みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね今村夏子さん著の『星の子』そして同名の映画作品についてお話していこうと思います。
第157回の芥川賞にて最終選考まで残り野間文芸新人賞を受賞した作品ということで、当時も注目されたのですが、今回映画化されたということで再度注目を集めております。
今作は間違いなく賛否が分かれる作品ですし、読み手によっても特にラストについては大きく解釈が分かれる作品ではないでしょうか。
芥川賞選考当時の審査員の評も残っているので、少し振り返っておきましょう。
まずは『悪人』や『怒り』などで知られる吉田修一さんの評ですね。
「力ある作品だと認めているのだが、ではこれを受賞作として強く推せるかというと、最後の最後でためらいが生じてしまう。」
(『文藝春秋』平成29年/2017年9月号より)
小説としての力は認めたうえで、その内容に関して芥川賞に推しづらいという率直な思いを語られているのですが、この意見も頷けるものがあります。
一方で高い評価を下しているのが、『博士の愛した数式』などで知られる小川洋子さんですね。彼女の評も見ておきましょう。
「どちらも、いかに書かないで書くか、という根源的な問いをはらんでいて興味深かった。」
「書かれた言葉より、書かれなかった言葉の方が存在感を持っている。」(『文藝春秋』平成29年/2017年9月号より)
個人的には彼女の評がすごく的確だと感じたんですよね。これについては後程詳しくお話させていただきます。
このように芥川賞の選考委員の間でも評価が真っ二つに割れ、結果的にこの時は映画化もされた沼田真佑さんの『影裏』が受賞することとなりました。
ただ、今作はこの評価や解釈が真っ二つに割れることこそが「美徳」になり得る作品だと思うんですよ。
なぜなら、『星の子』というのは私たちの「信」を問う物語だからです。
著者の今村さんは、今作が「信」の物語だからこそ、それを計算に入れて、このような読む人によって「揺れ」が生じる作品に仕上げたのでしょう。
ラストシーンにとてつもなく不穏な空気と絶望を感じ取った人もいれば、愛情や救済を感じ取った人もいる。そのどちらを「信」じることも正解なんですよ。
今回は、そんな結末の「揺れ」に主眼を置きつつ、自分なりに作品に対して感じたことや考えたことをお話していこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『星の子』
あらすじ
ちひろは生まれた頃、虚弱体質であり、3か月近くも保育器の中で過ごしていた。
湿疹や中耳炎などの病気を繰り返し、どうにもならない状況に苦しんでいた両親。ある日父は、会社の同僚から不思議な力があるという「水」を手渡される。
そうして父は藁にも縋る思いで、彼女の食事や風呂に纏わる水を変えてみたところ、体調がみるみるうちに快方に向かって行ったのだ。
これを見た両親は喜び、自分たちで「水」を購入するようになり、やがてはこの水を販売している宗教団体に深く入り込んでいくようになる。
ちひろは成長し、小学生になっていたが、両親が「怪しい宗教」にのめり込んでいるという噂は絶えず、友だちも上手く作れない状況に置かれていた。
それでも両親を貶すこともなく、生活を続けていたが、ある日元々家を留守にしがちだった姉が家出をしてしまう。
何の疑いも持たずに生きてきてカルト団体の内側の世界。姉が飛び出していった「外の世界」。
「外の世界」は自分はどんな風に見えているのだろう。
思春期を迎えたちひろの心にそんな「揺れ」がもたらされるのだが…。
スタッフ・キャスト
- 監督:大森立嗣
- 原作:今村夏子
- 脚本:大森立嗣
- 撮影:槇憲治
- 照明:水野研一
- 美術:堀明元紀
- 録音:島津未来介
- 装飾:田口貴久
- 衣装:纐纈春樹
- 編集:早野亮
- 音楽:世武裕子
『日日是好日』や『MOTHER』などの作品を手掛け、ドライな視点で人間に焦点を当てる映画が特長の大森立嗣さんが今作の監督を務めています。
