みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『糸』についてお話していこうと思います。
中島みゆきさんの名曲『糸』をベースに作られた物語ということで、楽曲が好きな自分としては、どんな作品になるのかが気になるところではあります。
「縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は いつか誰かを 暖めうるかもしれない」というサビの歌詞は本当に天才的としか言えないですよね。
もちろん歌詞の中で「ふたつの物語」と言っているので、大切な私とあなたの物語というミニマルなものとしても捉えることはできるでしょう。
その一方で、今回の映画『糸』はもう少し広い視野での解釈をも持ち込んでいる印象を受けました。
それは、2人だけではなく、彼らと出会った全ての人との関わりがあって、初めて2人が結ばれる運命が訪れるのだという視点です。
誰か1人でも欠けていたら、この運命の糸を手繰り寄せることはできなかったかもしれないという人との出会いや小さな選択や決断の連続と連鎖をこの作品は平成史を包括する形で描き切っています。
小説版を読んでいると、1つの視点からの物語というよりは、登場人物の独白で全編が構成されるような形になっており、映画でこれをどう表現するんだろうかという疑問は残りました。
その点を瀬々監督がどうアレンジしてくるのかにも注目したいところです。
一方で、最近こういった日本の楽曲から着想を得た映画が増えていますよね。
『小さな恋のうた』『雪の華』『愛唄』など、去年と今年に絞ってもかなりの数が公開されていて、何かのブームなのかな?と思っている次第です。
ちなみに当ブログ管理人としては『小さな恋のうた』が一推しですので、こちらはぜひチェックしてみてください。
さて、ここからは当ブログ管理人が本作を見ながら感じたことや考えたことを綴っていけたらと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
映画『糸』
あらすじ
漣は小学生の頃の花火大会で偶然出会った葵という少女に運命めいたものを感じる。
学校は違っていたが、彼女に声をかけ、一緒に帰るようになり、自分が出場しているサッカーの試合を見に来てもらうほどになる。
そして、漣は彼女に告白し、彼女もその思いを受け入れるのだが、葵は複雑な家庭環境の下に育っていた。
母親は夫と死別したことをきっかけに次々に新しい男を家に呼び込むようになり、葵はそんな男たちの1人から暴力を振るわれるようになった。しかも母親は葵が悪いのだと告げ、彼女をネグレクトする始末である。
近所の人が、児童相談所に相談していたが母親が虐待を否定したこともあり、踏み込むことができずにいた。
そうして、ある日突然、葵は町から姿を消してしまう。
中学生になった漣は友人から、探し続けていた葵の所在地の情報を聞きつけ、彼女を連れて美瑛のロッジに立て籠もろうとする。
しかし、中学生の逃避行はわずか1日で終わりを告げ、2人は引き離され、葵は東京へと旅立ってしまう。
それから月日は流れ、8年が経過してお互いが成人した頃に、友人の結婚式で2人は再会する。
「あの日」のまま止まっていた2人の運命の歯車が再び動き出そうとしていた…。
スタッフ・キャスト
- 監督:瀬々敬久
- 原案:平野隆
- 脚本:林民夫
- 企画プロデュース:平野隆
- 撮影:斉藤幸一
- モチーフ曲「糸」作詞・作曲:中島みゆき
- 音楽:亀田誠治
- 主題歌:中島みゆき
瀬々敬久監督って題材にもよるとは思うんですが、とにかく出来不出来の差が激しすぎて、耳がキーンなりそうです。
で、フィルモグラフィを見ながら思ったのは、大作映画向きではないんだろうなという印象です。
大作映画はどうしても観客の間口を広くしなければならないということで、説明的にならざるを得ない部分も多々あります。
そういう作劇になったときに、すごく苦しそうな印象を受けますし、『64』や『友罪』なんかは、そのギャップに葛藤していたような気がしました。
また、ジャンル的なミスマッチもあり、邦画史に残る駄作となった『ストレイヤーズクロニクル』彼の監督作です。
しかし、その一方で『8年越しの花嫁』や『ヘヴンズストーリー』のような傑作を生み出しているのもまた事実です。
