みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『朝が来る』についてお話していこうと思います。
映画を鑑賞してから調べたのですが、どうやら安田成美さんと川島海荷さんをメインキャストに据えて、全8話のドラマシリーズが作られていたようです。
このキャストを見ていて思ったのですが、イメージ的には川島海荷さんの方が何となく主人公のひかりに合いますね。
当ブログ管理人が通っていた田舎の高校にも中学時代に妊娠して学校に来なくなった女子生徒が2人ほどいたのですが、金髪ルックの川島海荷さんが何となく彼女たちのイメージと重なって、自分の中で腑に落ちました。
ただ、映画版の蒔田彩珠さんはそういったイメージからはかけ離れた純朴そうな中学生の少女として登場していて、だからこそ彼女が中学生にして妊娠してしまうという描写や展開に驚きがあるのかなと思います。
ごくごく普通の家庭、同級生とのピュアな恋愛、順調な学校生活。
当ブログ管理人がこれまでに見た中学生で妊娠をして、学校に来なくなった人って、これらがどれも不安定というか満たされていない人だったんです。
コロナ禍で若年層、とりわけ10代の性に関する相談や妊娠の報告は増えてきているようです。これは日本が元来「寝た子は起こすな」方針の性教育を進めてきたために、きちんとした知識が行き渡っていないことが原因の一端でしょう。
また、「こんな子が…」というような普通の中学生・高校生が妊娠をしてしまうというケースも多いようで、だからこそ今回の『朝が来る』において蒔田彩珠さんの純朴さや、良い意味でも「普通の中学生」感が効いていたのではないかと思いました。
さて、少し話が逸れてきたので、本選に戻していきますが、今回は映画『朝が来る』について自分なりに感じたことや考えたことを綴っていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事となります。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『朝が来る』
あらすじ
栗原清和と佐都子の夫婦は子どもを持とうと決断するも、なかなか授かることができず、病院へと向かう。
そこで告げられたのは、夫の清和の無精子症でした。清和は自分を責め、妻に離婚するという決断をしてくれも構わないと告げるが、佐都子は「2人で生きていこう」と温かい声をかける。
ある日、2人は初めてのデートで訪れた宿のテレビで見た「ベビーバトン」という特別養子縁組斡旋団体のことを思い出す。
様々な事情で子どもを育てられない母親のために、自分たちが親の役割を果たすことができるのではないかと考えた2人は相談に行く。
そこで、「子供を持つ」ということの尊さと神秘に感激した2人は、養子をとることに決めた。
その頃、ひかりという中学生の少女は、同級生の恋人との性行為がきっかけで妊娠してしまう。恋人からも「ごめん」と告げられてしまい、家にも居場所を見失った彼女は両親の勧めで「ベビーバトン」で子どもを特別養子縁組に出す決断をする。
そんな彼女の子どもを養子として引き取ることになったのが、栗原清和と佐都子の夫婦だったのだ。
自分の子どもに1通の手紙を託す心優しい少女のひかり。
そしてその子を「朝斗」と名づけ、大切に育ててきた夫婦。
そんな夫婦の前に、6年後、変わり果てた姿のひかりが現れるのだが…?
