みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね『ディックロングはなぜ死んだのか?』についてお話していきます。
(C)2018 A24 Distribution, LLC. All rights reserved.
ディックの股間から、花火が吹き出している冒頭の一幕を印象的に映し出しているのですが、タイトルも相まってとにかく強烈なビジュアルと化しています。
さて、今作はポスター同様、本編もそんなブラックユーモアに満ちた作品になっているのですが、監督は数々の作品から影響を受けています。
監督がインタビューの中で明かしていたのはコーエン兄弟の『ファーゴ』、テレビドラマの『ブレイキング・バッド』シリーズ、タランティーノ監督の初期作『レザボア・ドッグス』、そして大人気『ハングオーバー!』シリーズですね。
『ファーゴ』については田舎町の閉じたコミュニティで起きた殺人という設定そのものや、思わぬトラブルの連続がユーモラスに登場人物が墓穴を掘っていく展開などが非常に似ています。
『ブレイキング・バッド』シリーズは家族に対して嘘をついてしまったことが、家族を巻き込んだ大きな波乱へと繋がっていくということで、嘘をつくに至る動機は違えどシチュエーションは似ていますね。
OP直後にそこで起きた事件が意図的に切り抜かれ、いきなり血にまみれた後部座席が映し出されるという演出は明らかに『レザボア・ドッグス』を意識していたでしょう。
また、『ハングオーバー!』シリーズについてはコメディメイドに大人たちが、子供染みた方法で嘘を貫き通そうとするというシチュエーションがそっくりですし、監督自身も今作『ディックロングはなぜ死んだのか?』が『ハングオーバー!』シリーズへのアンサーにもなっていると明言しています。
それだけではなく、馬と人間の性交について描いた『Zoo』というドキュメンタリーメイドな映画が今作とすごくリンクしているようには感じられます。
この映画は、馬との性交に興じて、大腸が破裂して命を落とした人の話などを扱っているのですが、それってまさしく今作におけるディックのことですよね。
とまあ、こんな具合にたくさんの映画からの影響が見られる1本になっており、非常にシニカルなユーモアが全編にわたって染み込んだ作品に仕上がっていました。
今回はそんな本作について自分なりに感じたことや考えたことをお話していこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『ディックロングはなぜ死んだのか?』
あらすじ
売れないバンド仲間のジーク、アール、ディックは、「ピンクフロイト」として活動はしているものの、練習にやる気はなく、練習後に羽目を外してバカ騒ぎをしていた。
ある夜、いつものように練習後にバカ騒ぎをしていた3人。股間に噴射式花火を挟んで噴射してみたり、キャンプファイアに小便をひっかけてみたりと子供染みた奇行を繰り広げていた。
しかし、シーンが飛んで車の中のカットへと移ると、突然ディックが下半身に大量の出血が見られ、瀕死の重傷を負っているのだ。
ジークとアールは、彼を救急病院に当然連れて行く…と思いきや、病院に連れて行くかどうかで激しい口論を繰り広げている。
そして迷った挙句に、病院の緊急患者搬送口のところにぐったりとしたディックを放置して、その場を去ることに決めた。
ディックは、意志に発見されて運び込まれるも、そのまま命を落としてしまい、検視の結果「激しいレ〇プ行為」によって死に至ったと断定される。
ジークとアールは、ディックを殺害したわけではないはずだが、何かを隠そうとして、必死に証拠の隠ぺいに取り掛かる。
しかし、捜査を進める地元の警察を前に、墓穴を掘っていき、次第にあの夜の出来事が明るみに出ていくこととなるのだが…。
スタッフ・キャスト
- 監督:ダニエル・シャイナート
- 脚本:ビリー・チュー
- 撮影:アシュレイ・コナー
- 編集:ポール・ロジャース
- 音楽:アンディ・ハル&ロバート・マクダウェル
『スイスアーミーマン』で監督・脚本を担当し、高く評価されたダニエル・シャイナートが今作の監督を務めました。
脚本には、ビリー・チューが起用されていますね。
撮影にはアシュレイ・コナー、編集にはポール・ロジャースといった経験のあまりないスタッフ陣が目立ちます。