ただ、個人的にはあまりその演出や映画のトーンが好きではないということもあり、未だハマった作品がありません。
一方で今作『星の子』は彼のドライな作品が良い意味でハマる題材ではあると思っております。その点では、期待を抱いているのですが、果たして…。
撮影には『日日是好日』や『劇場』などで知られる槇憲治さんが起用されています。
人間の撮り方が個人的には好きで、クローズアップショットを多用して、その深みに迫ろうとするようなアプローチが1つストロングポイントなんじゃないかと感じている次第です。
この撮り方は『星の子』という題材と親和性が高そうですね。
編集には『影裏』や『楽園』など、独特のテンポ感が特徴の早野亮さんがクレジットされています。何と言うか割とスローなテンポの作品に仕上がるように意識しているのかなという印象がこれまでの作品から強いです。
1つ1つのシーンをじっくり見せるようなその編集スタイルが吉と出るか凶とでるかというところですね。
劇伴音楽には『ロマンスドール』の世武裕子さんが起用されており、こちらは個人的に期待大でございます。
- ちひろ:芦田愛菜
- 南先生:岡田将生
- 雄三おじさん:大友康平
- 海路さん:高良健吾
- 昇子さん:黒木華
- まーちゃん:蒔田彩珠
『マルモのおきて』や『マザー』なんかは当ブログ管理人も見ておりましたが、本当に彼女の出演作を見るのは久しぶりな気がしています。
ただ演技に関しては、心配不要でしょうし、今作のちひろというキャラクターを彼女がどう解釈して演じるのか注目です。
他のキャスト陣を見てみますと、岡田将生さんや黒木華さん、高良健吾さんら実力派が顔を揃えています。
岡田将生さんは「いい人風のヤバい人」を演じるのがめちゃくちゃ巧いですし、黒木華さんの絶妙な「新興宗教感」は驚くべき再現度ですね…。
(C)2020「星の子」製作委員会
また、個人的に注目している若手女優の蒔田彩珠さんが出演していることもあり、こちらも非常に楽しみです。
『星の子』解説・考察(ネタバレあり)
1人の少女の視点で見るからこそ、描かれない本当の「恐怖」
(C)2020「星の子」製作委員会
記事の冒頭に芥川賞の選考に際しての小川洋子さんの評をご紹介しました。
「いかに書かないで書くか、という根源的な問いをはらんでいて興味深かった。」
「書かれた言葉より、書かれなかった言葉の方が存在感を持っている。」(『文藝春秋』平成29年/2017年9月号より)
当ブログ管理人はまさしく彼女と同じ感想をこの作品を鑑賞したときに抱きました。
ただ、面白いのは他の選考委員は、これに真っ向から反論するような評を書いていたりする点です。
『泥の河』などで知られる宮本輝さんは次のように評していました。
「奇妙なカルト的宗教の裏で、両親の周辺では、ただ平和で幸福な日々が過ぎていったわけではあるまい。」「そこのところが完全に素通りされてしまっていて、この小説の真の怖さも封殺されている。私はそれが不満で消極的にしか推せなかった。」
(『文藝春秋』平成29年/2017年9月号より)
これは、小川さんの評と対立する内容の評ですよね。描かれないことが多い、素通りされていることが多く、真の恐怖が「封殺」されていたと書いているわけです。
もちろんどちらの評が優れている、正しいという話は不毛なのでするつもりはありませんが、当ブログ管理人は前者の方に近い意見を持っているということは最初にお伝えしておきます。
2017年にアメリカで大きな話題となった映画の1つに『フロリダプロジェクト』というものがありました。
これは、フロリダの安モーテルで暮らすシングルマザーとその娘にスポットを当てた物語です。
これだけを聞くと、ありがちな内容と思うかもしれませんが、斬新なのは「視点」でして、今作は全編が6歳の少女の視点で進行していくんですよね。