スタッフ・キャスト
- 監督:河瀨直美
- 原作:辻村深月
- 脚本:河瀨直美 高橋泉
- 撮影:月永雄太 榊原直記
- 照明:太田康裕
- 録音:森英司 ロマン・ディムニー
- 美術:塩川節子
- 編集:ティナ・バス 渋谷陽一
- 音楽:小瀬村晶 アン・トン・ザット
- 主題歌:C&K
- サウンドデザイナー:ロマン・ディムニー
河瀨監督は第60回カンヌ国際映画祭にて『殯の森』がグランプリを受賞したことでも知られています。
日本の山岳信仰や民話、伝承などを作品のベースに据えた作品や、大自然の映像を取り入れながらテレンス・マリック監督作品のような映像詩的な世界観が特徴と言えるでしょう。
初期の作品は特にその傾向が強かったのですが、近年は『あん』や『光』といったヒューマンドラマも多く手掛けるようになりました。
そういう意味でも、今回の『朝が来る』は河瀨監督の新旧の作風の融合、調和という見方もできるのではないでしょうか。
本作の原作を著したのは、辻村深月さんですね。本好きであれば、知らない人はいないであろう有名作家です。
ちなみに今作『朝が来る』は第13回本屋大賞の候補にも選出されていた作品でした。
撮影には『長いお別れ』や『素敵なダイナマイトスキャンダル』などで知られる月永雄太さんが起用されました。
照明には、『あん』や『光』などの近年の河瀨監督作品を支えてきた太田康裕さんの名前がクレジットされていますね。
彼女の作品において光という要素は非常に大切なものですし、近年の作品では特にその存在感が増しているように感じていたので、今作も楽しみです。
編集にも同じく近年の彼女の作品ではお馴染みのティナ・バスと渋谷陽一さんが起用されていますね。
劇伴音楽を、『思い、思われ、ふり、ふられ』や『ハルチカ』などの楽曲制作でも知られる小瀬村晶さんが提供しているのも、個人的には注目しています。
主題歌にはC&Kの『アサトヒカリ』が選ばれています。この曲は劇中の重要なモチーフにもなっていますので、要注目です。
- 栗原佐都子:永作博美
- 栗原清和:井浦新
- 片倉ひかり:蒔田彩珠
本作のキャストの中でも特に当ブログ管理人が注目しているのが蒔田彩珠さんです。
『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』以来、『いちごの唄』『ハンド全力』、『星の子』と印象的な演技を連発し、高い評価を獲得している彼女が、今作でそのポテンシャルを一気に発揮したという印象すら受けました。
中学生時代の無垢さ、どこにも居場所が見出せなくなることへの絶望、それでも人に「優しく」あろうとした主人公を、完璧に演じています。
そしてもう1人の主人公である佐都子を永作博美さんが演じています。
迷いや葛藤を抱えながら、「母」としての強さを見せ、夫の弱さに寄り添える優しさを兼ね備えた人物。その優しさからむき出しになる敵意や怒りの感情に震えることすらありました。圧巻です。
そして彼女の夫役を演じているのが、井浦新さんでした。
『朝が来る』解説・考察(ネタバレあり)
映像と音で演出する2つの世界の断絶と調和
(C)2020「朝が来る」Film Partners
さて、今回の『朝が来る』という作品をここからは深堀りしていきます。
映画というメディアは基本的に映像と音によって構築されていますよね。言ってしまえばその2つによってのみ成立しているわけです。
だからこそ、そんな映像と音にこだわって、突き詰めていくというのが、映画の在り方を追求する王道のアプローチになるわけですね。
とりわけまずは映像にこだわる監督が多いですし、それこそ河瀨監督の作品への影響も強く感じられるテレンス・マリック監督の作品なんて、その1つの結晶でしょう。
2018年にNetflixで公開され、大きな話題となった『ROMA』なんかもモノクロ映像の美しさを追求した1つの極致でした。
一方で、音にこだわる映画クリエイターもいらっしゃいます。邦画界で言うと、深田晃司監督はその作品における音へのこだわりが凄いです。
とりわけ音響といった技術的なことではなく、音を演出に寄与させるというアプローチが目立つのが深田監督の作品です。
