みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『もう終わりにしよう』についてお話していこうと思います。
脚本を担当したのは『マルコヴィッチの穴』やあの名作『エターナルサンシャイン』の脚本を担当したチャーリー・カウフマンです。
『エターナルサンシャイン』が恋愛映画の中でも最も好きな作品の1つに挙げる自分としましては、当然楽しみにしていた作品ですよ。
とにかくポスターのスマートさオシャレさに惹かれるのですが、主人公を演じているのが『ジュディ 虹の彼方に』でこれまた印象的な演技を披露したジェシー・バックリーなのです。
映画『もう終わりにしよう』より
この2つの要素が奇跡的な美しさを生み出しているポスターは、一見しただけで作品を見たいと思わされてしまいます。
そしてアメリカ本国では8月28日より配信がスタートしていて、既に北米大手批評家レビューサイトのRotten Tomatoesでも批評家レビューが公開されていますが、その支持率がなんと85%と非常に高い水準となっているのです。
ということで、公開日の夕方にNetflixに貼りつきまして、公開開始と同時に鑑賞をスタートさせました。
当ブログ管理人にとって、映画は別腹なので、いくら見ても目が疲れませんので、大丈夫です(やばいです)。
というより作品がかなりゆったりとしている上に、かなり難解だったため睡魔との戦いでした。
ただ、一言言えることがあるとすれば、この作品はミュージカル『オクラホマ!』を知らない人からすると全く理解の仕様もない作品です。
この記事では、そこも含めてしっかりと解説して行ければと思います。
さて、ここからは当ブログ管理人が『もう終わりにしよう』に関して、自分なりに感じたことや考えたことを綴っていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『もう終わりにしよう』
あらすじ
ある冬の日、ジェイクは恋人を両親に紹介することにし、彼女を連れて車で実家へと向かっていた。
彼女の方はと言うと、彼に心惹かれながらも、どこかで違和感を感じており、別れを切り出したいと願っている。
しかし拒絶するよりも、「YES」と言い続けている方が楽だからと関係を終わらせることなく、緩やかに持続させていたのであった。
雪の中車を走らせていき、会話を続ける2人は、詩を読み合ったり、ミュージカル映画の話をしたりなどしながら時間をつぶし、ようやく彼の実家に到着した。
彼女が彼の実家に入ると、次々に奇妙なことが起こり始める。
異様にハイテンションな母親と認知症気味でボケかかっている父親。常に濡れていて身体をふるわせている犬。
そして、彼女はその家で時間を過ごすうちに彼らの「現在」だけではなく、「過去」とそして「未来」までもを垣間見てしまう。
不思議な現象の中で、彼女は今晩のうちに家に帰りたいと懇願するも、ジェイクはその提案を受け入れつつも、渋っていて…。
スタッフ・キャスト
- 監督:チャーリー・カウフマン
- 原作:イアン・リード
- 脚本:チャーリー・カウフマン
- 撮影:ウカシュ・ジャル
- 美術:モリー・ヒューズ
- 衣装:メリッサ・トス
- 編集:ロバート・フレイゼン
- 音楽:ジェイ・ウェドレイ
『エターナルサンシャイン』の脚本家が描くラブストーリー/ミステリ/SFあれば、もう間違いなく傑作になると思うんですよね…。
ちなみに原作はイアン・リードの小説で、海外ではその解釈を巡ってかなり盛り上がっていたのだとか。
そして、その他にも当ブログ管理人好みのスタッフ陣が集結しており、もはや期待しかないという状態です。
撮影には『イーダ』や『ゴッホ最期の手紙』などの前衛的な撮影で注目を集めた作品を手掛けてきたウカシュ・ジャルが起用されています。
衣装には『マンチェスターバイザシー』や『スリービルボード』のメリッサ・トス、編集には『ファウンダー』のロバート・フレイゼンがクレジットされました。
どのスタッフも当ブログ管理人が大好きな作品を手掛けてきたばかりで、もうこの面々を見ているだけでも幸せな気持ちになれます。
- ジェシー・プレモンス:ジェイク
- ジェシー・バックリー:ジェイクの恋人
- トニ・コレット:ジェイクの母親
- デヴィッド・シューリス:ジェイクの父親