そのため、母親が置かれている危機的な状況、自分たちが貧困の極致にいて明日も不安定な生活を強いられていること、そして母親が身体を売ってお金を得ていることといった不合理な現実が絶妙に「見えない」ように描写されています。
子どもの視点から見れば、ディズニーワールドに近いフロリダのカラフルな安モーテルは希望に満ちた場所にも思えるのですが、実際はその真逆ですよね。
シビアな現実が子どもの視点からだと「見えない」ことが多く、実はそうした「見えない」ところで彼女の生活の終焉が迫っているという構成をとった本作は高く評価されました。
そして話を戻すのですが本作『星の子』は、そんな『フロリダプロジェクト』に似た趣がある作品だと思っています。
確かに先ほど引用した宮本さんの評が示唆する通りで真の恐怖が「封殺」された作品ではあります。
主人公の両親が加入しているカルト団体の狂気や暴力性、異常性は断片的にしか描写されず、また伝聞調で断定的に描かれることがほとんどありません。
しかし、そうした真の狂気や暴力が顔を出さないのは、主人公を中学生の少女に据えているからという見方もできると思うのです。
中学生の主人公には、まだはっきりとその形を見せていない、カルト団体の全貌が、断片的に顔を覗かせているからこそ、不穏さや不気味さが増しているのではないかと私は鑑賞していて感じました。
(C)2020「星の子」製作委員会
例えば、落合家の息子のひろゆきくんが、主人公のちひろにキスを迫ろうとした時に吐いた言葉って、その後掘り下げられることがないのに、不思議な存在感を放っていませんか。
「教えてやる。おれとおまえ、将来結婚するんだよ」
「おまえ以外にも、候補はいるからな。誰にするか、今、選び中。」(今村夏子『星の子』より引用)
カルト団体の中には、結婚相手を強制的に決定されてしまう風習が存在しているのではないかと伺わせる言葉なのですが、今作はそれを言葉にするだけで「確信」には変えてくれません。
ただ、私はこういった疑惑や噂をちらつかせる程度で、それら全てを「事実」として描かないという本作の姿勢が大好きなんですよ。
まさしく「書かれた言葉より、書かれなかった言葉の方が存在感を持っている。」だと思いませんか。
他にも今作を読んでいると、時折想像を絶するような暴力性が顔を覗かせているのですが、やはりそのどれもがぼんやりとしたままで進行していきます。
カルト団体の海路さんの普通の人を洗脳して、水晶と花瓶を飼わせようとしていたなんて噂話はどう考えてもヤバい案件なのに、それが主人公のちひろに何か実害を持って降りかかって来ることはありません。
終盤の「三角堂」の話なんてもっと恐ろしいですよね。過去に集団リンチが行われたために閉鎖されているといううわさが流れているんですよ。
しかし、どれもが宙に浮いた噂程度の話として作中では扱われ、それが主人公に何か大きな影響を与えることはないんです。
ただ、「見えない」だけで得体のしれない恐怖と狂気が確かに潜んでいるということだけが読み手にじんわりと伝わってきて、読んでいて冷や汗が止まらなくなります。
読者はそうした恐怖や狂気を敏感に感じ取り、それらにまだ染まり切っていないちひろをどうにか救い出してあげたいと無意識的に考えてしまうわけですが、おそらく著者はそうした読者心理まで計算に入れているはずです。
今作には巧妙に、ちひろを救い出そうとする親戚や彼女の両親の信仰を全否定する人間が登場します。
どちらかと言うと、読者は彼らの立場に寄り添う方が多いと思うのですが、では彼らの行動が「正しい」のかというとそうとは言えません。
本作を読んで、ちひろの担当教師であった南先生のあの行動を「正しい」と思う人は少ないと思います。
ここまでお話してきたように本作は、あくまでも「信」の物語なのです。
何を信じるかは、世界の「見え方」そのものを変えてしまいます。つまり私たちが敏感に感じ取っている狂気や不穏さ、暴力性がおそらくちひろには見えていないし、感じ取ることもできていないのでしょう。
人々には、それぞれに信じているものがあります。そしてそれが違えば、同じ物事であっても捉え方が変わり、時にそれは対立や衝突を生みます。
