みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『シカゴ7裁判』についてお話ししていこうと思います!
本作が描くのは、1968年の民主党全国大会の間に1万人以上の人が5日間シカゴに集まった巨大な反戦デモとそれに纏わる印象的な裁判です。
60年代末のアメリカは、本作の冒頭の映像でも扱われていたように、マーティン・ルーサー・キングとロバート・ケネディ上院議員の暗殺と悪化するベトナム戦争のため、混乱状態にありました。
戦争に悩まされ敗北したジョンソン大統領は、自身の2期目の大統領職を固辞するという前例のない決定を下し、その後大統領のポストについたのがニクソンでした。
その頃、アメリカで反戦や反差別のために活動していた組織のいくつかが今作には登場します。
まず、Students for a Democratic Society(SDS)ですね。この組織に所属していたのがトム・ヘイデンとレニー・デイビスらででした。
そして、次に注目したいのが、Youth International Party(YIP)と呼ばれる組織ですね。この組織に所属していたのがアビー・ホフマンとジェリー・ルービンということになります。
他にも「ガンジーの非暴力」を掲げ、the Mobilization Committee to End the War in Vietnam (MOBE)として反戦活動に参加していた活動家のデビッド・デリンジャー。
シカゴのデモンストレーションの計画に周辺的に関わったとされたジョン・フロイネス教授とリー・ウェイナー教授も裁判に引きずり出されました。
そしてもう1人がブラックパンサーの責任者の1人であり、今回の裁判において極めて差別的な扱いをされていたのがボビー・シールということになります。
基本的にはこの8人と彼らの弁護士、そして起訴する側の検察官、さらには判事のホフマンが今作におけるメインキャラクターとなります。
ただ、1人1人を深く掘り下げるというよりは、淡々と裁判の経過を追っていく側面が強い上に、編集によって物語が速く展開されていくように意図されていますので、この点でも登場人物を名前にしっかりと紐づけて追っていくのに苦心するかもしれません。
この裁判は、68年の出来事でありながら、今も語り継がれている印象的な事件なのですが、なぜ今改めてこの題材を映画にする必要があったのでしょうか…。
本作は事実に基づく映画ではありますが、もちろん脚色が多分に為されています。
それらの脚色は私たちに思わずこんなことを思わせてくれるでしょう。
あ…ありのまま 今 見た事を話すぜ!
「おれは ”60年代末”のシカゴセブンを題材にした映画を見ていたと
思ったら いつのまにか‘’今”のアメリカや世界を見ていたんだ」
な…何を言っているのか わからねーと思うが
おれも 何が起きているのか わからなかった…
頭がどうにかなりそうだった… 催眠術だとか超スピードだとか
そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
もっと恐ろしいものの片鱗を 味わったぜ…。
後程詳しくお話しますが、この映画の向こうには、今まさにアメリカで起きている「Black Lives Matter」やジョージ・フロイド殺害事件に代表される白人警察による黒人の弾圧めいた行動が透けて見えています。
だからこそ、60年代の映画を見ているのに、なぜか「今」を見ているとしか思えなくなってくるという現象を経験することとなるのです。
そんな本作の監督・脚本を務めたのは、『モリーズゲーム』や『ソーシャルネットワーク』などのデヴィッド・フィンチャー作品の脚本でも知られるアーロン・ソーキンです。
キャストには、エディ・レッドメイン、マーク・ライランス、ジョセフ・ゴードン=レヴィット、マイケル・キートンら豪華な顔ぶれが集結しています。
それでは、ここからはもう少し本編の内容を掘り下げてお話させていただこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
『シカゴ7裁判』感想・解説(ネタバレあり)
あまりにも見事だった「団結」と「本質」の物語
Netflix映画「シカゴ7裁判」予告編より
やはり『シカゴ7裁判』という作品において何とも見事だったのは、作品全体の構成でしょうね。
情報量がとにかく多いのですが、きちんとキャラクターたちが抱える問題があって、そして乗り越えるべき壁があるわけで、それがきちんと物語の原動力になっていきます。
ただ、面白いのはこの手の裁判ものって、多くの人が日本で言うところの『リーガルハイ』のようないわゆる「逆転劇」を期待する傾向があるんですよね。
つまり、冤罪で裁かれている人や、不当な差別で有罪にされようとしている人たちが、それを裁判で覆すという「目に見える勝利ないし逆転」を描くことが望まれる傾向があるんです。
ただ、今回の『シカゴ7裁判』はそこにはあまり固執していないんですよね。
映画で描かれていないことで言うなれば、起訴されていた7人のうちジョン・フロイネス教授とリー・ウェイナー教授は完全に無罪という判決を受けるのですが、それ以外の5人とボビー・シールは何らかの形で有罪にされてしまいます。
