みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『ミッドナイトスワン』についてお話していこうと思います。
ふと上映作品ラインナップを見ておりますと、この『ミッドナイトスワン』を見つけまして、それが何とあの内田英治監督の最新作なんですよ。
内田監督は、『下衆の愛』や『獣道』と言った作品で知られていて、小規模作品ながら映画ファンの間では高く評価されてきた監督です。
そんな監督がメジャーに近い規模の作品を手掛けるということもあり、これは見に行かない手はないぞと思い、早速鑑賞してまいりました。
それにしても、本作の草なぎ剛さんの演技は圧巻でした。
『BALLAD 名もなき恋のうた』や『台風家族』などこれまでにも出演作は多く鑑賞してまいりましたが、ここまで圧倒されたことはなかったので、衝撃的でしたね。
単に女性らしさを身に纏っているだけではなくて、彼が今回演じた凪沙はトランスジェンダーとして生きることの悲哀や苦悩を一身に背負っていると言えます。
その背負っているものの「重み」とそしてそれを誰にも共有できない、1人で背負い込むしかない「孤独」をここまで身体表現と表情で観客に伝えられてしまうものなのかと愕然としました。
2020年はコロナ禍の状況でありながら、たくさんの邦画が公開されていますが、その中でも今作はおすすめしておきたい1本です。
また、もしこれから鑑賞される方がいましたら、1つ申し上げておきたいのは、本作はハートフルな物語ではあるのですが、見終わった後に幸せな気持ちになれるかどうかと聞かれると、難しい部分があります。
というよりもむしろ、あまりの「救われなさ」に愕然とさせられるかもしれません。しかもその「救われなさ」が心理的なものとしてだけではなくて、肉体的な痛みとして描かれているので、かなり真に迫るものがあるのです。
ただ、それでもこの作品を見て欲しいと思うのは、この作品には今まさにLGBTとして生きている人たちの「現実」が描かれているからなのだと思います。
見終わった後、あまりの残酷さや痛みに打ちひしがれるような、それでも見える仄かな希望に泣きたくなるような、不思議な感情と共に私も劇場を後にしました。
今回はそんな『ミッドナイトスワン』について個人的に感じたことや考えたことをお話していこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『ミッドナイトスワン』
あらすじ
ニューハーフショークラブのステージに立つ、トランスジェンダーの凪沙は都会の片隅で静かな生活を送っていた。
彼女の夢は働いたお金を貯金して、そのお金で男性器の切除手術を受けることである。
幼少の頃から自分の「性」に違和感を抱いてきたのであり、それを田舎に暮らす家族にも告げることができずに生きてきたのだ。
そんなある日、広島の親戚の1人が娘をネグレクトしているとして、一時的に娘と距離を置くこととなる。
育て手を失ったその娘を凪沙は、金銭と引き換えに預かることとなるのだった。
実の親のネグレクトによって孤独の中で生きてきたその少女、一果は自分の思いを他人に伝えることが苦手で、凪沙は上手くコミュニケーションをとれないまま共同生活をスタートさせる。
どんなものにも無関心で、ドライに生きている一果が唯一目をキラキラさせるのは、バレエで、彼女は学校からの帰り道に近所のバレエ教室を覗き込むようになる。
ひょんなことから凪沙は、そんな一果の才能と熱意を感じ取り、自分を犠牲にしてでも彼女のバレエ教室のためにお金を稼ごうとするのだが…。
スタッフ・キャスト
- 監督:内田英治
- 脚本:内田英治
- 撮影:伊藤麻樹
- 照明:井上真吾
- 美術:我妻弘之
- 衣装:川本誠子
- コスチュームデザイン:細見佳代
- 編集:岩切裕一
- 音楽:渋谷慶一郎
- バレエ監修:千歳美香子
記事の冒頭にも書きましたが、内田英治監督はこれまでに『下衆の愛』や『獣道』と言った作品を手掛けてきました。
こういった作品を見てきた上で、私が彼の作る作品が「好き」と感じるのは、伝えたいことがシンプルで、ドストレート。そして何より「綺麗ごと」だけを描かないという姿勢なのだと思います。
『獣道』だって物語の枠組みそのものは青春映画なのですが、そこに新興宗教、育児放棄、ドラッグ、若者の非行、ヤクザ、暴走族、性産業などの社会の暗部を溶け込ませることで、すごく「重たい」作品に仕上げていました。
