みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね『劇場版ヴァイオレットエヴァーガーデン』についてお話していこうと思います。
『ヴァイオレットエヴァーガーデン』シリーズはKAエスマ文庫から発売されている原作本も含めてアニメ、OVA版と全て追いかけてきましたが、その集大成として、完結編としてこれ以上は望めないのではないかとすら思える完璧な出来栄えでした。
そもそも原作ではアニメの最後のエピソードとして扱われている横断鉄道のところでギルベルト少佐の生存が確認されて、ハッピーエンドへと向かって行きます。
ただ、京都アニメーションが手掛けたテレビアニメシリーズは、その結末が改変されておりまして、最終回に至ってもギルベルト少佐の生存は確認されないという幕切れになっておりました。
ですので、原作のエピソードを生かすということもできず、完全にアニメオリジナルで「オチ」をつけないといけない状況に陥っていたわけです。
ただ、そんな状況にこれ以上ない完璧な解を示したのが本作だと思いますし、こんなものを見せられてしまっては、涙が止まりません。
そしてやはりこの作品を語る上で避けては通れないのが、2019年に起きた京都アニメーション社ビルへの放火事件です。
この一件によりたくさんの方が命を落としたわけですが、私も全員を追いきれたわけではないのですが、エンドロールには武本さんや西尾さんの名前がクレジットされていました。
それも彼らに追悼を捧げるといった特別な表記ではなく、きちんとスタッフの1人としてクレジットしているところに感銘を受けました。
凄惨な事件の被害者としてではなく、1人の立派な才能を持ったアニメーターとしてその名を刻むことこそが京アニ流の追悼の意なのだと受け取りました。
こうしたコンテクストもあるため、もはや今回の『劇場版ヴァイオレットエヴァーガーデン』を1本の映画として冷静に評することは難しいかもしれません。
それほどに圧倒的で、鮮烈で、どこまでも優しく包み込まれるような何かとんでもないものを見たという感覚だけが頭から離れないそんな「体験」でした。
色々な思いを持ってこの作品をみなさんはこれからご覧になるのだと思いますが、自分の内から溢れ出てくる感情に身を任せてください。
そのままの自分で感じたことを大切にして、劇場を後にして、深く深くその感情を噛み締めてください。
きっとあなたが感じたままで、受け取ったままで…。
さて、今回の記事は作品のネタバレになるような内容を含む考察記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
ヴァイオレットエヴァーガーデンの「火」のモチーフを追う
当ブログでは、YouTubeチャンネルの方も運営しております。
こちらでも『ヴァイオレットエヴァーガーデン』についての考察動画を公開しました。
ブログでも少しだけ書きましたが、テレビシリーズ~劇場版に至るまでを通じての「火」のモチーフの意味づけの変化を追った考察動画となっております。
『劇場版 ヴァイオレットエヴァーガーデン』解説・考察(ネタバレあり)
火と水と光。そのあまりにも圧倒的な映像表現
京都アニメーションの作品を語る上で、映像表現についてはもう語りつくされてきたのではと思うのですが、その進化は留まるところを知らないようで、鑑賞するたびに驚かされています。
今回個人的に注目したのは、火と水と光という3つの映像的な演出ないしモチーフです。
「火」が内包する温度と命。そして戦争。
まず、火についてお話していきましょう。
火というモチーフは言うまでもなく生命を象徴するものと言えますし、同時に映像に「温度」を与えてくれる重要なモチーフです。
作中で何度か登場していましたが、特に印象に残っているのは次の2つのシーンです。
- ヴァイオレットがギルベルト少佐の自宅を訪れ家の外から声をかけるシーン
- 病の男の子が亡くなり家族が彼の遺した手紙を読むシーン
まず、ギルベルト少佐の自宅でのシーンにおいては外で激しい雨が降っており、映像的に冷たい印象を増幅させ、雨に濡れるヴァイオレットの冷えた「温度」が顕著に表現されています。
それと対比させるようにギルベルト少佐の前には暖炉があり、家の窓の隙間からは温かな光が零れていました。
この時、ヴァイオレットの視点から見た「火」は彼女がギルベルト少佐から与えてもらいたいと切望している愛情の温もりを象徴しています。
一方で家の内側にいるギルベルト少佐が「火」の中に見ているのは、戦争です。
戦争というものはいつだって人の命を奪うものであり、火は人々の暮らしを容赦なく奪っていくものです。
彼は「火」の中に戦争を見ており、だからこそ自分がヴァイオレットを戦争に巻き込んでしまったこと、そして戦争によって多くの人の命を奪ってしまったことを深く悔いています。
同じ「火」というモチーフであってもヴァイオレットは愛を、ギルベルト少佐は戦争を見ており、そのすれ違いが実に巧く表現されてシーンでした。
そしてもう1つが病に倒れていた少年が家族に看取られながら息を引き取るシーンです。