A24の作品が凄いという人はかなり多いのですが、配給作品と制作作品の区別をつけていない人が多い印象は受けます。
配給作品はもちろん多いのですが、その一方で制作作品となるとかなり数は絞られてきます。
そして『ディックロングはなぜ死んだのか?』は配給・制作がA24の作品なんですよ。
そういう意味で、今作のような知名度的にはあまり高くないクリエイターたちが作り上げた「面白い企画」をしっかりと完成まで支援するA24のポリシーが垣間見える作品とも言えるのではないでしょうか。
また、『スイスアーミーマン』のアンディ・ハル&ロバート・マクダウェルのコンビが劇伴音楽を提供しています。
- ディック・ロング:ダニエル・シャイナート
- ジーク・オルセン:マイケル・アボット・Jr
- リディア・オルセン:ヴァージニア・ニューコム
- アール・ワイエス:アンドレ・ハイランド
- ダドリー巡査:サラ・ベイカー
- ジェーン・ロング:ジェス・ワイクスラー
- シンシア・オルセン:ポピー・カニングハム
- スペンサー保安官:ジャネル・コクラン
本作の中心人物にもなるディック・ロングについてはダニエル・シャイナート監督自身が演じています。
と、キャストを眺めておりましても、正直全く知らない面々…。
こういった新進気鋭のスタッフ・キャスト陣で、しっかりとした映画を作り上げていく試みを支えていくA24という会社の色が濃く出た作品とも言えるでしょうか。
暴く側と暴かれる側という単純な構図のはずなのに
(C)2018 A24 Distribution, LLC. All rights reserved.
今作を刑事や保安官の側から見たとすれば、至って普通のクライムサスペンスのような構図になることは間違いありません。
刑事や保安官、そして今作には登場しませんが探偵といった人種は、基本的に「暴く」ことがその主たる目的であり、暴いたことによって何が起きるのかというのは大きな問題足り得ません。
あくまでも真実を明るみに出すというのが彼らの至上命題なのです。
しかし、この映画はジークとアールという「暴かれる側」にフォーカスして、物語を進行させていきます。
ただ、これだけであれば「暴く」「暴かれる」の構図は崩れないはずで、単純に視点が変わっただけという範疇に収まるはずですよね。
『ディックロングはなぜ死んだのか?』という作品がそうはなっていないのは、「暴かれる側」が警察や探偵が通常であれば追い求める罪人ではないが故なんです。
ジークとアールはディック・ロングの死に関与してしまったのは事実なのですが、結局のところ彼は自分で馬と性交するという選択をして、それが原因で命を落としたわけですから自業自得に近いわけですよ。
そう考えた時に、今作が一般的な「暴かれる側」が罪人であるが故に成立するクライムものの範疇には収まらないということが明白になります。
ジークとアールは、確かに自分がディック・ロングの死に関与してしまったことを隠しておきたいわけですが、それは自分たちが馬と性交に興じる以上性癖の持ち主であるという事実を明るみに出したくないが故です。
そのため、「暴かれる側」の立ち位置は、犯罪に関連してというよりは、もっとパーソナルなレイヤーに置かれています。
また、「暴く側」の警察にもスペンサー保安官という特異な存在がいることを忘れてはいけません。
彼女は、「暴く側」の存在であるはずなのに、長年の経験かはたまた直感からなのか、この事件についてはあまり「暴かない方が良いのではないか」とすら思っています。
現に、ディック・ロングの死にジークが関与していないことが分かった後には、彼の罪状をマスコミに発表することはせずに穏便に済ませていました。
通例、探偵小説に端を発するような「暴く」「暴かれる」の物語には、失われた死の足跡を辿り、その謎を解明することで「死」した人間の尊厳を取り戻していくという側面があります。
探偵小説批評の重鎮、笠井潔氏は、探偵小説の黄金期の到来には、第1次世界大戦という人類の大惨禍が関係していると指摘しました。
戦争によりたくさんの人の死が記号的に飛び交う中で、1人1人の「死」に焦点を当て、「死」という記号に、誰の、誰によって、なぜ、といった情報を付与していくことで、その「死」を単なる記号的なものという束縛から解放していく役割を担ったと考えたわけです。
