みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『mid90s』についてお話していこうと思います。
『ウルフオブウォールストリート』などの作品で俳優として出演したことで知られるジョナ・ヒルが今回初監督作品として送り出したのが今作です。
北米大手批評家レビューサイトのRotten Tomatoesでも批評家・オーディエンスからの支持率が共に80%を超えており、絶賛と共に迎えられた作品です。
当ブログ管理人も鑑賞予定には入れていたのですが、優先順位的に後回しにしてしまい、ズルズルと来てしまいました。
それでもTwitterでおすすめしてくださった方も多く、それでいてやはり評判も非常に良かったので、これは見るしかないと思い、チェックしてきた次第です。
最近のアメリカ映画ってとにかく80年代の時代背景やカルチャーに影響を受けた作品が多いと思うんですよね。
ジョン・ヒューズ監督の青春映画へのオマージュやリスペクトが見られる作品が一昨年、昨年あたりに立て続けに公開されていましたが、この傾向もちょうど今のハリウッドの第一線で活躍するクリエイターの年齢層を如実に表していると思います。
そして、今作は90年代を舞台にした作品であるわけですが、監督を務めたジョナ・ヒルは1983年生まれということで、多感な学生時代をちょうど90年代に過ごした人物です。
そういう意味でも、彼は1つ次の世代のクリエイターだと思いますし、そんな彼の作品がこうして高い評価と共に受け入れられているのは、印象的ですね。
今回の『mid90s』はジョナ・ヒル自身の自伝的な側面もある映画のようです。監督としてキャリアをスタートさせると、まずは自分についての映画を作ってみようというのが、やはり最初の1歩だと思います。
ある種のナラタージュであるわけですが、そこにクリエイターとしての「物事の捉え方」が凝縮されることは明白です。
だからこそ、今作は今後の彼の作品を語っていく上でも重要な1本になると思いますし、見ておくべき1本なのではないでしょうか。
さて、ここからは当ブログ管理人が個人的に感じたことや考えたことを綴っていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『mid90s』
あらすじ
13歳の少年スティーヴィーはシングルマザーのダブニーと兄のイアンと3人でロサンゼルスに暮らしていた。
家では力の強い兄に虐げられ、いつも悔しい思いをしており、そんな境遇から町のクールなギャングたちに憧れている。
ある日、近所のスケボーショップの前で見かけた少年4人のグループに興味を持ち、スティーヴィーは何とか彼らに近づこうと、兄からスケボーを譲り受ける。
そんな4人と一緒に過ごすようになり、グループのリーダー格的存在のレイやファックシットも徐々に彼のことを認めるようになる。
彼らと行動するようになり、酒やたばこに手を出すようになり、大人の階段を上っていくスティーヴィーだったが、母と兄はそんな彼のことを憂う。
レイたちとの交友関係を終わりにするよう求める母にスティーヴィーは思わず強く反発してしまうのだが…。
スタッフ・キャスト
- 監督:ジョナ・ヒル
- 脚本:ジョナ・ヒル
- 撮影:クリストファー・ブロベルト
- 編集:ニック・ヒューイ
- 音楽:トレント・レズナー / アティカス・ロス
クリエイターに寄り添い、彼らの自由な発想を第一に考えて作品を作り続けたことで注目を集めているのが、まさしくA24という映画製作・配給会社です。
一風変わった作品が多いのですが、その質は非常に高く、もちろんハマらない作品もありますが、個人的にはかなり信頼しております。
さて、監督を務めるのは、冒頭にも書きましたが、これまで俳優として活躍してきたジョナ・ヒルです。今回は脚本もご自身で担当されているようです。
撮影にはソフィア・コッポラの『ブリングリング』やガス・ヴァン・サントの『ドントウォーリー』などで知られるクリストファー・ブロベルトがクレジットされています。
編集にはグレタ・ガーウィグ監督の『レディバード』や『ストーリーオブマイライフ』を支えたニック・ヒューイが加わりました。
劇伴音楽には『ソーシャルネットワーク』や『ゴーンガール』のトレント・レズナーとアティカス・ロスの2人が起用されています。
- スティーヴィー:サニー・スリッチ
- ダブニー:キャサリン・ウォーターストン
- イアン:ルーカス・ヘッジズ
- レイ:ナケル・スミス
- ファックシット:オーラン・プレナット
- ルーベン:ジオ・ガリシア
- フォースグレード:ライダー・マクラフリン
- エスティー:アレクサ・デミー
『聖なる鹿殺し』なんかにも出演していたサニー・スリッチが、今作『mid90s』では主演に抜擢されています。
主人公の母親役をの『ファンタスティック・ビースト』シリーズのキャサリン・ウォーターストンが演じている点も注目すべきポイントの1つでしょう。
そして『レディバード』や『WAVES』などの作品でその存在感を発揮しているルーカス・ヘッジズが主人公の兄を演じました。
こういった実力者が揃いつつも、全体的に子役たちの粗削りながらも惹きつけられる演技が魅力的な作品になっていましたね。
何でも、今作のキャストたちはスケボーの技術も加味して選ばれたため、新人の役者たちも多いのだとか。そこも映画の「味」になっていました。
『mid90s』感想・解説(ネタバレあり)
人間の「見え方」を多面的に描く