このシーンでは少年の生気の無くなった様子が何とも残酷なのですが、彼が亡くなった後に残された家族が手紙を読むシーンでは、天井のシャンデリアに設置されたろうそくの炎が何とも印象的です。
しかもここでわざわざシャンデリアのろうそくを1本だけフレームに収めているのが、またすごい演出だと思いました。
少年は命を落としてしまったけれども、彼が手紙を通じて遺してくれた温もりはこれからも消えないわけで、死しても彼は家族であり続けるのだという希望が確かに視覚的に表現されていました。
また、ここでわざわざ「火」が使われた照明をフレームに収めるのは、冒頭に街からガス灯が消えつつあるという点を仄めかしていた点も関係していたように感じました。
電灯にしてしまえばもちろん便利なのは間違いないのですが、火による照明にしかできないことが、出せない温もりがあるのだということをこのシーンで対比的に描き出しているのです。
雨と水の表現が生む冷たさと重み
次に水の映像表現に目を向けることとしましょう。
今回の『劇場版ヴァイオレットエヴァーガーデン』ではまず雨が印象的に物語に取り入れられていました。
雨の演出と言えば真っ先に新海誠監督作品が思い浮かびますが、彼の作品における雨は美しくそして登場人物を包み込むような優しさが内包されていると思っています。
(C)暁佳奈・京都アニメーション/ヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会
一方で、京都アニメーションが今作の中で描いた雨はどこまでも冷たく、黒く、そして残酷です。その水滴が体に触れるたびに痛みすら生じてきそうなほどの鋭さすら内包しています。
特に先ほどの「火」の演出のところでも触れた、ヴァイオレットがギルベルト少佐の自宅を訪れるシーンでは、雨が彼女の心をズタズタに引き裂こうとしているかにも見えるほどでした。
そして「水」という観点で見るならば、印象に残るのが終盤のヴァイオレットとギルベルト少佐の再会のシーンです。
このシーンを見た時の率直な感想としては「水がすごく重たく見える」ということなんですよね。
近年ディズニー&ピクサーのアニメーション映画における水の表現の進化が著しいことは誰もが認めるところですが、今回の『劇場版ヴァイオレットエヴァーガーデン』におけるそれは明らかに一線を隔するものです。
とにかくヴァイオレットとそしてギルベルト少佐が突き進んで行く海の水の質感が「重たく」そして暗く表現されているのが特徴的です。
この「重み」は、まさしく2人が再会するという事実が奇跡的なことであり、そしてどれだけの抵抗と障害の向こう側にあったことなのかという点を際立たせる役割を果たしています。
重たい水を自分の足で一歩一歩踏み出していくからこそ、2人の再会に「重み」があるのであり、どんな困難があろうともそばに居たいという意志の力が可視化されるのです。
太陽と月。その異なる光が生み出すもの
さて、本作のクライマックスである再会のシーンで印象的だったのが、太陽と月が放つ光を見事に使い分けて見せたことでしょう。
『劇場版ヴァイオレットエヴァーガーデン』にスポットを当てる前に、テレビシリーズの最終回を思い出してみますと、Bパートの終盤にヴァイオレットが夕暮れ時の太陽にギルベルト少佐の面影を見る描写がインサートされています。
夕日とギルベルト少佐が重なるのは、彼が与えてくれた人間らしさであったり愛情であったりの温かさをヴァイオレットが投影しているからと言えるでしょうか。
今回の劇場版のクライマックスで、ヴァイオレットが送った手紙をギルベルト少佐が読むシーンがあるのですが、ちょうど彼がヴァイオレットの別れの言葉を読み切ったあたりで夕日が沈んだのに気がつきましたか。
(C)暁佳奈・京都アニメーション/ヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会
これってまさしくヴァイオレットがギルベルト少佐を忘れることはできないけれども、彼のためにも距離を取って、決別して生きようと決心した瞬間だったのだと思います。
そしてその後のシーンではひたすらに夜の闇が包むのですが、2人が互いを求め合い、水の上で再会するシーンでは突如として月が昇るんですよ。
ここで印象づけられるのは次の2つのことだと思います。
- ギルベルト少佐が夕日から月へと変化したということ
- 言葉にしなくても2人は「愛し合っている」ということ
ギルベルト少佐はヴァイオレットに対して、自分は今までの自分ではもはやないし、彼女が思っているような自分でもないと語り、それでも一緒にいたいのだと告げました。
つまり、明確に彼は今までの少佐としての自分とヴァイオレットとの関係は終わったのだと言っているわけです。その上で新しく関係性を結び直したいのだと語ることにより2人の関係性には変化がもたらされます。
その変化を象徴的に演出していたのが夕日から月への移行だと見ることができるでしょう。
そしてもう1つは同じく京都アニメーションの『聲の形』などでも用いられていた「月がきれい」のコンテクストです。
ヴァイオレットは少佐を前にして自分の思いを巧く言葉にすることができません。それでは空に輝く月はきっと彼女の思いを表現してくれています。
堂々の完結編が描く、アニメがもたらす「生」とは?