その点で言うなれば、『ディックロングはなぜ死んだのか?』はこの論理から大きく外れた作品と言えるかもしれません。
なぜなら、ディック・ロングの死に関しては「暴かれる」ことによって、たくさんの人が不幸になってしまうからですし、何より彼自身の尊厳が間違いなく失われてしまうからですよ。
本来であれば、名も無き「死」に尊厳を取り戻そうとする行為が「暴く」ことのはずなのですが、今作に関しては「暴く」ことがかえって尊厳を奪うことにリンクするという実に奇妙な構図を作り上げているわけです。
これにより今作は、単純な「暴く」「暴かれる」の構図で作られた作品でありながら、従来的なコンテクストの枠には収まらないという興味深い作品と化しています。
無知の上のささやかな幸福とその崩壊
(C)2018 A24 Distribution, LLC. All rights reserved.
今作を見ていると、人間の幸福というものが多くの無知の上に構築された不安定で脆いものだということを感じます。
「知る」という行為は、間違いなく自分の見える世界を広げてくれるものですし、元来人間というものは、そういった知的好奇心の下に文明を進化させてきた生き物です。
その一方で、人間は多くを「知らない」ことによって、今の幸福を実現している、成立させているという見方もできるんですよね。
当ブログ管理人は、中学生の頃に職業体験で牧場ないし畜産試験場のような場所を訪れて、そこで食肉の生産の現場の一端を垣間見ました。
実際に家畜に触れて、世話をして…。もちろん中学生ですから家畜が食肉になるまさにその瞬間を目撃したというわけではないのですが、そういった生き物が私たちが普段何気なく食べている食肉になるんだという生々しいリアルに触れてしまったような感触があったのです。
その結果、しばらく肉を食べるのが恐ろしくなりましたし、今でも一部の食肉は食べることができずにいます。
この私の身に起きた出来事というのも、「知らず」にいたからこそ当たり前のようにできていたことが、「知ったこと」によって以前のようにはできなくなってしまうという1つの例なのかなと思いました。
『ディックロングはなぜ死んだのか?』を見ていると、当然冒頭で、ディック・ロングが大量に出血し、ぐったりとしていくまでの経緯がすっぽりと抜け落ちているわけで、私たちはそれを「知りたい」と本能的に感じるわけです。
ジークとアールにさっさと墓穴を掘って、真実を明るみに出してくれよ!だとか、警察はもっと頑張って真相を暴いてくれよ!と当然思いますよね。
そういった知的好奇心を持って、ワクワクしながら作品を見進めていくと、突然冷や水を浴びせかけられることとなります。
それはもちろん、ディック・ロングの死ないし、それを隠したがっていたジークとアールの動機があまりにも強烈なものだったからです。
ジークは自分の妻に、その真相を打ち明けざるを得なくなり、その結果として家族から追放される憂き目にあっています。
「知ら」なければ、きっと彼らはこれからも家族でいられたはずなのですが、「知って」しまった以上、もう以前のように一緒に暮らすことはできません。
この『ディックロングはなぜ死んだのか?』という作品は、「知る」という行為の恐ろしさと不可逆性を強く印象づける作品となっています。
「知る」ことによって、自分が幸福になれるかもしれませんし、逆に不幸になるかもしれません。しかし「知って」しまった後で、「知らなかった」頃の自分に戻ることがどうしてもできません。
つまり、自分の「知る」という選択や決断がもたらす影響や結果を知らないままで踏み込まなくてはならない上に、踏み込んだら最後、今自分が立っている場所に戻ることは叶わないというわけです。
同時に、私たちの生活や幸福がそういったたくさんの「無知」の上に成立している非常に脆いものだということも痛感させられます。
その一方で、『ディックロングはなぜ死んだのか?』は「ポスト知る」の世界にも言及し、仄かな希望と共に幕を閉じます。
もう元には戻れなくなった彼らが、それぞれの場所で再び生活を取り戻し、そして自分たちなりに幸せを取り戻していくのだろうと予感させる結末になっているわけです。
女性にスポットを当てた映画として
(C)2018 A24 Distribution, LLC. All rights reserved.
