みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『窮鼠はチーズの夢を見る』についてお話していこうと思います。
水城せとなさんの原作は読んだことはないのですが、とにかくメインキャスト2人が魅力的で、その時点で鑑賞することを決めていました。
ちなみに水城せとなさんって『脳内ポイズンベリー』や『失恋ショコラティエ』の原作者なんですね。意外と認識しておりませんでした。
ただ、1点気になることがあるとすれば、やはり監督が行定勲さんであるということでしょうか。
というのも当ブログ管理人は行定監督作品がとことん合わない傾向にありまして、映画ファンからの評価が比較的高い『劇場』でもあまりハマらなかったという経緯があります。
役者の撮り方は素晴らしいと思うのですが、その繋ぎ方であったり、エモーショナルの演出であったりが自分の好きなところからは完全に外れていて、どうしても好きになれないという…。
今作は、題材的には行定監督らしいと思いますし、脚本には『ナラタージュ』の堀泉杏さんが起用されていますので、行定色強い作品になるのではないかと推察しております。
その点で、自分のような評価の人間でもハマるのかどうかは1つ大きな焦点となるでしょうか。
「窮鼠猫を嚙む」ということわざをもじって作られた造語ではありますが、簡単に言うと追い詰められたネズミが自分の好物であるチーズの夢を見るという意味になります。
これを物語に当てはめて考えると、自分を追い込んで追い込んで、その時に脳裏をよぎった相手が自分にとっての本当に大切な人なのだということなのでしょう。
さて、ここからは実際に作品を鑑賞して、自分なりに感じたことや考えたことを綴っていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『窮鼠はチーズの夢を見る』
あらすじ
広告代理店勤務の大伴恭一は結婚もしており、順風満帆な人生を送っていたが、その優柔不断で流されやすい性格が故に不倫に耽っていた。
ある日、長らくぶりに再会した大学の後輩で、今は探偵として働いている今ヶ瀬に不倫の証拠を突きつけられる。
不倫の情報を妻に流さないことと引き換えに、今ヶ瀬は大伴にキスをして欲しいと迫る。
渋々交渉に応じ、彼とキスをした大伴だったが、妻の方もまた不倫をしており、結局2人は離婚することとなる。
1人で暮らし始めた大伴の家に今ヶ瀬が転がり込むようになり、2人は徐々に関係を深めていく。
しかし、浮気相手のであった瑠璃子や、大学の同級生で元カノのさとうに流されるようにして性的な関係を持つ大伴の素行も相まって、なかなか進展しない。
7年間一図に大伴のことを思い続けた今ヶ瀬の恋は報われるのか…。
スタッフ・キャスト
- 監督:行定勲
- 原作:水城せとな
- 脚本:堀泉杏
- 撮影:今井孝博
- 照明:松本憲人
- 編集:今井剛
- 音楽:半野喜弘
まず、監督を務めたのは記事の冒頭にも紹介しましたが、行定勲さんですね。
『劇場』や『ナラタージュ』、『リバーズエッジ』と言った作品を手掛けてきた方で、近年は男女や学生たちの「閉じた世界」とその解放にスポットを当ててきた人物だと思います。
脚本には『ジムノペディに乱れる』や『ナラタージュ』と言った作品で行定監督とタッグを組んできた堀泉杏さんが起用されていますね。
『ジムノペディに乱れる』のようなタイプの映画も手掛けた方なので、本作のような身体的な交わりの描写が強調された作品には適役と言えるかもしれません。
撮影には『共喰い』や『洗骨』といった作品を手掛けてきた今井孝博さんが、照明には『暗黒女子』や『犬鳴村』などのホラー映画も多く手掛けるようになった松本憲人さんがクレジットされました。
松本憲人さんは、『犬鳴村』のライティングが非常に素晴らしかったので、今回のような恋愛映画でそれがどう活きてくるのか楽しみです。
編集には『リバーズエッジ』や『劇場』といった行定監督作品でこれまでも監督と組んできた今井剛さんがクレジットされていますね。
個人的には、行定監督作品では「編集」が苦手に感じられる大きな要素の1つではありますので、不安要素ではあります。
