みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『君が世界のはじまり』についてお話していこうと思います。
いろんな意味で最近の映画だと『ここは退屈迎えに来て』という作品に似ていたような気がしています。
田舎で閉塞感を抱えて生きる男女の物語であり、そこに音楽をリンクさせて描いていくわけですが、『ここは退屈迎えに来て』ではフジファブリック、『君が世界のはじまり』ではTHE BLUE HEARTSが印象的に用いられていました。
退屈な毎日の「救世主」として、これらのミュージシャンの存在があるという作品の中での位置づけも全く同じなのですが、そういった音楽を用いた演出のくどさも共通していたのは不思議でした。
行き詰まって感情を爆発させた登場人物が彼らの楽曲を熱唱するという演出そのものは、正直在りがちだと思うのですが、独唱させてみたり、登場人物を集合させて歌わせてみたりと、楽曲のインサートがしつこいんですよね。
楽曲そのものが名曲であることに変わりないのですが、何と言いますか、登場人物のTHE BLUE HEARTSへの思い入れにも温度差がかなりありますし、何より観客が登場人物がその楽曲で感情を吐露しているということに対して共感しづらいんですよね。
特にTHE BLUE HEARTSは、当ブログ管理人くらいの年代になると楽曲こそ知っていますが、それが「青春のアイコン」として機能するかと言われると、考えにくいです。
今作はふくだももこさんの『えん』と『ブルーハーツを聴いた夜、君とキスしてさようなら』という2つの短編を繋ぎ合わせて作られています。
この2つを何とかリンクさせたのは、後程語りますが非常に脚色的にも優れたアプローチだったと思います。
しかし、2つの物語をTHE BLUE HEARTSの楽曲でリンクさせるというところには、どうしても疑問を感じましたし、そこが感情移入を妨げる、登場人物に思い入れを感じられない最大の理由になってしまったような気がしていますね。
と、ここまで少し作品に対する厳しい評を書いてきましたが、本論では割と褒める内容を書いていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いくださいませ。
目次
『君が世界のはじまり』
あらすじ
大阪のとある町で暮らす高校2年生のえん。彼女は親友の琴子と退屈ながらも、充実した毎日を過ごしていた。
そんな時に、琴子が廃校舎で出会った同級生の業平という青年に一目惚れをする。
琴子は何とかして、彼の心を射止めようと猛アタックを開始するのだが、彼女は彼の気持ちがえんの方に向いていることを悟る。
一方で、業平は自分の母親が自分を産んですぐに家を出てしまったこと、そしてそれによって父親がおかしくなってしまったという複雑な家庭環境を背負っていた。
また、同じ学校に通う純という少女は、母親が「自分の居場所と役割を夫に奪われた」からと出て行ってしまったことを知り、父親に強い嫌悪感を抱くようになる。
彼女もまた田舎の退屈な生活に閉塞感を感じていたが、ある日ショッピングモールの屋上でクラスメイトで東京からの転校生である伊尾が女性とキスをしている場面を目撃する。
伊尾がキスをしていたのは、母親の再婚相手であり、彼はそういう意味で自分の父親との間に確執を抱えている青年だった。
それぞれが、この田舎の町に、そして複雑な家庭環境に閉塞感や束縛感を感じる中で、ついに「その夜」は訪れる。
深夜の住宅地で、高校生に中年の男が殺害される事件が起こる。
その犯人は…。
スタッフ・キャスト
- 監督:ふくだももこ
- 原作:ふくだももこ
- 脚本:向井康介
- 撮影:渡邊雅紀
- 照明:林大智
- 編集:宮島竜治
- 音楽:池永正二
『父の結婚』そしてそれを長編化した『おいしい家族』のような少し不思議な家族譚であったり、『21世紀の女の子』に収録の短編「セフレとセックスレス」といった男女の関係性への独特の視座が目立つ作品であったりと、新しい時代の映画を開拓しているのがふくだももこ監督です。
今回は彼女の『えん』と『ブルーハーツを聴いた夜、君とキスしてさようなら』という2つの短編を1つの作品に集約したというある種の自伝的作品となっています。
ただ、今回の映画版が比較的うまく行っていたのは、脚本の向井康介さんの力量あってのももだとは思うんですよ。
文芸評論家の栗原裕一郎さんが『ブルーハーツを聴いた夜、君とキスしてさようなら』の書評として次のように書いていました。
青春小説として悪くはないのだが、セックスはするが恋人未満である、はじめてのキスが恋の本当の始まりにして別れの予感でもあるという関係性の持たせ方がどうにも陳腐だ。ブルーハーツ、郊外のショッピングモールというモチーフにも目新しさがない。
