みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『宇宙でいちばんあかるい屋根』についてお話していこうと思います。
今回、オンライン試写会に当選したということもあり一足先に作品を鑑賞させていただきました。
監督が『デイアンドナイト』の藤井道人さんということで、清原さんの活かし方を熟知した方だと思いますし、何より演出力がずば抜けたクリエイターです。
その点でも鑑賞する前から期待値が上がりまくっておりましたし、予告編を見ているだけでも、そこから伺える映像の美しさや清原さんの演技力の高さに目をキラキラと輝かせておりました。
本作を鑑賞しようかどうかと悩んでいる方がいらっしゃいましたら、当ブログ管理人は迷わず背中を押させていただきます。
他の藤井道人監督の作品と比べると、プロットもこぢんまりとしていますし、それほど大きな展開があるような作品ではありません。
しかし、そんな素朴で淡白な物語だからこそ、藤井監督の地の演出力の凄みを存分に感じることができますし、出演している役者陣の傑出した演技をダイレクトに味わうことができます。
ぜひぜひ、映画館で見るという選択をしていただきたい1本であります。
さて、ここからは当ブログ管理人が自分なりに感じたことや考えたことを綴っていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『宇宙でいちばんあかるい屋根』
あらすじ
14歳のつばめは、隣に住んでいる大学生で幼馴染の亨に淡い恋心を抱いていた。
そんな思いを伝えることができず、モヤモヤとしていたある日、彼女は通っていた書道教室の建物の屋上で、「星ばあ」と出会う。
「星ばあ」は、人間は年齢を重ねると何でもできるのだと語り、食べ物を交換条件としてつばめの頼みごとを引き受けるようになる。
そんなつばめが抱えていた大きな問題は、自分が母親と血が繋がっていないこと。そしてそんな母と実の父との間に新しい命が生まれようとしていることであった。
その子が生まれてしまったら、自分と家族のつながりが切れてしまうのではないか、自分の居場所が失われてしまうのではないかと不安を感じたつばめは、家族と衝突するようになる。
不安と葛藤を抱え、どうしたらよいのか分からなくなりながらも、星ばあに支えられながら、次第に家族との繋がりを取り戻していくつばめ。
しかし、そんな星ばあにはある「秘密」があって…。
スタッフ・キャスト
- 監督:藤井道人
- 原作:野中ともそ
- 脚本:藤井道人
- 撮影:上野千蔵
- 照明:西田まさちお
- 編集:古川達馬
- 音楽:大間々昂
- 主題歌:清原果耶
『宇宙でいちばんあかるい屋根』は野中ともそさんの同名の原作の映画版となります。
そして映画版の監督・脚本を担当したのが、日本アカデミー賞作品賞を受賞した『新聞記者』の監督を務めた藤井道人さんです。
彼の作品ではこれまで撮影×照明が今村さんと平山さんのコンビで手掛けられてきた印象ですが、今回は上野千蔵さんと西田まさちおさんという新しい顔ぶれが目立ちます。
一方で、編集には『青の帰り道』や『新聞記者』でお馴染みの古川達馬さんがクレジットされていますね。やはり編集には信頼のおける方を置かないと作品が安定しませんからね…。
劇伴音楽を提供したのは『愚行録』や『ひとよ』などの音楽を手掛けた大間々昂さん、そして主題歌を主演の清原果耶さんが歌っています。
- 大石つばめ:清原果耶
- 星ばあ:桃井かおり
- 浅倉亨:伊藤健太郎
- 山上ひばり:水野美紀
- 牛山武彦:山中崇
- 笹川誠:醍醐虎汰朗
- 大石麻子:坂井真紀
- 大石敏雄:吉岡秀隆
主演はまさしくこれから日本を代表する女優になるであろう清原果耶さんが務めました。
そして本作のキーパーソンである星ばあを桃井かおりさんが演じ、その圧倒的な存在感で見る者の度肝を抜きます。
主人公が好意を寄せる亨役には、今様々な映画に引っ張りだこの伊藤健太郎さんが起用されていますね。