劇伴音楽を提供したのは、『ハナレイベイ』や『聖の青春』などとにかく役者の演技に託すような作品で印象的だった半野喜弘さんですね。
彼の劇伴は、今作『窮鼠はチーズの夢を見る』のような役者と役者の演技がぶつかるような作品で活きてくることでしょう。
- 大伴恭一:大倉忠義
- 今ヶ瀬渉:成田凌
- 岡村たまき:吉田志織
- 夏生さとう:ほなみ
- 大伴知佳子:咲妃みゆ
- 井出瑠璃子:小原徳子
主人公大伴恭一を演じたのは関ジャニ∞の大倉忠義さんですね。個人的に演技を拝見したのは『疾風ロンド』の時ぐらいなので、今回本格派な役どころでどんな演技を見せてくれるのか楽しみにしております。
そしてもう1人の主人公である今ヶ瀬渉を演じたのが成田凌さんですね。
最近、映画に引っ張りだこで彼の出演作を2ヶ月に1本くらい見ているようなイメージすらあります。
今年だけでも『弥生、3月』『スマホを落としただけなのに2』『糸』と大作に3本も立て続けに出演しておられますね。
その役どころも幅広くてラブストーリーからサイコスリラーまで何でもこなしていますが、個人的には彼の演じる「サイコパス」が結構気に入っていて、そのため少し常人離れしたというか、頭のネジが1本外れたようなキャラクターが似合うと思っています。
その他にも『チワワちゃん』の吉田志織さん、グラビアアイドル出身ながらも近年演技でも存在感を発揮している小原徳子さんなど気鋭のキャスト陣が多数出演していますね。
『窮鼠はチーズの夢を見る』ネタバレ解説・考察
大伴が主導権を握っていた?
(C)水城せとな・小学館/映画「窮鼠はチーズの夢を見る」製作委員会
さて、ここからは『窮鼠はチーズの夢を見る』という作品に深く入り込んでいきましょう。
まず結論から申し上げますと、私は今作が大伴恭一が恋愛における主導権を手放す物語だと思っております。
皆さんは、今作を見た時に、大伴という主人公が恋愛において主導権を握っている側の人間だと思いましたか、それとも相手に主導権を握られている側の人間だと思いましたか。
劇中では優柔不断で、流されやすく、女性に言われるがままに関係を持ってしまうという優柔不断な側面が強調して描かれているので、後者だと思う人は多いかもしれません。
しかし、私はむしろ大伴は前者の人間だと思っています。
なぜなら、彼は自分から好きにならなくても、相手が好きになってくれて、自分のために尽くしてくれて、必死になってくれるという状況に慣れているからですよ。
彼は、一見すると自分で主導権を持たずに、相手の側に委ねている人間なのですが、その本質は逆でして、相手に主導権を手放しで委ねられてしまう人間なのです。
例えば、彼の浮気相手であった瑠璃子は、大伴が既婚者でもいいからと、身体だけの割り切った関係を結んでおり、その関係を続けるor終わらせるの主導権は完全に彼が握っていますよね。
他にも物語の後半になって存在感を増してくるたまきもまた、彼に主導権を明け渡すタイプの女性であり、自己主張をするようなタイプではありません。
カーテンのやり取りで、彼女が恭一さんの言うとおりにして良かったと発言していましたが、こういった会話の節々に大伴が主導権を握る側の存在であることが分かる内容が散りばめられています。
面白いのが、冒頭の大伴夫婦のやり取りでして、2人の会話では外食に行く、買い物に行く、旅行に行くといった提案が全て彼の側からなされているんですよね。
そして、映画に行く約束をする際に大伴は、妻がホラー映画を見たいといったのを受け入れるのですが、それに対して妻は少し驚いた様子なんですよ。
この何気ないやり取りを見ていると、この夫婦においては何事も主導権が大伴に握られていて、妻には決める権利がないのかもしれないという想像が働きました。
別れ際に彼女が「あなたがお金を稼いで、私が使うだけの関係」と言っていましたが、お金を稼ぐ側が当然主導権を握っているわけで、彼女には自由はありません。
ただ、そんな彼の前に現れたのが、今ヶ瀬渉という存在であり、彼は唯一大伴から主導権を奪った人間なんです。
彼は浮気の証拠をちらつかせ、そして大伴から選択の余地を奪う形でキスを迫りました。
