みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『性の劇薬』についてお話していこうと思います。
過激な監禁・SM・調教を描きネット上でも話題になった電子コミックス原作で制作された映画ということです。
今作が劇場で上映されていたことは知っていたのですが、当ブログ管理人、不覚にも日和ってしまいました。
というのも以前に『同級生』という男性同士の恋愛を描いたアニメ映画を映画館に見に行ったことがあるのですが、男性のお客さんはまずいなくて、見渡す限り女性で座席が埋め尽くされておりました。
この雰囲気に勝手にアウェー感を感じてしまったことが自分の中に記憶として鮮明に残っていたこともあり、今回気になってはいたのですが、劇場に足が伸びなかったわけです。
今回Netflixにて、本作の配信がスタートしたということで、ありがたく鑑賞させていただきましたが、これほどの出来なのであれば、劇場に足を運んでおくべきだったと後悔しています。
今作『性の劇薬』はBL云々を抜きにして、ヒューマンドラマとして非常に良く出来ていますし、単に読者の性的な関心を煽るためだけに「監禁・調教」といった過激な設定が持ち込まれているわけではないことが分かります。
男性同士の関係のその先にある「生と死」という根源的なテーマをえ、まさに「劇薬」と評するにふさわしい作劇の中で、徹底的に描き込みました。
それ故に、性的志向を超えて訴えかけてくるものがある作品に仕上がっているのだと痛感しましたね。
今回はそんな映画『性の劇薬』について自分なりに感じたことや考えたことを綴っていきたいと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『性の劇薬』
あらすじ
エリートサラリーマンの桂木は仕事は順調で、恋人との関係も良好と順風満帆な人生を送っていた。
しかし、自分が親孝行のつもりで勧めた旅行が契機となり、両親が命を落としてしまう。
両親の死に強い罪悪感と後悔を抱いた桂木は、仕事を長期で無断欠勤し、さらには愛する彼女を同僚に奪われてしまうのだった。
もはや、生きることに未練はないとビルの屋上へと駆け上がった彼は、そこから飛び降りようと試みる。
そこに現れたのは、余田という男で、桂木は彼から「捨てるならば、その命を俺に寄こせ」と告げられ、意識を失った。
目が覚めると、桂木は手足を拘束され、さらには監禁されているという状態であった。
余田は彼に徹底的に性的な快楽を与えることで、彼に「生の本能」を取り戻させようと試みる。
必死に抵抗していた桂木だったが、徐々にその快楽に取り込まれていく…。
一方で、外科医として活躍する余田にも忘れられない「大切な人の死」があり…。
スタッフ・キャスト
- 監督:城定秀夫
- 原作:水田ゆき
- 脚本:城定秀夫
- 撮影:飯沼栄治
- 照明:守利賢一
- 編集:城定秀夫
- 音楽:林魏堂
『性の劇薬』は、『悦楽交差点』や『恋の豚』などの作品を手掛けてきた城定秀夫監督の作品となっております。
この手のピンク映画を手掛けることが多いのですが、その一方で一般映画を手掛けることもあるようで、今年の夏には監督を務めた『アルプススタンドのはしの方』が公開されます。
また、今回の『性の劇薬』に関しては脚本と編集もご自身で担当されていますね。
そして後ほど解説を加えますが、撮影には飯沼栄治さん、照明には守利賢一さんが起用されており、映像作品としても非常に素晴らしい仕上がりになっていました。
劇伴音楽には『悦楽交差点』や『恋の豚』にも楽曲を提供した林魏堂さんが起用されましたね。
- 余田龍二:北代高士
- 桂木誠:渡邊将
- 中島:千葉誠樹
- 綾香:階戸瑠李
主人公の余田と桂木をそれぞれ北代高士さんと渡邊将さんが演じられました。
城定秀夫監督はインタビューの中で 「せっかく前例のないR18+のBL映画をやるなら、 名のある役者を起用してぬるくやるより、 オーディションで渡邊くんのような新人を起用して、 とことんやりたいとは最初から思っていました。」なんて語っていたようです。
渡邊将さんの初々しい魅力もそうですが、その一方で北代高士さんの役への真摯な向き合い方も素晴らしかったですね。
特に映画のラストでは、5分以上にわたる2人の情事のシーンが描かれますが、並大抵の向き合い方では演じられない描写だと思っています。
物語に入り込み、役を自分に憑依させて、真剣に今作の「死と生」のテーマに向き合ったからこそ、あれだけのものが映像に残っているのだと感じますね。
『性の劇薬』感想・解説(ネタバレあり)
過激すぎる題材と設定を「消費」するのではなく「昇華」させた!