こうした「影」の部分から目を背けないというのが内田監督の視座の強みだと思いますし、今作『ミッドナイトスワン』でもそこに強く惹かれました。
他のスタッフ陣にも目を向けていきましょう。
撮影の伊藤麻樹さんは『獣道』でも内田監督とタッグを組んでおり、今年公開の『タイトル、拒絶』を手掛けることでも知られています。
編集の岩切裕一さんは『劇場版 おいしい給食 Final Battle』や『人狼ゲーム』シリーズに携わってきた経験を持っています。
また『ミッドナイトスワン』において非常に印象的だった劇伴音楽を『SPEC』シリーズで知られる渋谷慶一郎さんが担当しました。
- 凪沙:草なぎ剛
- 桜田一果:服部樹咲
- 瑞貴:田中俊介
- キャンディ:吉村界人
- 桜田早織:水川あさみ
- 洋子ママ:田口トモロヲ
- 片平実花:真飛聖
草なぎ剛さんの演技については冒頭にも触れましたが、単に女性らしさを帯びただけのトランスジェンダー役ではないんです。
トランスジェンダーとして生きることの悲哀や覚悟を一身に背負い、それでも生きようと強くあろうとする人間の実像をその身体と表情で、完璧に表現していました。
しかし、そんな彼に負けず劣らずの存在感を発揮しているのが、新人の服部樹咲さんです。
彼女は平成29年・30年ユースアメリカグランプリ日本ファイナル進出、NBAジュニアバレエコンクール東京2018第1位など、バレエでも圧倒的な成績を残している新人女優なのです。
そのため、今回の『ミッドナイトスワン』では、自らバレエのシーンを演じているわけですが、単にバレエが巧いだけのキャスティングではないんですよ。
演技の方も非常に上手くて、何が素晴らしいかって「無表情で表情を出せる」ことだと思います。
物語の序盤では彼女の演じる一果は、ほとんど喋りません。しかし、それが何の感情や意志も宿っていない無表情・無口なのかと言うとそうではありません。
無言・無表情が有する雄弁さというものを彼女はきちんと肌感覚として持っていて、それが一果というキャラクターのパーソナリティを表現しています。
また日本の映画界に楽しみな新人が1人現れたものだと衝撃を受けました。
『ミッドナイトスワン』感想・解説(ネタバレあり)
トランスジェンダーの肉体の「痛み」に目を向けた内田監督の視座
(C)2020「MIDNIGHT SWAN」FILM PARTNERS
先ほどのキャスト紹介のところでも言及しましたが、内田監督の素晴らしいところは目を背けたくなるような「現実」に観客を直面させることなのだと思います。
トランスジェンダーを扱った作品は数多く存在していますが、その大半が描いているのは「心の痛み」なんですよね。
もちろんこうした性的マイノリティの人たちを描くにあたって「心の痛み」にスポットを当てることは大切ですし、そこに触れることで理解が広まっていくのは事実です。
心理的・精神的な苦悩を描くことの意義は、まさしく見る人にもこういった人たちと向き合うために、何かを変えなければというマインドの変容をもたらすことができる点だと思っています。
こうした「心の痛み」に対しては、社会を構成する私たち1人1人に「できること」があるからこそ、映画の題材として描かれやすいのでしょう。
一方で、多くの映画が描かずにとどめているのが、トランスジェンダーが抱える「肉体的な痛み」だと思っています。
これが映画やドラマで描かれることが少ないのは、先ほどとは対照的に観客にはどうしようもない、何もできることがないからなのではないでしょうか。
加えて、「心の痛み」については性を超えて共有できる普遍性のようなものが少なからず内包されているのですが、「肉体的な痛み」についてはそれがなく、あくまでもキャラクターが1人で背負うものとして完結してしまうところがあります。
そんな中で今回の『ミッドナイトスワン』では、内田監督がトランスジェンダーの心と共にその肉体にまでスポットを当て、その残酷なまでの苦痛に正面から向き合いました。
綺麗ごとだけを描かない、物事の陰の部分にスポットを当てる。そんな映画を撮り続けてきた内田監督だからこそできた視点だと思います。
また、『ミッドナイトスワン』の大きな特徴は、主人公の凪沙が抱える肉体的な痛みに積極的に寄り添わないことです。
