みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『アルプススタンドのはしの方』についてお話していこうと思います。
基本的に青春映画というのは、一握りのスポットが当たる人たちのためのものという印象が強いものだと思います。
少女マンガの実写化作品をたくさん見てきましたが、基本的にはクラスで目立っている存在同士の恋愛・友情、もしくはクラスで目立っている者と目立たない者同士の恋愛・友情を扱うことが大半です。
なぜ、こういった人たちが青春映画の主人公になり得るのかと言えば、当然彼らの青春には「物語」があるからです。もっと言うなれば「絵になる物語」があるからと言えるでしょうか。
当ブログ管理人が大好きな『響け!ユーフォニアム』という作品の番外編的位置づけにコンクールメンバーから外れた者たちにスポットを当てた「かけだすモナカ」というエピソードがあります。
なぜ、素晴らしいのかと言えば、この回はコンクールに出られなかった学生たちが自分と向き合い、それでも吹奏楽部に入って良かったと自分の現状をポジティブに捉え、コンクールメンバーのサポートに徹し、そこに自分の存在意義を見出すという物語を精緻に描いているからです。
ただ、この番外編は単体として成立しているわけではなくて、やはり『響け!ユーフォニアム』というシリーズのメインストリームがあってようやく成立しています。
そのため、スポットが当たる者たちの物語を描かずに、いきなり「はしの方」にいる者たちの物語を描くというのは、かなり難しいことなんですよ。
なぜなら、彼らを「主人公」的に描きすぎると、コンセプトが破綻してしまうからです。
あくまでも「主人公」がいるからこそ、「端役」という立ち位置が担保されるわけで、「端役」を「主人公」にしてしまうと、彼らは「はしの方」の存在ではなくなってしまいますよね。
だからこそ、『アルプススタンドのはしの方』のような作品は、そのあたりのバランスの維持が難しいわけで、彼らが「主人公」でありながら映画の中の世界では「端役」であるという説得力を持たせなければならないわけです。
そこの難しさを如何にして本作がクリアしていくのかが1つ作品を見る上で、重要な視点になるのではないでしょうか?
さて、前置きが長くなってしまいましたが、ここからは作品について自分なりに感じたことや考えたことを綴っていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『アルプススタンドのはしの方』
あらすじ
東播磨高校は公立高校でありながら、野球部が甲子園出場果たし、注目を集めていた。
学校を上げて応援に臨むという方針もあり、初戦から生徒たちは地元から甲子園の地へと応援のために駆り出されていた。
グラウンドでは、エースの園田を中心にチームが一丸となって、強豪校相手に一進一退の攻防を繰り広げている。
そんな甲子園の応援席(アルプススタンド)の片隅で、4人の高校生たちが試合を見守っていた。
演劇で全国大会への出場を目指していたが、その夢に破れてしまったあすは。
同じく演劇部に所属していたが、自分がインフルエンザになってしまい、部の関東大会への道を断ってしまったことを悔やむひかる。
野球部に所属していたが、エースの園田にどうしたって勝てないことを悟り、絶望して退部を選択した富士夫。
テストで不動の学年1位の座を守り続けてきたが、ついにその座を吹奏楽部のエースに奪われてしまった恵。
特に応援する意志もなく、雑談をしながら試合を見守る彼らはそれぞれに挫折感や劣等感を味わってきたのだった。
そんな彼らが試合を見守るうちに、「応援」というものにのめり込んでいく様を通じて、その成長と変化を描く。
スタッフ・キャスト
- 監督:城定秀夫
- 原作:籔博晶(兵庫県立東播磨高校演劇部)
- 脚本:奥村徹也
- 撮影:村橋佳伸
- 編集:城定秀夫
- 主題歌:the peggies
ピンク映画界隈では、その地位を確立している城定秀夫さんがついに一般映画の監督を務め、その才能を爆発させています。
当ブログ管理人も先日Netflixで配信が始まった『性の劇薬』を鑑賞しましたが、これが本当に素晴らしいのです。
過激な設定や描写で観客を視覚的に引き込むというよりは、それらを抑えつつじっくりと物語で魅せるというアプローチに感動しましたし、それでいて原作のBLファンを取りこぼすこともありません。