まず、ジェイクを演じたのがドラマ『ブラックミラー』シリーズや『バイス』などで知られるジェシー・プレモンスです。
そしてジェイクの恋人の役を演じたのが『ジュディ 虹の彼方に』や『ワイルドローズ』など話題作に次々に出演し、注目を集めているジェシー・バックリーですね。
また、『ヘレディタリー 継承』でとち狂った母親の演技を完ぺきにこなしたトニ・コレットが今回もクレイジーな母親役を演じており、非常にハマり役でした。
ちなみにジェイクの父親を演じたのは、『ハリーポッター』シリーズでリーマス・ルーピンを長らく演じていたデヴィッド・シューリスです。
『もう終わりにしよう』解説・考察(ネタバレあり)
細かなセリフとモチーフから辿る本作の全体像
この作品は、まず長い車での会話のシーンがあり、そしてジェイクの実家に訪れてからの不思議なタイムリープ体験が描かれ、そして再び車での長い会話のシーンがあり、最後に学校を訪れるというある種のロードムービーとなっています。
ただ、今作『もう終わりにしよう』はとにかく難解で意味が分からないという印象を受けた方も多いのではないでしょうか。
1つ1つのセリフや、細かいモチーフを追っていくと物語の全体像は何となく掴めるように作られているのですが、幾分会話のシーンも長く、情報量が膨大過ぎて追いつかないというのが実情でしょう。
まず、結論から書いておきましょうか。
お分かりいただけたかどうかは分かりませんが、本作の世界構造というのは、学校の用務員として働く現実のジェイクがかつてバーで出会った1人の女性に長らく好意を寄せており、彼女と実家を訪れる妄想をしているというものになっているのです。
つまり『もう終わりにしよう』において描かれているジェイクの彼女、父親、母親、そしてアイスクリーム店の店員も含めて、彼らは全員ジェイクの妄想の登場人物というわけですね。
その作品構造については、ロバートゼメキスの映画をパロディ化した作品を休憩中に見ている用務員のジェイクの描写が作品の中盤に描かれていることで明確になっています。
そして本作で注目していただきたいのは、この作品の登場人物が全員ジェイクの妄想上のキャラクターであるということのエビデンスとして、細部にその人格や特性が反映されている点なのです。
まず、冒頭の車の会話のシーンで彼女の方が朗読していた自作の詩「骨の犬」ですが、これは後にジェイクの子ども部屋に置かれていた詩集に掲載されていた1篇だと判明しました。
また、彼女は晩餐の場面で、「画家」であると紹介され、スマートフォンに記録されていた自分の作品たちを見せるのですが、それらの作品は地下室に飾られていたポスターの挿絵と全く同じでした。
加えて、「彼女」はある時は詩人とされ、ある時は量子物理学者だとされ、さらにある時は画家と紹介されるなど、シーンごとに職業がころころと変わるんですよね。急に映画に精通して語りだすこともありました。
これは作品を見進めていくと分かりますが、幼少の頃にジェイクが詩や絵画の創作に取り組んでいた事実や、用務員にしかなれなかった彼が憧れていた職業が「量子物理学者」である事実が案に反映され、彼女の人格に組み込まれているのです。
また、幼少期のジェイクの写真が「彼女」にそっくりであるという状況証拠も提示されており、このあたりは比較的読み取れた方も多いのではないでしょうか。
映画『もう終わりにしよう』より
終盤に、用務員の現実ジェイクが「彼女」と邂逅するシーンで、「バーで出会った男は何でもなかった。話しかけても来なかったし、じろじろとこっちを見てきてウザかった。」と発言しており、最終的にはこれが現実なんですよね…切ない。
常にずぶ濡れで悪臭を放っており、水気を払おうと身体を震わせ続けている犬のジミーも、まさしく「負け犬」のメタファーであり、現実のジェイクのアイコン的に機能しています。
耳鳴りに悩まされていたり、認知症気味だったりという両親の特性も、もしかすると現実のジェイクが抱えている症状であり、それを自分の妄想の中のキャラクターに分け与えたのかもしれませんね。
そして、何より決定的なエビデンスとして現前したのが、あのアイスクリームショップの店員ですよね。
映画『もう終わりにしよう』より
彼女は腕や身体に酷い発疹がありましたが、それは偶然か必然かジェイクの身体にあるそれと全く同じものでした。
また彼女は自分からニスの臭いがするなんてことを言っていましたが、こういった臭いに関する設定が犬のジミーとリンクしているのは偶然ではないでしょう。