(C)2019フューチャーコミックス
映画でもアニメでもそうですが、「過激な描写」を売りにする作品って少なからず存在しています。
アニメだと『School Days』の最終回の過激描写は有名ですが、あの作品も全12話にわたってきちんと物語があるにも関わらず、結局多くの人が知っているのは最終回の鮮血の結末だけだったりします。
閑話休題、性的ないし暴力的な題材は、あまりにも過激にしすぎると、その「過激さ」が視覚的に消費されてしまう傾向があると思っています。
つまり、作品のテーマ性や物語よりも「視覚的な過激さ」で観客の興味を引くだけの作品になってしまい、安易に消費されるだけの作品になりかねないというわけです。
もちろん映画やアニメは視覚志向のメディアですから、そういう傾向を「悪い」と一概に断罪することはできません。
ただ、今作『性の劇薬』のような「監禁・拘束・快楽堕ち」って個人的には同人誌界隈の文化みたいなところがあると思っていて、性的な興味や欲求を満たすためだけの「過激さ」を内包した描写だと感じていました。
そのため、『性の劇薬』が「監禁・拘束・快楽堕ち」という設定を映画の中に持ち込んだときに、単にそういった「過激さ」でファンを獲得し、安易に消費されてしまうのではないかという懸念も持っていたんですね。
しかし、今作はスタッフが題材ないし物語や主題に真摯に向き合って作られたことで、過激な描写や設定がそれらに寄与する形で作品の中できちんと機能しているんですよ。
この物語を、テーマを描くために「監禁・拘束・快楽堕ち」的な描写が必要だったという説得力があるんですよね。
本作、『性の劇薬』の根底にあるのは、人間の「死と生」に関するテーマでもあります。
主人公の余田と桂木は、どちらも自分の大切な人を失ったことで、「死」に強い引力を感じていました。
桂木は、ビルから飛び降りて自殺しようとしたことで余田に拘束・監禁され、ひたすらに快楽を与えられ続ける生活を強いられます。
その中で、彼はこれまでに味わったことのない快感を経験することになり、そのプロセスの中で、苦しんできた記憶や悲しい記憶が思い出しました。
最初は、監禁生活がどこか「夢」ではないかと感じていた彼は、次第にそれを「現実」だと認識するようになり、逆に自分の記憶の断片たちが「夢」だったのではないかとすら思うようになるのです。
この「夢」と「現実」のスワップを描くという意味でも、「監禁・拘束」という浮世離れした過激な設定が必要だったと言えるでしょう。
また、快楽ないし性的な興奮というものは、人間にとって非常に大きな生のへ「引力」になるものですよね。そして、それは時に死への「引力」を超越しうる可能性を秘めています。
このように、『性の劇薬』は「監禁・拘束・快楽堕ち」という設定を観客に視覚的に消費させてしまうのではなく、登場人物の「生」への本能の目覚めのトリガーとして機能させ、物語と主題に寄与させ、「昇華」させているわけです。
反転する物語構造の妙
(C)2019フューチャーコミックス
興味深いのは、本作は前半で明白に桂木を主人公に据えた作劇をしているのですが、後半に入ると一転して余田にスポットが当たります。
彼もまた、同僚で恋人だった男性を失っており、その死に対して強い罪悪感と後悔を感じています。
そもそも、彼が桂木を助けたのは、自分の大切な人の面影を感じたからであり、そんな人間が今度こそ死んではいけないと感じたからでしたよね。
つまり、余田は桂木を救うという行為を通じて、彼に強烈な「生への渇望」を植えつけることで、自殺してしまった最愛の人への贖罪をしようとしていたのでしょう。
そうして桂木を解放し、余田は1人佇み、海の向こうに最愛の人の姿を見て、自らも「死」を選び、彼の下へと行こうとしました。
それを引き止めるのが、そんな最愛の人の面影を宿した桂木だったという展開には、思わず胸が熱くなりましたね…。
もちろんこの時点では、余田はまだ彼のことを「かつての大切な人」のオルタナティブとして見ていないでしょう。
時を超えて、「生」きさせることに成功した「大切な人」が死に至ろうとする自分のことを救ってくれた…。
しかし、本作のラストシーンの情事の場面では、そんな2人の関係性を明確に打破する描写がインサートされています。
そうして、かつての大切な人が作り出す「死」の引力から解放された余田は激しく「桂木誠」を求めるようになりました。
このように、本作は前半と後半である種の物語の反転をさせることで、2人の「死」に惹かれる人間が「生」を渇望するようになるまでのプロセスを描いています。
そして何よりも素晴らしいのが、余田と桂木がお互いがお互いにとっての「生」への引力となる関係性を作り出したことではないでしょうか。
