みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『ドラえもん のび太の新恐竜』についてお話していこうと思います。
『ドラえもん のび太の宝島』がまさしく彼の脚本だったわけですが、これが正直イマイチでした。
彼の原作の映画化という視点で見ても『世界から猫が消えたなら』は単純にお涙頂戴が過ぎましたし、『億男』はごく単純につまらないし、ペラッペラだったため全く心に残りませんでした。
という具合に徹底的に、これまでの作品が合わなかったわけですが、今年は『ドラえもん』映画の中でも「恐竜」をタイトルに冠した系譜であるわけですから、流石にこれまでの映画を見てきたファンとしては見ないわけにはいきません。
2006年版はともかくとして、旧映画版と原作の「恐竜」エピソードって本当に傑作なんですよね。
これまで見守られる側の存在だったのび太が、見守る側に転じ、自分に似た存在を育てる行為を通じて、自分自身を成長させていくというプロセスが本当に見事です。
今回の『ドラえもん のび太の新恐竜』ですが、どうやら「リメイク」という位置づけではないようですね。これについては本編を鑑賞すれば、お分かりいただけると思います。
物語の序盤部分はオリジナルを踏襲している部分も多いですが、あくまでも「新恐竜」というのが今作の核になっています。
おそらく私も含めて、多くの方が干渉する前は「リニューアル」的な意味合いでの「新」だと思っていたでしょうが、実はそうではありません。
この「新」は「新種」「新発見」という意味合いでつけられたものです。
『ドラえもん のび太の恐竜』および2006年の同名のリメイク版では、フタバスズキリュウが扱われますが、今回の『ドラえもん のび太の新恐竜』ではのび太が新種の恐竜を発見するというのが物語のキーなのです。
また、フタバスズキリュウが水場に生息する恐竜だったのに対して、今回の新作は羽毛恐竜が扱われ、「泳げる」から「飛べる」へとその特性が変更されておりました。
これにより物語性が非常に強くなっていたと思いますし、のび太と恐竜のリンクという意味合いで見ても、オリジナル版を超える感動が生まれたのではないかと感じます。
さて、今回はそんな本作について自分なりに感じたことや考えたことを綴っていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『ドラえもん のび太の新恐竜』
あらすじ
ある時、恐竜博の化石発掘体験で卵型の石を見つけたのび太は、それを恐竜のたまごだと信じ込む。
彼はドラえもんのひみつ道具「タイムふろしき」を使って元の状態に戻そうと試みる。するとしばらくして、その卵から恐竜が生まれる。
生まれた恐竜は双子であり、新型の羽毛恐竜だと判明した。
のび太はピンク色の元気で活発な恐竜に「ミュー」と、緑色の消極的で臆病な恐竜に「キュー」と名づける。
ジャイアンとスネ夫を見返したいという思いもあり、のび太は懸命に双子の恐竜を育てるのだが、あまりにも急速に成長を遂げ、姿が大きくなっていくため、現代で育てることは難しくなっていく。
それでもドラえもんのひみつ道具「飼育用ジオラマセット」を活用し、のび太は双子の恐竜の本当の親になったかのような心情で、向き合うのだった。
しかし、「歴史を変えてはいけない」というドラえもんの言葉や、キューとミューの本当の幸せは仲間と一緒に暮らすことだという思いもあり、のび太は6600万年前の世界に2匹を返すことに決める。
何とか6600万年前の世界に辿り着くのび太たち一行だったが、そこには世界を一変させる大変動が間近に迫っていた…。
スタッフ・キャスト
- 監督:今井一暁
- 原作:藤子・F・不二雄
- 脚本:川村元気
- キャラクターデザイン:小島崇史
- CGアニメーションスーパーバイザー:森江康太
- 音楽:服部隆之
- 主題歌:Mr.Children
近年のドラえもん映画では、断トツでつまらなかった『ドラえもん のび太の宝島』の監督・脚本コンビなので、その点が個人的には心配ではありますね。