その他にも山中崇さんや吉岡秀隆さんなど味のあるベテランが脇を固め、作品を引き締めています。
『宇宙でいちばんあかるい屋根』感想・解説(ネタバレあり)
生と死。「見上げる」から「見下ろす」そして「見上げる」へ。
さて、『宇宙でいちばんあかるい屋根』の映像を紐解いていくと、実に「見上げる」そして「見下ろす」が意識されたショットが多いことに気がつきます。
とりわけ冒頭には、畳みかけるように「見上げる」カットが多く使われていることに注目していただきたいです。
ベランダに佇む隣人で好意を寄せる相手でもある亨を見上げる視線。川沿いの通学路で空高く飛ぶ鳥を見上げる視線。その後、自転車で転倒し青空を仰ぎます。
(C)2020「宇宙でいちばんあかるい屋根」製作委員会
主人公はつばめという空飛ぶ鳥の名前を与えられているにも関わらず、飛ぶことができずに地上から上を、空を「見上げる」ばかりだということが強く印象づけられます。
さて、そこでいよいよ本作の物語を大きく動かしていく契機となる星ばあとの出会いが訪れるわけですが、このシーンは趣向が凝らされています。
というのも、星ばあがキックボードに乗っている時、つばめは彼女が夜空を飛んでいるかのように錯覚しました。
しかし、今作は星ばあが空を飛んでいるところを実際に映し出したわけではなく、つばめの「見下ろす」視線の先にある水たまりの中に映し出したのです。
本来なら「見上げて」はじめて観測することができるであろう物体を、「見下ろす」視線の中で描いたというところに、このシーンの面白さがあります。
これが星ばあという存在の異質さを端的に表現していると共に、彼女がつばめの「視線」を変化させるキャラクターになり得ることを示唆しているんですね。
そして、2人は建物の屋上から街のたくさんの屋根を「見下ろし」ます。屋根というモチーフも本来私たちの頭上にある「見上げる」べきもののはずですが、ここでは「見下ろす」形で見るというシチュエーションが作り上げられています。
ここで確かに「見上げる」から「見下ろす」へのつばめの視線の変化が描かれており、星ばあが重要な存在であることが強く印象づけられました。
さて、次につばめが星ばあと出会った後に、憧れの亨に「誕生日おめでとう」の言葉を伝えるシーンを見てみましょう。
ここでは、冒頭で「見上げる」「見下ろす」の構図になっていたのとは対比的に2人が同じ視線の高さで話している様子が印象的です。
これまでは「見上げて」いるだけで、何もしてこなかった、ただ憧れているだけだった亨と、初めて彼女が対等に話そうと試みたという心情の変化が視線の変化に重なっているのがよく分かりますね。
さて、では今作における「見上げる」「見下ろす」視線が何を意味しているのかを少し考えてみましょう。
それを考えていく上で、1つ重要なヒントになるのが、つばめと星ばあが江ノ島水族館を訪れ、そこでクラゲの水槽を眺める描写でしょうか。
(C)2020「宇宙でいちばんあかるい屋根」製作委員会
2人は同じものを見ているのですが、そこに想起しているものは全く異なります。
つばめにとっての水槽のクラゲたちは、出て行ってしまった実の母親を強く連想させる水墨画とこれから生まれようとしている羊水の中の赤ちゃん(妹)の存在を表現していると言えますね。
その一方で、星ばあにとっての水槽のクラゲたちは、大好きな孫との思い出を掻き立てるモチーフであり、そしてもうすぐ旅立つ死の世界の表象でもあります。
そう考えていくと、この『宇宙でいちばんあかるい屋根』という作品は、生と死を内包する人間の営みそのものを描いているようにも感じられました。
そして人間が生まれ、成長し、年を取り、そして死んでいくという一連のプロセスには、ここまでお話してきた「見上げる」「見下ろす」の行為が密接に関係しています。
生まれたばかりの人間は、歩くこともできずベッドに寝転んだ状態で、両親を「見上げて」ばかりいますよね。