だからこそ、人の「信」を否定することはいけないというのは、本作から1つ読み取れることでしょう。
ただし、1つの「信」に囚われて、自分自身の「信」を客観的に見る視点を喪失してしまった時、それは狂気や暴力へと転じてしまう可能性をも孕んでいます。
劇中でカルト団体の海路さんの噂が上がったときに、カルト団体のメンバーたちは、訴えている側の女性の方こそ気が狂っているのだと散々非難していましたよね。
このある種の決めつけには、恐ろしいものを感じますし、自分が言っていることや考えていることを客観的に顧みる想像力を喪失しているとすら感じます。
しかし、主人公のちひろに関しては、実はその信仰が「揺れ」を孕んでいる過渡期の時期にいます。
だからこそ、カルト団体の海路さんの噂に対して、彼女だけは「疑い」の視点をかろうじて持っていました。
彼女の姉のまーちゃんは、その「揺れ」を経て、家から出て行くという決断をしました。ちひろもまた両親と一緒にカルト団体に残るか、そこを飛び出すのかという決断を迫られています。
そう考えると、『星の子』は「書かれた言葉」と「書かれなかった言葉」の「あわい」を味わうような作品だと思うのです。
核心は描かれずとも、それを想像できる予感だけが作品のいたるところに散りばめられており、鑑賞する側はそこに自分なりに解釈や想像を付与しながら楽しめます。
そして、このねらいが本作のラストシーンでもってまさしく結実します。
ということで、次の章ではいよいよラストシーンについてお話していきましょう。
本作のラストシーンを読み解く2つの視点
(C)2020「星の子」製作委員会
さて、本作『星の子』のラストシーンについては、読み手によって感動したと思う人もいれば、胸糞悪い、恐ろしいと感じる人もいるでしょう。
それくらいにこの作品の終盤は、見る人によって解釈に差異が生まれる作品であるということです。
描写だけを見ると、確かに主人公のちひろが両親と共に、野原で夜空を見上げながら、流れ星を見ているというだけの心温まるものに思えるのですが、そこには愛情と狂気が渦巻いているのです。
そんな作品のラストシーンを巡る個人的な2つの解釈をご説明させていただきます。
主人公が両親から離れることへの予感
まず、本作をハッピーエンド的に読み解きたいということになると、この解釈に近づいていくのではないでしょうか。
さて、この解釈を進めていく際に拾っておかなければならない情報は主に2つです。
- ちひろは親戚の叔父さんから高校生になったら、一緒に暮らさないかと提案されている
- ちひろには流れ星が見えるが、両親には見えていない(見えない素振りをしている)
1つ目については、先ほども述べたように主人公に決断と選択の時期が迫っているということを体現する展開でもあります。
主人公は物心ついたころから宗教に入れ込む両親の下で育ってきたために、「外の世界」から自分がどう見えているかを実感することが少ないままに生きてきました。
しかし、自身の姉の家出や中学校で起きた南先生からの強烈な責などもあり、彼女は徐々に自分自身を客観視するようになっていきます。
そんな中で彼女に示されたのが、叔父さんからの高校生になったら両親と距離を置きなさいという提案だったのです。
提案をされた時は、ちひろ自身が丁重に断りを入れていましたが、その後両親も叔父さんから話を受けて、迷いを抱えているようでした。
そして、このラストシーンにおいて、注目すべきポイントなのが、ちひろには見える流れ星が両親には一向に見える気配がないということです。
これはちひろに見えているもの、そして彼女がこれから見ていくものが、両親のそれとは決定的に異なるのだということを表現しているように思います。
これからもカルト教団の世界の中で生きていく両親と、そこから飛び出して叔父さんの家で「普通の子」として生きていくちひろ。本作のラストシーンは、まさしくその分岐点を表現しているように感じられるわけです。