とりわけ今回の『ドラえもん のび太の新恐竜』は、予告編からも特有の「お涙頂戴感」が漂っていたこともあり、かなり不安は増長しておりました。
一方でキャラクターデザインには、数々のテレビアニメで原画の経験を積み、湯浅監督の『きみと、波にのれたら』でキャラクターデザインにも抜擢された小島崇史さんが起用されました。
CGを担当した森江康太さんは、今話題沸騰中のアーティスト、ヨルシカの「ノーチラス」のMVを手掛けられましたね。
また、劇伴音楽を昨年に引き続き服部隆之さんが担当しました。
主題歌には、Mr.Childrenの「Birthday」が選ばれました。
『ドラえもん』の映画シリーズは近年「子どもを経験したオトナ」をターゲットにしたマーケティング戦略が目立ちますが、この主題歌起用もそういった方針の一環でしょうか。
- ドラえもん:水田わさび
- のび太:大原めぐみ
- しずか:かかずゆみ
- ジャイアン:木村昴
- スネ夫:関智一
- ジル:木村拓哉
- ナタリー:渡辺直美
「恐竜」シリーズと言えば、やはりオリジナル版のイメージが個人的には強いので、大山のぶ代ドラえもんの印象が耳に強く残っています。
『ドラえもん のび太の恐竜』は本当に演技もそうですが、セリフ回しや演出もかなりぶっ飛んでいます。(2006年版ではかなりマイルドになっていますが…。)
しずかちゃんにスナップカメラで水着を着せるシーンなんて、今やったら絶対にお叱りを受けるような演出ですしね。
ああいったある種のシニカルな笑いが1つ初期のドラえもんシリーズの特徴でもあったので、最近の作品はすごく「きれいに」なりましたよね(笑)
それはさておき、今回のゲスト声優には木村拓哉さんと渡辺直美さんが選ばれていますね。
お2人ともタイムパトロールの役になるわけですが、かなり重要な役ですし、そういう意味でもジルを木村拓哉さんが演じてくれたのは非常に良かったです。
彼は『ハウルの動く城』でとんでもなく高度なボイスアクトを披露していましたからね。
『ドラえもん のび太の新恐竜』感想・解説(ネタバレあり)
オリジナル版からのアレンジの巧さ
記事の冒頭でも書きましたが、今回の『ドラえもん のび太の新恐竜』は、リメイクという扱いではありません。
基本的な設定や序盤の展開はオリジナル版を踏襲しつつも、そこから全く予想だにしない展開へと進んでいくのです。
基本的に『ドラえもん のび太の恐竜』ないし同名の2006年版のリメイクは物語の力点が、のび太とピー助の別れという1点に集中していて、そこで一気に感情を爆発させ、観客の涙を誘います。
物語の流れとしても、いかにしてのび太が遥か昔の恐竜の時代に、現代で生まれたピー助を戻すかというところにだけ焦点が当たって、それ以上の展開はないんですよ。
しかし、今回の『ドラえもん のび太の新恐竜』は、明らかにオリジナル版とは力点の置きどころを変更しています。
もちろん別れの描写については、しっかりと描いてはあるのですが、本作における最大の盛り上がりは、飛ぶのが苦手だったキューが初めて空に向かって羽ばたいていくシーンでしょう。
次の章で詳しく解説しますが、今作はオリジナル版が「別れの物語」だったのですが、そこをアップデートして「一緒に成長する物語」へとコンバートしてあるんですね。
それをオリジナル版の基本プロットを大きくは外れない範囲でやってのけているのが見事ですし、過去作を見たことがある人ほど、その意外な物語の力点の置き方に感動させられるのではないでしょうか。
加えて、今作の特徴になっているのが、タイトルにも書かれている「新恐竜」です。
「新恐竜」というのは、まさしくキューとミューのことを指していて、彼らは「羽毛恐竜」なんですよ。
「羽毛恐竜」というものがいて、そしてみなさんが理科の教科書等で目にしたことがあるであろう「始祖鳥」と呼ばれる最初の鳥類がいて。そして今の鳥類がいて。
恐竜と鳥類の間をつなぐものが欠落していて、それが今回の映画の中でもたびたび挙がっていた「ミッシングリンク」というものになります。