その後、数年が経過して、6人に対する判決が否定されることになるわけですが、そうした裁判の「結果」の部分にはあえて焦点を当てていないのが、この作品なのです。
では、この映画が一体何にフォーカスしていたのかと言うと、それは「団結」とそして彼らの行動や活動の核つまり「本質」の部分でした。
まず、この映画の冒頭7分程度のタイトルロールが出るまでの導入部分は、実際のケネディ大統領の演説であったり、キング牧師に関連した映像なんかも交えつつ、実写映像とフィクションを織り交ぜながら展開していきます。
この編集スタイルはどことなくスパイク・リー監督の作品を思わせるものですね。
ただ、映像の選び方や使い方は非常にスマートで、単に参考資料的にインサートしてあるというよりは、物語的にも欠かせない+伏線としても機能しているので使っているという印象を受けました。
その流れで、今作で被告側として後に登場することとなる8人のキャラクターの活動家としての主義思想を明らかにしていく描写が矢継ぎ早に描かれていきますが、これまた物語において重要な役割を果たしています。
なぜなら、この一連の描写は、彼らが「反戦」や「反差別」を掲げているからと言って、決して一枚岩ではないということを明確にしているからです。
例えば、SDSに所属しているトム・ヘイデンは暴力に対して否定的で、シカゴでは平和的にでも活動を実施すると明言していました。
しかし、他の人物たちはどうかと言われると、YIPのアビー・ホフマンなんかは基本的には平和的にと考えている節がありますが、暴力的に振舞うことも辞さないという姿勢も見せています。
この2人の考え方が明確に異なっていることは電話のやり取りで明確になりました。
「僕らは反戦を訴える。バカはしない。」
「俺らは両方やる。」
(映画『シカゴ7裁判』より引用)
ボビー・シールが所属しているブラックパンサー党はもう少し過激派であり、警察が暴力を振るうのであればそれに報復することも辞さないという姿勢を見せていました。
つまり、単純に思想的に見ると、左派であり、反戦・反差別を掲げているという点で8人とも同質な人間だと思われるかもしれませんが、その実は行動方針や思想を大きく隔てる活動家たちなんですよね。
この「複雑さ」を物語に巧く持ち込むことで、物語を単純化させなかった点は『シカゴ7裁判』という作品を非常に豊かにしてくれたと言えるでしょう。
さて、私は今作が「団結」の物語であると書きましたが、普通に考えると、彼らが協力して裁判の結果を覆すために共闘するというベクトルでの「団結」を期待するでしょう。
しかし、今作はそういう表層的な話ではありません。
むしろ、この作品は目に見えない部分で彼らが「団結」していたのだということを気がつかせる物語になっているんですよ。
作品の大半のパートで、一緒に過ごしている彼らは、どこか噛み合わなかったり、ぶつかってしまうところがあります。
法廷での振る舞いも、基本的に礼儀正しく常識的にという意識が際立つトム・ヘイデンと、判事に挑発的な言動を繰り返すアビー・ホフマンの対立は決定的です。
しかし、そんな彼らもひとたびテレビで戦死者の名前を放送する映像が流れ始めると、同じ方向を向いて、静かにそれを見届けるんですよね。
クラマックスでは、トム・ヘイデンがベトナム戦争における死者の名前を読み上げるという胸が熱くなるような瞬間が到来します。
これまで反戦争・反差別という同じベクトルに向かって行動しているはずなのに、表面の些細な部分の違いで「団結」することができなかった彼らが、この瞬間に確かに繋がるんですよね。
法廷での行動がちぐはぐだった彼らが、初めて同じ方向を向いて、同じことを考えながら、拍手をするのです。
それは、彼らが裁判の過程で忘れかけていた、活動の「本質」の部分なんですよね。
活動の方針や主義に多少の違いはあれど、自分たちは「戦争に反対をする」という同じ方向に向かっているのだとようやく確認することができたのです。
そして、このクライマックスが素晴らしいのは、あの法廷に居合わせた人たちだけでなく、映画を見ている私たちをも巻き込んでしまう力強さがあるからだと思います。
映画を見ていると、やはり判事の憎たらしさが際立ちますし、一方で7人の方にも何らかの非があるのではと勘繰ってしまう描写も多々ありました。
そうした裁判の成り行きにばかり気を取られて、この映画の発端でもあった「本質」の部分を観客もまた見失っていくんですよ。
だからこそ、あのクライマックスは、そんな観客に「戦争に反対をする」という「本質」を思い出させてくれる重要な役割を果たしているのです。
実際の裁判に焦点を当て、その「結果」の部分にクライマックスを持ってくる作品は非常に多いでしょう。
しかし、この『シカゴ7裁判』は「結果」ではなく、彼らが「反戦」という旗の下で「団結」をする瞬間に焦点を当てました。
実際の裁判では、トム・ヘイデンが戦死者の名前を読み上げるのは、裁判の比較的中盤の一幕だったようです。(しかも現実では読み上げる役を務めたのはデビッド・デリンジャーだった)
そこにアーロン・ソーキンが脚色を加え、このような物語の構成に仕上げたことには惜しみない賞賛を贈りたいと思います。
60年代を描いた映画に紛れもない「現在」を見た!