例えば、何気ない日常生活にもたらされたちょっとした変化や不協和音を、生活音に混じる異音という形で表現していて、観客がじわじわと不思議な違和感を抱かせられるという状況を生み出すことに成功しています。
そして河瀨監督の作品はと言いますと、個人的にはそのどちらにも並々ならぬこだわりを持っている映画クリエイターだと個人的には感じました。
初期の作品であったり、最近公開された『Vision』という作品であったりは、特に自然の描写が印象的で人間の物語の間で何度もインサートされていくという印象を与えます。
これにより、人間の営みだけにスポットを当てるというよりは、大自然が織りなす世界観の中に位置づけられる人間の営みという構図が明確になるのです。
このある種の映像詩的な世界観は、河瀨監督の特徴であり、映画ファンの間でも好みが分かれる部分でもあります。
そして、映像もそうなのですが、今回の『朝が来る』で印象に残ったのは、何と言っても音です。
まず、本作は、ブラックバックに海の音と赤ちゃんの産声が聞こえるという演出から始まります。
これは、まさしく「世界に生まれる」という状況を端的に表現したものだと私は感じました。人間は母親のお腹の中の「水」から生まれてきます。
だからこそ水の音というのは、全ての人間にとっての故郷の音もあると言えます。特に海はしばしば生命の源だと言われますからね。
この映画においては、自然と音と都会の喧騒が不思議な調和を保っています。
自然の音というのは、まさしく広島の母であるひかりを象徴するものです。彼女が暮らしていた故郷の街、恋人と過ごした森林、子どもを産んだ広島の長閑な島。それらを象徴するものでしょう。
一方で、都会の喧騒というのは、佐都子の暮らしを象徴するものでもあります。
彼女が暮らしている街の日常は、工事現場の音、車の排気音、行き交う人々の声、電車の音などに満たされていました。
そして、その2つの音の世界が歪な形で調和しているのが、まさしく朝斗が暮らしている環境だったんですね。
3人が暮らしている場所は、都市部のタワーマンションではあるのですが、その立地は生命の源である海に面しており、時折波や海風の音が心地良く舞い込んでくるという環境になっています。
そんな調和を切り裂くように、彼らの暮らす家の固定電話の呼び出し音が鳴り響きます。
平穏な暮らしにもたらされる変化の予感がまさしく「音」によって表現されていると言えるでしょう。
そしてその電話がもたらすのは、世界の調和の乱れでもあります。波や風の音が激しくなり、森の木々は軋むような音を立てる。
歪ではあれど、保たれていた彼らの生活の平穏が、明確に乱れ、自然と都会という2つの世界の調和が音を立てて崩壊していくような、そんな印象すら受けました。
(C)2020「朝が来る」Film Partners
6年が経過し、変わり果てた姿のひかりがあの部屋にやって来た時、普段温厚な夫婦が声を荒げ、怒りを露わにする様子も目立ちました。
その声がもたらす「音」はこれまでの彼らの生活の中には存在していなかったものでしょう。
この作品は、音によって、自然と都会という2つの世界の共存ないし、調和を表現しつつ、それを異質な音でもって崩壊させ、その在り方を変えていきました。
しかし、ラストシーンでは、再びそんな2つの世界が調和を取り戻していきます。
偶然にも佐都子とひかりが再会したのは、海と都市が交わる場所でした。
都会の喧騒と海の音が美しく重なり合い、そこで2人の母の穏やかなやり取りが為されます。
そうして調和を取り戻した世界には、「朝」がやって来ます。
断絶された2つの世界の調和が、音とそして映像によって取り戻された瞬間です。
2人の母、2つの世界。その断絶と調和を描く
さて、先ほど本作の映像と音が2つの世界の断絶と調和を演出しているとご説明しました。
そして、これは物語においても言えることなのです。
まず、本作の独特な構成の仕方に、2つの世界の断絶と調和が感じられます。
『朝が来る』においては佐都子とひかりの物語をそれぞれの視点で描いていました。