そして人間は、「見上げ」そして自分の目標となるものを見出しては、そこに近づけるように成長していく生き物です。すると次第にかつて見上げていた存在と、同じ高さを飛んでいるなんてこともあるでしょう。
そうなると、今度は自分の下から自分を「見上げて」くる存在を「見下ろす」構図になりますよね。歳を重ねれば重ねるほど、「見下ろす」ものは増えていきます。
しかし、人間は死ぬとき、ベッドや布団に横たわり、そして自分の大切な人たちや家族を「見上げて」死んでいくんですよね。
つまり、人間の生と死の営みというものは「見上げる」から「見下ろす」に転じていき、最後には再び「見上げる」へと回帰する1つの円環構造なのです。
つばめは、これまで「見上げて」ばかりだったわけですが、そうはいかなくなります。なぜなら彼女には妹が生まれようとしているからですよ。
姉になるということは、自分に「見下ろす」存在ができるということです。つばめは、母親が実の母親ではないことや、これから生まれて来る子が自分の居場所を奪ってしまうのだと危惧しており、自分が姉になるということを受け止めきれていません。
そんな彼女を変えていくもう1つのきっかけになるのが、亨の怪我ですね。
亨は原付で事故を起こしてしまい、しばらく車いすでの生活を余儀なくされることとなりました。
そんな彼のサポートをすると決意したつばめは、ここで冒頭とは対比的に今度は彼女が彼を「見下ろす」シチュエーションになります。
つまり、ここで初めて彼女は「見下ろす」という視線を自分の意志で選択するのであり、それがある種の姉としての決意や自覚の表出にもなっているんですよね。
一方で、星ばあはクラゲが想起させる、自分の孫とそして星空を「見上げて」います。
自分の孫を「見上げる」という視線は、死に際に自分の傍にいて欲しいという思いの表れとも言えるでしょうか。そして星空を「見上げる」というのは、ある種自分が死して旅立つ場所を見据えているとも言えるでしょうか。
しかし、彼女は目前に迫る死を前にして、「見上げる」視線を明確に選択することができずにいます。
なぜなら、彼女は大好きな孫との再会を果たせていないからであり、彼とその家族に見守られながら、「見下ろされ」ながらこの世界を旅立ちたいという思いを秘めているからです。
このように2人が水族館でくらげの展示されている水槽を見る視線には実に対照的な対象が宿っているのであり、それが物語におけるキーにもなっています。
つばめは両親と喧嘩をしながらも、姉になる覚悟を持ち、そして星ばあはそんなつばめの貢献もあり、無事に孫に再会することができました。
ここで2人は別々の道へと歩いていくのですが、カメラをかなりローアングルに据えることで坂の下へと下っていく星ばあが「下」へと消えていくような構図を作り出しています。
(C)2020「宇宙でいちばんあかるい屋根」製作委員会
そこには、誰かに「見下ろされ」ながら、「見上げる」という自身に迫った死を星ばあが受け入れたことと、そしてつばめの「見下ろす」側になることへの決意が確かに宿っています。
2人は出会い、そしてお互いがお互いの視線の向きを変える役割を果たし、そして別れるわけですよ。
そうなんですよ。これがまさしく人間の生と死の循環を表現していると思っていて、人間は死して再び生まれ変わり、そして「見上げる」側の存在へと転じます。
このように『宇宙でいちばんあかるい屋根』という作品は、生と死を「見上げる」「見下ろす」の視線に宿らせ、その対比と変化を描く中で人間の営みを描こうと試みていたように感じました。
『宇宙でいちばんあかるい屋根』というタイトルを考える
(C)2020「宇宙でいちばんあかるい屋根」製作委員会
今作は『宇宙でいちばんあかるい屋根』という少し変わったタイトルがつけられています。
このタイトルの意味について少し思いを馳せてみましょう。
ストレートに解釈するのであれば、星ばあとつばめが出会ったあの屋上こそが「宇宙でいちばん明るい屋根」のことだという風に捉えることもできるでしょうか。