非常にバランス感覚に優れた映画監督だと思いましたし、映像というメディアに対してすごく真摯な監督なのだと思いました。
そしてこの作品は第63回全国高等学校演劇大会で最優秀賞となる文部科学大臣賞を受賞した戯曲の映画化という事情もあるようです。
戯曲と映画では全く「作り」が異なりますので、その点で城定監督がどう映像化に挑むのかも非常に気になるところですね。
脚本には奥村徹也さんが起用され、編集は監督が自ら担当しています。
撮影には『最高の仕打ち』の村橋佳伸さんがクレジットされていますね。
そして、今作は「青春映画」に分類されるわけですが、主題歌にthe peggiesというチョイスがまた良いですね。
the peggiesは2018年『青春ブタ野郎』シリーズのアニメ版のOP『君のせい』で脚光を浴びたミュージシャンです。
今回は「青すぎる空」という楽曲が主題歌に決定したようで、個人的にも大好きなロックナンバーなので、嬉しいですね。
- 安田あすは:小野莉奈
- 藤野富士夫:平井亜門
- 田宮ひかる:西本まりん
- 宮下恵:中村守里
- 久住智香:黒木ひかり
主演の小野莉奈さんは今年の夏に公開される『テロルンとルンルン』への出演も決まっており、ネクストブレイク枠の俳優ではないでしょうか。
平井亜門さんもオムニバス映画『21世紀の女の子』の中の1つに出演するなど、少しずつキャリアを積み重ねている役者さんですね。
その他にも、小規模映画を中心に出演しているキャストの方々が多く、これからのスター候補に当たる面々が多く起用されているところに、映画としてのメッセージ性を強く感じます。
作品を見たうえで言うなれば、黒木ひかりさんはとてつもない存在感だと思いましたね。
というのも、彼女については多くを語らずとも、身に纏っている空気感と放っている雰囲気だけで彼女が「中心」の側の人間だということが分かってしまうんですよ。
こういうオーラが出せる女優は稀有だと思いますし、今作においては最も欠かせない役者だったと言えるかもしれません。
『アルプススタンドのはしの方』感想・解説(ネタバレあり)
いつか「そこ」に立つあなたのための代理戦争
(C)2020「On The Edge of Their Seats」Film Committee
「今日うちの野球部が初戦に勝ったら、私告白するんだ。」
高校時代、進学校に通っていたこともあり、全体的にスポーツ系の部活動は弱小で、野球部も例に漏れずだった。
しかし、なぜか県大会の初戦だけは高校1年生が全員でバスに乗って会場まで応援に行くのが恒例になっていた。
夏の照りつける日差しの下で、何の思い入れもない野球部を応援している時の気持ちは、本作『アルプススタンドのはしの方』に登場するあの4人に近いものがあったと思う。
そんな時に、クラスの女子生徒の1人が「今日うちの野球部が初戦に勝ったら、私告白するんだ。」とを言っていた。
「ドラマみてえだな。」と内心で一笑に付し、自分の好意を伝えるかどうかを他力本願するその女子生徒を愚かだと思った。
私は、スポーツ系の部活動に所属していたが、どちらかと言うと個人競技の側面が強い競技だったため、「応援」というものに対する意識が希薄だったと思う。
意識の高い先輩が「あの子が試合してるから応援に行くよ!」と言われると、渋々ついていって、覇気のないエールを試合をしている部員に送っていた。
他の部員が試合をしている時に、観客席に座っておにぎりを食べていると、顧問の先生に呼び出されて「なぜおまえは応援に行かずに、自分の席で飯を食っているんだ!」と叱責され、自分の試合の準備をしていただけだと反論し、口論になったりもした。
『アルプススタンドのはしの方』で熱心な茶道部の顧問が「応援応援応援!!」と自分の熱い理念を生徒たちに強いて、空回りする一幕があったが、映画を見ていると彼が当時の部活動の顧問に重なって見えたような気がする。
このように、スポーツ系の部活動に所属していながら「応援する」「応援される」ということの意味を全くもって理解していなかった当時の私である。
時は流れ、部活動を引退した私は大学受験に向けて夜な夜な勉強に励んでいた。
ある夜、勉強の休憩にと思い、テレビを見ていると、サッカーの試合が放送されていた。マッチカードは「マンチェスターシティ VS QPR」とあった。