そう考えてみた時に、個人的には今回の『糸』は、「ハズレ」の方に分類されるのではないかという危惧は鑑賞前には強く持っていました。
映画の前にノベライズを読んでいたのですが、これが登場人物のモノローグによって展開される明らかに「説明調」な作劇だったのです。
脚本には『永遠の0』をはじめとした数々の大作映画を手掛けてきた林民夫さんが起用されています。
また、撮影には『64』や『8年越しの花嫁』の斉藤幸一さんがクレジットされていますね。ここは期待しております。
- 高橋漣:菅田将暉
- 園田葵:小松菜奈
- 高木玲子:山本美月
- 冴島亮太:高杉真宙
- 後藤弓:馬場ふみか
- 村田節子:倍賞美津子
- 桐野昭三:永島敏行
- 山田利子:二階堂ふみ
- 竹原直樹:成田凌
- 水島大介:斎藤工
- 桐野香:榮倉奈々
- 佐々木:片寄涼太
キャストの面々を見ているとちょっとした役でも、主演級のキャストが起用されていて、すごくお金のかかった映画なのだろうなという印象を受けました。
まず主演の2人は菅田将暉さんと小松菜奈さんですね。
映画では『溺れるナイフ』以来の共演となりましたが、どうやら交際報道も出ている様で何とも微笑ましいです。
しかも今回の映画ってどことなくポスト『溺れるナイフ』の物語にも思えるので、個人的にはこの2人を主演に抜擢してくれたことを嬉しく思います。
葵が人生の中で出会っていくキーパーソンたちを演じるのは、山本美月さん、高杉真宙さん、斎藤工さんと全員主演級の超豪華キャストです。
一方で漣が出会うキーパーソンたちにも榮倉奈々さんや片寄涼太さんといった面々が起用されていて、本当に豪華ですね。
このキャストの面々を見ているだけでも映画を見たくなるくらいに魅力的です。
映画『糸』感想・解説(ネタバレあり)
平成史を丸ごと内包する壮大な運命の物語
『糸』予告編より引用 (C)2020映画「糸」製作委員会
今作は、平成元年に生まれた主人公2人が、紆余曲折を経て平成最後の日にお互いの気持ちを確かめ合うところまでを描き切るかなりスケールの大きな作品となっています。
漣と葵、そしてそれを取り巻く人たちの激動の30年間にスポットを当てた「人間の物語」でありながら、平成の時代に起きた様々な事件や社会問題、災害が彼らの人生を翻弄していく「セカイの物語」の側面も兼ね備えています。
まず、漣と葵が中学生の頃、2人は家出をして美瑛町のロッジに隠れていました。その時に流れていたラジオで2001年(平成13年)に起きた同時多発テロについて言及されていました。
家出の描写は、どことなく新海誠監督の『秒速5センチメートル』を想起させるのですが、この時の2人は、そんな世界の一変させた大きな事件を「遠くの出来事」として捉えていました。
これから世界がどうなろうと、たとえ酷い時代なのだろうと、今、漣が考えなければならないのは二人のこれからのことだけだった。
(『糸』ノベライズ版より引用)
この時点では、こういった平成史を大きく揺るがせるような大事件が彼らの「閉じた物語」には影響を与えることはありません。
しかし、大人になり、2人がそれぞれの道を歩むようになると、そうした「セカイの物語」が彼らの小さな物語に確かに影響を及ぼし始めます。
それは例えば「リーマンショックに伴う大不況」であったり、「東日本大震災」であったりという形で、人々の物語に介入していくのです。
本作のタイトルは中島みゆきさんの名曲『糸』から取ってきているわけですが、このように大きな物語と小さな物語が縦糸・横糸の関係で折り重なっていくことにより、1つの物語を構築されるように設計されているんですね。
そこがこの『糸』という作品の面白さでもあり、平成史を内包する物語として描かれた意義だとも思うのです。
「何でもない人たち」の物語に目を向けて
『糸』予告編より引用 (C)2020映画「糸」製作委員会
当ブログ管理人としては、あまりその作品の主題になるようなことを言葉で明確に行ってしまう作品が好きではありません。
そのため『糸』のノベライズ版を読んだときに、終盤に村田節子(映画版では倍賞千恵子さん演じる)が、インタビューに答えるような形で、本作のテーマめいたことをセリフで語り出した時は頭を抱えました。
映画版でここが少しでも改善されていると嬉しいのですが、果たして…。
ただ、そのセリフの内容は非常に重要と言いますか、平成が過ぎ去って令和の世を迎えた今だからこそ改めて考え直すべき内容だと感じました。