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さて、『mid90s』についてお話していくわけですが、まず個人的に目がついたのが短い時間ながら登場人物を様々な視点から多面的に掘り下げている点です。
今作は13歳のスティーヴィーという少年の視点から基本的に物語を展開していきます。13歳である彼は当然、まだまだ物事が見えていませんし、自分の主観中心で生きている部分があります。
そんな彼から見ると、レイやファックシット、フォースグレードやルーベンは「クール」な存在です。
しかし、そんな彼らだって他の人間から見れば、また違った存在なんですよね。
例えば、クールなファックシットは、レイから見ると大切な親友である一方で自堕落で退廃的なところがあるという人間になります。また周囲の女性たちからしてもファックシットの評判はあまり良いものではなく、「性行為が下手である」とディスられる始末でした。
いつもカメラを回しているフォースグレードは、あまり喋らないため自分についての情報を開示することが少ないのですが、レイの口からソックスも買えないほどに貧しい家の生まれであることが明かされました。
そして警察官や警備員、スティーヴィーの母親や兄なんかから見ると、レイたちは「ギャング」「ゴロツキ」でしかありません。
スティーヴィーの目から見れば、4人は誰しもが「クール」な男たちなのですが、見る視点を変えれば、必ずしも彼らは「クール」ではない、むしろそれとはほど遠い存在であることも示唆されます。
こういった多面性って実は子どもにはまだまだ理解しがたい観点でして、人間は成長する過程で徐々に、自分とは違う考え方や境遇を持つ他人に触れて、物事を客観的にとらえられるようになっていくものです。
自分と「クール」な親友を引き離そうとする母親は、確かに「悪」に思えるかもしれません。しかし、ダブニーにはシングルマザーとして彼を育ててきた自負があり、彼に真っ当に生きて欲しいという思いがあります。
人間の多面性を知るということは、まさしく「成長」の本質であり、それこそが『mid90s』という作品の中で、示されたスティーヴィーの成長への予感でもあるのです。
そしてこの映画はスティーヴィー自身をも多面的に描き、観客にその繊細で複雑な感情の解釈を求めています。
彼は町のギャングたちとつるみ、酒やたばこに手を出し、次第に暴力を覚え、さらには母親や兄に暴言・暴力をぶつけるなどと、一見すると非常に「悪い子ども」に思えるかもしれません。
しかし、彼はすごく根が優しい子どもなんですよね。
例えば、映画の冒頭では、自分を殴ってくるような兄に対して、部屋に入って兄が持っているCDを調べ、そこから計算して、プレゼントを渡すなんて可愛らしい側面が描かれました。
また、彼がスケボーを手に入れるために母親の80ドルを兄と共犯でくすねた際には、罪悪感から母親のブラシで自分の太ももに傷をつけるという自傷行為に及びました。
似たようなシーンはもう1つあって、それが終盤の兄を殴ってしまった時に、電気コードで自分の首を絞めるシーンです。
これはある種の、自分を罰する行為であり、言わば家族に強く当たったり、反抗してしまったりする自分を彼は自分で許すことができません。
それ故に、傷つけたり、痛めつけたりすることによって、そんな自分を戒めようとしています。この行動は、まさしく彼の内面のコンフリクトを巧く表現しています。
「クール」に憧れ家族を疎ましく思う自分。
真面目に生きて、そして家族を大切にしたい自分。
彼はまだ小さくて、どれか1つしか選べないのかもしれません。どれか1つが自分なのだと決めなければならないのだとそう思っているのかもしれません。
「ありがとうと言うのはゲイだ」
「ありがとうと伝えるのは人間として当たり前のことだ」
劇中にこんなやり取りがありましたが、スティーヴィーはどちらかに正解があると思っているのでしょう。ただ、これも正解は1人1人違うわけです。
しかし、ここまでにもお話してきたように人間にはいろんな側面があります。
「クール」に憧れて、街のギャングとつるんで、それでも家に帰ったら家族を大切にして。きっとそれらは相反することなく、同居し得るものです。
そうやっていろんな人の言葉や考え、ものの見方に触れながら、スティーヴィーはこれから大人になっていくのだろうという予感をこの映画は淡々と描いています。
まだ、いろんなことが見えていない。でももうすぐ見えてくる。
そんな人生の変化と成長の「予感」が漂う瞬間をこれほどまでにナチュラルに描き切った作品を称賛しないわけにはいかないでしょう。
明確な変化やアンサーを描かないことで生まれた「余白」
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『mid90s』の語り口の特徴として、劇的な変化や成長、アンサーのようなものを描かないという点が挙げられます。
映画脚本においては、物語の始まりと終わりにおいて何か「変化」がもたらされているということが1つのセオリーです。
もちろん本作『mid90s』も映画の最初と最後では、スティーヴィーの変化と成長がもたらされています。
しかし、それは決して大きくなく、それでいて劇的ではなく、さらに言うなれば、ほとんど可視化されず、彼自身の中に内包されているのです。
彼自身の中では、何かが変わったとそう思えているのかもしれませんが、観客の視点から見ると、それが明示されているとは取りづらいわけですよ。