1999年に遼寧省から、現代の鳥に似た羽を持つ恐竜化石が発見されたことにより、恐竜と鳥をつなぐ「ミッシングリンク」が発見されたとして、ナショナル・ジオグラフィック誌に発表されたのは有名な話です。
まあこの発表はかなり怪しいものだったので、今となってはあまり信用には値しないものかとは思います。
しかし、近年の研究で恐竜と鳥類の間の距離がどんどんと縮まっているのは事実であり、その「ミッシングリンク」を埋めるのが始祖鳥なのかそれとも別の恐竜なのかという議論は今も続いていますね。
今回の『ドラえもん のび太の新恐竜』は、そういった近年の恐竜を巡る研究の流れを巧く組み込んで、オリジナル版をアレンジしています。
そもそも『ドラえもん のび太の恐竜』においては、あくまでもピー助を過去に置いて帰ってくればOKというかなり単純明快なプロットだったのですが、今回はそうはいかないのです。
なぜなら、のび太がキューとミューを戻すために訪れた世界は、まさしく隕石による大規模な気候変動が間近に迫った時期だったからですよ。
つまり、単純に2匹を置いて帰って来てしまうと、そこで隕石の影響を受けて命を落としてしまうという新しいコンフリクトが物語に与えられているのです。
これにより、のび太たちは単に置いて帰るわけにもいかず、しかも歴史を変えるわけにはいかないので、連れて帰るわけにもいかないというジレンマを抱え、解決策を探ることとなります。
このジレンマの作り方や解決への導き方も非常に良く出来ているので、後程詳しくお話しますが、まずはこの構図を持ち込んだこと自体がアレンジとして非常に優れていると感じました。
そして、細かい描写や演出をとっても、オリジナル版を活かした点がたくさんあります。
ちょっとした小ネタで言うと、冒頭にのび太が恐竜の化石を見つけると宣言した際に、「目で、ピーナッツを噛んでやるよ!」と宣言していましたが、これはオリジナル版の「鼻でスパゲッティを食べてやる」からのアレンジでもあります。
もう少し目立つところで言うと、オリジナル版と2006年版では漏れなく描写されていた恐竜の戦闘シーンに新たな意匠を与えていた点でしょう。
特に2006年版のティラノサウルスとブラキオサウルスの戦闘シーンは、とんでもない作画になっていて、見ていて迫力がありますし、映画館で見ると圧倒されますね。
今回もちょうど中盤頃に、「ともチョコ」の力を使ってジャイアンがティラノサウルスを、スネ夫がトリケラトプスを従えて、闘わせようとするシーンがあります。
ここで、2人は恐竜たちが「戦うことを望んでいない」という感情を理解するんですよね。
「戦うのはね、群れを守ったり自分の身を守ったりするためで、相手が憎いからじゃないんだ。それが自然の中で生きる生き物のルールなんだよ。」
(『ドラえもん のび太の新恐竜』より引用)
ジャイアンはこのやり取りがあって、ティラノサウルスに自分の振る舞いを重ね、反省し、少しだけ成長します。
このように基本的にはのび太とピー助にフォーカスを当ててきたこの題材の中で、のび太以外のキャラクターたちと恐竜のリンクを描き、彼らがその中で成長していくというサブプロットをきちんと用意できていたのは、本作の多層性に繋がっています。
オリジナル版のプロットがあくまでも土台としてありつつ、そこに上手く肉づけ、アレンジをして、全く新しい物語を作ってくれたことに、敬意を表したいです。
一緒に成長する物語として
(C)藤子プロ・小学館・テレビ朝日・シンエイ・ADK 2020
『ドラえもん のび太の恐竜』の醍醐味って、冒頭にも書きましたが、これまで見守られる側の存在だったのび太が、見守る側に転じ、自分の親の気持ちを追体験するというところにあります。
その醍醐味を、より煮詰めて、濃くしたのが今回の『ドラえもん のび太の新恐竜』ではないでしょうか。
というのも、これまではあくまでも「やさしくてのび太に懐いている恐竜」くらいの位置づけで、ピー助を扱ってきました。
その一方で、今回のキューという恐竜には、「のび太に似ていて、空を飛べるはずなのに苦手で飛ぶことができない恐竜」というキャラづけが為されているのです。