バーの中は「60年代」とは無縁
だが窓の外では、「60年代」が繰り広げられていた
バーの外は「60年代」
中は「50年代」のままだ。
(『シカゴ7裁判』より引用)
今まさに、アメリカではミネアポリスの警察官デレク・ショーヴィンによるジョージ・フロイド殺害事件を受けて、警察の暴力に抗議するBlack Lives Matterのムーヴメントが過熱しています。
アメリカにおける人種差別は過去のものなんてことは決してなく、今でも人種間の分断が際立っているのがアメリカという国であり、ドナルド・トランプ氏の大統領就任がその分断をより深いものにしているとも言えるでしょうか。
この『シカゴ7裁判』という作品には、ボビー・シールというブラックパンサー党に所属する黒人の男性が、判事から強烈な差別を受ける描写があります。
例えば、弁護士や代理人を法廷の場において擁立することを認められなかったり、自分で自分の弁護をすると宣言しても、異議や反論が認められず、挙句の果てには猿ぐつわをして拘束される始末です。
Netflix映画「シカゴ7裁判」予告編より
今作の被告側のキャラクターたちがそうだったように、Black Lives Matterとは言ってもそれに参加していることが一枚岩でないことは周知の事実です。
この運動に参加する大半の人は、極めて平和的な方法で活動を展開しています。
しかし、一部の組織や人たちが暴徒化し、過激な手法、つまり暴力に訴えかけるような行動を取っており、それが保守寄りのメディアの餌になっているんです。
今アメリカ大統領選挙を前にして、Black Lives Matterの状況は大きく変わりつつあります。
リベラル寄りのメディアは当然バイデン氏を当選させたいですから、Black Lives Matterを好意的に報道します。なぜならその矛先がトランプ現大統領にも向けられているからですね。
一方で、保守寄りのメディアはどうかと言うと、こちらはBlack Lives Matterが過激化し、市民に危害を加えているという側面にフォーカスしてネガティブな報道戦略を仕掛けています。
こうした形で、Black Lives Matterを巡って新たな分断が生まれているのが今のアメリカです。
そういう意味でも、今のアメリカの社会には、60年代と変わらない問題が今も根強く残っているのだということを、この映画を見ていても痛感させられます。
そして、先ほどの章の内容にもリンクしますが、Black Lives Matterに際して私たちが思い出さなければならないのは、「あらゆる人の命が大切なのだ」という当たり前のことなんだと思いました。
この運動に参加して、過激な行動に走る人たちと言うのは、どこかで黒人の命が守られさえすれば、白人は死んでも良いと思っている節があるのかもしれません。
確かにこれまで虐げられ、不当に命を奪われてきた黒人の命を軽視するなと言うのはもっともな主張だと思います。しかし、それが別の人種の命の軽視につながってしまうのは、本末転倒なんですよね。
また、メディアの報道戦略により、アメリカでは分断が広がり、正しいか正しくないか、勝つか負けるか的な単純な二元構造に人々が巻き込まれていっているような印象も受けます。
だからこそ、『シカゴ7裁判』という作品が訴えかけている、「本質に立ち返って団結しよう!」というメッセージがすごく大切なのだと痛感しました。
暴徒化している人たちも、平和的にBLMに参加している人たちも、そして白人、その他の人種の人たちも「命は大切だ」という「本質」の部分ではリンクがあるはずなんです。
BLMに否定的な白人の層が気にしているのは、自分たちの安全でもあります。それってつまり、自分の「命」が大切ということじゃないですか。
だからこそ、表面的な部分ではなく、もっと本質的なところで繋がっていけたなら、いつしか分断を超えられるのだという希望がこの映画には息づいています。
私たち日本人にとってはアメリカで起きているこのムーブメントや分断はある種の「対岸の火事」かもしれません。
しかし、私たちは「バーの中の人間」にはなってはいけないのだと強く思います。
バーの通りに面したガラスは外が見えない仕様です。ただ、そんな状況下で外の異変に気がついた1人の女性がいました。
私たちは、あの女性のように今自分たちの暮らしている領域の外で起きていることにもアンテナを張る必要があります。
そうしなければ、時代に取り残され、世界の変化に鈍感な人間になってしまいます。
60年代のとある裁判の経緯を追って行く映画でありながら、アメリカの「今」を強く想起させる映画になっているのは、本当に素晴らしい脚色としか言いようがないと思いました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『シカゴ7裁判』についてお話してきました。
アーロン・ソーキンの作品って、フィンチャー監督作品は別として、『モリーズゲーム』なんかはあまりハマらなかったので、今作に関してもそれほど期待値が高かったわけではありません。
しかし、今作に関しては心を鷲掴みにされましたね。特に物語の力点の置き方の斬新さと言うか、機知に感動しました。
裁判の「結果」を描くだけで終わると、それは単なる「史実」という枠に収まってしまう可能性もあります。
だからこそ、今作はそこではなく、キャラクターたちの「団結」や同じ方向を向いていることへの「気づき」に焦点を当てることで、今の社会にまで通じる普遍的な物語へと昇華させました。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。