まず、前半に佐都子の夫の無精子症で子供を授かれないことや子供が欲しいのに育てることができないことへの葛藤が描かれ、そこから朝斗と出会い、手に入れた幸せな生活が描写されます。
そして、自室に朝斗の母を名乗る黄色いジャンバーを着た女性がやって来たところで、物語の視点がスイッチします。
後半部分では、ひかりがどういった経緯で妊娠し、出産し、その後の人生を送ってきたのかという辛く悲しい描写が続いていました。
家には居場所がなく、そこから飛び出して1人で暮らし始めるも友人の裏切りに遭うなどして散々な人生を送ってきたひかり。
そんな彼女が、栗原清和と佐都子の夫婦の前に現れ、物語がその1点で交錯するのです。
しかし、交わった2つの物語は、ここで明確に決裂します。
佐都子は自分が朝斗の母であり、あなたはそうではないのだと告げ、ひかりは母としての自分を明確に否定されることになるわけです。
そして、2人の母親が背負ってきた運命というものも大きく異なっています。
佐都子は、自分のお腹から子供を産むことはできずに母親になりました。しかし、彼女とその夫には「育てる」環境は整っていました。
朝斗がここまで成長してくることができたのも、精神的に穏やかで嘘をつかない正直な子供に成長したのも偏に2人のおかげでしょう。
一方のひかりは大好きな人との子どもを授かるということはできたものの、「育てる」環境や準備が整っていませんでした。
子どもを抱きしめてあげたかった、その成長を見守っていてあげたかった。しかし、彼女にはそれができなかったのです。
だからこそ、そうした不均衡を是正するかのような形で、「ベビーバトン」が仲介をし、朝斗の養子縁組が実現します。
この状況だけを見ると、一抹の歪さを孕みつつも、両者の状況を鑑みて、子どものための最善を尽くしたという点で、調和がもたらされた瞬間なのでしょうね。
しかし、その後のひかりはどんどんと壊れていってしまいます。
彼女が一番恐れたものは何だったのか。嫌がったものは何だったのか。
それは自分が子供を出産したという事実を「無かったこと」にされることです。
自分がお腹を痛めてまで産んだ大切な子どもを他の人に渡してしまうというのは、彼女にとっても辛く苦しい決断だったと思います。
それでも、あの時彼女はそれを受け入れていたと思うんです。彼女自身も自分が育てられないということは分かっていたでしょうから。
それよりも彼女を傷つけたのは、彼女や子どもの親である元カレが、彼女の妊娠・出産をなかったことのように扱おうしたことです。
元カレは彼女を無視するようになり、何事もなかったかのように高校に通い始め、家では妊娠を「肺炎と偽りなさい」と告げられ、親戚の集まりでも腫物に触るような扱いを受けます。
自分が「子供を産んだ」という事実がなかったことにされてしまう…。
それこそが、彼女の世界から均衡と調和を奪った最大の原因です。
ひかりが広島のベビーバトンで働きたいと懇願したのは、そこで自分が子供を産んだのだという事実を忘れないため、そして認めてもらいたいという思いもあったのでしょう。
その後、ベビーバトンを離れ、新聞社で働き始めた彼女はその調和を取り戻してくれる可能性がある1人の女性に出会います。
彼女は、ひかりの出産にまつわる話を聞き、「話してくれてありがとう。」とこれまでに「無かったこと」にされてきたことを認めてくれる存在でした。
だからこそ、ひかりは彼女と一緒にいた間は、時折朝斗のいる夫婦の家に電話することはあれど、言葉を発することはありませんでした。
しかし、彼女に裏切られてから、ひかりは最後の砦を失ったかのように心が壊れてしまいます。
自分を認めてくれた、出産は「無かったこと」なんかじゃなかったのだと認めてくれた存在からの裏切り。どれほどのショックだったか推し量ることも憚られます。
だからこそ、彼女は最終手段に出るしかありませんでした。その行動の裏には、去っていった親友から言われた「お母さんみたい」という言葉もあったのかもしれません。
自分の世界の調和を取り戻すために、均衡を取り戻すためには、子どもを取り戻すしかなかったんですよ。
そして、当ブログ管理人が本作で最も印象に残ったシーンなのですが、光が夫婦の家に足を踏み入れる描写はとてつもなく残酷です。