私の大好きなアニメソングの1つに『オレンジ』という曲があります。アニメ『とらドラ!』の主題歌でアニメ好きなら一度は聞いたことのある楽曲です。
その歌詞の中にこんな一節があるんですね。
オレンジ今日も食べてみたけど
まだ酸っぱくて泣いた
私みたいで残せないから
全部食べた
好きだよ
(『オレンジ』より引用)
つまり、これまでの映画ではのび太は単に親心的に思い入れがあるというだけでピー助を過去に置いてくるということを躊躇っていました。
しかし、今回の『ドラえもん のび太の新恐竜』ではそれ以上に「私みたいで残せないから全部食べた好きだよ」的な感情をのび太がキューに対して抱いているのです。
具体的に言うと、のび太はキューに自分を重ねていて、だからこそ、飛ぶこともできず、性格も臆病なキューが仲間たちのコミュニティに入ったときにどんな扱いを受けるのかが想像できてしまいます。
それ故に、キューにそんな思いをして欲しくないというある種の同情が強く宿っていて、それが今作における「別れを選択したくない」と思わせる最大の動機にもなっているわけです。
ただ、この関係性によってのび太は自分がキューを手放さないという選択が何を意味しているのかをある種のメタ認知として感じ取ることができるようになっています。
つまり、親やドラえもんから自立することを選択せずに、彼らの優しさに甘えて、依存して生きていくという道を選択することと、自分がキューを手放さないという選択が同じ意味を持つのだということを彼は悟るわけです。
だからこそ、キューを解放し自立させるということが、そのまま自分を自立させることにも繋がっていくというリンクが生まれていて、それにより今作は単なる「別れの物語」から「一緒に成長する物語」へと進化しています。
のび太にとっての逆上がりと、キューにとっての空を飛ぶことを重ねて、必死に練習に励む姿を描き、そこからキューが羽ばたいていくシーンへの「溜め」は本当に素晴らしいですよね。
抑圧されてきた思いが、胸の内に溜めてきた感情が、キューがダイナミックなアニメーションで空を舞う映像によって一気に溢れ出し、涙が止まらなくなります。
そして、今作がもう一段階泣かせてくれるのは、のび太が誰かを信じ、見守る側に立つことによって、自分のことを信じてくれていた人たちの思いを知るという構図が出来上がっている点です。
(C)藤子プロ・小学館・テレビ朝日・シンエイ・ADK 2020
それはさておき、のび太を信じて、見捨てずに見守ってくれていたのは、もちろんドラえもんであり、彼の両親ですよね。
そういった彼の周囲にいる人たちが、一体どんな思いで、見守ってくれていたのか、その思いを自分が見守る側になってみて、初めて理解するわけです。
この2つの観点を物語に取り入れたことで、非常に多層的な作りになったと言えるのではないでしょうか。
個性の否定ではなく、あくまでも「できること」をできるようになるための物語
今作の中盤過ぎに少し残酷に感じられる描写があります。
それは、飛ぶことが苦手なキューを、同じ羽毛恐竜のコミュニティのボス的存在の個体が強く拒絶するシーンなのです。
今作は、最終的にキューが特訓の末に飛べるようになって、仲間たちのコミュニティに受け入れられていくところを描くわけですよね。
(C)藤子プロ・小学館・テレビ朝日・シンエイ・ADK 2020
そうなると、どうしても差別される側が差別される理由を自助努力で取り除きさえすれば、コミュニティに受け入れてもらえるようになるという最悪な構図で物語を作っているのではないかという疑義を持つ方はいらっしゃることと思います。
ただ、勘違いしてはいけないのは、本作は個性を否定するような物語ではないということです。
しずかちゃんが実質、のび太に告白してるじゃねえか!というシーンがある本作ですが、そこで彼女が非常に素晴らしいセリフを残してくれています。
「のび太さんは、たけしさんとはちがう。スネ夫さんともちがうでしょ?」