今作を読み解く上で、もう1つ重要になって来るのが近年、映画界でも大きなトピックとなったMe too運動でしょうか。
というのも、今作は白人男性3人が表では普通の人間として振舞いながら、その裏で以上性癖に興じていたことを明るみに出していくという展開になっています。
そして、今作において男性陣の悪行を暴いていく側にいる人間は警察側の人間もそうですし、ジークの妻や娘であったりと、全員が女性なんですよね。
そんな女性たちの追求により、男性がこれまで裏でこそこそとやって来た異常な性癖を明るみへと引きずり出していく様が描かれているわけですから、Me too運動のコンテクストにも通ずるところがあります。
ただ、この作品は、最終的に3人が馬と性交に興じる以上性癖であるという事実をマスコミに発表して大々的に取り扱うということはしませんでした。
スペンサー保安官は、結局のところ秘密を秘密として守り通したんですよね。
ただ、今作において大切なのは、嘘を隠し通すことに対する動機づけが大きく変化しているということではないでしょうか。
まず、ジークとアールが必死にディック・ロングの死と自分たちが関係がないことを明確にしようとするのは、結局のところ自分たちのためでしかないんですよね。
家族のためにということであれば、家族の生活には欠かせないものであるはずの車を自ら水に沈めるなんてことはしないでしょう。
車を沈めるという行為は1つ象徴的なものだったと思いますし、あれはジークが他でもない自分自身の保身のために、家族を切り捨てることも厭わないという姿勢を見せてしまった一幕なのだと感じました。
しかし、スペンサー保安官が最終的に秘密を公開しない決断をしたのは、彼らのためではありません。
むしろ彼らの秘密が明るみになることによって、世間から好奇の目に晒されるであろう、他の家族のためなんですよね。
ここの「秘密を守る」という行動に対する動機づけが大きく作品の中で変化したことは注目すべきポイントでしょう。
ジークはそれでも、妻と娘とやり直したいと願いますが、2人がそれを受け入れることはありません。
Me too運動以前の世界の根幹にあったのは、秘密を暴露すれば、それを妄言だと握りつぶされ、女性がその業界を追われ、権力を持っている男性はその世界に留まり続けるだけだという固定化された構造です。
だからこそ、『ディックロングはなぜ死んだのか?』は女性はこれまで自分たちが生きてきた世界で暮らしていく保証が為され、逆に男性の側がその世界を追われ、別の場所を求めざるを得なくなるという結末を用意しています。
ただ、男性を悪役として放り出して終わりかと言われると、そうではなくて、これまでの居場所を失った男性たちが別の場所で、小さな再始動をする一幕をもエンドロールのところで描いていました。
そこにこの映画のフェアな視座が感じられたのも、個人的には良かったと感じています。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『ディックロングはなぜ死んだのか?』についてお話してきました。
序盤は、アリバイ作りがことごとく裏目に出て行くジークたちのドタバタを笑いながら見ていたのですが、真実が明らかになると一気に空気が凍りつくんですよ。
そのヒリつくような「温度差」を1つの映画の中でここまでくっきりと作り出しているのは素晴らしいと思いますし、それが今作の主題でもある「知る」という行為の恐ろしさや不可逆性を強調しています。
タイトルからして、ぶっ飛んでいるのですが、作りはものすごく緻密でタイトなものになっていると思いました。
ぜひ、劇場でご覧になっていただきたいです。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。