イングランドリーグ1部の試合なのだが、当時海外サッカーの知識などほとんど持っていなかった自分は、それを見てもピンとこなかった。
実況の熱狂ぶりを聴いていると、放送されているのがリーグ戦の最終節であり、「マンチェスターシティ」は44シーズンぶりのリーグ制覇がかかった試合であることが分かった。
なるほど。面白いではないかと思い、勝ち馬に乗ってやろうという下心で試合を見始めた。すると早々に「マンチェスターシティ」が先制点を取る。
まあ、このまま問題なく勝つだろうと思っていたのだが、そこから「QPR」が2得点して何と逆転に成功するのである。
残された試合の時間が少なくなっていく。そして私は勉強をしながら片手間に試合を見ていたはずが、いつのまにかペンを置き、しまいにはテレビの前にへばりついて「マンチェスターシティ」を「応援」していた。
試合時間は残り数分となり、会場にいるファンも絶望的な表情を浮かべ、涙を流しているものまでいる有様である。そんな状況を見ながら、ファンでもなく、何ならサッカーのルールすらもあやふやな自分が手に汗を握り、祈るような気持ちでテレビを見つめている。
残り3分、ついに同点ゴールが決まる。そして試合時間が残り1分ほどになった時、何と「マンチェスターシティ」が逆転ゴールを決め、試合をひっくり返したのである。
異国の地の90分前まで名前も知らなかったチームや選手の大逆転劇に、気持ちが高揚し、自分の部屋で思わず叫んでしまったのは、今でも忘れられない。
思えば、私が「応援」するということに不思議な魅力を感じたのは、この時が初めてだったと思う。
そしてその不思議な魅力に隠された秘密に気がついたのは、自分の大学受験のまさにその時だった。
センター試験に大失敗し、1次試験時点での志望校の判定にA~Eまであるうちの「D」の判定がついていたのである。
2次試験まで残り1か月ほどの時に突き付けられたあまりにも絶望的な状況に、どうすれば良いのかが分からなくなり、目の前が真っ暗になったようであった。
そんな時に、ふとあの夜の「マンチェスターシティ」の姿に自分が重なったような気がした。あと2点取らなければ優勝ができない、しかも試合の残り時間は数分。
そして、同時に思い出したのは、あの時テレビの前で訳も分からずに勝利を願い続け、小さな部屋から満員のスタジアムにエールを送り続けていた自分の姿だった。
あの時、確かに自分は異国のサッカーチームにエールを送っていたはずなのだが、思えばその向こう側に「自分自身」を見ていたのかもしれないと思った。
「マンチェスターシティ」が優勝してくれれば、自分自身が成功したような気持ちになる、ないしいつか成功できる。
そんな思いを選手たちの成功の向こう側に見ていたのではないかと思ったのだ。
そう考えると、あの時自分が必死に応援していたのは、まだ「中心」にいなかった自分であり、いつか「中心」に立つ日の自分自身だったのではないかと思えてくる。
『アルプススタンドのはしの方』でカメラは頑なにグラウンドの試合の様子を映し出さない。
『ゴドーを待ちながら』や『桐島、部活やめるってよ』を思わせるような脱中心性を、本作は視覚的に継承しており、とりわけ彼らが応援している対象を抽象化している。
それぞれに挫折感や劣等感を抱えている4人は、劣勢に立たされている自分たちの学校の野球部の試合を見ながら「しょうがない」という諦念を抱いていた。
きっと、それは目の前の選手たちへの同情であると共に、自分たち自身に対する思いだったのだろう。つまりグラウンドの試合に、試合に取り組む選手たちに自分の現状を投影していたのである。
しかし、4人の心情が変化していくにつれて、彼らは生き生きとした表情で、声援を送り始める。
声援の向かって行くベクトルは相変わらず抽象化されたままなのであるが、その演出が余計に彼らが不在の中心に「今の自分たち」をそして「いつかそこに立つ自分」の姿を見て、エールを送っているのではないかという印象を強めているように感じた。
選手たちが勝利を手にする姿は、アレゴリー化された「いつか自分が成功を手にする姿」であり、彼らは選手たちのその先に透けて見える自分自身を応援していたのだ。
そう思うと、「応援」という行為はある種の「代理戦争」のような側面を孕んでいるのだが、その勝利や成功に自分自身を投影するのは、「他力本願」とは言い切れないような気がしてきた。