「もちろんわたしともちがう。でも、それでいいと思うの。大切なのは、同じであることじゃなくて、自分の良さを伸ばすことだもの。キューちゃんだって、みんなと同じにできなくても、きっと、自分のよさを見つけられるわ」
(『ドラえもん のび太の新恐竜』より引用)
大切なのは、みんなと同じになることではないということはこのセリフの中で明言されていますし、これはひいてはマイノリティがマジョリティに同化すれば良いという論に対するアンチテーゼとしても機能しています。
そして、その後にのび太が強く言葉にしていますよね。
「ぼくね、わかったんだ。みんなと同じになりたいんじゃない。ぼくね、できなかったことをできるようになりたいんだ」
(『ドラえもん のび太の新恐竜』より引用)
今作の序盤で彼の言動を思い出してみてください。
例えば、テストで「3点」をとったときに、彼は「3点しか取れなかった」ではなく「3点も取れた」という見方をしています。
一方で逆上がりができなかった時には「別にいいんだ。できないものは、しかたないじゃないか……」と愚痴をこぼしていました。
つまり、のび太はみんなと同じである必要はないということを主体的にというより、むしろ受動的に諦念と共に受け入れてしまっていたわけです。
そうやって「できるはずのこと」をできないと諦めて、「できないこと」が自分自身の個性なのだと彼は勘違いしていたんですよ。
そして、キューと出会ったことによって、彼はようやくその認識から脱することができたわけです。
映像を見れば一目瞭然ですし、小説版の方の記述としてもキューの飛び方が他の仲間たちとは違うのだということが明言されています。
つまり、キューは仲間たちと「同じ」になったのではなくて、自分なりにこれまでできなかったことをできるようになったというだけなんですよね。
個性や生まれ持った特性は自分の意志や頑張りでは変えられないものが大半です。それらは変える必要もありませんし、マジョリティに迎合する必要もありません。
しかし、自分が頑張れば、努力しさえすれば、どうにかなることなのであれば、出来ないことを「個性」だと諦めてしまわずに、出来るようになって欲しいという子どもたちに向けたメッセージを強く本作からは感じました。
他の羽毛恐竜たちは確かに空を飛んでいますが、あれはおそらく「滑空」なんですよね。
これはプテラノドンも同様ですが、鳥のように羽を羽ばたかせて飛んでいるわけではなく、グライダーのように風に乗って浮遊しているに近いわけです。
一方で、本作の物語の最後の最後でキューが体得したのは、鳥類に近い「羽ばたき」による飛行なんですよ。
だからこそ、キューが飛べるようになったという事実は単なる「仲間と同化した」ではなくて、「進化」であり、むしろ身体が小さく、尻尾が短いというハンディが好転したからなんですよね。
ここの描写が分かりにくいので、多くの人が勘違いしているのではないかと思いますね。
必死に練習し、逆上がりができるようになったのび太。
(C)藤子プロ・小学館・テレビ朝日・シンエイ・ADK 2020
きっと、彼は少しだけ成長したはずで、そして昨日までは見ることができなかった景色を目撃したはずです。
そうやって少しずつ見えなかった景色が見えるようになっていくことが、ある意味では「大人」になっていくことなのかもしれませんね。
大人の作り出した常識に子どもの想像力で立ち向かう
(C)藤子プロ・小学館・テレビ朝日・シンエイ・ADK 2020
『ドラえもん』のシリーズを通底する1つの大きなテーマは、やはり「想像力」です。
昨年公開された『ドラえもん のび太の月面探査記』では、特にその傾向が強かったような気がしました。
ディアボロ「余はカグヤ星人によって造られた。彼奴らの想像力が破壊を生み出したのだ。」
ドラえもん「想像力は未来だ!人への思いやりだ!それを諦めた時に破壊が生まれるんだ!」
(辻村深月『ドラえもん のび太の月面探査記』196-197ページより引用)
前作では、ヴィランとドラえもんを巡って、ある種の想像力というものの二面性が浮き彫りになりました。