2人の関係においては、渉が当初は主導権を握っていたわけですよ。
ただ、物語が後半に差し掛かるにつれて、徐々にその関係性が変化していくこととなります。
主導権と飲食の描写のリンク
2人の関係性の変化について言及していく前に、本作において「主導権」というキーワードをを読み解く上で1つ重要なモチーフについて言及しておく必要があります。
それは「飲食」です。
食事の場では、年長者から食べ始めるという習慣もあったりしたわけですが、これはその場における主導権を握っている人間から食べ始めるという習慣でもあると思います。
この考え方に基づいて本作『窮鼠はチーズの夢を見る』の食事のシーンを見返してみると、確かに先に食べている側の人間に主導権があるケースが非常に多いのです。
例えば、大伴が渉を最初に寿司屋に誘った時に、鯵の寿司を先に食べたのはどちらだったのかと言うと、渉なんですよ。
しかし、彼の自宅での場面に移ると、朝食を大伴が先に食べており、妻がせっせと準備をしている様子が映し出されていました。つまりこの夫婦における主導権は彼が握っているということです。
何が面白いのかと言いますと、ここでもエビチリを先に食べるのは大伴なのですが、ここで彼は自分が主導権を握っているという固定観念を覆されるんですよ。
自分が浮気をしているにも関わらず、妻を大切にするという発言をしていた彼が、あっさりと妻にフラれてしまうというある種の意趣返しが描かれているわけです。
そして、ここから壮絶な主導権争いが生じることとなります。
その火花がバチバチと飛んでいたのが、大伴がさとうや渉、渉の友人の4人と食事をしていたシーンですね。
ここでは、4人がそれぞれに自分の意中の相手をものにしてやろうと主導権争いをしています。
偶然にもそれが食事の席で描かれているわけで、彼らが競うのは誰が最初に「食べる」のかということですよね。
その後のシーンでさとうと渉の直接対決が描かれますが、この時も自分が主導権を握ろうとしているさとうはシンハービールを渉よりも先に注文します。
また、このシーンではさとうと渉のお互いの大伴に対するスタンスが明らかにされていました。
まず、さとうは大伴から主導権を奪い取って、自分が握ってしまおうとするタイプの女性ですね。それはもう言動から明らかでした。
一方の渉は序盤こそ浮気の証拠によって主導権を握っていましたが、結局彼は大伴にほれ込んだ側の人間であり、主導権を握ることは関係性が深まれば深まるほどできないんですよ。
だからこそ、この場面で彼は、「大伴のような人間には逃げ道を作ってあげないと死んじゃいますよ。」という発言をしています。
これって、言わば彼は主導権を握っていないと上手くいかないタイプの人間なのだということを暗に仄めかしていますよね。
そして、この渉の姿勢が、2人の物語を大きく左右することになっていきます。
このように『窮鼠はチーズの夢を見る』には食事のシーンが多く登場し、それらがその場において主導権を握っている人間が誰なのかを表し、そして誰が主導権を握ろうとしているのかを表していると言えるのではないでしょうか。
主導権を手放しても良いと思える恋をする
(C)水城せとな・小学館/映画「窮鼠はチーズの夢を見る」製作委員会
物語の後半になるにつれて、渉はどんどんと「メンヘラ」化していき、大伴に依存的な側面も見せるようになります。
彼のケータイを夜な夜な覗いていないと落ち着かなかったり、彼が出かけてしまうとそわそわしたりしてしまうわけです。
序盤こそ主導権を握っていた渉も、やっぱり徐々に大伴に主導権を奪われていくんですよ。
なぜなら惚れたのは渉の方であり、大伴には彼と一緒にいることも、そして離れることも選択できるからです。
渉の方がいつも自分に言い寄って来るのであり、それを受け入れるも拒絶するも自分の裁量次第であると大伴は思っています。
しかし、彼はそういう人間の方が相性が良いわけで、だからこそ2人の関係は徐々に深まっていきます。
でも、大伴はそういう人間の方が心地良いから近くに置いておくのであり、彼がさとうと上手くいかなかったのは、彼女が自分が主導権を握ろうとしたからですよね。