しかし、そこで思考停止してしまうのは、幾分勿体ないので、もう少し掘り下げて考えてみましょう。
本作はつばめの暮らしている街の家々を空撮で映し出し、そのたくさん屋根を捉えたカットから始まります。
このカットを見た時に、ふと思い出したのが最近見た韓国映画の『はちどり』という作品のファーストカットです。
『はちどり』では集合住宅のたくさんの扉を俯瞰で映し出すカットを採用し、本作がたくさんに人間の営みや物語があるうちの1つに焦点を当てたものであるという方向性を明示したんですね。
『宇宙でいちばんあかるい屋根』のファーストカットにも実は同様のことが言えます。
今作のファーストカットは、屋根の数だけ人間ないし家族の暮らしがあり、そのうちの1つであるつばめという少女の物語にスポットを当てていくのだという方向性を明らかにしていました。
しかし、つばめは自分の妹が生まれるという転機を前に、自分の家に居場所を見失っています。屋根の下に自分がいると邪魔なのではないかとすら思っていました。
ただ、先ほども述べたように彼女は星ばあとの交流を通じて、少しずつ自分が姉として生きる自覚を持ち、そして家族を大切にしなければならないということを学んでいきます。
そうして、彼女は確かに家族の一員になり、1つ屋根の下に自分の居場所を見出すんですね。
さて、今作において星ばあの孫が住んでいる家は「えんじ色の屋根」という情報を基につばめと亨は街の家という家の屋根を見て回るのですがなかなか見つけることができません。
そんな時に発した言葉が「えんじ色の屋根の家なんていくらあるんだよ…」という泣き言めいた言葉でした。
しかし、「えんじ色の屋根の家」は星ばあにとってたった1つなんですよね。
つまり、赤の他人から見ると、他の屋根と何ら変わりないものに見えるにも関わらず、自分だけには特別に思える屋根が存在しているのだということがこの一連のやり取りの中から浮き彫りになってきます。
そう考えていくと、『宇宙でいちばんあかるい屋根』というタイトルが表しているのは、ずばり数ある屋根の中の自分の住んでいる家の屋根のことなんですよね。
本作は、屋根の下に居場所を見失った2人が、何とか屋根の下に戻ろうとし、そしてそんな自分のいる屋根が「世界でいちばん明るい」のだと感じられるようになっていく過程を描いていました。
ラストシーンで成長したつばめが描いたのは、星ばあといたあの屋上からの街並みの水墨画でした。
たくさんの屋根がありますが、彼女が自分の居場所であると感じているのはたった1つであり、それこそが「宇宙でいちばんあかるい屋根」なのです。
そんな自分の居場所に気がつかせてくれた星ばあへの思いを込めて、ラストカットにもなった水墨画を描いたのだと思うと、思わず胸が熱くなりますね。
細かな演出の「優しさ」に惹かれる
今作『宇宙でいちばんあかるい屋根』は藤井道人監督の作品ですが、これまでの『デイアンドナイト』や『青の帰り道』と同様にすごく細かな演出にまで気を配っています。
その中でも当ブログ管理人が印象に残った2つのシーンについて語っていきたいと思います。
つばめが両親に暴言を吐いてしまうシーン
(C)2020「宇宙でいちばんあかるい屋根」製作委員会
さて、1つ目に取り上げたいのが、つばめが実の母と会って帰って来た日の夕食の席で、両親に暴言を吐いてしまうシーンです。
この時の彼女は、父と母の両方と血のつながった子供が生まれることで、自分は邪魔者になってしまうのではないかと不安と苛立ちを抱えています。
未熟な彼女はそんな負の感情を思わず両親にぶつけてしまうのです。
血のつながらない母に暴言を吐くつばめを静止しようとしたのは、父なのですが、私は本作を見ていた時に、父の表情や咄嗟の動きぶりからして、てっきり彼女にビンタでもするんだろうと想像してしまったんですよね。
日本の映画やドラマだとあの場面でビンタするなんてことは割とよくあることだと思います。