普通に考えれば、彼女がどんな治療を受けていて、それによってどんな副作用を受けていてという状況の説明をきちんと観客に果たすことで、「理解」を促す作りにするはずですよね。
しかし、この作品はそれを一切しないのです。
例えば、彼女は女性ホルモンの注射に通っていて、その影響で日常的に顔がほてったり、フラフラしたりという副作用に苦しんでいる姿が描写されていました。
ホルモン療法を行うと、体内のホルモンの状態がアンバランスになって、ある種の更年期障害のような症状(ほてりやのぼせ等)が出ると言われています
ただ、『ミッドナイトスワン』は彼女が何の注射をしていて、なぜ日常的にほてりやのぼせ、めまいに悩まされているのかに関する説明の一切を排除しているのです。
物語の後半に、彼女は男性器の切除手術を受けることになりますが、これについても説明がほとんどなく、更にはその手術による重い後遺症のリアルがとにかく衝撃的な絵面で映し出されます。
こういった「痛み」を観客に理解させようと説明を試み、ある種の同情にも似た感情を掻き立てることで、涙を誘うという演出はもちろんできるでしょう。
ただ、内田監督はそれを一切、全くもってやっていません。
説明をして彼女の痛みを「言語化」すると、状況を自分の頭である程度整理してしまい、人間は「感情的に」彼女の苦しみや痛みを分かろうとしてしまうのだと思います。つまり同情に近いものになりますね。
それは大切なことなのかもしれませんが、彼女が抱える「痛み」と真に向き合うという趣旨からはズレてしまうような気もするんです。
そうじゃなくて、内田監督は観客に対して、凪沙の抱えている「痛み」をただ視覚的に突きつけることで、感覚的・本能的な部分でそれを体感させようと試みています。
自分には理解しがたい、何が起こっているのかは分からないけれども、そこにはとてつもない痛みと苦しみが確かに存在しているのだというリアルとただ直面して欲しい。その上で考えてみて欲しい。
頭で「理解する」のではなく、本能的な肌感覚として彼女の「痛み」を「感じる」という部分に主眼を置いた内田監督の視座に拍手を贈りたいです。
「自分」を救う物語として
(C)2020「MIDNIGHT SWAN」FILM PARTNERS
『ミッドナイトスワン』という作品を、どう紐解くかと考えた時に、これは「凪沙が『自分』を救おうとする物語」なのだと解釈しました。
そうした物語として読み解く上で、1つ重要なキーになるのが「お金」というモチーフです。
この作品では、映像を見ていると、自然と「お金」に目が行くように計算されていて、例えば凪沙が部屋に置いている大きな貯金箱は時に画面の中央に配置されて、観客に印象づけられます。
その他にも凪沙の同僚が愛する人に貢ぐために風俗業に身を落としていったり、一果がバレエ教室に通うために、写真の撮影モデルになって金銭を稼いだりという少し生々しく感じられるような描写が作品の中に散りばめられています。
私が注目したのは、主人公がお金を貯める・使うための目的が大きく変化していくという点です。
物語の序盤において凪沙がお金を必死で貯めているのは、男性器切除の手術を受けるためであり、それはどこまでも自分のためですよね。
自分が子供の頃から感じてきた性的な違和感を取り除くための最後のステップとして「男性器切除」があり、彼女はそれを自分の力で達成しようと試みています。
そして、一果という存在が現れ、そうした彼女なりのお金を貯める・使うことへの意味づけが変化していくのが本作の物語展開になっているわけです。
ここで、他のキャラクターに少し目を向けてみますと、一果は子どもでありながら親に金銭的に寄りかかるということを知らない人間として描かれています。
彼女はバレエ教室に通って、真剣に取り組みたいという思いを持っていますが、金銭的に苦しく、そんな時に凪沙に対して「通わせてほしい」とお願いをすることができないんですよ。
映画を見ていると、バレエの体験教室に行った日の夜に、彼女が部屋を綺麗に整頓したワンシーンが挿入されていました。
なぜなら、部屋を綺麗にするというのは、彼女なりの意思表示であり、親に対して約束をきちんと守るから自分のお願い事を聞いて欲しいという子ども特有の心理の表れなんですよ。
ただ、一果はそれを言葉にすることができないのです。なぜなら親に対して何かをお願いする、期待するということを知らずに生きてきた人間だからです。