誕生日になると、誕生年のワインを渡し、そして北京ダックが食べられる店に連れて行き…とやはり主導権は常に大伴に握られるようになり、結局彼は前妻と同じような関係を渉と築き始めてしまいます。
(C)水城せとな・小学館/映画「窮鼠はチーズの夢を見る」製作委員会
ただ、彼は浮気に流されやすい性格であり、自分に好意を向けてくれる人間がいると、すぐに靡いてしまいますよね。
その相手というのがたまきという職場の後輩の女性なのですが、彼女もまたいわゆる「尽くす」タイプであり、主導権を最初から大伴に明け渡していました。
しかし、物語の果てに彼が求めたのは「自分に主導権がない愛」だったんですよ。
大伴は渉に都合の良い関係でもいいから会って欲しいと懇願され、たまきには好きな人の存在が忘れられなくても良いから一緒にいて欲しいと懇願されます。
2人は、大伴に主導権を明け渡し、そして自分を受け入れて欲しいと願ったわけです。
しかし、彼は変わらなければなりません。自分が無意識のうちに主導権を握れてしまう関係を彼は断ち切らなければなりませんでした。
だからこそ、彼は渉に持ち掛けられた「都合の良い関係」を拒絶し、たまきに求められた「愛のない結婚生活」を拒絶するのです。
ラストシーンで彼は去ってしまった渉を「待つ」という選択をしました。
この時、2人の関係性における主導権はどうなったのかと考えてみますと、それは大伴が主導権を手放して渉に渡しているという構図なんですよね。
煙草の入った灰皿は、大伴の自宅に強烈に渉を想起させるモチーフとして置かれていました。
渉が去ってからも灰皿を彼が部屋に置いていたのは、渉が置いておいて欲しいと言って去っていったからですよね。
つまり、渉都合で置かれていると読み取れますし、彼が大伴の自宅にまだ自分の居場所があると信じたいがために残していったものでしょう。
しかし、ラストシーンで灰皿を大伴が部屋に置き直す行為の意味合いは、全く異なりますよね。
この時の灰皿は、彼が返ってきて欲しいがために大伴が自らの意志で置いたものであり、そこに彼が帰ってきてくれるという確証はないのです。
ここからも2人の主導権がクライマックスにして明確に入れ替わっていることが分かりますし、終盤にようやく大伴が主導権を手放す決断ができたのだということが分かります。
それは確かにそうですし、主人公がクズ過ぎる部分があったことも否めません。
しかし、本作が描いた恋や愛の本質というのは、ここまでも述べてきたように「主導権を手放す」ということなのかもしれません。
もっと言うなれば、自分自身の主導権を手放してでも一緒に居たいと思える相手に出会えることこそが「恋」であり「愛」なのだということを『窮鼠はチーズの夢を見る』は描こうとしていたように感じます。
それは、ラストシーンの大伴のことだろうと多くの人は思うでしょう。
ただ、物語を振り返って考えてみて欲しいのです。
この作品において、大伴を好きになった人間は、彼に恋をした人間は皆、自らの意志で主導権を手放してきたんですよ。
つまり、ラストシーンにおける大伴の主導権の放棄を本当の恋や愛だとして賛美するのであれば、反転してそれまで彼に好意を寄せてきた人間の思いが全て賛美されるということにも繋がるのです。
『窮鼠はチーズの夢を見る』という作品は、恋愛の甘い部分や美しい部分ばかりに目を向けるような作品ではありません。
むしろ自らの主導権を放棄してでも相手に受け入れられようとするような、求められようとするような「泥臭さ」に正面から向き合っています。
だからこそ、そのラストにて主人公が「泥臭さ」を真の愛として受け入れるシーンを描くことを通じて、それまでの物語において泥臭く誰かを思い続けてきた全てのキャラクターを肯定して見せるわけです。
ディテールの出来栄えに注目して…
さて、ここからはもう少し細かく作品を見ていこうと思います。
『窮鼠はチーズの夢を見る』はとにかくディテールにこだわり抜いた作品だと感じました。
細かな要素要素を拾っての解説・考察となりますが、しばらくお付き合いくださいませ。
冒頭とエンドロールの劇伴音楽が演出するものとは?