あの時の「応援」はきっと、時間や場所を超越して、いつかの自分に届くのだと思う。
私は大学受験で「マンチェスターシティ」同様に、大逆転滑り込み合格を決めることができた。
あの時、小さな部屋で食いつくように見ていたテレビの向こうには、そんな「未来の自分の成功」が透けて見えていたのであろうか。
さて、話を振り出しに戻そう。
「今日うちの野球部が初戦を勝ったら、私告白するんだ。」
今の自分はきっとこの言葉を笑わないと思う。
きっと彼女は逆境の弱小野球部の勝利に、自分の報われないかもしれない恋心を重ねて、応援していたのではないだろうか。
そう思うと、この言葉とそして彼女の「応援」は決して「他力本願」ではなかったのだろう。
私たちは誰かを応援する時、その誰かの勝利や成功を願うと共に、その向こうにいる「いつかの自分」を応援している。
『アルプススタンドのはしの方』が徹底した視覚的な脱中心性は、きっとそんな「応援」に伴う「自己投影」を見事に可視化していると言えるのではないだろうか。
戯曲と映画。そのバランスの良さ
冒頭にも書きましたが、『アルプススタンドのはしの方』は、戯曲を原作としていて、今作はその映画版ということになります。
戯曲と映画の違いは「見える」という点が最たるものだと思っています。
というのも、戯曲ないし演劇では限られたセットや小道具で、その場所にないものを観客に想像させなければなりません。
一方で、映画では映像に映し出すものを全て作りこむことができるので、ヒーロー映画のような現実を超越した描写であっても容易に可視化することができます。
このように全てを「見せる」ことができてしまう映画と、見えないものを「見える」ようにしなければならない戯曲(演劇)では、その特性が大きく異なるわけです。
今回の映画版『アルプススタンドのはしの方』は、そのどちらもが有する良さをバランスよく織り込んであるのが印象的でした。
まず、今作は映し出す舞台を「スタンドのはし」と自販機付近の観客席通路の2か所に絞っており、シーンの98%はここで展開されます。
これは、舞台の上であまり多くの舞台やセットを用意することが難しいために、限られた舞台装置の中で物語を展開していかなければならないという「演劇らしさ」を継承した演出と言えるでしょう。
ただ、舞台装置をシンプルにしたことで、映像的なノイズが減り、登場人物たちの会話に集中できるようになっているのは、大きなメリットですね。
また、カメラワークにおいては戯曲ないし演劇らしい引きのカットを巧く取り入れています。
スタンドを引きのカットで映し出すことで、メインキャラクターである4人と智香をはじめとする吹奏楽部、そして茶道部顧問の物語が同時に1つの空間で進行しているという設定を強調していました。
冒頭の会話の場面などは印象的で、あすはとひかるが会話をしている背後に、意中の相手に話かけられなかった富士夫の悩む様子が映し出され、物語が多層的に形作られています。
(C)2020「On The Edge of Their Seats」Film Committee
彼ら3人の背後に、物語にまだ直接関わりを持たない恵が待機している様が映し出されるのも、どことなく戯曲(演劇)的な演出だと思いました。
そして何より、今作が映画であり、野球の試合が繰り広げられているグラウンドを映し出すことも可能という状況の中で、それを見せないという選択をした点が、戯曲(演劇)に対する最大のリスペクトでしょう。
可視化された情報で、観客を引き込んでいく映画というメディアでありながら、あえて「見せない」という選択をすることは非常に勇気がいる決断だと思いますが、城定監督はあえてそのアプローチを選びました。
さて、演劇的なアプローチを映画の中に多数持ち込みつつも、本作は映画だからこそできるメリットをも盛り込み、そのシナジーを生み出していたのが印象的です。
映画だからこそできること、それはクローズアップショットだと思います。
しばしば歌舞伎の見得には、クローズアップの効果があるなんて言われますが、劇場で戯曲(演劇)を鑑賞するうえで、視覚的なクローズアップを実現することは不可能に近いでしょう。
もちろん照明の使い方などによって、強調的に見せることは可能ですが、映画のように登場人物の表情までくっきり見せてとなると難しいです。