そうして一果は自分の力でお金を稼いで、バレエ教室に通うという選択をせざるを得なくなります。
当ブログ管理人が感動したのは、彼女が凪沙の貯金をくすねて、バレエ教室に通うという展開を描かなかったことです。
実は、彼女と凪沙が部屋で会話をしているシーンで、意味深に画面の中央に貯金箱を配置し、そこに一果の視線を向けさせているカットがありました。
これを見た時に、私は本能的に「あっ、彼女は凪沙のお金をくすねてバレエ教室に通うんだな。」と勝手に邪推してしまいました。というより、これは監督が明確にやったミスリードでしょう。
ただ、一果がその選択をすることはないんです。
これは、彼女の内なる善性を表現しているとも言えますが、それ以上にあの年齢で既に自分の力で生きていかなければならないという覚悟を植えつけられた子どもの悲哀が凝縮されているように感じました。
私が子どもの頃であれば、あの貯金箱からお金を抜き取って、平気でお小遣いの足しにしていたと思います。
しかし、一果はそれすらできない。知らない。そうやって生きる方法しか知らないのです。
そして凪沙と同じスナックで働く女性の1人が、恋に落ちて、そして彼に貢ぐためにスナックを辞めて風俗で働き始めるという展開もありましたね。
彼女の行動は、凪沙の意識の変化に多大な影響を与えています。自分のためじゃなく、誰かのために自分を犠牲にしてでもお金を稼ぐという強い意志。それは後に凪沙と一果の関係へとシフトしていきました。
彼女は、一果が個別撮影といったある種の身体を売る行為でお金を稼いでいたことを知ります。加えて、彼女の働くスナックのステージで圧倒的に美しい踊りを披露する一果に魅了されました。
物語の序盤に、凪沙は一果に対して「私たちのような人間は、強く生きなきゃダメ」と告げていました。それは1人で生きていくしかなかった彼女の人生があってこその言葉でしょう。
この言葉からは、凪沙が一果に対してどこか自分を投影している様子が伺えます。それは一果には自分と同じような人生が待ち受けているのだという諦念にも似た感情からです。
しかし、バレエの月謝問題とスナックでの美しいバレエの一件があり、凪沙は一果には、自分と同じような人生を歩まなくて良いだけの可能性があるのだと気がつきます。
「あの子の可能性を潰したくない」
その言葉に嘘偽りはなく、それは明確に凪沙が自分自身ではなく、自分に重なる一果を救いたいという思いから出た言葉でもあります。
彼女は風俗業に手を出したり、女性としての自分を捨てて昼の肉体労働に従事したりしながらお金を稼ぐようになりました。
ただ、一果がようやくバレエの発表会に出られたタイミングで、実の母親が現れて彼女を連れ戻してしまいます。
その後、会場を飛び出した彼女は単身海外に渡り、男性器切除のための手術を受けました。
ここで重要なのは、彼女の男性器切除の目的が明確に変化しているということです。
おそらく凪沙は、日本の病院で安全に手術が受けられるようにお金を貯めていたのだと思います。
しかし、一果が母親に連れ戻されるという一件があり、彼女にバレエを続けさせるためには、自分がどうにかするしかないのだと思い至り、真に「母親」になるために今あるお金で手術を受けられる方法を模索しました。
その結果が、リスクと隣り合わせの海外での安価な手術なのですが、もうこの時点で彼女には金銭的に選択の余地がありませんでした。
そして、重要なのは彼女が男性器切除の決断をするのが、自分のためではなく、明確に一果のためであるという点です。
『ミッドナイトスワン』が物語の中で描いたのは、1つの選択の意味づけを最初と最後で大きく変化させるというものです。
こうした献身は多くの物語において、心理的なものとして描かれることが多いのですが、内田監督は、これを「お金」と「肉体」という実に生々しい方法で表現して見せました。
クライマックスの海のシーンで、凪沙は薄れゆく意識の中で、子供の頃に見た海の風景を思い出しています。
自分の性に対する違和感の端緒。彼女がそこに見ているのは、女の子が着るスクール水着を着て、無邪気に水遊びに取り組むアレゴリー化された自分自身の姿です。
夢見ていた自分。そんな夢が静かに溶けて、現実で踊る一果の姿へと混ざっていく。
救われない人生、どこまでも孤独と絶望の中で生きてきた1人の女性が、最後に自分を重ねた少女の「救い」を目撃し、静かにその生涯を終えるのです。