(C)暁佳奈・京都アニメーション/ヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会
さて、ここからは本作の主題的な部分に話を移していきたいと思います。
その上でやはり避けては通れないのが京都アニメーションに起きたあの放火事件でしょう。
たくさんの才能豊かなアニメクリエイターたちが命を落とし、京都アニメーションとしても本当に存続の危機だったと思います。
それでもこうして筆舌に尽くしがたい傑作を世に送り出してくれたわけで、その仕事ぶりには頭が下がる思いです。
今回の『劇場版ヴァイオレットエヴァーガーデン』はとにかく「死」の臭いが充満した作品になっていると言えます。
あらゆる登場人物に身近な人や大切な人、家族の「死」が突きつけられ、それに対してどう向き合うのかを常に問い続けるような物語となっていました。
そこには戦争も絡んできており、戦争によって多くの人が失われた事実も生々しく作品のバックボーンに刻まれています。
また、「死」を突きつけられるのは人間だけではありません。
劇場版『ヴァイオレットエヴァーガーデン』はシリーズの根幹とも言える「手紙」という文化や習慣の「死」をも予感させる物語に仕上げています。
これについてはヴァイオレットが自動式手記人形として活躍していた時代よりも遥か先の時代を生きる少女を登場させ、その時代ではもはや手紙が文化的な遺物として扱われている様子を印象づけていました。
国が死に、人が死に、文化が死に、習慣や伝統が死に…。その中で人間は「死」に対して何ができるのだろうか?
私たち人間は「死」というものに抗うことはできません。どんな形であれ、平等にやって来るのが「死」というものです。
ただ、「死」というものはいつだって悲しく、特に大切な人や身近な人の「死」となると向き合い、自分の中で昇華していくまでに時間がかかります。
どんなに繋ぎ止めようとしたところで、命は簡単に肉体からすり抜けて行ってしまうわけで、それに対して人間ができることなんてもはや何もないのかもしれません。
しかし、それでも人間は「死」と何とかして向き合おうと試みるのです。
それは祈りであり、手紙を書くことであり、読むことであり、伝えることであり、思うことであり、様々な形で現前します。
それらの行為が失われた生命を取り戻すなんて絵空事はとても起きません。しかし、だからと言って無意味かと聞かれると、無意味ではないと私は思います。
少年が病院で静かに息を引き取った後、彼が遺した手紙は家族に確かな希望を灯しました。
母を失った少女は誕生日のたびに送られてくる母からの手紙に生きる力をもらいました。
「死」そのものは変えられなくとも、私たちは「死」に対する向き合い方を変えることができるのであり、それによって絶望の中でも希望を見出すことができるのです。
そして「死」と「生」は1つの円環構造の中に位置づけられており、永遠に繰り返していくものです。
本作に登場する島は戦争で働き盛りの若い男性が多く戦死しましたが、きっと子どもたちは成長してまたあの島は栄えていくのでしょう。
そうやって「死」と「生」は空間とそして時間を超越して繰り返されるものなのだから悲観する必要はなく、そして誰かがその重荷を背負う必要はないのだと本作は伝えてくれています。
もう1つ重要なのは、技術や文化の「死」です。
『劇場版ヴァイオレットエヴァーガーデン』では電話の台頭により徐々に手紙の文化が衰退していく未来が仄めかされていました。
その中で、本作が素晴らしかったのは自動式手記人形という「手紙」の文化を体現する彼らが最後の最後に電話の力を借りるという展開を描いたことではないでしょうか。
この行為は一見すると自分たちの職業の否定にも取れるのですが、それはあくまでも表面的な話です。
むしろ彼らのポリシーや主義は一貫していて、人が人に思いを伝えるサポートをするということだけなんですよね。
それが手紙であっても、当然電話であっても良いわけで、だからこそアイリス・カナリーはあの時、手段を選ばなかったんですよ。
大切なのは目に見えることじゃなくて、もっと深くにある本質的なことだと彼女は知っているのです。
さて、ここまで人の「死」への向き合い方、そして文化の「死」への向き合い方について言及してきました。