何と言うか使い古された「田舎」「閉塞感」のアイコンを何のアレンジもなく持ち込んでいるという印象が強くて、純と伊尾のエピソードだけだと、何の引っ掛かりもない話になっていたと思います。
ですので、そこに『えん』の要素を持ち込んで、『台風クラブ』的な「死」と「殺」と向き合う哲学チックなテーマの作品に仕上げたのは向井康介さんの功績でしょうね。
撮影には、小規模上映作品ながら注目を集めた『赤色彗星倶楽部』の撮影も担当した渡邊雅紀さん、照明にはカメラマンとしても活躍している林大智さんがクレジットされていますね。
編集には『おいしい家族』や『ロマンスドール』で知られる宮島竜治さんが起用されています。
- 縁:松本穂香
- 琴子:中田青渚
- 純:片山友希
- 伊尾:金子大地
- 岡田:甲斐翔真
- 業平:小室ぺい
- 楓:江口のりこ
- 忠司:古舘寛治
特に松本穂香さん、中田青渚さん、片山友希さんの3人の演技が、どれも印象的で、数年後全員が第一線で活躍しているのではないかと予感してしまうほどでした。
片山友希さんの『ここは退屈迎えに来て』にも出演していましたが、今回主要キャストに抜擢されて、一気にその才能の片鱗を見せてくれたなという印象です。
また、江口のりこさんや古舘寛治さんといった主人公たちを取り巻く大人たちの役者陣も良い味を出していて、作品を引き締めていたように思います。
古舘寛治さんってあの手の不器用だけど、優しい父親像が本当に似合いますよね。
『君が世界のはじまり』感想・解説(ネタバレあり)
クレイジー粉もん映画すぎる(笑)
『君が世界のはじまり』がクレイジー粉もん映画過ぎて笑ってました。
お好み焼き食べながら喧嘩して、仲直りして。お好み焼き食べながら家族の温かみや世界の優しさを知って。たこ焼き食べながら恋をして、失恋して。
最後にお好み焼きをふっくらさせるテクニックを教えてくれる。
そんな映画です😇 pic.twitter.com/ISPYFUq0p7
— ナガ@映画垢🐇 (@club_typhoon) July 31, 2020
ただ、これあながち的外れではないんですよね。
というのも、あまりにも作中でいわゆる「粉もん」(お好み焼きやたこ焼き)を食べる描写が多いのです。
『君が世界のはじまり』の食事シーンの内容の割合です。
お好み焼き&ごはんの大阪スタイル
対
たこ焼き
対
その他
=7:2:1こんな感じだった。
まじで粉もんしか食べてないし、毎晩お好み焼き&ごはんを食ってそうな勢いだったぞ笑 pic.twitter.com/YJTsjWdP3l
— ナガ@映画垢🐇 (@club_typhoon) July 31, 2020
ただ、これが誇張ではないくらいに、劇中で幾度となくインサートされる食事シーンは、そのほとんどが「お好み焼き&ごはん」の大阪スタイルだったんですよ。
ふくだももこ監督が、大阪出身なので、ちゃんとお好み焼きをおかずにご飯を食べていたのは良かったですけどね。
これで、食卓にお好み焼きだけが並んでいて、白ご飯なしで食べていたなんてことになっていたら、大阪人からツッコミを入れられていたことでしょう。
ただ、それにしても登場人物が「お好み焼き&ごはん」しか食べてないし、本当毎日こればっかり食ってるんじゃないか?くらいの勢いで食べているんですよ。
たまにお好み焼き以外の食事が出てきたと思ったら、それが「たこ焼き」で「結局、粉もんやないかい!」とゲラゲラと笑ってしまいました。
大阪の片田舎を舞台にした作品とは言え、ここまでクレイジーに粉もんを推してくるのは、流石に笑います。
何もかもがあって、何もかもがない「ここ」に生きる
(C)2020「君が世界のはじまり」製作委員会
当ブログ管理人は個人的に、本作の舞台になった街に近いところ(立地ではなく空気感)で育ったこともあり、すごく共感できるポイントは多かった作品のように思います。
「田舎」と一概に言っても、個人的には大別すると2種類あると思っています。
それは本当に何もないというか田畑しかない集落のような「絶対的田舎」と、ある程度商業施設もあって生活環境は整っているけれどもいわゆる都会と比べて閑散としている「相対的田舎」です。
前者のような場所はもちろん知っていますし、個人的にも行ったことがありますが、本当に何もないです。
最寄りのスーパーに行くために、車で最低でも15分程度は走らないといけないし、ショッピングモールなんてあるはずもないんですよね。そういう場所は本当に「何もない」んです。