暗い道を歩み続けた彼女だからこそ、一果には「光の刺す道」を歩んで欲しかった。その説なる思い。そしてその道を自分自身で歩んでみたかった。その悲哀。
深い哀しみと救われないことへの絶望の中で、仄かな期待に自分の人生を少しだけ肯定されたような…。
何とも言語化することができない感情が一気に押し寄せ、ただただ圧倒され、涙が止まらなくなりました。
「死」とラストの海のシーンが描いたもの
(C)2020「MIDNIGHT SWAN」FILM PARTNERS
さて、もう1点『ミッドナイトスワン』を語る上で目を背けることができないのが「死」ですよね。
もちろんクライマックスにおける凪沙の死は重要ですが、その前にも一果のバレエ仲間だったりんという少女の死も物語において大きな意味を持っています。
まず、りんの死は、恵まれた環境下での深い絶望の淵で突然もたらされました。
金銭的には裕福で満たされた生活なのですが、彼女の両親はりんそのものにほとんど関心がなく、彼女がバレエによってもたらす地位や名誉、栄光にしか興味を持っていないように見受けられます。
病院で、バレエがもう続けられないと聞かされた時も、母親が心配しているのはりん自身ではなくて、「バレエをしているりん」なんですよね。
そんな両親の自分に対する無関心を彼女は明確に感じ取っていて、だからこそ恵まれた環境で育ちながら人一倍愛情に飢えています。
りんと一果は、恋愛感情とまでは明確に描写されていませんが、少なくとも深く心を通わせていることが明白でした。
そして、ここまでも書いてきたように一果は凪沙と強く繋がっていましたし、彼女からの愛情も感じていたはずです。
そう思うと、この物語における一果にとっての「死」って自分に愛情を注いでくれた人が消えてしまうことなのかもしれません。
だからこそ、愛に飢える一果にとって、「死」は甘美であり、自分を愛してくれた人との再会を実現するものともとれます。
クライマックスの海のシーンを解釈するにあたって、1つ重要なのは作中で何度も反芻された『白鳥の湖』のオデットの話です。
オデットは最終的に昼間に白鳥の姿になってしまう呪いが解けず、それを悲しんだ王子と共に湖に身を投げて心中するという悲しい結末を迎えます。
『ミッドナイトスワン』のクライマックスの海のシーンは、おそらくこれを意識して作られたものです。
そう考えると、一果が凪沙の死を悟り、海に向かって歩いていくシーンは、彼女の「死」を強く想起させるものになっているんですよね。
つまり、海に身を投げて自殺するという選択を、愛する人たちの「死」の引力に引っ張られて、してしまうのではないかという予感です。
ただ、ここで重要なのは、彼女を浜辺の方へと押し返そうとする「波」の存在です。
これはきっと死を選び、人間の生命の源である海へと戻っていった凪沙とそしてりんの彼女に生きて欲しいという「愛」の具現化です。
生きて欲しい。あなたはまだこちら側に来てはいけない。
そんな切なる思いが波として形になり、一果に物理的に干渉しているのではないでしょうか。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『ミッドナイトスワン』についてお話してきました。
何だろう「綺麗ごと」としてハッピーエンドに持っていくようなことは全くしていなくて、むしろどこまでも凪沙は救われないまま物語は幕を閉じます。
それでも、私たちにはとてもそれが救いだとは思えないのだけれども、彼女は心のどこかで「救われた」のかもしれない。そう思わせてくれるのです。
また、トランスジェンダーの心の痛みはもちろんとして、肉体的な痛みに正面から向き合い、あえてそれを言語化することを避けて表現したアプローチには驚かされました。
この映画は凪沙の痛みや絶望を「理解させ」ようとはしていません。それはきっと彼女の中にしかないものだからです。
そして同時に「救い」や「希望」もまた彼女の中にしかありません。
理解を超えた何かに「触れる」という体験がこの映画の中には確かに存在しています。
そんな体験を受けて、何を思うのか、何を考えるのか。
同情や共感からは生まれない、何かを得ることができる。そんな作品だと私は思いました。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。