両親や最愛の人の「死」の記憶が消えることはないでしょうし、その記憶がもたらす「死」への引力が消えることもないと思います。
その力は、自分の心が気を許した瞬間に、音もたてずに忍び寄って来ては、心を蝕み、命を奪おうとするでしょう。
それでも、彼らはお互いに身体を求め、快楽を求め、そしてその先に「生」を求め合います。
2人が身体を重ね合わせる光景は、そこかお互いの心の欠けた部分を埋め合う心象風景を見ているかのように錯覚します。
同人誌などで見かける「快楽堕ち」という題材は、どこか人間から正常な人格を奪い、性的に搾取されるだけの奴隷を作り上げることかのようにして、描かれる節があります。
しかし、『性の劇薬』は「快楽」というものが、むしろ自分が自分としてあるために、そして自分が「生」を維持するために必要なのだという視座で向き合っていたように思いました。
「快楽」というものは本作のタイトルが示唆するように「劇薬」です。
それでも、その「劇薬」が2人に「生」への渇望を呼び起こしてくれたのも事実だと思います。
『性の劇薬』は「性」と「生」にじっくりと向き合った良作と言えるのではないでしょうか。
アングルとポージングへの執念
(C)2019フューチャーコミックス
そして、最後に語っておきたいのが、本作のカメラワークと演者のポージングについてです。
『性の劇薬』は過激な性描写が盛り込まれたR18+指定の作品ではあるのですが、「陰部」を映し出さないことに関しては徹底しています。
最近だと『ミッドサマー』なんかは思いっきり陰部(男性器)がモザイクなしでボロンしていましたが、海外では規制がないので、そういった映像が実現します。
一方で、日本ではそういった描写に関しては、規制がかかりますので、映り込んでしまった場合には、当然修正を入れなくてはなりません。
当ブログ管理人が大好きな映画のパロディAVも、海外版と日本発売版では尺が50分くらい違うなんてこともあって、それは無修正描写をカットしている事情もあるようです。
映画において、修正(モザイク)が入ってしまうと、どうしても映像にノイズが生じますし、変にそこに注意が向いてしまって作品に集中できないなんてことも起こります。
一方で『性の劇薬』は、そういった修正が発生しないように、徹底的に陰部が映り込んでしまいそうな描写を排除しています。
登場人物のポージング(足の組み方や体勢)であったり、カメラのアングルであったり、小道具・舞台装置の配置を工夫することで、徹底して登場人物の陰部を映像から消し去っているんですよ。
もちろん、単に移さないというだけであれば、素人にもできますが、映画としてこういった「隠し」をやるとなると、観客に作為性を悟られてはいけないという別の問題が発生します。
例えば、深夜アニメなどでキャラクターの胸部や陰部を「謎の湯気」で隠すという文化がありますが、あれって作為性の塊ですよね。
異常に「白」の密度が濃かったり、明らかに湯気の形が特定の部位を隠すように計算されていたりと、作り手の意志を有した「湯気」であることがバレバレになっています。
ただ、やはり映画で特定の部位を「隠す」という行為をやり続けると、どうしてもそれをある種の「ネタ」として観客に消費されかねない危うさを孕んでいます。
そのため、『性の劇薬』のスタッフはどうすれば、自然な映像の中で陰部が映り込まないように作られるのかを徹底的に計算したのだと思いますし、どうすれば作為性が排除されるのかの吟味に執念を注いでいたように感じました。
私自身も、映画を見ている時に、それほど「巧いこと隠してんなぁ~(ニヤニヤ)」的な意識をすることがなかったのが驚きで、作品をブログを書くために見直していた時にふとその映像的な「巧さ」に気がつかされました。
つまり、普通に物語に浸ろうと思って鑑賞していると、その作為性を全く感じないという恐ろしいほどの「自然さ」を実現しているわけですよ。
もし、既に作品を鑑賞した方で、2回目を見るという方は、少し作品を俯瞰で見てみて、こういった映像的な巧さに目を向けてみるのも良いのではないでしょうか。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『性の劇薬』についてお話してきました。
レビューを見ていると、ただの「ホモビ(ホモビデオ)」じゃないか!みたいな声もあるようですが、決してそんな作品ではないということは断言しておきます。
単に性的な過激さを「売り」にするような安易な作品ではなく、それを物語や主題に真摯に落とし込んだ素晴らしい作品です。
映画館で見逃してしまったのですが、何と今年の内にNetflixで見られるとは思っていませんでした。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。