別々の道を、別々の「信」の下で歩んでいくことが予見される親と子。しかし、彼らの間に存在している愛だけはきっと変わらずに残り続けるのでしょう。
今村さんが描きたかったのは「この家族は壊れてなんかいないんだ」ということだと文庫本の巻末対談の中で語っていました。
そんな家族の別離への予感と、未来永劫変わることなく彼らの中に存在し続ける確かな愛の温もりを内包したラストシーンに感動したという声があるのは頷けます。
主人公がカルト教団に取り込まれる予感
もう1つの解釈はどちらかと言うと恐怖と不穏さに満ちたものであり、読み手によっては「バッドエンド」に思えるかもしれません。
ただ、原作者の今村さんはあとがきを読む限りでは、どうやらこちらの解釈に寄せる方向で作品を結ぶ予定だったそうです。
文庫本の巻末に掲載されていた対談の中で、彼女のラストシーンに関する初期構想が綴られていたので、引用させていただきます。
私が最初に考えたラストは、(教団のエリートの)海路さんと昇子さんが草むらの陰にいて、もしかしたら、ちひろは取り込まれるのかもしれない、という予感を漂わせた終わり方でした。
(朝日新聞出版 今村夏子『星の子』巻末対談より引用)
なるほど、このラストの描写の仕方が為されていたとしたら、間違いなく前者の解釈は生まれていないんだろうね。
さて、本作のラストの不穏さを読み解く上で、その足掛かりとなるいくつかの描写を以下にピックアップしておきます。
- 終盤に教団の施設にやって来てから両親とちひろがすれ違い続けている
- 春ちゃんの彼氏の「好きな人が好きなものを一緒に信じたいです」というセリフ
- ちひろには流れ星が見えるが、両親には見えていない(見えない素振りをしている)
- ちひろのモノローグの不穏さ
まず、1つ目は取り立てて何か意味があるわけではないのですが、何となく不穏な空気を感じ取らせますよね。
ちひろと両親が施設の中ですれ違い続けて、全く遭遇しないという状況が提示され、この間に両親は何らかの洗脳をされたのではないかなんて妄想も膨らみます。
2つ目のちひろの同級生である春ちゃんの彼氏の言葉は本作のラストシーンにも通じるものを感じさせますよね。
なぜなら、ちひろは両親のことが大好きであり、彼女はどんなに否定され、白い目で見られようと、彼らから離れようとしませんし、不満を溢すこともありません。
そんな彼女が、自分の選択として「両親が信じるものを一緒に信じたい」と思ったのだとしたら、やはり本作のラストが示唆するのは、彼女がカルト教団に取り込まれていくという未来なのでしょう。
そして3つ目は前者の解釈の方でも書かせていただきました。流れ星の問題は正直どちらにでも取ることができるんですよね。
というのも、「流れ星」って面白いモチーフでして、国や宗教、民族によって吉兆であるとされることもあれば、逆に「凶兆」とされることもある二重性を帯びているのです。
私たちは「流れ星」に祈りを捧げるというイメージが強いと思いますが、これは基本的にキリスト教由来の風習であると言われています。
「神が下界の様子を眺めるために天界を開けた際に、天の光として星が流れ落ちる様」や「魂の救済」などが主な解釈ですが、こうした背景からキリスト教徒は、流れ星に祈りを捧げるのです。
しかし、日本の地方の伝承や民俗においては、流れ星が「凶兆」として解釈されることもしばしばのようなんですよ。
例えば「流れ星の多い年は作物が不作になる」「流れ星を1晩に3つ以上見たら親族間に不幸が起こる」「流れ星は悪夢をもたらす」といった災いをもたらすものとしての流れ星のイメージが流布していることもあります。
つまり、本作のラストシーンにおいて流れ星が見える・見えない問題が表出させているのは、この時点におけるちひろと両親の「信」の違いなんですよね。
まだ、この時点ではちひろは完全にはカルト教団には取り込まれていません。しかし、それも時間の問題かもしれません。
彼女が両親と同じ道を歩むことで、「流れ星が見えない側」の人間になるという可能性が確かに感じられます。