映画の監督や脚本家がしばしば登場人物に自分の人格を分け与えることがありますが、本作の世界観というのはまさしくそういうことで、現実のジェイクが自分の妄想の中の世界の住人に、自分の特性や性格を分け与えているのです。
他に『もう終わりにしよう』という作品の構造に気がつけるシグナルとして描かれていたのは、洗濯機の中で洗われていた緑色の衣類の胸のワッペンが用務員の現実ジェイクの着ていた服のものと同じだという点。あとは時折かかって来る電話でしょうか。
あの電話は現実ジェイクから「彼女」へというよりは、現実ジェイクから妄想ジェイクへの電話なのだと思いました。
本作の世界観が有する再帰性と同時性
そして、『もう終わりにしよう』についてもう1つ知っておきたい事実は、こちらも明確に描かれていたので理解いただけた方が多いとは思うのですが、ジェイクによる妄想は何度も何度も繰り返されている点ですね。
冒頭のモノローグで、彼女は彼の実家に行くのは初めてなのに、初めてではないような気がするという発言をしており、非常に意味深でしたが、見終わってみると腑に落ちるセリフでした。
先ほど彼女の職業や趣味がシーンを挟むとコロコロ変化しているという話をしましたが、これは本作の実家パートが1つの世界線を描いているのではないというストーリーテーリングに起因しているのだと思います。
つまり、ジェイクの妄想は繰り返されていて、何度もリセットされ、「彼女」は何度も実家を訪れているわけですよ。
そしてリセットされるたびに彼女の設定や内面もある程度書き換えられるのでしょう。
そのため、この映画は実家のパートにおいて、1つの時間軸のみにスポットを当てているというよりは、複数の時間軸が同時に存在していて、それらに横断的にスポットを当てていると考える方がしっくりきます。
設定のところは仮定の話にはなりますが、「彼女」は複数の世界線に存在していて、それを横断的に映し出していくと、今作の本編のようなストーリーテリングになるというわけです。
余談ですが、個人的に思ったのは電話に表示される「ルイーザ」や「ルーシー」「イヴォンヌ」といった女性の名前は、世界線ごとに「彼女」の名前が変更されていることの暗示なのかなとも推察しました。
細かいショットとしては、彼女が階段を下りてくるカットが何度も繰り返されたり、地下室の洗濯機から同じ衣服が何枚も出てきたりするような場面が、本作の「繰り返し」の部分を強調しているように感じられますね。
そして、本作の「繰り返し」を決定的にするのが、終盤に学校を訪れた時に、アイスクリームのカップがゴミ箱に無数に捨てられているカットです。
このカットがインサートされることにより、彼の妄想の世界では幾度となく同じような展開が繰り返されており、何度もあの学校を訪れてはジェイクがアイスクリームを捨ててきたのだという積み重ねが明らかになりました。
ここまでの情報で、『もう終わりにしよう』の物語構造的な部分の大枠はあらかた整理できたと思います。
ミュージカル『オクラホマ!』の鑑賞が前提すぎる
さて、ここからは『もう終わりにしよう』のメッセージ的な部分に言及していくのですが、本作からそこを読み取ろうとするとミュージカル『オクラホマ!』を知っていることがある程度前提条件となります。
本作の作中で、何度かミュージカルのシーンがインサートされていたかと思いますが、あれらは全て『オクラホマ!』からの引用となっているのです。
そのためオマージュとなっているシーンのコンテクストを読み取ろうとすると、どうしても元ネタを知っている必要性が出てきます。
まず、冒頭にラジオから流れてくる曲、そして現実ジェイクが清掃中にステージで見た劇団の女性たちが歌っていた曲が『オクラホマ!』の「Make A New Day」です。
まさしく、ジェイクが「彼女」との新しい世界線をスタートさせたことを仄めかす描写ですが、後々考えてみると現実の方で彼が壇上の歌っている女性を見つめながらも、視線を返されるとすぐに目を背けてしまった一幕は、彼がかつてバーで「彼女」に声をかけられなかったシチュエーションの再現でもあると感じました。
「Make A New Day」という楽曲はローリーという女性が意中の男性であるカーリーにランチパーティーに誘われながら、意地っ張りな性格からそれを撥ねつけてしまい、カーリーが当てつけのように他の女性からの誘いを受けてしまったことに寂しさを覚えてローリーが歌った曲です。