母親との関係の改善も描かれなければ、兄との和解も明確には描かれていません。レイたちとの交友関係についてもどうなっていくのかについては言及されませんでした。
ただ、そこにこそ『mid90s』という作品の狙いがあると思います。
というのも、この映画はスティーヴィーの「変化」そのものではなくて、これからスティーヴィーに何かしらの変化や成長をもたらすであろう「ヒント」た「予感」ばかりを作品のいたるところに散りばめてあるのです。
つまり、スティーヴィーの本質的な「成長」の部分を「それはまた別のお話」と言わんばかりに物語の外側に配置しているわけですよ。
当ブログ管理人は、脚本分析のためにいろいろと資料を読んできたこともあり、映画の中ではやはり「変化」が明確であることが鉄則であるという認識を強く持っていました。
だからこそ、「変化」そのものに繋がる要素だけを映画の中に残し、鑑賞する側の余白の解釈の中に、その「変化」を委ねるという本作のアプローチに感動したのです。
母親は、かつては遊んでいたけれど、子どもと向き合うために真面目に生きるようになった。そんな彼女が少しずつスティーヴィーの交友関係に理解を示すようになっていく。
険悪な関係の兄が少しだけ弟に手を差し伸べる。スティーヴィーと殴り合いのけんかまでしたルーベンは、病院にて徹夜で彼の意識が戻るのを待っていてくれた。そしてレイたちのグループの在り方も終盤の車の事故を契機に変わろうとしています。
これらがスティーヴィーの成長や変化へと繋がっていくことを確かに予感させてくれました。
でも、それが起きるのは「まだ少し先のお話」なのです。
ラストに「映画」を配置することで生まれた時間的広がり
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もう1つお話しておきたいのは、この作品がそのラストカットにフォースグレードの撮影した映画を用いた点です。
というのも、ここで劇中映画を挿入することによって、物語の「時間」の幅が一気に拡大するんですよ。
『mid90s』はそのタイトルが示す通りで、ひたすらにスティーヴィーの視点から90年代半ばのロサンゼルスを切り取ります。
物語の主眼はスティーヴィーとそして彼がつるんでいるレイたちに置かれていました。そして彼らが過ごした青春の一瞬の時間を切り取って閉じ込めてあります。
そのため、時間軸的には本当に一瞬であり、ほとんど広がりはないんですよ。ただただ彼らの「現在」が描かれているに過ぎません。
しかし、それらをフィルムに焼きつけることによって、彼らが過ごした「現在」は愛おしき「過去」へと転じるのです。
そうして観客は、これまで描かれてきた時間から解き放たれて、そして一瞬このフィルムを見ている「主体」について思いを馳せることとなります。
この「主体」というのは、スティーヴィーやレイたちのことなのですが、フィルムに焼きつけることで瞬間は永遠になりますよね。
つまり、いつの時間軸の、何歳の、どんな仕事をしていて、どんな大人になった彼らがこのフィルムを見ながら、昔を懐かしんでいるのだろうという視点が生まれるわけですよ。
もちろん、この映画でも描かれていたように、彼らの関係は静かに終わりへと向かって行くのかもしれません。
それでも一緒に過ごしたこの時間は、フィルムに焼きつけられたあの時間は、もう消えることはないのです。
この『mid90s』という作品は、ジョナ・ヒル自身が「近景」で自分の青春時代を追体験しながら、最後の最後で「遠景」でそれらを振り返るという2つの視座で構築されています。
まさしく、この構造が閉塞感漂う本作の世界を、時間の観点から豊かに拡大することに成功していると言えるでしょう。
「彼らがどんな大人になっていくのだろう?」と思いながら固唾をのんで見守った85分。
しかしラストカット見てその視点が明確に変わります。
「彼らは一体どんな大人になったのだろう?」
その余白に自分なりの想像を投影して見ることで、今作は観客の中で完成していくのでしょう。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『mid90s』についてお話してきました。
当ブログ管理人はこうした映画的余白を味わうタイプの作品が大好物でして、そのため本作はドストライクでしたね。
『mid90s』はただ単に変化やアンサーを描くことを避けているのではなくて、それをもたらすであろう「要因」は確かに作品の中に込められています。
それでいて、肝心の変化が起きるのは「また別のお話」として映画を締め括っているわけです。
この構成の仕方をどう感じるかは人それぞれですが、私は素晴らしいと思いますし、見終わった後も「彼ら」の物語に思いを馳せることを止められません。
加えて、ラストカットに劇中映画を配置することで、物語の時間的なフレームを一気に拡大するというあの手法には痺れました。
突然、90年代半ばに閉じ込められていた彼らが「大人」になった姿の存在を知覚させられるんですよね。
彼らは今でも仲の良い親友同士でいるのだろうか、それとも関係性は終わってしまったのだろうか。
それでも、あの「時間」だけは変わらない。愛おしき「過去」として残り続ける。
まさしく青春時代というのもを「近景」と「遠景」で描き分けるジョナ・ヒルの監督としての才覚が垣間見える意欲作と言えるでしょう。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。