ただ、その一方で後者の「相対的田舎」に当たるような地域って、当ブログ管理人が生まれ育った場所もそうだったのですが、意外と生活に困らないくらいの商業施設は揃っているんです。
思えば、「相対的田舎」って「何もかもがある」場所なんですよね。
今は比較的日本では都会とされる場所で生活をしている自分ではありますが、考えてみるとあれだけコンパクトに生活に必要なものが買えて、困らないだけの施設が揃っていたのってすごいことだったのだと改めて実感します。
しかし、その環境に身を置いていると、どうしても自分たちのいる「ここ」には「何もない」という風に思ってしまうんですよね。
その比較対象に真っ先に挙げられるのが、東京という町であるわけですが、当然東京と比較したら「ここ」は「何もかもがない」場所でしょう。
そして、その象徴として「ショッピングモール」が存在しているといえます。
しばしば「イオンモール」は田舎の象徴だなんて言われますが、これはあながち間違いではなくて、大型のショッピングモールは基本的に郊外にありますし、何ならその施設が地域のコミュニティや商業の中心になっているような場所も少なくありません。
「イオンモール」がなくなったら、どうやって生活していけば…というような苦悩を抱えている地域も少なくないですし、近年実際にそういった地域の基幹となっていたショッピングモールが撤退するという問題も発生しています。
「ショッピングモール」は個人的にではありますが、「相対的田舎」の「何もかもがある」と「何もかもがない」という2つの側面を体現する施設だと思うんですよ。
劇中で、伊尾が「ミナミ」という父親の再婚相手に関して「彼女は全部ここで済ませた」という話をしていましたが、「ショッピングモール」ってオルタナティブを望まなければ、一通りのことはできます。
食品の買い物、衣類や雑貨の買い物、外食、娯楽…と、「何もかも」ができてしまう空間です。
だからこそ、そこで世界が全て完結してしまっているような印象を与え、田舎特有の閉塞感や束縛感を強める役割を果たしてしまっているのかもしれません。
面白いのが、当ブログ管理人が地元にいた時はそういった「ショッピングモール」に対して、「あそこに行けば大体何でもそろうよね!」と評していたのに対して、都会に出て来てからは「地元にはあそこしかないから」と自嘲的に評するようになったことでしょうか。
この違いは「比べる対象」があったかなかったかの違いだと思います。
基本的に、私は都会への憧れがあった人間ではないので、地元にいた時はその環境で満足していましたし、ここには「何もかも」が揃っていると自負していました。
しかし、都会に一たび出てくると、地元には「何もかも」がなかったんだなと相対的な視点で感じるようになったのです。
本作『君が世界のはじまり』の登場人物たちも、そういうジレンマの中で生きているような印象を受けましたね。
特に伊尾は、東京からの転校生であり、他のキャラクターよりも強く相対的な視点を持っている人物として描かれていました。
だからこそ、「ここ」に身を置いていると、気が狂いそうになるわけで、一刻も早く脱出することを願っています。そして同時に自分の大好きな人に「ここ」以外の世界を見せてあげたいとも思っていましたね。
また、えんは琴子に好意を寄せているわけですが、彼女たちの「世界」も危うさを孕んでいます。
えんは京都大学の赤本に取り組んでいることからも、この町の外に出て行こうとしているわけで、一方の琴子はずっとこの町で生きていくんじゃないかと思わせるような生活ぶりを見せていました。
加えて、2人の関係は業平という青年を巡って、壊れそうになっていましたよね。
本作の登場人物たちは、それぞれに周囲の人たちとの関係性に脆さを抱えていて、ある日突然その世界が破綻してしまうかもしれないという「危うさ」を抱えているんですよ。
本作に登場する「ショッピングモール」は既に「閉店セール」という張り紙が出されているのですが、いつ閉店するのかなどの詳細は明記されておらず、「いつか近いうちに閉店するのだろう」という緩やかな予感だけが漂っています。
それは本作に登場する少年少女たちの世界と「同じ」です。
「何もかもがあって」その一方で「何もかもがない」彼の、彼女の世界は、常に「終わり」の予感を内包しています。
本作の登場人物たちには、その「何もかもがない」という側面しか見えていないんですよね。
そして、そんな彼らと「世界」との関係を結び直し、その「何もかもがある」という側面に気がつかせるのが本作の物語の核になる部分だと思っています。
純という少女は、父親に対して激しい嫌悪感を抱いており、彼が家庭の中から母親の居場所を奪ったことに対して憤りを感じています。
しかし、ラストのお好み焼きを食べるシーンで、天かすが入っていないという形で「母の居場所」を見出すのです。