ローリーはこの楽曲を歌うことで、自分に大丈夫だ、カーリーのことなんて気にするな!と言い聞かせているんですね。
ちなみに『もう終わりにしよう』の劇中では、この楽曲について少し言及されていて、ジェイクはローリーが「断言しすぎている」と評しています。
そしてこう付け加えているのです。
「思い出すからね。自分の頭の中より世界は大きいってことをさ。」
これは、現実の世界は自分が頭の中で思い描いているほどうまくいかないものだというジェイクなりのものの見方が反映された言葉ですよね。
頭の中では「彼女」と上手くいっているのに、現実ではバーで声をかけることすらできなかったわけで、結局頭の中の世界はちっぽけな幻想でしかないということを彼は実感しています。
そして、終盤にインサートされたジェイクと「彼女」の謎のダンスシーンから始まる一連のシークエンスですが、これも『オクラホマ!』を知らないと全く理解できません。
映画『もう終わりにしよう』より
しばしばDream Balletと呼ばれるシーンが『オクラホマ!』にはありまして、このシーンではまさしく『もう終わりにしよう』のジェイクと「彼女」が2人に分裂したように夢と現実が分離し、夢の2人がバレエダンスをするのです。(楽曲は「Out of my Dreams」ですね。)
『オクラホマ!』より引用
ただ、そこにジャッドという男が現れて、ローリーを連れ去ろうとし、それを守ろうとしたカーリーが殺されてしまいます。
『もう終わりにしよう』の一連のシークエンスでは、『オクラホマ!』のDream Balletを丁寧に再現しているわけです。
まず、カーリーに当たるのが「妄想ジェイク」です。そしローリーはもちろんのこと「彼女」です。
では、ジャッドにあたるのが誰なのかと考えてみますと、それが「現実ジェイク」だと思います。
つまり、本作で再現された『オクラホマ!』のDream Balletのシークエンスが意味するのは、「現実ジェイク」が「妄想ジェイク」を殺害し、「彼女」を妄想から解放するということなのです。
ジェイクは夢破れ、女性にも振り向いてもらえず、家族とも折り合いが悪く、結果的に学校の用務員として働くつまらない生涯を送ってきました。
そんな現実に絶望した彼だからこそ、妄想の世界で自分の理想との女性の逢瀬を楽しみ、現実逃避を重ねているわけですが、今作の彼はタイトルが表す通りで、そんな妄想の繰り返しを「もう終わりにしよう」と考えています。
それ故に、「現実ジェイク」は「妄想ジェイク」から「彼女」を取り戻し、解放するわけです。
この作品の終盤で、ジェイクは自分自身を納屋で生きたまま蛆に食われた豚に重ねていました。
蛆というのはある種の「死」の象徴ですが、彼は生きているにもかかわらず死んでいるも同然という状態で人生を続けています。
妄想の世界のセリフでしばしば「自殺」というキーワードが登場しましたが、きっと彼は自分の人生を「終わりにする」ことも検討していたのだと思いますし、「あの豚を安楽死させた」という事実も、「豚=ジェイク」の図式が成り立つと分かると、違った意味合いを有しますよね。
ただ、『もう終わりにしよう』という作品は、彼が人生を終わらせたいと絶望していたところから、微かに希望を見出すところで物語を終わらせます。
つまり、生きているにもかかわらず死んでいるも同然な蛆がわいた豚のような自分でもまだ生きる価値があるのだと高らかに宣言して幕切れを迎えるわけですよ。
まず、クライマックスでステージに立つジェイクが歌っていたのは、「Lonely Room」という『オクラホマ!』の楽曲(ミュージカル版のみ)であり、これは先ほど名前を出したジャッドというキャラクターが歌う1曲なのです。
ジャッドは結婚式の会場でローリーを連れ去ろうとするのだと書きましたが、この「Lonely Room」は粗末な家に暮らすジャドがローリーを何とかして我が物にしてやるのだ!と決意する1曲となっています。
つまり「Lonely Room」という楽曲は社会の最下層にいる人間にとっての「希望」なんですよ。
ジェイクはきっと本作の開始時点では、自分の人生を「もう終わりにしよう。」と考えていたのでしょう。
しかし、物語を経て、彼は人生ではなく妄想に逃げ込む自分自身の弱さを「もう終わりにしよう。」と気持ちを改めることができたのです。