大人たちって、やはり知識もあって、経験もあって、そしてある程度現実的に物事を捉えるようになります。
だからこそ、恐竜が現代にいるはずがないと簡単に割り切れますし、歴史は変えられるものではないと当たり前のように捉えますよね。
しかし、子どもの柔軟な想像力というものは、そういった「大人の当たり前」を時に突き動かしていくことがあります。
歴史は変えてはならない、恐竜たちは滅びる運命なのだからという「大人」の言い分に対して、のび太たちは食い下がりました。
目の前にいる恐竜たちを見殺しにできない、何とかして歴史を変えずに恐竜たちを助ける方法を見出したい、そんな課題に直面したときに彼らの無限の想像力が武器になります。
そして、彼らは研究によってもなかなか埋まり得なかった「ミッシングリンク」を埋める形で、恐竜たちを絶滅させないという新しい歴史を作り出します。
もちろん、恐竜と鳥類を繋ぐ「ミッシングリンク」というものは現実では明確に解明されるには至っていません。
しかし、今回の『ドラえもん のび太の新恐竜』は子どもたちの想像力が大人たちの当たり前に抗いうる可能性と、そしてその自由な発想が大人たちには見つけ出せなかった発見をもたらし得るという可能性を描いているといえます。
「歴史を変えない」「恐竜たちを生かす」というジレンマに対するソリューションを、子どもたちが導き出していくという構図に、熱くなりました。
2006年版と比較したアニメーションの凄み
さて、ここからは今作のアニメーション面のお話をしていきましょう。
まず、話題に挙げたいのが2006年版のリメイクなのですが、この作品はアニメーションに革命を起こしたと言っても過言ではないほどのとんでもなく尖った作画が特徴でした。
というのも、手描き風の大胆な画筆を全編にわたって採用し、さらには人物の表情や輪郭を崩すことで動きのダイナミズムを実現したのです。
ただ、この作画のスタイルがかなり賛否両論で、ドラえもんファンからは批判も多く、一方でアニメーションのファンとしては衝撃を受けた方も多いのではないでしょうか。
『のび太の恐竜2006』より引用
なぜ、この作画が批判されることになったのかと考えてみますと、それは「アニメーションの嘘」がこの作品では多くの場面で排除されていたからだと思います。
人間が激しく動いている時の様子をカメラに収めると、すごく面白い動画や画像を収めることができますよね。
例えば、走っている時の表情は歪むでしょうし、身体はブレ、そして筋肉が振動します。これを映像に収めたとして、例えばコマ送りで見たとすると、当然、瞬間瞬間では自分とは思えないような姿が映し出されているはずです。
「作画崩壊」として有名なアニメ『NARUTO』のサスケの作画も、実際は作画崩壊などでは断じてありません。
アニメ『NARUTO』より引用
これって、人物のモーションをできるだけリアルに近づけて作画しようとした際に、そういった瞬間瞬間の実写的な躍動感が反映され、輪郭や造形が乱れているように見えるというだけの話なんですよね。
そのため、アニメーションでは造形や輪郭を維持するためにある種の「嘘」を持ち込むこととなります。それは実写的なものを遠ざけ、アニメーションならではの「リアル」として確立されてきたものでもありますね。
そして、『のび太の恐竜2006』はまさしくそんな「アニメーションの嘘」をできる限り排除し、瞬間瞬間の写実的なダイナミズムを存分に作画に持ち込むことで、映像全体に躍動感を生み出そうとした1つの実験的試みだったと言えるでしょう。
さて、そこからアニメーションはさらに進化を遂げたわけですが、『ドラえもん のび太の新恐竜』は『のび太の恐竜2006』のような作画スタイルを踏襲することはなかったと言えます。
その一方で、「風」を強く感じさせるアニメーションに仕上がっており、キャラクターたちの作画が崩れることなく担保されたうえで、瞬間のダイナミズムも確かに確立されているのです。
(C)藤子プロ・小学館・テレビ朝日・シンエイ・ADK 2020