一方で、映画であれば引きで見せることも、寄せて見せることも自由自在に操ることが可能です。
そのため、今回の映画版『アルプススタンドのはしの方』はスタンドを引きで映し出すことで、物語の同時性を確保しつつも、クローズアップを用いて、登場人物の心情に深く潜ろうとするアプローチをとっています。
このように、原作である戯曲(演劇)の良さを残しつつ、映画だからこそできる技を盛り込んだことで、本作は、非常に意義のある映画化になったと言えるのではないでしょうか。
「中心」と「はしの方」の描き方の巧さ
(C)2020「On The Edge of Their Seats」Film Committee
今作が何とも面白いのは、メインキャラクターの4人とそして茶道部の顧問の先生を「中心」にいる「主人公」たちのオルタナティブとして描いている点でしょう。
記事の冒頭にも書きましたが、あくまでも「主人公」がいるからこそ、「端役」という立ち位置が担保されるわけで、「端役」を「主人公」にしてしまうと、彼らは「はしの方」の存在ではなくなってしまいます。
それをクリアするために、今作は登場人物の設定の作り方にひと工夫が為されていました。
例えば、富士夫は野球部のエースとして君臨する園田というピッチャーの「影」の部分です。一方の恵は園田との関係性においても、学校のテストにおいても吹奏楽部部長の智香の「影」の部分ですよね。
茶道部の顧問の先生だってベンチ入りして、そこから声援を送りたいと願っていたのに、その場所には別の先生がいるわけですよ。
つまり、この5人が全員、光と影の「影」の側の人間であるということが、設定によって明確に裏付けられているために、本作はこの5人にスポットを当てたところで、彼らが「主人公」になり得ないのです。
そして、もう1つ巧かったのが、いわゆる「中心」の側にいる智香の存在ですね。
彼女は、野球部のエースである園田との恋愛に悩んでいるわけですが、その様子が今作には断片的に盛り込まれています。
パンフレットに原作となった戯曲のプロットが書かれているのですが、その中では智香は名前が挙がるくらいで、実際に登場することはないんですよ。
しかし、今回の映画版は、あえて「中心」の側にいる智香の物語にも断片的にスポットを当てたわけです。
野球部のエースでピッチャーの青年と、吹奏楽部からトランペットでエールを送る少女。
しかし、今回の映画においては、普段であれば「主人公」の側にいるはずの存在が、きちんとあの世界の中に内包されていることによって、メインキャラクターたちの「はしの方」感が強調されているんですよ。
どう考えても、映画やマンガ、小説の題材になるのは智香の物語なのですが、そうではないのがこの映画ですということを明示することで、あすはたちを「主人公」足らしめないことに成功しているわけです。
パンフレットには原作の戯曲が全編掲載されているので、ぜひ映画と併せて味わっていただけると、今回の映画版がどう戯曲をアレンジしていったのかが見えて面白いと思いますよ。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『アルプススタンドのはしの方』についてお話してきました。
正直鑑賞する予定がなかったのですが、先日『性の劇薬』を見て、改めて城定監督の作品作りにとてつもない才能を感じ、急遽鑑賞予定リストに滑り込ませました。
近年、日本の青春映画は豊作で、昨年は『ホットギミック』や『殺さない彼と死なない彼女』といった傑作がありましたが、今年もその流れが続いているようですね。
「中心」ではなく徹底的に「はし」を描こうとするのですが、この作品は「中心」の存在から目を背けなかったんですよ。
このタイプの作品を実現するうえで、最も難しい「バランス」の部分を絶妙なコントロールで乗り越えてきたところに城定監督を初めとする制作陣の巧さを感じました。
これまでのようなピンク映画を撮って欲しいという思いもありつつ、今後も一般映画に携わってどんどんと傑作を生み出していってほしいという思いもあります。
何はともあれ、これで映画ファンとしては目が離せない存在になったことは言うまでもありません。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。