昔のようにあきらかに暴力をふるうような人間とか、社会から逸脱した人間とかじゃないんだよ。ちゃんとした会社勤めしている普通の人間なんだ。毎月、給料をもらって、平凡な暮らしをしている連中なんだよ。金がないわけじゃない。それなのに子供を放置するんだ。社会と繋がってるはずなのに、どこにも繋がっていないように私には見えるけどね。
(『糸』ノベライズ版より引用)
最近も仕事に行かざるを得なくなって、母親が子どもを家に残して出てしまったことにより、子どもが亡くなったという事例がありましたよね。
ニュースなどでは、やはりこうした貧困や特別な事情を抱えている家庭で起きた虐待やネグレクトといったものに注目が集まりやすい側面はあります。
映画などが虐待やネグレクトを取り上げる際に、両親がいわゆる「普通」であることって基本的にはなくて、だからこそ映像として見た時に、劇的で印象に残りやすいのです。
その一方で、日本の社会にはそういったスポットの当たらないところで、村田節子が指摘するような緩やかな子どもの放置が蔓延しているようにも思えます。
暴力をふるうわけでは決してないのですが、仕事や日々の生活に忙殺され、生活を何とか維持しようと奮闘する中で、子どもが無意識的に「放置」されてしまうというケースです。
虐待やネグレクトは身体的・精神的に及ぼす影響が大きく、外部からもその実情がある程度見て取れることもありますが、こういった緩やかな「放置」によってもたらされる子どもの孤独感はじわじわと長い年月をかけてその影響を顕在化させていくものだと思います。
だからこそ、気がつきにくいし、親もすぐに明確な影響が見られないがために鈍感になってしまうケースがあるでしょう。
ただ、かつてはそういった「普通の人たち」がコミュニティを形成して、小さな共同体単位で社会とのリンクを確立していました。
もちろんそういったある種の「村意識」のようなものが生む問題も少なくはありませんが、それでも村田節子が指摘するように、共同体として子供を育てていくという感覚が確かにあったわけです。
そういう個人の糸と糸が織りなすことで形作られていた「布=共同体」が平成後半に向かうにつれて、どんどんと壊れていってしまったわけですよ。
それ故に、彼女はそうした孤独に生きる「糸=普通の人たち」がもう一度「布=社会、共同体」と繋がっているのだという感覚を取り戻せるようにしていくことが重要だと語るのです。
人には物語が必要なんだよ。自分の人生は成功した人々に比べれば、小さなものかもしれない。でも自分の仕事を全うし、懸命に生きて来た。それなりによくやったじゃないか。そんな物語がね。
(『糸』ノベライズ版より引用)
だからこそ、今回の『糸』という作品は、社会に生きる小さな個人の物語の集合体として物語を形作っています。つまり独白が折り重なることで1つの大きな物語を構築しているというわけです。
そうした物語構成には、間違いなく劇中で村田節子が指摘した「普通の人間の物語が必要だ」という側面が絡んでいるように思います。
もちろん彼女は、この考えの中で、日本の社会は少し昔に戻るべきだなんて主張しているわけで、そこには一抹の危うさも孕んでいるようには感じました。
それでも、人と人とのつながりが、人と社会とのつながりが解けそうになっている今だからこそ、こうした物語が必要とされているのかもしれません。
自分が誰かと繋がって生きていること。社会と繋がって生きていること。そんな感覚を本作を鑑賞していると実感できるような気がしました。
平成を取り巻く「セカイ系」のコンテクストから
『糸』予告編より引用 (C)2020映画「糸」製作委員会
平成を振り返ったときに、物語における1つの形として存在していたのが「セカイ系」と呼ばれるものでしょうか。
この括りには、明確な定義があるわけではなく、諸説はありますが、ざっくりと説明してしまうと個人の小さな運命が、世界の大きな運命とリンクしているといった構図が取り入れられた物語のことと言われるケースが多いですね。
冒頭にも書きましたが、『糸』の序盤で描かれる漣と葵の逃避行の描かれ方は、「セカイ系」の旗手の1人でもある新海誠監督の『秒速5センチメートル』を強く想起させる作劇となっています。
そして、彼らはまだ中学生ということもあり、すごく小さな世界に生きていたと思います。