自分の世界には存在していないと諦めていたものが、初めから自分の世界には存在していたのだと気づく瞬間。まさしく彼女が世界との関係を結び直した瞬間でもあります。
ショッピングモールの警備員は、「閉店」について明言することを避けていました。ただ「終わるかもしれないし、続くかもしれない。」という可能性の話をしただけです。
何もかもがあって、何もかもがない。
フェンスの向こう側に見える、あのタンクには何が入っているのか、はたまた何も入っていないのか。
彼女の立てられた人差し指が示しているのは「1」なのかはたまた単なる「指」でしかないのか。
それを決めるのは自分自身だということを彼らは「あの夜」確かに知ったのでしょう。
「わたし」だったかもしれない「あなた」への応援歌
(C)2020「君が世界のはじまり」製作委員会
本作のプロットの巧さを最も感じたのは、やはり「父との確執」の描き方ですね。
冒頭に、高校生が父親を殺害してしまったという事件の描写をインサートし、その後の物語でその「犯人」になる動機を十分に抱えたキャラクターを複数人登場させています。
これにより、観客は当然、この中の誰が父親を殺害してしまったのだろうかという視点で、物語を追いかけることとなりますよね。
しかし、作品の中盤で明かされる通りで、実際に殺人を犯したのは、全く彼らとは関係のない同級生の青年でした。
作劇の仕方によって、極めて意図的に「彼らの内の1人が」犯人なのだと思い込まされていたわけですから、完全にしてやられました。
そして、彼らは夜のショッピングモールで、自分の父親を殺めてしまったその青年に思いを馳せることとなります。
その中で、彼らが気がついたのは、殺人を犯してしまった青年が自分たちとは何ら変わりのない「普通の人間」だったということです。
自分たちと同じように笑い、悩み、勉強して、音楽を聴いて、人を好きになって、そして父親を疎ましく思って。
そういう同じような悩みを抱えた人間が父親を殺害してしまったのだと考えていくと、同時に浮上するのが「あなた」が「わたし」だった可能性です。
伊尾は、殺人を犯すなんて馬鹿だし、自分は同じようなことは絶対にしないと断言していますし、岡田も同様の発言をしています。
しかし、父親の首を絞めたことがあるとも語っていた業平は、そんな犯人のことを分かろうとしたいと語りました。
なぜなら、彼は「犯人」の側にいたかもしれないからですよ。というよりも誰しもがちょっとしたきっかけで向こう側の人間になったいた可能性があるんですよね。
そして、彼らはそういう危うさを抱えていきながらも、誰かに、何かに救われて、今ここに立っているのです。
業平はえんの存在に、伊尾は純の存在に、純は伊尾やブルーハーツの音楽に、えんは琴子に…というよりに、誰しもが何かに救われる形で、今こちら側に留まることができているのです。
だからこそ、彼らは夜のショッピングモールで『人にやさしく』を歌います。
彼らの視線の先にいるのは、父親を殺害した高校生の青年です。
彼らは「わたし」だったかもしれない彼に向けて、精いっぱいの声で「がんばれ!」と告げるのです。
それは、第三者に向けての言葉でありながら、自分に向けた激励の言葉でもあります。
「わたし」だったかもしれない「あなた」を励ますという行為は、同時に「あなた」だったかもしれない「わたし」を激励するという行為でもあるのです。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『君が世界のはじまり』についてお話してきました。
撮影や照明、舞台設定にこだわり抜いて撮られたのであろうと強く感じる映像が多く、見ているだけで思わずアッと声が出そうなくらい美しいシーンが多かったです。
特に、ラストの水たまりでえんと琴子がじゃれ合うシーンは凄まじいパワーを感じましたね。
誰もいないグラウンドに2人だけがいて、そして水たまりには青空が投影されていました。
(C)2020「君が世界のはじまり」製作委員会
その様はまるで、彼女たちが既存の世界から隔絶され、2人だけの世界を作り出してしまったようなそんな印象すら与えてくれます。
これまでの世界の「終わり」と新しい世界の「始まり」が1つの場所で交わり、同居しているかのような圧倒的な映像表現に心をグラグラと揺さぶられましたね。
プロットについては、かなり賛否別れる内容だとは思いますが、映像面については文句なく素晴らしいです。
その点でも劇場で見る価値のある作品ではないかと思っております。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。