さて、まずは『窮鼠はチーズの夢を見る』を音の観点から紐解いていきたいと思います。
注目したのは、物語の幕開けの際に流れていた劇伴とエンドロールで流れていた音楽です。
実は、この映画って同じ旋律の劇伴音楽で始まりと終わりが演出されているんですよね。
ドラムで一定のリズムを刻むようなシンプルなメロディなのですが、これが冒頭とエンドロールの両方に用いられています。
これが意味するのは、本作が1つの円環構造のようになっているということでしょうか。
物語の冒頭で描かれたのは、彼が出勤するシーンだったわけですが、エンドロールの後に彼は再び日常生活に戻っていくわけですから、冒頭で描かれたような生活に戻っていくことでしょう。
では、本作の物語の冒頭に起きた出来事は何だったか、この劇伴音楽の後に起きた出来事がなんだったのかを思い出してみてください。
そのまさかでして、冒頭の劇伴音楽が終わった後に起きた出来事は、数年ぶりの渉と大伴の再会なんですよ。
つまり、これと同じ劇伴音楽がエンドロールで用いられるということは、2人が再会することを強く予感させる演出として機能しているんですね。
この演出は、正直抜群に巧いと思いましたし、劇伴音楽の使い方としては120点と言えるでしょう。
『オルフェ』の引用が示す希望の結末とは?
(C)水城せとな・小学館/映画「窮鼠はチーズの夢を見る」製作委員会
今作の劇中でジャン・コクトーの『オルフェ』が登場する一幕がありました。
まず、このという作品は、ギリシャ神話のオルフェウスの物語に基づいて作られた映画となっております。
オルフェウスといえば有名な話が、妻であるエウリュディケーが毒蛇にかまれて死んでしまい、彼女を救うべく冥府に向かうというものです。
この時、彼は妻を取り戻すことに成功するのですが、その際に「冥界から抜け出すまでの間、決して後ろ(妻の方)を振り返ってはならない」という条件を出されます。
結果的にオルフェウスは冥府を出る直前に振り向いてしまい、妻を永遠に失うこととなります。
このオルフェウスの物語が描いているのは、振り返って幸いの人と見つめ合うということがそのまま2人の永遠の別れに直結してしまうという悲しいシチュエーションなんですよね。
『オルフェ』が使われたのは、まさしく大伴が初めて渉に自らキスをするシーンだったわけですが、思えばこの時大伴は彼に「振り向いて」しまったんですよね。
振り向いて視線を交わしてしまったら最後、2人が永遠に結ばれることはないのかもしれません。オルフェウスの神話が本作にもたらすのは、そんな悲しく不安な運命です。
一方で、『オルフェ』という作品では、一応オルフェウスとエウリュディケーに当たる人物は死後の世界から脱出するのですが、お互いの姿を見てはいけないという条件を出されます。
結果的に以前のように愛し合うことができないと分かり、エウリュディケーに当たる人物がオルフェウスに当たる人物の視界に飛び込んで自死するという展開が描かれるのです。
この行動は、どことなく大伴の前から姿を消すという選択をした渉に重なりますよね。
しかし、『オルフェ』においては実はまだ物語に続きがあるんです。なんと最終的にはルフェウスとエウリュディケーに当たる人物が2人とも生き返り、幸せに暮らすというハッピーエンドが用意されています。
つまり、『オルフェ』に基づいて解釈するなれば、2人は永遠の別れ…ではなく、再び再会することが予見されるというわけですね。
ちなみに『オルフェ』には、今作のたまきに当たるであろうポジションのキャラクターも登場したりしますので、こちらもぜひご覧いただきたいです。
青と赤。部屋に宿す温度。
次に注目したのは、大伴の自宅という舞台装置についてです。
彼が結婚生活を送っていたのは、温かみのある部屋だったわけですが、彼が1人で暮らすようになって選んだ部屋がコンクリートの無機質感が際立つ「冷たい」部屋だったんですよね。
コンクリートには、人が触ると木と比べて12倍の早さで熱を奪われ、その結果として冷たくと感じるという特性があります。
そのため単純に物理的に冷たいわけですが、視覚的にもやはり「冷たさ」が際立つモチーフでしょう。
そんな部屋に温かな「温度」を取り戻してくれるのがまさしく渉であるわけですが、彼の特徴と言えばもちろんタバコを吸っていることですよね。
彼が部屋にいると、たばこの火がどこか部屋を暖めてくれているようなそんな印象すら与えます。