今なら自分は「お母さん」になれるのかもしれないと訪れたあの家で、彼女は再び現実を突きつけられるんですよね。
タワーマンションの上層階。安定した生活。子どもを育てるために整えられた環境。
ああ…今の自分にはどうしたって手に入れることができないものが、用意してあげることのできない環境がそこにはあったのだ。自分は「お母さん」にはなれないのだ。
そう無意識のうちに悟ってしまったであろうことは想像に難くありません。
さらに追い打ちをかけるように佐都子に「あなたはお母さんではない」と否定されてしまい、彼女の心はぐしゃぐしゃになってしまいました。
それはあまりにも明確なまでの自分の「お母さん」としての意識の否定であり、自分の妊娠や出産が明確に「無かったこと」にされてしまった瞬間でもあったのです。
しかし、本作はそのラストシーンでもって、壊れた2人の母の物語に、2つの世界に再び均衡と調和をもたらします。
(C)2020「朝が来る」Film Partners
佐都子とそして朝斗が、ひかりを「お母さん」として認める。
ひかりは朝斗を自分の手で育てる子ということについては半ばあきらめていたでしょうし、そんな余裕がないことも分かっていたでしょう。
彼女は、ただ自分が「お母さん」であるという事実を失いたくなかったんです。
「朝」という文字と夜に輝く「北斗七星」から取られたであろう「斗」の文字が込められたその名前には、朝と夜という2つの世界の共存が内包されています。
そして、2人の母の物語は、そんな朝斗という特異点で交錯しました。
それは自分のお腹の水の中から「朝斗」を奪われ、暗い夜の時期を生きてきたひかりという少女が、自分の世界に「朝」を取り戻した瞬間とも言えるでしょうか。
2人の母親。2つの物語。2つの世界。海と陸。自然と都市。
あらゆる「2」が「朝斗」という1点に収束し、朝焼けの中にぼんやりとした「親子」の輪郭が浮かび上がる、筆舌に尽くしがたいラストシーンでした。
ゼンタイの「均衡」と個人の「感情」
(C)2020「朝が来る」Film Partners
さて、最後に今作の構造的な面白さについても言及していこうと思います。
この『朝が来る』という作品の面白さは、社会ゼンタイの合理性や均衡と個人の感情の相反を描いているのではないかと個人的には感じています。
栗原清和と佐都子の夫婦は子どもを授かることができず、特別養子縁組の制度を利用することを選択しました。
そのきっかけとなったのが、初デートで宿泊した宿のテレビで放送されていた社会ドキュメンタリーです。
テレビのモニターの向こうでは、不妊の問題、望まぬ妊娠や、それによって産まれてきた子どもたちがある種の「社会問題」として論じられているような空気感があります。
つまり、個々人の問題として取り上げられているというよりは、社会がゼンタイとして抱えている歪さ、不均衡を客観的な視点で伝えようとしているというのが、本作におけるこの報道の位置づけでしょう。
「ベビーバトン」の代表である浅見さんは、個々人の事情や考えに寄り添いながらも、社会全体の不均衡を正そうとするバランサー的な役割を果たしています。
子どもが望めない家庭に、望まぬ妊娠から生まれた子供を斡旋し、育ててもらう。確かにゼンタイを俯瞰して考えると、合理的です。
というのも、日本は欧米に比べて養子縁組制度の利用が非常に少なく「養子後進国」としても知られています。
そこには、様々な問題や原因がありますが、作中でも描かれていた「実親との親権が断絶する」というのは、大きなネックにもなっているようです。
この「実親との親権が断絶する」という規則は、子どもを単一の安定した環境で育てることが望ましいという考え方から取り入れられています。
しかし、実親としたら、いつか自分が子どものための環境を整えてあげて、育ててあげたいという思いを断ち切れない部分はもちろんあると思いますし、そうなると特別養子縁組に実子を委ねるという決断ができないのも無理はないでしょう。
本作の主人公であるひかりだって、自分の手で育ててあげたいという思いはもちろん持っていたと思いますが、家族の圧力で有無も言わさず子どもを手放す羽目になりました。