そして小説では、ほとんど最後の数行に描かれているちひろのモノローグの内容があまりにも不穏です。
しかし、そうした予感を感じながらも、彼女は両親と一緒にいることを止めようとはせず、「その夜、いつまでも」星を見ていたと作品は結ばれているのです。
この一連の展開やセリフ、記述を結びつけていくと、ちひろは両親への愛ゆえに、一緒にこれからを生きるためにカルト教団に取り込まれることを半ば受け入れるのではないかという予感が漂っているように感じられます。
それが「吉兆」なのか、それとも「凶兆」なのか。
どちらを選択したとしても、ちひろにはきっと険しい道が待っています。
それでも、彼女が「好きな人が好きなものを一緒に信じたいです」と思っていたとしたら、こちらの解釈の方がしっくりとくるのかもしれません。
映画版が見せた1人の少女の思考プロセス
(C)2020「星の子」製作委員会
さて、10月9日より公開となりました映画版につきましてもお話させていただきます。
今回の映画版ですが結論から申し上げますと非常に出来は良いと言えるのではないでしょうか。
まず、個人的に良かったと思うのは、編集とストーリーの構成の仕方なんですよね。
原作では基本的に物事が時系列順に整理されて羅列しているのですが、大森監督はそれを再構成し、主人公の思考を覗いているかのような感覚で出来事を終えるようにしたわけです。
例えばちひろがコーヒーを飲んだときに、過去のコーヒーの思い出にリンクして、それに纏わるストーリーが語られると言った具合に、現在の時間軸から何かをトリガーにして回想が始まるというセットを繰り返す形で物語を進行していきました。
そのため、時折同じシーンが反芻されたりするのですが、これがまた面白いなあと思います。
私たちって普段思考している時に、1度しか思いを巡らせないこともあれば、重要なことだからと何度も同じ場所、時間、出来事を反芻することがあると思うんです。
今回の映画『星の子』の中では、まーちゃんが家出する前の日の夜にキッチンでコーヒーを飲むシーンは続けざまに2度繰り返されるなど、彼女の中で非常に重要なモーメントであることが印象づけられます。
また、普通同じ日の同じ時間軸に起きた出来事って一度の回想で振り返ると思うんです。
しかし、この映画は同じ日の出来事であっても、それを要素ごとに分解して小出しに回想としてインサートしてきます。
例えば、幼少期に両親と一緒に落合さんの家に行ったシーンなんて、一気に振り返ってしまえば良いのではないかと思いますよね。
しかし、今作では絶妙に息子のひろゆきくんのエピソードだけを分けてあって、それを例えば家で彼の食べ残した寿司が出てきたタイミングなんかで回想させていました。
このように過去の出来事を断片的に、現在の出来事をトリガーにして参照する形式を取ることで、主人公の頭の中で起きている思考プロセスが映像として可視化されたのです。
また、大森監督のライブ感を大切にする撮影スタイルがすごく生きた作品だとも感じました。
僕の撮影はテイクが少ないんです。テストを1回して、後は「よーい、スタート」で始めます。俳優さんたちは、その場一回限りで自分が何を感じるかを把握しないといけません。
何度も練習すれば、「次はこういう顔をする」とシミュレーションできますが、練習はして欲しくないですね。その時相手が言った言葉を聞いて、それに対してその場でどう反応するか。そういうコミュニケーションの中での演技にリアリティが生まれると思っています。それには俳優を信用するしかありません。
これまで、役者に多くを委ねすぎて粗削り感や全体の演技のトーンの足並みがそろっていない印象が拭いきれなかった大森監督作品ですが、今回はそのスタイルがむしろハマっていたとも言えます。
何と言うか『星の子』という作品は良い意味で力の抜けた日常感が大切な映画だと思うんです。
もちろん黒木華さんや高良健吾さんはそのキャラクターの特性上、異質な雰囲気を出す必要があります。