漣の周囲の人間は、幼少の頃の彼を評して、全能感に満ちていたと語っていましたが、まさしく彼はそんな自分の小さな世界でなにものにも縛られずに自由に生きられていたのでしょう。
しかし、彼のそうした世界は葵を助けることができなったというたった1つの事実によって瓦解していきます。漣にとっての葵は、彼にとっての全てだったと思いますし、そんな彼女を大人たちの手で奪われてしまうことに、強い無力感を感じたのは必然でしょう。
そうした全能感を失った漣は、常に何かを諦めるようにして生きる人生を送り始めます。
一方の葵も何とか自分の力で生きてやるんだという意志を持ちながらも、キャバクラで働き始めた頃から自分の目標や進むべき道を見失い、人生を諦めかけていました。
そんな時に、彼らを救ってくれたのは、周囲の人たちですよね。
これまで漣と葵は、お互いがお互いにとっての「セカイの全て」だったわけで、それ故にその喪失を埋められずにいました。
しかし、2人は別々の場所で成長し、全く違う交友関係を結び、社会コミュニティと繋がっていく中で「セカイ」が急激に広がっていくこととなります。
そうした「セカイ」の広がりに伴って、漣と葵は「あの日」から解放され、自分たちの日常を生き抜く覚悟をしました。
作品の中盤で描かれた漣が香と結婚し、美瑛での普通の生活を選択したという描写がその決定的な証明と言えるでしょうか。
ただ、幸福なことばかりが自分の身に降りかかるわけではなく、登場人物たちは多くの喪失感を抱えて生きていくこととなります。
漣は最愛の妻である香を失い、彼の友人である竹原は妻が東日本大震災によって精神的な不調をきたし、葵は自らが必死に立ち上げたシンガポールでの事業を失いました。
誰しもが、焦点化してしまうと、その人にとっての全てと呼べるようなものを物語の中で喪失しているんですよね。
しかし、そこからの登場人物たちの行動や心情の変化が、冒頭の漣と葵の閉じた「セカイ」でのそれと対比的に描かれることによって、物語の本質が顔を出します。
彼らは自分の全てと呼べるようなものを失いながらも、人と関係を結び、社会と繋がり、そしてその喪失感に向き合いながら生きていこうとするのです。
糸というものは1本で存在しているとたちまち切れてしまいますが、それが折り重なって布になると、強度を増します。
それこそがある種の平成を象徴する「セカイ系」コンテンツが有したコンテクストに対する1つのアンサーのようにも感じられたんですよね。
物語のラストでは、漣と葵が再会し、そして関係を結び直していくことへの確かな予感と共に物語は幕切れます。
それは冒頭の小さな「セカイ」の中でお互いのためだけに生きようとしていた2人の再会ではありません。
社会という大きな世界の中で苦悩と葛藤を重ねながら、大切なものを失いながら、それでも必死に生き抜いてきた2人の再会なのです。
大人になって、自分と世界(社会)との関係を結び直した2人が、それでも選択した再会だからこそ、今作のラストには価値があると私は思っています。
平成という「当たり前」が崩壊した時代を背景に
さて、今作が物語の中で、特に大きく扱っている事象は次の3つです。
- アメリカ同時多発テロ
- リーマンショック
- 東日本大震災
それは、当時の世界や社会の「当たり前」を完全に崩壊させ、その出来事が起きる前と起きた後では、社会が大きく変化した出来事という点ではないでしょうか。
アメリカ同時多発テロに対して、当時世界の覇権を握っていたアメリカは衝撃を受けたことでしょうし、世界中の人々がワールドトレードセンターのビルディングが崩壊していく様を見ながら、何か恐ろしいことが起こっているということを感知したはずです。
そこからテロリストという集団が世界的に認知されるようになり、アメリカは対テロ戦争をスタートさせましたし、世界の社会構造がテロリストの存在を前提としたものへと変化していきました。
芸術の側面で見ても、ポストモダン文学と呼ばれる作品群は、「大きな物語の崩壊」「これまでの当たり前の脱構築」という形で、ポスト9・11の「小さな物語」を描き出すようになっていったわけです。
リーマンショックは、世界の経済に計り知れない影響を与え、日本にも計り知れない影響を与えました。
株価は大暴落し、私たちが半永久的に存在し続けるだろうと信じて疑わなかったような規模の大企業が次々に倒産し、私たちに「当たり前」に存在し続けるものなどないと強く印象づけました。