そう考えてみた時に、注目したいのは、キャラクターたちの「線」の繊細さだと思います。
ドラえもんのキャラクターたちってマンガを読んでいただければ一目で分かりますが、かなりシンプルでのっぺりとした画筆で描かれています。キャラクターの「線」もいたって単純で直線的です。
今回の『ドラえもん のび太の新恐竜』はそういったキャラクターたちの「線」をすごく細かく描き分けているんですよね。
動きが少ないシーンでは、直線的な画筆を維持しつつ、風が吹くシーンであったり、大胆に動きが生じたりするシーンでは、その輪郭線に「ディテール」を与えることにより、見ているこちら側にもその躍動感が伝わってくるわけです。
その上で、「キャラクターらしさ」の担保となり得る表情や造形が大きく崩れすぎないように配慮しているのも特徴的です。
今回はそういう意味でも、動きのダイナミズムを実現するうえで、実にバランスを意識したアプローチが取られたと言えるでしょう。
CGももちろん手間がかかるのですが、当然作画のカロリーは抑えることができるますし、背景やモブといった映像の「周辺部」で活用される機会は増えています。
今回の『ドラえもん のび太の新恐竜』はそんなCGを恐竜たちの描写に活用していました。
ただ面白いのが、そういったCGの無機物感を演出として活用している点だと思うんです。
(C)藤子プロ・小学館・テレビ朝日・シンエイ・ADK 2020
本作において、白亜紀の時代で登場する恐竜はその大半が、CGで描かれていますが、その一方でキューとミュー(とその仲間)、そしてジャイアンとスネ夫が心を交わしたティラノサウルスとトリケラトプス(の仲間)そして、小ネタとして登場したピー助に関しては、きちんと作画されています。
まさしくその通りで、今回「心を通わせることができた恐竜」を手描きタッチで仕上げ、それ以外の恐竜をCGで描写するという区分けが明確に為されていました。
ジャイアンとスネ夫が「ともチョコ」を使って、恐竜と友情を芽生えさせる描写がありましたが、チョコを食べる前はティラノサウルスもトリケラトプス(の仲間)もCGで描かれていましたよね。
ただ、心が通じ合った瞬間にそういったある種の無機物感が抜けて、手描きの温かみと親しみやすさが付与されます。
本作のアニメーションは、今の日本が作れるトップクオリティのものだと思いますし、劇場で見る価値のある映像だと思いました。
恐竜を生かして、歴史を変えてしまってないか?
皆さんのレビューを見ていると、結局恐竜を生かして歴史を改変しているので、人間がいないことになるのではないかという意見もちらほらとあるようです。
ただ、この問題についてはノベライズの方ではきちんと理由というか根拠が示されていて、それを読むとある程度解決してしまう部分はあるんですよね。
まず、あの「飼育用ジオラマセット」で作られた箱庭は、陸地からかなり離れた場所のクローズドな環境になるという設定がノベライズでは言及されています。
陸地からはかなり距離が離れているために、今のキューとミューたちの羽毛恐竜の種族の飛行能力では、陸地にたどりつくことがほとんど不可能に近いとされています。
そもそもこの島まで数匹の個体がたどり着いているからこそ、栄えているんだろという指摘もあると思いますが、ノベライズでは、あの時代を去る前にドラえもんたちが島の場所を移動させたという設定になっていますので、無理やり整合性は取れています。
要は、陸生の恐竜をクレヨンの効果で大量にあの島へと移送しましたが、そういった飛行能力がない個体があの箱庭から外の大陸へと辿り着くのが難しいということなんですね。
そして、後に鳥へと進化していくこととなるキューとミューたちの羽毛恐竜の種族にのみ大陸に到達しうる可能性が残されていると、そういうことになります。(もしくは他の恐竜たちが長い年月を経て飛行能力を身につけることとなるかですかね。)
ここでも「飛べる」ようになることが世界を広げることになるという構図が採用されているのは、重要なポイントと言えるでしょう。