その上で京都アニメーションが本作を通じて何を描こうとしていたのかと考えてみますと、それは「死」の向こうにある「生」であり、そして「死」しても変わらない京都アニメーションらしさをこれからも継承し、更新し続けていく覚悟なのではないでしょうか。
2019年の放火事件はあまりにも凄惨な事件でした。
きっと社員さんの中には同僚や上司や部下の死に責任を感じておられる方も多いのではないでしょうか。あの時自分がその場にいれば救えたかもしれない…。
島の老人がギルベルトに対して発した「死に対する責任を1人で背負う必要はない」という言葉は、あの事件とそしてたくさんの人の死を背負おうとして押しつぶされそうになっているクリエイターたちに向けたものだったようにも聞こえます。
そして「死」の向こうには必ず「生」があり、京都アニメーションはあの「死」と向き合いそしてこれからもアニメーションを生み出すという「生」を続けていくという決意が強く感じられる内容にもなっていました。
またアイリス・カナリーの咄嗟の行動に垣間見えたのは、本質的なことを見失わないことを前提として手段を選ばない、自分たちのテリトリーに固執しないということです。
どんな文化も技術も時が経てば役目を終えていき、実用から遠ざかり展示物へと転じていくのかもしれません。
だからこそ自分たちの今の技術や表現に満足せず、常にアップデートさせていく、自分たちの思いを伝えるためならどんなことにでも挑戦するのだという京都アニメーションの覚悟が確かに息づいています。
加えて、予告編でも印象的なセリフでしたが本作のもう1つの大きなキーワードは「消えない」だと思っております。
あの事件により亡くなった方が製作に携わった作品は今も確かに「生きて」いて、彼らが遺した功績は消えることはありません。
ヴァイオレットの小さな新聞記事の切り抜きに影響を受けた数十年後の少女。
これは京都アニメーションが作り上げた作品が、これから何十年何百年と愛され続け、新しいファンを生み出し続けるという1つの理想の具現化ではないでしょうか。
消えない。消えない。消えない。
先ほど人の「死」は避けられないものだと書きました。
しかし、アニメーションはその製作に携わった人間を「死」から解き放ち、「消えない」存在へと昇華してくれるのかもしれません。
今は亡きクリエイターが遺した作品が、いつかの未来の新しいクリエイターの誕生の契機となる。
(C)暁佳奈・京都アニメーション/ヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会
それが京都アニメーションが思い描く1つのアニメーションを巡る「死」と「生」の円環なのかもしれませんね。
『劇場版ヴァイオレットエヴァーガーデン』から強く感じられたのは何だったか。
それは数多のクリエイターたちへの賛辞であり、経緯であり、そして祈りでした。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は『劇場版ヴァイオレットエヴァーガーデン』についてお話してきました。
正直に申し上げますと、この作品を1本の物語として冷静に評することは難しいです。なぜならそれほどに「死」の臭いが立ち込めた映画だからです。
しかし、それと同時に溢れんばかりの「生」に満たされた作品でもあります。
「死」は全てを消し去ることではなく、同時に「生」を否定することでもありません。「死」した後にも確かに残るものがある。それは何か。
それは人の「思い」であり、そして人が「してきたこと」です。
そしてまさしくそれは京都アニメーションにとっての「アニメーション」であります。
彼らはこれからもアニメーションを作り続けることによって、「死」に立ち向かい続けていくのだと静かにしかし強く決意しているように思えました。
いつかの時代のどこかの国の少女が作品に触れて、自分も作ってみたい!と思えるような…。
このような素晴らしい作品を生み出してくれた京都アニメーション並びに作品に携わった全ての方に敬意と感謝の意を表すると共に記事を締めくくりたいと思います。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。