そうして、育てられてない子供が、育てられる家庭へと移ったということで、社会ゼンタイで見ると、確かに不均衡がほんの少しだけ是正されたと言えるでしょう。
ただ、子どもを手放したひかりの心には計り知れない喪失感と無力感を植えつけることになりました。
自分が子どもを生んだという事実が、自分とあの子が繋がっているという事実が…喪失してしまうのではないかという恐ろしさ。
彼女は、子どもを手放してみて、初めてそうした感情がもはや埋めがたい、不可逆の状態へと陥ったことを悟りました。
大自然と海、都市、森林。主人公たちが暮らしている周辺の風景だけではなく、もっと大きな世界を映像として映し出し、ゼンタイを捉え、その上でそこに暮らしている人間の営みを描くという河瀨監督らしい視座。
女性のお腹の「水」の中から生まれてくる子ども。生命の源でもある海の「水」。
小さな生命の営みと大きな生命の円環を重ねて描いていくようなアプローチにハッとさせられます。
特別養子縁組は、確かに合理的な制度であり、子どものためを思うと、もっと推進されていくべき制度でしょう。
しかし、実母には計り知れないほどの感情的な葛藤があります。
制度をより多くの人に知ってもらうことも大切だが、それを利用するための大きな障害にもなっている個人の「感情」の部分にどう向き合い、寄り添っていくか。
日本人の中には、血縁を重んじる空気感を根強く持っていて、養子という存在に対してまだまだ風当たりが強い側面もあります。
ゼンタイの均衡を保つ、合理性を追求する。とても大切なことです。
その中で忘れてはいけないデリケートな個人の「感情」の問題があるということもまた同様にスポットが当てられなければならない。
本作は冒頭にテレビモニターの向こう側に「社会問題」としての不妊問題、養子の問題を映し出し、登場人物たちが、その中へと後に内包されていくプロセスを描き出しました。
ある種の個人がゼンタイの中へと取り込まれていく現象です。
主人公の夫が、自分や妻のためではなく、望まれずに生まれてきた子どものために何かできないかと思ったと発言したことも、そうした側面を強めていたと言えるのではないでしょうか。
そして、ゼンタイに取り込まれた個人の「感情」の問題にスポットを当てていきます。
美談として片づけることなど到底できない、歪な不均衡と断絶が、そこには確かにある。そうしたゼンタイとは別に個々人の均衡や調和をどう保っていくのかを考えることもまた、この養子の問題を考えていく上で大切なのだと改めて思いました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『朝が来る』についてお話してきました。
とりわけ初期作品に象徴されるような、自然の中の人間の暮らしや信仰、文化にスポットを当てるような映像詩的な世界観と、近年の「光」を追い求めるヒューマンドラマが融合し、1つの調和を獲得するような、彼女のフィルモグラフィの中でも重要な位置づけの1本になったのではないでしょうか。
また、ドキュメンタリー的な手法と映画的なアプローチの融合も本作の中で為されており、あらゆる点で「2」つのものの均衡と調和を模索するような方向性が見られます。
そしてもう1つ面白いのが、C&Kの『アサトヒカリ』という1曲だけが唯一、「2」つの世界、2つの物語に存在しているという事実ですね。
もちろん楽曲名に「アサト」が入っており、これは2人の母親を繋ぐ「朝斗」という特異点を象徴するものです。
こうした細部にまでわたる演出の丁寧さにも驚かされました。
近年の河瀨監督作品は、特に原点回帰色が強かった『Vision』も含め、かなり賛否は分かれていた印象があります。
何と言うか、初期作品寄りの山岳信仰や民俗、伝承的な作品と、比較的王道のヒューマンドラマの間で揺れ動いていたかのような…。
その点でも、この作品は彼女にとって、新しいマスターピースの1つ足り得る内容になったと思います。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。