映画という視覚的なメディアですから、あまり説明過多にしないようにという演出的な意図からカットしたものと思われますが、あまりにも省略しすぎてツッコミどころを生じさせているとは感じました。
あとは映画版に関して言うなれば、ピー助(または同種の恐竜)を登場させるというファンサービスをやってしまっている点で、飛べなくても水上を移動できる恐竜がいるじゃんというツッコミどころが新たに発生しています。
このあたりについては、少し映画版はやりすぎたかなぁとは思いますね。
「スパルタ教育」の肯定は描いてはいないと思う
今作についてのび太がキューに対して飛べるようにならなければというプレッシャーをかけ、ある種のスパルタ教育をしているという指摘があります。
なぜなら、今作はのび太が親の立場のあり方を疑似的に考え、試行錯誤しながら成長していく物語だからですよ。
のび太の母親は、典型的な昔の保護者という印象が強いですし、テストの点を見て頭ごなしに叱りつけるようなところがあります。ただ彼女には彼女なりの愛があります。それは分かっていることです。
そんな自分の母親を間近で見てきたからこそ、彼は自分がキューの親の立場になったときに、思わず自分の母親が自分に対してするものと同じ振る舞いをしてしまうんですよね。
ここが重要なポイントであり、同時に一時的に「スパルタ教育」てきなものを持ち込んでいると感じられる部分なのでしょう。
しかし、それはのび太が成長・変化を経る前段階の話であって、そこにスポットを当てて批判をするのは本末転倒ですし、本質を見誤っているとしか言いようがありません。
彼はある種の「スパルタ教育」をしようとして、キューを傷つけてしまいます。
ここで彼は自分には何か問題があったのだと、自分で考え、試行錯誤し、そして自分なりの「親としての在り方」を模索するんですよね。
問題発見能力・試行錯誤する力をのび太は発揮して、「自分自身の親の真似事」の一歩先を行ったんですよ。
だからこそ、再びキューの飛ぶ練習を見守る時、彼は叱りつけるのではなく、自分も一緒に逆上がりの練習をするという教育方針を打ち出します。
つまり、「見守る」「一緒に取り組む」「過度に干渉しない」という今の保護者の在り方として重んじられている要素を自分なりに見出したんですよね。
そして、キューの飛ぶための動機は、のび太に叱られたから、強制されたからではなく、最終的には彼を助けるために自分が必要だと感じたからと捉えるのが適切だと個人的には考えます。
だって、キューはのび太に叱られていた時には、結局飛べなかったわけですよ。つまり誰かに強いられて、強制されての環境では成功しなかったんです。
つまりキューの自発性が、最終的には彼の身体と心を動かしたというわけです。
そうやって紐解いていくと、どうしても本作が「スパルタ教育」的なものを肯定しているとは捉え難いと私は思いました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『ドラえもん のび太の新恐竜』についてお話してきました。
オリジナル版の土台を活かしつつ、まさかここまで物語を丁寧にアップデートしてくるとは思っていませんでした。
衝撃を受けたのは、何と言ってものび太と恐竜の関係性の描き方を変化させ、物語の力点を「別れ」から「成長」と「達成」へとコンバートした点でしょう。
これによって、のび太が「見守る側」の思いを知り、そして「見守られる側」としての決意を新たにするという多層的な成長譚に仕上がっていました。
また、見せ場の作り方も、これまでのオリジナル版や2006年版ではどうしてもピー助とのび太にフォーカスというのが通例でしたが、ジャイアンやスネ夫、しずかちゃんへのスポットの当たり方も非常にバランスが良くなっています。
終盤は少しエモーショナルに仕上げ過ぎかなとも思いましたが、ここまで思いっきりカタルシスを爆発させられると、何も言えないですね(笑)
素晴らしい、そして夏にふさわしい傑作だったと言えるでしょう。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。