東日本大震災は、日本人にとっては平成の中でも最もショッキングな出来事の1つでしょう。
2011年のあの日、テレビを見ながら、私たちの日常というものがこんなにも簡単に、そして一瞬で崩れ去ってしまうものなのかと絶望したのは忘れられません。
こうした3つの出来事が私たちに強く感じさせられるのは、平成という時代は「当たり前」が崩壊した時代だったということなのだと思います。
これは言い換えると、ある種の「必然性」「絶対性」が信用できなくなった時代ということであり、それを恋愛に持ち込むなれば「運命の~」が失われた時代ということなのかもしれません。
「運命の人」というのは、天命により定められた「結ばれることが決まっているパートナー」のことを表しています。
しかし、社会を取り巻くそうした「当たり前の崩壊」というコンテクストが、「運命の人」の存在を信じるような恋愛の在り方を否定してしまったのではないでしょうか。
絶対なんて、必然なんてことが存在しない時代なのだから、そんなものの存在を信じるなんて馬鹿らしいと一笑に付されてしまうような時代になってしまったわけです。
だからこそ、本作『糸』は平成という時代を包括する物語として描かれ、そのラストに「運命」を取り戻す、信じることの尊さを改めて描こうとしたのではないでしょうか。
絶対や必然が失われた時代で、それでも絶対や必然信じてみる。
実は、今作は主人公2人の物語としてもミニマルな「運命の~」の崩壊と奪還という流れで描かれています。
小学生・中学生の頃は漣と葵はお互いが運命の人だと信じて疑っていなかったはずです。
しかし、それが冬のロッジの逃避行の顛末を機に崩壊し、2人は「運命」の存在を信じられなくなり、それぞれの人生を選択しましたよね。
そこから長い長い時間を経て、2人は平成の最後の最後にもう一度だけ「運命」の存在を信じ、走り始めるのです。
平成日本という視点見ても、漣と葵の物語という視点で見ても、本作は失われてしまった「運命の糸」という青臭い絶対性をもう一度信じて見ても良いんじゃないかというメッセージが込められた作品なのではないでしょうか。
映画としては2020年ワースト級
ここまでは、本作の物語的な意義や構成の面白さについて語ってきました。
ただ、それらを語った上で改めてお話しておきたいのは、今作は「映画としては」最悪すぎる出来であるという点です。
①役者の演技への依存度の高さ
これは役者さんたちの演技が素晴らしかったとほめ褒めるべきなのでしょうが、あまりにも演出や編集が不甲斐なさ過ぎて、思わず頭を抱えました。
ノベライズを読んだ時点で、既に物語のスケールが大きすぎる問題はひしひしと感じ取っておりましたが、映画は2時間尺ですので、そんな小説版で描かれていた内容がさらにカットされています。
そうなると、ただでさえダイジェスト感の強い物語なのに、より一層各キャラクターの物語がぶつ切り編集で繋がれることとなり、物語の「糸」が完全に断線してしまうんですよ。
頻繁に物語の時間軸や場所、視点が変わってしまい、どのキャラクターにも感情移入できないままに進んでしまうのが、本作の作劇における最大の欠陥です。
ただ、映画『糸』に関して言うなれば、そういった映画的な欠陥を、役者陣の熱演が瞬間瞬間で補完していて、そのシーン単体で「泣ける」くらいのクオリティに仕上げてくれています。
葵が叔父さんの家で亡き母の仏壇を前にした時の表情。インドネシアで友人に裏切られながらも必死に自分は大丈夫だと言い聞かせかつ丼を食べる時の空気感。
あんな演技を見せられたら、もはや前後のコンテクストがしっかりと繋がっていなくても泣けてしまうんですよね。
よくよく考えたら、葵と彼女の母親の物語なんて大して掘り下げられていませんし、彼女がインドネシアで起こした事業についてや友人であり共同経営者だった玲子との関係性もほとんど描かれていません。
それにも関わらず、上記の2つのシーンでは小松菜奈さんの演技の凄みに圧倒されるわけですよ。
ただ、そういったシーンごとのエモーショナルが、編集によってぶつ切りにされて1本の「糸」のように繋がっていかないのが、今作の難点です。
②肝心の主題歌「糸」の使い方の下手さ
本作は冒頭にも書きましたが、中島みゆきさんの名曲『糸』に着想を得た物語です。
ただ、楽曲の使い方が本当にハマっておらず、個人的には残念な印象を受けました。