だからこそ、彼は「Lonely Room」を自分の子ども部屋のセットで高らかに歌い上げ、確かに未来への「希望」を見出します。
本作のラストが結局何を言いたかったのかが分からない方も多くいらっしゃるかと思いますが、『オクラホマ!』をベースに考えると、実はすごくポジティブなラストとも取れるのではないでしょうか。
エンドロールで映し出されるのは、太陽が昇った明るい光景で、雪に閉ざされたジェイクの車です。
これを「彼の死」と解釈することはもちろんできます。原作に忠実であったと考えるならば、むしろそう解釈するのが自然でしょう。
しかし、私はジェイクが「希望」を見出したのだと、妄想から抜け出したのだと信じたいのです。
本作において車というモチーフは、作品の大半で画面に映し出されていましたが、とりわけ彼の妄想の牢獄の象徴のようなものだったと思います。
だからこそ、そんな車というモチーフが雪に閉ざされているという光景が、彼の妄想世界の終わりを示しているのではないかと私は信じています。
本作の結末が悲劇的なものだとするならば
では、『もう終わりにしよう』のラストを悲劇的に解釈することもやってみましょう。
まず、終盤に登場したアニメの豚は何だったのかと考えると、それは「妄想世界の住人」であり、「死の世界からの使い」であったということになるのでしょうか。
だからこそ、ジェイクがそんな豚についていくというのは、彼が現実世界で死を選んだことと、そして同時に妄想世界にもフィナーレがもたらされたということを表しています。
先ほど、Dream Balletの話をしましたが、『オクラホマ!』におけるジャッドの物語ってすごく悲しいんですよ。
「Lonely Room」を歌って、ローリーを奪いに行くのですが、カーリーに邪魔をされ、結果的に自分は殺され、裁判の結果カーリーは無罪となります。
物語のラストでアニメーションの豚が人生の運と可能性の話をしていましたが、あの豚が話していたのは、言わば誰しもが「ジャッド」になり得る可能性なんですよね。
つまり、この世界にはカーリーとジャッドというコインの表と裏があって、常に「裏」の方を引き続ける人間が確かに存在しているのだということを話しています。
先ほどお話したようにカーリーというのは「妄想ジェイク」のことであり、ジャッドというのは「現実ジェイク」のことを表していますよね。
そう考えると、『オクラホマ!』のストーリー的に最終的に殺害されてしまうのは、「現実ジェイク」の方なんですよ。
だからこそ、本作の現実のレイヤーの終着点は、あの車であり、「現実ジェイク」はあの雪に閉ざされた車の中で命を落としたと考えるのが、原作に忠実な解釈の仕方となるでしょう。
個人的には先ほど書いてきた「ハッピーエンド」の可能性を信じています。一方で、『もう終わりにしよう』がどこまでも悲劇的な「終わり」を描いていたという可能性も十分に残されています。
今回の映画版『もう終わりにしよう』は、個人的にどちらにでも解釈できるようなオープンエンドになっていると思いました。
ラストシーンで車は雪に閉ざされてこそいますが、天気は快方に向かっていて、晴れているんですよね。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『もう終わりにしよう』についてお話してきました。
1つ1つのセリフやモチーフが繋がって、後々に謎解きの材料になっていくという構造ですので、正直集中してみないと置いていかれてしまう部分はあります。
ただ、全体的に会話劇的な側面が強いので、退屈に感じてしまう方も多いでしょうし、その点で「難解」という結論に到達してしまう人が多いのでしょう。
また、この記事でも触れましたが『オクラホマ!』を鑑賞している人にしか読み取れないコンテクストが多すぎるのは気になりました。
映画単体としての構造も読み取りづらく、そして映画知識があることが前提の作品と言うことで、非常に面白くよく出来ているのですが、あまり「易しい」作りではないので、賛否は割れるかなと思いました。
みなさんは、この『もう終わりにしよう』をどう読み解きましたか?
ぜひ、鑑賞した後でいろいろと考えてみてください。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。