ただ、父は酷い暴言を吐いたつばめをぶつのではなく、ただ優しく撫でるんですよね。
何と言うか、自分が如何にステレオタイプ的な描写ないし旧来的な演出に縛られていたのかということをまざまざと思い知らされたような気がしました。
父は、つばめが暴言を吐いたという状況だけで判断してそれを叱るのではなくて、暴言を吐くに至ったつばめの心情まで察してあげたうえで、その不安や苦痛を優しく包み込もうとするわけですよ。
このワンシーンを見た時に、なんて深い愛情なのだろうかと思わず感心してしまいました。
つばめが死した星ばあと糸電話で繋がるシーン
(C)2020「宇宙でいちばんあかるい屋根」製作委員会
さて、2つ目に選んだのは、終盤のワンシーンですが、つばめが空から垂れ下がってきた糸電話を使って、星ばあと意思疎通を図る場面です。
そもそも「糸電話」というコミュニケーションツールは、つばめの憧れだったわけですが、冒頭にそれを彼女が口にした場面では、星ばあは古風だねと少し小馬鹿にする様子でした。
しかし、そんな「糸電話」が最後の最後で2人を繋ぐモチーフとして機能するのは、何だか印象的ですよね。
ここで「糸電話」という通信手段を星ばあが選択したのは、やはりつばめが彼女と孫の切れかけていた、ほとんど切れてしまっていた糸をまた繋いでくれたからなのでしょう。
つばめが「糸電話」で憧れの亨と繋がれると本気で信じているのを、少し小馬鹿にしていた星ばあの胸中にあったのは、自分と最愛の孫との繋がりでしょう。
人と人との繋がるということがどれほど難しいことなのか、そして一度切れてしまった繋がりが戻ることはないのだということを誰よりも身に染みて知っているからこそ星ばあは「糸電話」なんて絵空事を嘲笑するのです。
しかし、そんな「糸電話」を心の底から信じたつばめが、自分の切れかかっていた繋がりを取り戻してくれました。だからこそそんなつばめへの感謝の思いも込めて星ばあは「糸電話」を選択したのでしょう。
そして、私がこのシーンが演出的に大好きなのは、星ばあの声が一切観客の私たちには聞こえない設計になっている点です。
私たちに聞こえることはありませんし、ましてや当のつばめにも聞こえているかどうかは私たちには判断できかねます。
それでも、「糸電話」に耳を傾ける彼女の表情が、きっと彼女には何かが聞こえているのだとそう思わせてくれますし、彼女が天へと旅立った星ばあと「まだ繋がっている」のだと確かに感じさせてくれます。
邦画(特に大作)では、心情や状況を語りすぎて映画の「余白」を消してしまっている作品が散見されます。
そんな中で藤井道人監督は、しっかりと「余白」を残すことで、観客に多くを想像させるような作りにしていますし、この演出が見終わってからもこの映画が観客の心を掴んで離さない重要なフックになっていると言えます。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『宇宙でいちばんあかるい屋根』についてお話してきました。
桃井かおりさんのドスの効いたと言いますか、重みのある演技も凄まじかったのですが、それに対して1歩も引くことなく堂々たる演技を披露した清原さんも圧巻でした。
朝ドラの主演も既に決まっているようですが、今後が楽しみな女優の1人ですね。
そして、本作は藤井道人監督の作品だったわけですが、とにかく1つ1つの演出の丁寧さやディテールの部分でアッと言わせるような趣向に何度も感動しました。
過剰に演出をしてエモーションを煽るのではなく、役者の演技に寄り添い最低限度の演出と程よい余韻で観客の心の内からエモーションを自然と浮かび上がらせるようなそんな映画になっていたと思います。
1話完結の話の連作のような形式になっている作品ですが、不思議と「ぶつ切り感」はなく、きちんと1つのつながった物語として違和感なく楽しめたのも、そんな監督の手腕と言えるかもしれませんね。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。