2回インサートしているんですよね。
普通映画において、1度提示された情報を、全く同じ形でもう1回提示するということは回想は別としてやりません。
ただ、今作においてはKが邸宅の周りを何かに怯えている、もしくは興奮を隠しきれないような様子で歩くシーンを家2周分わざわざ描いているんです。
加えて、主人公の顔から肩にかけてのクローズアップショットが異常に多いのも衝撃的でした。
普通、追う側と追われる画を描写する時って、その位置関係を捉えることに重きを置くと思うんですよ。
なぜなら、迫ってきていることに対して恐怖を感じるのであり、逆に遠くにいてくれれば安心感を感じることができます。
しかし、『アングスト不安』はそんなセオリーは完全に無視していて、チェイスのシーンでもひたすら主人公の顔をクローズアップで映したりなどしているので、一体彼が今あの邸宅のどこを走っていて、誰を追っていて、その相手とどれくらいの距離感なのかと言った視覚的な情報が排除されています。
あとは、個人的になぜそんなアングルから撮ったんだ…と思ったのは、Kが息子を風呂に沈めるシーンですね。
(C)1983 Gerald Kargl Ges.m.b.H. Filmproduktion
状況のカットはある程度インサートされていましたが、その一方で水の中からのアングルのシーンを取り入れてあるんですよ。
これが本当に意味が分からないというか、何が起きているかわからなすぎる映像を挟んでいるという点で、気持ち悪さを感じました。
多くの映画は、視覚的な情報そのもののインパクトでもって、観客に「気持ち悪さ」を植えつけていると思います。
しかし、『アングスト不安』は視覚的な情報の提示の仕方によって観客に居心地の悪さと気持ち悪さを体感させる異次元の映像作品なのです。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『アングスト不安』についてお話してきました。
見た目がえぐい、グロいといった分かりやすい狂気ではなくて、もっと映画としての根幹の部分をグラグラに揺さぶってくるような根源的な「気持ち悪さ」に衝撃を受けました。
先ほども書きましたが、あくまでもこの映画はホラー映画ではありません。そしてシリアルキラーに追われるパニック映画ではありません。また『ハウスジャックビルト』のようなシリアルキラーに魅せられる映画でもありません。
この作品は、シリアルキラーに共鳴し、その思考回路を「自分事」に感じられてしまう恐ろしい映画なのです。
その点を理解した上で、鑑賞して欲しいとは思ってしまいますし、肩透かしを食らった人にはぜひその視点で映画を振り返って見ていただきたいと思っています。
興味本位で見に行って気分が悪くなっても責任は取れないので、正直、あまりおすすめはできないというか…。
もし、どうしても見ておきたいという方は見ておいても良いと思いますし、この映画の狂気を体験するには映画館の環境がベストです。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。