その最大の問題は、この『糸」という楽曲を物語のどのレイヤーに配置しているのかが明確でなかったという点なのだと思います。
今作では3回「糸」の楽曲が登場します。
1回目はノベライズだとラジオの有線放送で流れていたという設定だったのですが、映画版では明らかにただの劇伴音楽的な使い方になっていました。
一方で、2回目は小松菜奈さん演じる葵がシンガポールで泣きながらかつ丼を食べるシーンにて、彼女がいる屋台のBGMとして偶然「糸」が流れるという設定でした。
しかし、3回目のクライマックスの場面での「糸」は再び1回目と同様にただの劇伴音楽になっているんですよね。
つまり、漣と葵にとって「糸」という楽曲が何を意味しているのか、どんな意味を持っているのかが、この演出では分からないんですよ。
例えば、1回目のシーンでラジオから流れていたのが「糸」という演出が明確であれば、2回目のシーンにてシンガポールの屋台で「糸」を聴いた彼女が漣を思い出すのは必然の流れです。
加えて、3回目のクライマックスのシーンで、例えば平成が終わるということで港で開催されていたイベントのBGMを偶然「糸」にするなどしておけば、2人がお互いにあの場所にいるのではないかと察知する1つのシグナルとしても機能したでしょう。
こういう物語の中における楽曲の位置づけが為されていないために、「糸」という楽曲をこの物語で用いる必然性が薄くなってしまっているのです。
今作には、同じく中島みゆきさんの名曲「ファイト!」が登場します。
これについては、再婚を躊躇っていた竹原が香に歌ってもらい、背中を押された歌としての1回目の登場。そして彼が東日本大震災により精神的に滅入ってしまった妻とそしてそんな彼女に向き合う自分を鼓舞しようとして歌う2回目の登場という点できちんと「位置づけ」が明確なんですよ。
正直、「ファイト!」のシーンの方が二階堂ふみさんの圧巻の演技も相まって感動したので、映画のタイトルも『ファイト!』にしたら良いんじゃないかとすら思いました。
③ラスト5分以外がもはや不要
この『糸』という映画が激ヤバ案件である最大の理由は、そのラスト5分の演出にあります。
先ほども述べたように、今作はあまりにも全体のダイジェスト感が強いことと、編集がぶつ切りすぎることによって、物語の「糸」が頻繁にぶった切られています。
しかし、本作のクライマックスでは何とかそんなぶつ切りになった「糸」たちを拾い集めて、織りなして、何とか「布」に見せかけようとしてくるんですよ。
物語のほとんど最初から最後までの回想シーンに、所々MV風のオシャレシーンが足されていて、本当にただの『糸』のMVみたいな仕上がりなんですよね。
ここまでラストでわざわざ説明してしまうなら、正直これまでの物語の積み重ねは何だったのか?と思ってしまうのは当然ですし、そうであればラスト5分以外をすべてカットしてYouTubeにMVとしてアップロードした方が人気が出たような気がします。
予告編の時点で映画本編が全部入ってしまっている問題もありましたが、この映画は、それに加えてラスト5分でご丁寧にそれまで100分近くかけて描いたことを過剰に総復習し始めるという有様なのです。
大作映画だからきちんと説明してあげないと…というアプローチは瀬々監督作品ではあるあるなのですが、今回については明らかにやりすぎですし、クライマックスで一気に冷めてしまう要因にもなりました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『糸』についてお話してきました。
ノベライズ版は特に、主題になるような内容をセリフで語らせ過ぎていて、そこがすごくノイズに感じられました。
映画版でこのあたりの過剰な「語り」を瀬々監督がどう処理してくるのかも含めて要注目ですね。
ラストまで完全に見せてしまっているために、予告編が映画のダイジェストとして成立してしまっていて、映画を見進める楽しみが明らかに軽減されていたように思います。
ここまで見せなくても観客を呼べたと思うんですけどね。もう少しうまくやって欲しかったです。
また、物語的にも『溺れるナイフ』の2人が再演する必然性が強く感じられる内容だったので、個人的には合わせて鑑賞してみても良いと思います。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。