しかし、たばこというモチーフは火がついていないと途端に寂しさや冷たさを感じさせるモチーフへと早変わりするんですよ。
(C)水城せとな・小学館/映画「窮鼠はチーズの夢を見る」製作委員会
だからこそ、彼が去った部屋にたばこの吸い殻が入った灰皿が置かれている光景はどことなく「冷たく」感じられるのです。
そして彼が去った後に、あの部屋に入り浸るようになったのが婚約者のたまきであるわけですが、2人を象徴するモチーフとして登場したのが、「青いカーテン」です。
(C)水城せとな・小学館/映画「窮鼠はチーズの夢を見る」製作委員会
あの「青いカーテン」はたばこの火とは対照的に「冷たさ」を増長するモチーフとして機能し、だからこそ彼が渉を再び求めるようになっていくという心理的なプロセスが映像の温度感によって形作られているんですね。
こういった視覚的な演出は見ていて流石だと思いました。
シーンを超えた呼応がもたらすもの
3つ目に注目したのは、『窮鼠はチーズの夢を見る』が同じ構図やシチュエーションを反芻することで、その積み重ねによって意味を生み出そうとしていた演出の数々です。
まず、印象的だったのは大伴の自宅に置かれていたあの椅子でしょうか。
あの椅子を定位置にしていたのは、もちろん渉であり、それ故に渉の不在をあの椅子の空白によって端的に示すことができます。
終盤に、あの椅子にたまきが座っていた時の、大伴の視線。
あれは彼女を見ている様で、誰かもっと遠くにいる誰かを見ている様でもありました。
このように、誰かほかの人物が座ることによって、その人物と渉を対比させて描くことができる、重ねて描くことができるわけです。
また、あの椅子に渉が座っていた時のシチュエーションを考えてみますと、それは大伴の帰りを待っている時なんですよね。
大伴と渉の関係性においては、基本的に後者が「待つ側」であり、だからこそ渉はいつもあの椅子の上で帰りを待っていました。
そうした演出の積み重ねが、明確に意味を成したのがまさしくラストシーンでして、大伴は確かにあの椅子の上に座っています。
「待つ」と「待たせる」の関係が反転したことが、あの椅子の上に座る人物の対比によって、端的に示されたわけです。
もう1つ個人的に印象に残ったのが、お酒が絡むシーンの対比関係ですね。
まず、さとうと渉の直接対決の時に、彼女に出し抜かれた渉が1人残され、大伴が飲み残したビールを飲む一幕がありました。
(C)水城せとな・小学館/映画「窮鼠はチーズの夢を見る」製作委員会
しかし、逆に渉が去った後には、大伴がクラブで彼の姿を探して1人泣きながらハイボールを飲むというシーンがあります。
この2つのシーンは明確に呼応し、ある種の好意のベクトルとして機能していました。
このように、本作は同じ構図やシチュエーションを作品の中で何度も反芻することで、意味づけをしていき、その「積み重ね」が重要なシーンで効いてくるという演出が全体を通して一貫していたと思います。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『窮鼠はチーズの夢を見る』についてお話してきました。
『窮鼠はチーズの夢を見る』の成田凌さんの役が
・好きな人のパンツの臭いを嗅ぐ
・好きな人のパンツをはく
・好きな人の飲み残しビールを飲む
・スマホは毎晩チェックとなかなかのメンヘラ変態ストーカー気質だったのですが、それでも「可愛い」としか思えないのヤバくないですか…? pic.twitter.com/tCwIeEahZH
— ナガ@映画垢🐇 (@club_typhoon) September 11, 2020
こんな感じの役どころで、それでも「可愛い」としか思わせない圧倒的な演技力には脱帽でございました。
一方で、本作に関しては大倉忠義さんが非常に重要でした。
なぜなら彼が演じた大伴というキャラクターは一言で言うと「クズ」であり、本当に行動だけを見ていると、はらわたが煮えくり返りそうになります。
それでも、それほど嫌悪感を強く抱かずに(それでも終盤にたまきを捨てた時は…でしたが)見れてしまうのは、大倉忠義さんだからこそなんだと思いましたね。
行定監督作品がとにかく苦手だった当ブログ管理人ですが、今回はドはまりしました。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。