その一方で、主人公の両親や周囲のキャラクターたちは基本的に普通の人間なので、それほど演技感が出過ぎると日常感が失われてしまうような気もします。
そのため、良い意味で監督側から演技をコントロールせず、役者同士の掛け合いのライブ感を活かしたシーンに仕上げることで、「あやしい宗教」に入っている家族の「普通の日常」を描くことに成功していました。
子役時代は少しわざとらしい印象も受けていたので、それほど演技が「巧い」とは思っていなかったのですが、久しぶりに彼女の演技を見て、驚きの連続でした。
というのも、セリフを発しないときの表情や仕草、姿勢の作り方がめちゃくちゃ巧いんですよ。
彼女の演技を見ていると、セリフも含めてきちんと全体の「流れ」が見えます。というより「受け」が巧いので、セリフも含めて自然に流れるような演技ができるのだと思いました。
と少し演技の方に話が逸れましたが、本作は主人公の思考プロセスを描き、最終的に1つの答えに辿り着きます。
ラストシーンのシチュエーションそのものは原作と同様です。
しかし、「流れ星」に関する言及が明確に原作と異なっており、そこには何らかの意図が感じられます。
もちろん原作にもあったような不穏さは残されているのですが、映画版はむしろ彼らが同じものを信じて、繋がっているということを強調していました。
「流れ星」については原作では、両親に見えず、ちひろには見えるという対比になっていたのですが、映画版では3人全員が見ることができています。
そして、映画版では3人で同時に流れ星を見ることが目標になっているんですよ。
これは、同じ時間に同じものを見る、信じるという「家族の結びつき」を確かめるような行為だと思いました。
原作において今村さんが訴えたかったのは、「この家族は壊れてなんかいないんだ」というメッセージでした。
映画版はそれが汲み取られ、彼らが同じものを見るために、夜空を見上げ続けるという光景で幕を閉じます。
彼らが同時に流れ星を見られたのかどうか、その顛末はこの映画では言及されません。
それでも「信じて」いれば、いつか見られるはずでしょう。
ちひろは「信じる」という行為に際して常に迷いを抱えてきました。
施設で両親になかなか会えなかった時も、何とか会おうとしてうろうろして、いつまでも巡り合えず、友人に部屋で「信じて」待てば?と提案される始末でした。
本作のラストで、ちひろは明確に自分の意志で両親と同じものを「信じる」という選択をします。
この選択は彼女の人生に少なくない苦難をもたらすことでしょう。
それでも、彼女は揺らぎの中で自分の「信じる」ものを見出すことができたのです。
傍から見れば、そんなものを「信じる」のは馬鹿らしい、騙されていると思うかもしれない。
でも彼らの幸せは確かにそこにあるのです…。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は『星の子』についてお話してきました。
個人的には、この徹底して核心に迫る描写をしない姿勢と、それによってもたらされる「あわい」を楽しむような作風にすごく感動しましたし、引き込まれました。
作品に明確な解や精緻な可視化を求める人からすると、このようにけむに巻くような語り口が苦手と感じられるかもしれません。
しかし、それもまた「信」であり、作品に自分なりの解釈や感想を持つことはどんな形であれ、否定されるべきものではないと思います。
また、ラストシーンに「流れ星」というモチーフを使ってきたのも非常に巧いと思いましたね。
先ほども述べたように「流れ星」は国や宗教、民族によって「吉兆」「凶兆」の趣が変わるモチーフだからです。
このモチーフが登場することで、本作のラストが読み手によってその解釈を大きく隔てるという状況が暗に仄めかされているようにすら思えました。
ぜひ、作品を鑑賞し終えた後に、じっくりと考えてみてくださいね。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。